薄明の世界 二十二話
猫又の佐吉は、何かに取り付かれたように綾の元へと歩いていった。その目は明らかに意識をなくし、操られているようだ。佐吉の行動を見て、宗弦は何故か嫌な予感がして、何度も佐吉の名を叫び続けたが、まるで反応はなかった。
綾が佐吉に気を取られている隙に、宗弦は和尚の下へと走っていく。
「和尚、しっかりしてください」
何度も和尚に声をかける。何者かにすがるがごとく。神仏に祈りを捧げても和尚は目を開けて語りかけてくれることはないだろう。神仏は万能ではない。高尚な教えを説いても、その手を貸してくれることは全くない。
比叡山の高僧でも、人に息を吹き返させるなどできやしない。
ただ、宗弦は和尚のこの姿に涙が溢れた。常々、息を引き取るならば畳の上が良いと言っていた和尚が望む望まないにかかわらず実際に選んだ場所は、「空」だった。
立ち尽くし、絶命している。
目はしっかりと綾を睨み据え、宗弦が譲り受けたはずの数珠を右腕にくくりつけて合掌している。
僧となるべくして生まれた僧とは、この人のことを言うのだろう。
「和尚……どうして私に一言、言ってくださらなかったのです。死ぬ時は、必ず私に言ってくれるとやくそくしたではありませんか。何故、黙って死んだのです」
悲しくはなかった。
強いて言えば、悔しかった。最初で最後、宗庵和尚は宗弦に嘘をつき、約束をやぶった。
悔しくてたまらなかった。しかし、それも自分の所為なのだ。和尚の所為ではなく、綾の所為でもなく、自分の至らない結果だ。
和尚を責めるのは、間違っているのかもしれない。
「申し訳ありません、父上」
宗弦の瞳から、涙が溢れてこぼれた。
これまで、ずっと幼い頃から和尚の、皺の多い手に抱きしめられてきた。初めて、宗弦は自ら和尚を抱きしめる。
初めて抱きしめた父の身体は予想以上に、細々としていた。袈裟のおかげで着太りをしていただけで、決して健康体などではなかった。
この老体を蝕み続けていたのは、自分が破戒僧になったという罪だったかもしれない。
謝っても謝りきれない。
贖罪など見つかりもしないだろう。だが、和尚は笑って許してくれるはずだ。
そういう人間だから。
「いい子だ、宗弦。おまえは賢い。そして、おまえは孤独を知っている。孤独は寂しいことではない。それを頭に据え置いておきなさい、愛する息子よ」
昔、和尚が言った言葉が頭の中で蘇り、宗弦に語りかけた。