薄明の世界 十四話
かつて見た聡明なその女は変わり果てていた。くぼんだ目、紫色の唇、うねる髪、死者であるが故の特徴に何ら変わりのない姿の中に、宗庵和尚はそれ以上の毒々しさを、身をもって感じていた。
本人であるとは到底思えない。
様々な死者をその目にしてきた。禍々しいまでの怨念は、生きとし生ける者を地獄へ引き連れていく力を持っている。実際、宗庵和尚も悪霊払いをし、何度も地獄に足を落としそうになったことがある。力ある僧ほど、地獄への扉は大きく開かれる。
綾はそれ以上の存在に思えた。悪霊と言う存在を超えた別物に思えてならない――むしろ、そう見えてならなかった。
「かの方もそうおっしゃられたわ。紛れもなく、わたくしは綾でございます。宗弦さまを愛し、宗弦さまに裏切られた挙句に殺された、不憫な女でございます」
言葉とは裏腹に、綾は微笑んでいる。禍々しさを含んだ笑いは生前の面影はどこにも見当たらない。軽々しくも自らを不憫と称する様は憎らしげでもあった。
「不憫? おかしなものだ。宗弦がおまえさんを殺した、とな。しかし、本当に不憫なのはおまえさんではない」
「わたくしではない?」
ふと、綾から笑みが途絶える。
「本当に不憫なのは、このわしだ」
宗庵和尚は首に提げている巨大な数珠を手にし、それを綾に向けて掲げて懐から経文らしきものを取り出し、言葉を耳に聞こえぬ細々とした声で正確に、すばやく唱えていく。その声は次第に大気を震わせ、月までもゆらゆらと振るわせる。
幻想を謳い続けた月が歪み、悲鳴を上げているようだ。
さらに経文の詠唱は速さを増していく。七十を遥かに超える老体の成せる業ではない。
「わしがおまえさんを払う。そうすることで、宗弦の念願は奪われる……わしは、宗弦から恨まれることになる。息子に恨まれて死ぬことは不憫だとは思わないかね?」
その日、宗庵和尚はこれまでにない達成感を味わいながら、静かに目を閉じた。眼前に、薄気味悪い笑みと苦悩の織り交ざった表情を浮かべる綾を見ながら。
(そうか。わしは息子に嫌われることなく死ねるのか)
宗庵和尚の意識は、ここで途絶えた。