薄明の世界 第十三話 | 連載小説 ~物語で愛を描こう~

薄明の世界 第十三話

 もうすぐ、死が訪れる。何故か、宗庵和尚は悟っていた。死期が近いことにいささかの不安も焦燥もない宗庵和尚だったが、美しい弧を描く月を見つめながら、己が心がざわついていることに気がついた。


 死が恐いなど、今更思いもしない。

 散々、長生きはしてきた。見られるはずがないと思い続けてきた未来を見続けてきた。干渉するわけでもなく、ただ傍観していたわけでもなく。


 のうのうと生き抜くだけの人生ならば、どんなに幸せだったろう。それをしようとしなかったのは、自分自身の性格なのだろうと、宗庵和尚は我の事ながらくすみ笑いをしてしまう。




「さて、どうするかの。死ぬのなら、床の中が良かったのだがな」




 宗庵和尚は草履を履いて外へ出る。目の前には、ため池があり、檀家の人々が寄与した鯉が優雅に泳ぎを見せている。鯉が泳ぐする脇に、ゆらゆらと揺れる月が見える。手の届きそうな場所にあるそれを掴まえようとするのは、人間のすることではない。宗庵和尚は馬鹿馬鹿しく思いながら、池の中の月を掴もうと伸ばした手を握り、猿猴取月という言葉を思い出した。



「猿と人間は紙一重だな。どんな知識を身につけても、どんな力を手に入れても、本性は単純なものなのだな。複雑になればなるほど、自分がどれだけ単純なつくりをしているのか、手に取るように分かる。死ぬ間際に悟っても詮無いことか」




 一人ごちる宗庵和尚に鯉が一定の間隔で口を開いたり、閉じたりして応える。




「そうでもありませんわ。私がきちんと、訊いておりました」




 綾が宗庵和尚の目の前に現れる。辺り一帯の空気ががらりと変わり、目に見える前から宗庵和尚は、綾が自らの目の前に現れるのを感じることができた。




「来たか。我が愛息を死してたぶらかし、苦悩を浴びせ続ける亡者よ。とうに覚悟はできておる。だが、わし一人を殺したとて、我が愛息がおまえの言い成りになるなど、思わぬほうがよい」




「果たして、そうでありましょうか。かの方に申しましたら、それはそれは苦痛な表情を浮かべておりました」




「別人のようだ。おまえはわしのことを本当に覚えておるのか?」




「ええ、もちろんでございます。かの方にとってとても大事な人で、父親のような存在であることくらい、覚えておりますとも」



「ほう。それは結構だ。しかし、それは間違っておる。貴様は何者だ?」




 宗庵和尚は綾を睨みつける。


 若かりし頃の自分と照らし合わせながら。