薄明の世界 第五話
宗弦は禅清寺の中へと進んでいく。境内へ向かう途中には、鐘がある。人々に「刻」を伝えるものだが、小坊主だった宗弦にとっては遊び道具の一つだった。一度だけ、和尚に黙って無断で鐘を鳴らしたことがあった。
真昼に鳴らす鐘の音は正午を知らせるのだが、宗弦は日も明けない早朝に鳴らした。禅清寺の鐘の音を聞いた人々は困惑した。一度たりとも狂いを見せたことのない早朝の、「昼」を知らせる禅清寺の鐘の音に当惑した挙句、騒動が起こるという前代未聞の事件を起こしてしまったのだ。
その時、町を治める領主たる大名まで出向いた。こんなに大事になるとは思いもしなかった宗弦は和尚に泣きっ面で謝罪をした。
宗弦はその時の和尚の顔を忘れられない笑顔だった。
「いたずらは人を育てるものだ。善悪の判断を、身をもって体験することができる。今回、おまえのしでかしたことは、限りない悪だ。それは分かるな? 二度としないと誓えば、咎めはしないし、むしろ褒めてやりたいくらいだ」
何故、いたずらを褒められたのか、宗弦には寺を出て破戒の僧になった今でも理解できなかった。
記憶が循環し、脳を混乱させ、当時が昨日のごとく瞼の裏に焼きついて蘇る。
宗弦は、師である禅清寺の住職の後を追うように歩く。
着いた場所は、境内の奥にある離れだった。
一度は世話をした人間とはいえ、破戒僧を境内にあげるのはもってのほかだと考えたのだろうか。
離れは六畳一間の小さな部屋だった。
宗弦が小坊主だった頃には、なかったはずだ。
記憶を奥底から引き出しても、この離れのことは思い出せない。
和尚に促され、宗弦は用意された座布団の上に正座した。
上座に座する和尚の顔をまともに見られない。
沈黙が続き、部屋の支配権を広めていく。迫りくる闇に飲み込まれていくような感覚だった。だが、宗弦は恐怖が迫るような体験を幾度となく経験している。
今更、慄くことはなかった。
「何年ぶりになるかな」
沈黙を破ったのは、和尚だった
「八年でございます。こうして、再び和尚の顔を拝むことができようとは、思いもしませんでした。愚かな咎人である私をどうぞ、蔑んでくださりませ」
宗弦は平伏したまま口を動かした。
「そうか、八年か。あの鐘のこと、覚えているか?」
「はい。今しがた、前を通りかかった時に思い出しました」
「あの時は領民に咎められ、殿にしかられ、寺の信用はがた落ちだった」
「存じております。若気の至りと申しましても、言い訳のできぬことをしでかしました」
「ありゃあ、わしもしてみたかったのよ」
「は?」
突拍子のない和尚の言葉に、宗弦は思わず顔を上げた。
八年という月日を一瞬にして垣間見た気分だった。元々、細身だった和尚の顔は少しやつれ、信仰心、慈悲、仏の道に情熱を注いできた力のある眼は、どこか遠くを見つめているように思える。和尚の年老いた様を真新しい黒い袈裟が拍車をかけている。
宗弦は、自分の所為のように感じた。禅清寺の住職、宗庵和尚は孤児を見つけては寺へと招き、小坊主として扱っていた。その中でも五指に入るほどの寵愛を受けた宗弦は、宗庵和尚を師と仰ぎ、父と慕い、自らも仏の道を目指すようになった。
宗弦もそんな孤児から小坊主になった部類の人間だった。
「正確で間違いのない鐘の音を一度狂わせ、安穏と生きる者たちに喝を入れてやりたいと思ったのだよ。だからこそ、あの時おまえを褒めたのだ」
「ですが、私の所為で和尚はお殿様からお叱りを受けたではありませぬか」
「おまえがやらなければ、どのみちわしがしていたことだ。おまえがやったからこそ、お叱りはあの程度で済んだのだよ。全てがおまえの所為ではない。そう――破戒をしたことも同様であると、わしは信じておるがの」
「殺めたことは私の意志に変わりはありませぬ」
鐘の音と人を殺めるということは、あまりにも違いすぎる。比べ物にもならず、詭弁で語ることすら許されない。僧であるならば、尚更のことだ。
「沖浦家に女中として奉公していた女、だったか」
「ご存知だったのですか」
「おまえのことは全て見通していた。孤児が増えてこの寺に小坊主が溢れた頃にあって、わしはおまえが一番のお気に入りだった。そう、息子のように」