薄明の世界 第三話
相変わらず、上半身を起こしたままで、それ以上の行動を制限され続けている宗弦は、綾を見据えた。
紛れもなくかつて愛した女であるが、その面影はどこにも見つからない。
老婆のような姿をした綾は、別人そのものだった。
綾は太陽だった。
枯れかけた雑草だった宗弦に水を与え、芽吹かせた。雑草に過ぎなかった宗弦に花を咲かせた。綾と出会ってから明らかに自分が変わっていった。嫌な気分ではなかった。むしろ、僧として無駄のない生活をし、無駄のない行動をしてきた宗弦にとって、未知の世界に踏み込んだようだった。
広い世界だ。
自らに楔を打ちつけ、自由を棄てていたことを思えば、そういった戒めすら馬鹿馬鹿しく思えた。
多大な影響力を持っていた魅力的な女。
共に生活をするようになり、その思いは日々強くなっていくばかりで、宗弦は僧であることに疑問を感じていた。
それでも、綾を棄てて僧を選んだのは紛れもない事実だ。
所詮、何を見て何を感じだとしても、経験にはならない。何も行動を起こしていない宗弦には経験が全くない。つまり、僧であることを棄てれば、自分であることも棄てるようなものだった。
宗弦はどうしてもできなかった。
自分であることを棄て、生きていくことなど出来やしない。
それは、変えようもない自分という人間。
「私を棄て、私とあなたの子を棄て、あなたは何を得ましたか? 果たして、高名な僧になれたのでしょうか」
「人を殺めた時点で、私は破戒僧の身だ。既に高名な僧にはなれまい」
「それがあなたの選んだ、僧というものの道というのですね。私は恨めしく思いまする……かわいい我が子すら殺めたことを、私は許しませぬぞ」
「許さなくていい。恨み、怨念を抱き、呪い殺すがいい。おまえの思うとおりにさせよう。だが、その暁には黄泉の国へ行け。成仏するのだ」
「……私は恨みも呪い殺しもしませぬ。あなたに地獄を見せましょうぞ……」
生暖かい風が宗弦の寝床を通り抜ける。
強く吹きぬけた風に、宗弦は目を伏せる。
宗弦が目を開けたのは、ようやく風が止んでからだった。
その時、既に目の前に綾は忽然と姿を消していた。