ブログネタ:今でも使ってしまう死語は? 参加中ありません
昔から流行語に属するような流行り言葉の類いが大嫌いでしたから、死語となっている言葉遣いも含めて変な言語は使わないように努めて参りました
何故ならば一応は日本人であるのに、日本語さえも正しく使いこなせない上に他の言葉や言語などを使用したりは出来ない為です
従いまして、出来る限り存在意義を認められた正確なセリフやフレーズを用いて今日まで生きて参りました
そして、この事は恐らく今後も変わらない姿勢であろうと思っております
ところで、死語と言うものは如何なる理由から出来上がってしまうものなのでありましょうか
それは廃れる為に死語としての命名が為されてしまう訳ですが「ほんの一時期でも持て囃されて使い回された筈の言い回し等が、一体どうして使われなくなり見向きもされなくなってしまうのであろうか」と言うメカニズムは全く理解を致しかねるのです
新しい言葉や言語が創成される事に異義を申し立てる心算などは毛頭ありませんが、確固たる背景や意味合い等を持った価値の見い出せる言葉や言語が世に流布されて行く事を強く望みたいものであります
「虚言は己れの人間たる尊厳の放棄であり、そうしていわば絶滅である」(イマニュエル・カント)
真に価値的な言葉は時代の変遷や移ろい行く人々の心をも超越して罷り通る事が出来るだけの何か強大な力や存在感があるものなのでしょう
かつてL.V.ベートーヴェンの交響曲No.9《合唱》第4楽章の歌詞『歓喜に寄す』が作詩された際に『自由に寄す』と読み換えられる草稿も存在すると言う主張が広まった事もありましたが、この意見は現在では信憑性が極めて乏しいとして用いられません
いわば死語のような扱いに成り果てた学説な訳ですが、どれだけ耳に心地の好い言葉や言い分であっても真理や道理を無視して普遍性を欠いたままの独り善がりな言い草では、半永久的に人口へと膾炙し続ける事などは出来ない模様です