トロイアでアキレウスの墓に詣でたアレックスは、
ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)越えを完了した軍と、
2年前から小アジアに派遣されていた先発隊の全軍を率いて、
へレスポントス沿いに北東へと進みます。
ランプサコス(現在のラープセキ)を過ぎ、
プロポンティス(マルマラ海)沿岸のプリアポス(Priapus:現在のカラビガ)では、
戦わずして、住民の意志で町がアレクサンドロスに委ねられ、
ペゲア(現在のビガ)のグラニコス川まで軍を進めてきました。
(下の地図では ビーア となっています。)
グラニコス川(Granicus)は現在のビガ川ですが、
ビガ川(トルコ語:Biga Çayı)はイダ山から流れ出て、
チャン(Çan)という街とビガの街を通り、
カラビガ湾でマルマラ海に入るので、
それぞれ、チャン川(Çan Çayı)と
コジャバシュ川(Kocabaş Çayı)としても知られています。
この東征での第一回目の会戦となるグラニコスの戦いは、
河口から10キロ入った河畔と言われているので、
現在の河口と当時の河口が若干違うとしても、
ほぼ、今のビガの街に近い辺りの河畔だったようです。
(上の地図の ×印 辺りが戦いのあった場所。)
現在のグラニコス川
(ビガ川)
ウィキペディアから
お借りしました。
一方、ペルシア軍はグラニコス東岸のゼレイアで布陣。
ペルシア王ダレイオス3世の将軍たちにより
対アレックス軍の協議がなされていました。
ペルシア軍の中には、
ギリシア人でありながらもペルシア王に仕える軍人もいて、
ロードス島出身のギリシア人傭兵メムノンもその一人でした。
彼は、歩兵戦力が優勢なマケドニア軍には、危険をおかして立ち向かわず、
農作物を焼き払いながら撤退して、
アレックス軍を食糧不足に追い込むという、
焦土作戦を提案しました。
しかし、へレスポントス・フリュギア太守のアルシテスは、
「(自分の統治下にある)住民の土地に火をつけるなんてとんでもない」
と、メムノンの案に反対した上に、
「ギリシア人傭兵にとっては、戦争が長引くと報酬が多くなるからだろう。」
と嫌味も言ったとか~。
で、他のペルシア人将軍たちもアルシテスに同意したため、
メムノンの案は却下されました。
このギリシア人傭兵のメムノンという方、
実はちょっと、というか、ある意味というか、
私的にアレックスに縁のある方だと思っているので、
少し紹介します。
メムノン(B.C.380-B.C.333年)は、
ギリシア人でありながらペルシア王に仕えた軍人ですが、
彼の妻の名はバルシネ。
そう、バルシネは後にアレックスの側室となる女性です。
話はちょっとそれますが、
メムノンという名前を聞くと、
私はどうしても、ギリシア神話の英雄アガメムノンを
思い出してしまいます。
そしてアガメムノンのイメージ映像が、
私には英雄ではなく、
ミケーネ出土のデスマスクのアガメムノンのイメージなので、
この顔
なのです。
実際にはメムノンさんも、もう少し若かったはずなのですが、
私の中のメムノンさんは、
マケドニアに亡命したときも、
ゼレイアで作戦会議をしているときも、
バルシネの夫であるときも、
いつもこの顔で、動いています。
話はバルシネに戻って、
バルシネ(B.C.363年頃-B.C.309年)は、
元々はメムノンの兄メントル(B.C.385頃-B.C.340年)の妻でしたが、
彼が亡くなった後、弟メムノンの妻となりました。
アレックスは基本的に女性にあまり関心がなかったと言われていて、
美女を目の前にしても、かなり理性が働く人だったようですが。
バルシネは、たぶん彼が最初に近くに置いた女性で、
ギリシア風の教育を受けた才色兼備の女性でした。
年齢は、アレックスより7つほど年上で、
母はロードス島出身のギリシア人、
後に夫となるメントル、メムノンは母の兄弟にあたる叔父さんたちでした。
父親はへレスポントス・フリュギア太守だったアルタバゾス2世。
祖父もへレスポントス・フリュギア太守を務めたファルナバゾス。
祖母はペルシア王アルタクセルクセス2世の娘アパマでした。
なので、父アルタバゾス2世はアケメネス王家につながる血筋で、
家柄からいっても超名門貴族でした。
バルシネの父アルタバゾスと盟友でもあったメントル・メムノン兄弟は、
紀元前350年代半ばごろ
(グラニコスの戦い当時からいうと、遡ること約10年以上前のことです。)
アルタバゾスと共にペルシア王への反乱戦争に加わっています。
その後、反乱が失敗に終わると、
アルタバゾス一家とメムノンは、
当時フィリッポス2世(アレックスのお父さん)治下だったマケドニアに亡命しています。
まだ十代の少女だったバルシネと
まだまだわんぱく盛りだった幼いアレックスは、
すでにそのころ出会っていました。