「東海道歩き 保土ヶ谷宿から戸塚宿まで②」の続きです。
戸塚宿上方見付跡を過ぎるとすぐ先の右側に第六天神社があります。
第六天神社とは元々は第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたもので、明治になって神仏分離の際に、多くの第六天神社ではその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が変更された。
第六天神社 坂道を進むと右側に石塔群があります。
「大阪台交差点」の先左の植込みに
大坂の碑があります。 説明標柱によれば
「かつては二つの坂から成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」 によれば、一番坂登り一町余(約100m)、二番坂登り三十間余(約54m)と書かれている。大坂では、嘉永6年(1853)に仇討ちがあったという記録がある」
大坂の碑から10分程進むと左歩道に大坂松並木の説明板があります。
「旧東海道 大坂松並木 大坂では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです」
現在は松並木は見当たりません。イチョウ並木に変わっています。
大坂松並木の説明板から500m程進むと左歩道にお軽勘平道行碑があります。
(バス停西横浜国際総合病院前)
『仮名手本忠臣蔵』の原作にはありませんが、後から書き加えられた『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじのはなむこ)通称「落人」、清元の名曲だそうです。
主君が大事の時に逢瀬を楽しんでいたお軽と勘平、勘平は切腹しようとしますが、お軽が必死に止めてひとまず私の実家へ、と二人は山科を目指します。途中の戸塚の大坂と見られる 「戸塚山中」での顛末を描いたお話です。
お軽勘平道行碑を出て吹上交差点を 過ぎてから100m程先の歩道左側に
原宿の一里塚跡標柱があります。
原宿の一里塚跡を過ぎゆるやかな下り坂 を進み浅間神社前交差点の右側角に浅間神社があります。
原宿の一里塚跡 浅間神社
浅間神社出るとバス停「大運寺」の歩道橋の丸い柱の後ろに庚申塔があります。
この庚申塔の道路向かい側に大運寺があります。
庚申塔 大運寺
大運寺は浄土宗の寺で慶長元年(1596)の創建といわれ、ご本尊は木造阿弥陀如来立像です。境内にはかつて観音堂、庚申堂があります。境内にあった弘法池は、今は大正団地内にあり、池の中の窟にあった弘法大師作の石地蔵は、現在本堂に移され、その複製品が窟に祀られている。 門が閉じていましので通過します。
大運寺から2km程先の影取町交差点の左角に影取立場跡の標柱があります。
標柱の説明によれば 影取立場跡
「立場とは、宿場間が遠い場合に、また峠などの難所などに、休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が繫栄すると宿場と混同され、間の宿(あいのしゅく)と呼ばれました。この立場は鎌倉道と交差する交通の要所で東海道藤沢宿まではおよそ一里の場所となります」
10分程進むと左側に諏訪神社があります。
諏訪神社の明神鳥居 諏訪神社拝殿
諏訪神社の創建年代は不詳ですが明治40(1907)年に山谷仲町からこのあたりに移転し出来た神社で、周辺が鉄砲宿と呼ばれていたことから武神の諏訪神社を勧請したと言われています。影取の地名の由来となった影取池は、この神社の奥にあったと伝えられています。
横浜市名木古木指定のクスノキ
諏訪神社のすぐ先に立派な薬医門の家があります。以前は茅葺の屋根だったそうです
諏訪神社から10分程先の鉄砲宿バス停後に鉄砲宿の説明板があります。
「鉄砲宿と影取池の昔話」
「昔々このあたりにいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大層かわいがっていました。ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきました。それをみた大蛇は長者様に迷惑はかけられないと、近くの池へ去ってゆきましたが、そこには十分な食料がなく、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを歩く人の影を食べて飢えを凌いでいました。ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので村人はこの池を影取池と呼んで恐れるようになりました。大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見と大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。昔の飼い主が迎えにきたと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまいました。いつしか影取池は埋められ影取の名と悲しい話だけが残されました。この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになったといいます。」
鉄砲宿から1km程進むと遊行寺坂(ゆぎょうじ)となります。
遊行寺の前にある東海道の坂を「遊行寺坂」といい、馬の背のような急坂でした。この坂を上るときには、乗り物に乗っている人には降りて歩いてもらったり、「立ちんぼう」と呼ばれる駄賃かせぎの人たちに荷車などを押してもらいました。いまの「遊行寺坂」は、二度掘り下げているのでゆるやかになっていますが、道の両側が崖になっており、その上に家が建っているので、かつての道の高さがしのばれます。(「藤沢の地名」より)
坂の途中の左側に遊行寺一里塚跡碑があります。右側にも一里塚跡の説明板。
説明板によれば
「かつて、このあたりの道路の両側に一里塚 がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約四㌖)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道 を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は何も残っていません。
左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右手に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会」
左側に諏訪神社があります。
諏訪神社は、建御名方富神(たてみなかたとみのかみ)を祭神とし、農耕の神とも蚕業(さんぎょう)の神とも言われている。
諏訪神社の斜め前右側歩道に藤沢宿江戸見付跡の
説明標柱があります。
「見附 は土居 ともいい、江戸方は清浄光寺 (遊行寺 )の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場 の範囲で、その目印でもありました」
ここから藤沢宿です。
遊行寺東門を通過してJR藤沢駅に向かいます。遊行寺は次回大礒宿に向かう時に参拝します。
藤沢駅北口着13:52
14:37発の小田急線で新宿に15:34着
16:55新宿発の高速バスで中津川駅に11月14日21:45着
トンデモない事が起きました。
7回も予防接種をしたのに武漢熱(コロナ)に罹りました。![]()
11月16日午後から咳が酷くなり熱も少し出て来ました。
17日熱を測ると38.9度、医者で検査をするとコロナと診断され3日分の薬をもらいました。
薬を飲みましたが熱は下がらず17日夜には39.8度になりました。
咳が酷く喉の痛みが強く続きました。
18日夜薬が効いたのか、寝ていてすごく汗をかき一気に熱が36.4に下がりました。
一気に体が楽になった感じがしました。しかし、すぐにまた38.1度に上昇しました。
医者にさらに5日分の薬をもらい、2日間ほど37度台の微熱が続き発熱開始から5日目にようやく36度台に戻り、安定しました。
「あの世にて 三途の川に 無賃橋」 夢の中でこんな句?が浮かびました。
三途の川に無料で渡れる橋を架けようと必死で頑張っていました![]()
11月25日どうにか食欲も出て少し元気が戻って来たようです。
自宅療養でしたが、誰にも感染しなかったことが不幸中の幸いでした。
妻や息子夫婦には大変世話を掛けてしまいました。ありがとう![]()
その後も風邪の様な症状が続き、かかり付け医に風邪薬を処方され3か月程飲み続けました。しかし一向に回復しません。他の医者に診察して頂き、処方された薬で翌日に鼻水は止まりました。市民病院を紹介されて検査を受け、吸入薬を処方され酷かった咳もほぼ治まりました。今は声のカスレが少しあります。
(原因は免疫力低下によるアレルギー性鼻炎、喘息の発症です)現在も治療中ですが、体力が回復次第また「東海道歩き」を続けたいと思って、ウォーキングに励んでいます。 旅はまだ終わらない![]()



















