「東海道歩き 保土ヶ谷宿から戸塚宿まで①」の続きです。
境木地蔵尊前交差点を矢印方向に進みます。 交差点角に道標があります。
「右 環状二号、左 旧東海道」と刻まれています
道標の横に焼餅坂の説明プレートがあります。
「旧東海道・焼餅坂
旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は 「焼餅坂(別名牡丹餅坂)」と呼ばれています。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。
このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています」
焼餅坂を下る途中にも説明板があります。 焼餅坂を下り品平橋を渡ります。
上り坂の左側斜面に庚申塔があります。 坂を上ると左右に品濃一里塚があります。
庚申塔 品濃側(西側)の塚 草木に覆われていて塚な のか藪なのか分からない。
東側の塚 説明板によれば
「品濃一里塚
慶長九年(1604)徳川幕府は、五街道 を整備し、あわせて宿場 を設け、交通の円滑を図りました。
それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約4km)ごとに五間(約9m)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植られました。これが一里塚 です。
一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年には県の史跡に指定されました。
横浜市教育委員会 平成7年6月」
一里塚を過ぎ暫くするといきなり高層ビルが現れました。丸印の所に福寿観音堂があります。
建立した願主は福原政二郎氏です。氏は東戸塚の新駅誘致を行い土地造成を担当しました。信心深く、観音信仰に篤く福壽観音堂を建立したそうです。
街道を右折しすぐ右の階段を上ると福寿観音堂です。直進すればJR東戸塚駅です。
街道に戻ります。 350mで品濃坂上に着きます。
ここでも富士山がきれいに見えます。
ここは品濃坂といわれ、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には、宿場町までもう一歩のところであった。一方、江戸方面へ向かう人にとっては、最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息であった
品濃坂上説明板
この先の階段を下りて環状2号線に架かる品濃坂歩道橋を渡ります。
歩道橋を下りてすぐ右の街道(路地)に入ります。東戸塚駅入口交差点を直進します
品濃坂歩道橋 東戸塚駅入口交差点
前方の 富士山を眺めながら進みます。 赤関橋を渡ります。
赤関橋を渡り街道を進むと一部狭い路地道になります。左斜面上に地蔵尊があります。
地蔵尊
国道1号線に合流し王子神社前交差点を左折し長い坂道を上り王子神社に向かいます。
王子神社の明神鳥居 拝殿
手水舎 下柏尾地区の戦没者18柱の忠魂碑と歌碑
忠魂碑の隣の歌碑
「丈夫に捧ぐ 幾歳を 異國の四海(よも)に 越せし英霊(きみ)
王子の杜に 今日(いま) 鎮(かえ)りけり」
登って来た坂道には戻らず、
神社を出て右折し山道を下ります。右側駐車場の奥に異人館(白馬亭)の土蔵があります。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。この時点でカーティスは一切の製法を秘密にしており、日本人は工場へ立ち入ることを許さなかった。
1884年(明治17)に起こった地震の際に工場が出火し、この時近隣住民が消火作業にあたったためその恩義に応えるべく、カーティスは益田直蔵らに製法を伝授。
またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・斉藤家の当主 斉藤満平(「万三」説あり)にも伝授した。
鎌倉郡発祥のハムなので「鎌倉ハム」と呼称するが、現在の鎌倉市域の発祥ではない。発祥地の現在の住戸表示は横浜市戸塚区上柏尾町である。従って、観光地としての「鎌倉」の土産にはあたらず、また特産物でもない。だが、名称から鎌倉の産品と見なされ「鎌倉」の土産や贈答品としても用いられている。
この倉庫は、ハムの冷蔵に使われていたもので、所有者の斉藤さんによれば横浜港にある赤レンガ倉庫と同じ頃、明治20年代の建造とのことです。
壁の厚さが1メートルほどもあり、関東大震災にも耐えた堅牢な作りです。
現在、ここでのハムの製造はおこなわれていません。
カッパ寿司の横を通り街道に戻ります。すぐ右側にコンビニがありその隣に蔵がありました。すぐ先の不動坂交差点で旧東海道は国道1号線から別れます。
大きな桜は奉祝の櫻。昭和34年4月10日の皇太子殿下御成婚を祝って植樹された木です。
鎌倉ハムの土蔵 奉祝の櫻
不動坂交差点で右側歩道に移動し大山前不動の標柱のある所まで戻ります。
標柱に従って坂を下ると大山前不動があります。
ここは江戸時代の大山詣での大山道入口であり、御堂には正徳3年(1713)の不動明王が祀られ、御堂の前には従是大山道と刻まれた道標や庚申塔などがあります。
従是大山道の道標 一面六臂の青面金剛の庚申塔 雨降山常夜燈
不動坂交差点から旧東海道に戻ります。
左側の井上眼科横の史跡の小径に進みます。
史跡の小径を進むと神宮拝領の檜があります。
伊勢神宮式年遷宮にあたり、伊勢神宮からいただいた檜との事です。
小径の奥に、護良親王首洗井戸碑があります。井戸の跡のコンクリの枠組みと
護良親王の首をお祀りしたという四つ杭の跡碑があります。 井戸は枯れています。
護良親王首洗井戸碑 首洗井戸 四つ杭の跡碑
旧東海道に戻るとすぐ右側に鎌倉ハム倉庫があります。
旧東海道を進み舞岡入口交差点で五太夫橋を渡り1号線に合流します。
説明板によれば
石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正18(1590)年江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区中田町には五太夫の墓があります。
五太夫橋
橋を渡ると右側に宝蔵院があります。真言宗のお寺、本尊は不動明王
宝蔵院本堂
すぐ先の右側イオン駐車場前に江戸方見付跡があります。戸塚宿江戸側入口です。
標柱の説明板によれば
見附とは、宿場の出入口のことで、ここは戸塚宿の江戸側の出入口である。旧東海道の宿場に設けられた見附は、宿場を見渡し易いような施設となっていることが多い。 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、20町19間を宿内とし、その両端に道を挟んで見附を築き、これを宿場の入口の標識とした。 貴賓の送迎はこれから行われ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。
見付跡近くの歩道のマンホールのふたに箱根駅伝の絵。
江戸方見付跡から300m程進むと左側歩道に
戸塚一里塚跡(吉田一里塚跡)の説明板があります。
「吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40kmになります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所です」
すぐ先に吉田大橋があります
吉田大橋交差点に広重の浮世絵があります。
橋の右側袂に木之間稲荷があります。
柏尾川に架かる吉田大橋を渡ります。橋の欄干には広重の東海道五十三次之内戸塚の絵が組み込まれています。
大橋を渡り矢部団地入口交差点を左へ進みます。
右側に善了寺があります。
善了寺寺標 善了寺本堂
琵琶湖の葦(よし)でできた、お寺とは思えないモダンな外観の本堂が印象的です。
親鸞聖人像 阿弥陀堂
善了寺は
天福元年(1233)江戸麻布善福寺の釈了海の弟子「釈了全」が浄土真宗のお寺として開山したそうです。本堂の前には親鸞聖人像が建っています。本尊は蓮如作と伝えられる阿弥陀如来です。
境内にカフェがあります。
介護認証事業所としてデイサービスもおこなっています。
善了寺を出て左側の接骨院の前の歩道に
矢部町問屋場跡の標柱 吉田町問屋場跡の標柱
「公用で旅する武士や旅人の宿泊や荷物の世話をするために設けられました。
問屋役の下に年寄、帳付、人馬指などの役人が置かれ、馬や人足の手配、荷物の積み替え、帳付けなどを行いました。戸塚宿には三ケ所の問屋場があり、交代で役目を勤め、矢部町問屋は毎月1日から4日までを担当しました」
戸塚駅東口入口交差点を過ぎると右側に吉田町問屋場跡があります。こちらの問屋場は毎月5日から11日までを担当しました。
すぐ先に東海道本線を跨ぐ大きな歩道橋があります。
歩道橋をエレベーターで下り、清源院入口交差点を右に進み清源院に向かいます。
清源院入口 本堂
元和6年(1620年)、徳川家康の側室於万の方が家康の菩提を弔うため、小石川伝通院白誉(びゃくよ)上人を請じて開山。浄土宗のお寺。「清源院」は、於万の方の法号。
鐘楼 芭蕉の句碑
「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」
栗といふ文字は西の木と書きて西方に便ありと行基菩薩は一生杖にも柱にも此木を用玉(給)ふとかや
元禄2年(1689年)4月24日(陽暦6月11日)、『奥の細道』の旅で須賀川の可伸庵を訪れて詠んだ句。
元禄元年(1688)の一面六臂の青面金剛の庚申塔と心中句碑
「井にうかふ 番(つが)ひの果や 秋の蝶」
当地の薬屋の息子清三郎と飯盛女ヤマが寺の井戸で心中したという。
文久3年(1863年)8月、句碑が建てられたそうです。
阿弥陀如来坐像 文政元年(1818)の南無阿弥陀仏名号塔
旧東海道に戻ります。
スルガ銀行まえの歩道に内田本陣跡の説明板があります。
本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息出来た施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうち一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(32.8m)・奥行十四間(25.5m)で、畳数は百五十二畳もあったという事です。
すぐ先の左側松本ビル前歩道に戸塚町問屋場跡の標柱があります。
「公用で旅する武士や旅人の宿泊や荷物の世話をするために設けられました。
問屋役の下に年寄、帳付、人馬指などの役人が置かれ、馬や人足の手配、荷物の積み替え、帳付けなどを行いました。戸塚宿には三ケ所の問屋場があり、交代で役目を勤め、戸塚町問屋場は毎月12日から月末までを担当しました」
すぐ先右側歩道に脇本陣跡標柱があります。
脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供する事ができました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式は全て本陣に準じ、上段の間などもあります。戸塚宿には三軒の脇本陣がありました。
戸塚小学校入口前交差点を過ぎるとすぐ右側に澤邊本陣跡 があります。
説明板によれば「澤邊本陣は、戸塚宿に2つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主・澤邊宗三は、戸塚宿の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒権現を勧請したのが始まりと言われています」
隣は戸塚消防署です。
海蔵院寺標 海蔵院本堂
鐘楼
海蔵院は臨済宗円覚寺派寺院、黄梅院二世方外が開山となり貞冶2年(1363年)に創建、澤邊河内守宣友(天正19年1591年死)が中興開基となったといいます。
八坂神社前交差点の手前に八坂神社があります。
八坂神社鳥居 拝殿
八坂神社は、元亀3(1572)年に、郷の庄司内田兵庫源政親が「牛頭天王社」を草創勧請したのが創建とされています。その後荒廃し、御神体も土中に埋もれたものの、元禄元(1688)年に内田氏の末葉内田佐衛門蔚源政利が掘り起こし再興しました。
明治初年に「八坂社」、さらに1932(昭和7)年9月19日「八坂神社」と改めました。
舞殿 明治天皇東幸史蹟碑
境内社の稲荷社 「お札まき」の標柱
毎年7月14日の夏祭りには「お札まき」が行われます。
「お札まき」は元禄年間(1688~1704)に始まったとされていて、江戸時代中期、江戸や大阪でも盛んに行われていましたが、やがて消滅してしまい、現在では戸塚にだけ伝え残されています。
男子10数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた5色(青・赤・黄・緑・白)の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。
風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。
神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です。 横浜市指定無形民族文化財に指定されています。
八坂神社を出て旧東海道を進み戸塚町交差点を右カーブした所に富塚八幡宮があります。
富塚八幡宮鳥居 富塚八幡宮神輿蔵
手水舎 舞殿
芭蕉の句碑 石段の上に富塚八幡宮拝殿
「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)」
富塚八幡宮を出て下郷入口交差点のすぐ先右側歩道、バス停「大阪下」横に 戸塚宿上方見付跡の標柱があります。
ここまでが戸塚宿です。
次は「東海道歩き 藤沢宿から大礒宿まで①」です。