「東海道歩き 川崎宿から神奈川宿まで②」の続きです。
神奈川宿はずれの神奈川台関門跡を過ぎて坂を下り「上台橋」を渡ります。橋を渡ると右側にポケットパークがあります。
上台橋 ポケットパーク
コンビニの先で道が二又になり、右へ進み、軽井沢公園を過ぎ右に入ると勧行寺があります。
勧行寺は法華宗陣門流のお寺で学陽山勧行寺という。文禄4年(1595年)に創建 ご本尊は大曼茶羅である。
天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)の墓がある。
新撰組局長近藤勇は四代目にあたるために近藤勇ゆかりの寺とされる。
街道に戻り500m程進むと「宮谷小学校入口」交差点に出ます。
交差点を横断し花屋さんと床屋さんの間の路地に入ります。旧東海道です。
右側に浅間神社があります。
一の鳥居 二の鳥居
三の鳥居と拝殿
浅間神社由緒 「浅間神社は、元神奈川区浅間町に鎮座し、浅間町一円の氏神なり。創祀は承歴4年(1080)と言われ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い、且つは戦勝奉賛のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹郡神奈川在芝生村に富士山の山地あるを卜(うらなう)とした社殿の修築をなし奉賛の至誠を致せる由といふ。爾来900余年神威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり」
街道に戻ります。浅間神社を出て10分程で追分に着きます
歩道に埋め込まれた旧東海道のプレート。
追分の説明標柱
旧東海道と八王子道が分かれる場所です。説明標柱によれば
「八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています」
標柱下部に「左旧東海道 右八王子道
」と書かれています。
道に埋め込まれたプレートや案内標柱は、旧道歩き人には羅針盤の様にありがたい。
追分のすぐ先に物凄く活気のある、昭和30年代にタイムスリップした様な松原商店街があります。
商店街がどんどんシャッター街になっている中で「やすさ・来やすさ」をモットーにした商店街の元気の良さに驚きました。
松原商店街江戸側の入口 衣料品屋 (懐かしい陳列)
道路にはみ出した商品の陳列(戦後のマーケットみたい) 旬の野菜
旬の果物(制服が無いので客か店員か分からない) すごい集客力
八百屋 (屋根の上に空箱 青空市場状態) 花屋(今とあまり変わらない)
雨が降り出したらこの商店街はどーするの?
多種多様なお店が軒を連ねる商店街を抜け「松原商店街入口」交差点を過ぎると左側に江戸方見付跡説明板があります。ここから保土ヶ谷宿になります。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時に また宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
街道を進むと右側に橘樹神社があります。
明治天皇東幸遺蹟碑
手水舎 嘉永5年(1852)の狛犬 吽形 阿形
力石 延宝6年(1678)の石盥盤(いしたいばん)
橘樹神社を出て進み帷子橋(かたびらはし)を渡ります。帷子川下流の天王橋が見えます。なぜか橋の名前がどこにも在りません。
金属製の橋名板が何者かにより盗まれたそうです。
帷子橋(かたびらはし) 帷子川 下流の天王橋
帷子橋を渡り相模鉄道本線の天王町駅前を左折し相模鉄道本線のガードをくぐると 天王町駅前公園があります。旧帷子橋が復元されています。
天王町駅前 復元された旧帷子橋跡
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の 「東海道五十三次之内保土ヶ谷」 は特に有名です。
天王町駅前公園手前の道を右に進みます。
ゆるやか右左にカーブを繰り返し旧街道らしさがある道です。
左側に帷子公園があります。このまま進み突き当りの角に古町橋跡説明板があります ここを左に進みます(矢印方向)
「神明神社前」交差点に出ます。交差点を横断した所に庚申塔と道標があります。
庚申塔 道標 矢印方向が古東海道です。
東海道はこの交差点を直進しますが右折した先に神明社があるので立ち寄ります。
神明社 神明社参道
天照大神宮 豊受大神宮
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建と伝えられ、横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとされています。鎌倉時代の始め、神様のお告げがあって現在の地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる御本社のほか、豊受大神宮や境内神社がまつられました。
神楽殿
神明社を出て先程の庚申塔の所から東海道に入ります。
天徳院山門と本尊地蔵大菩薩と刻まれた大徳院寺標 天徳院本堂
曹洞宗のお寺です。開山は安土桃山時代(1573)で、本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像です。
天徳院の隣に大蓮寺があります。大蓮寺の階段の手前に旧保土ヶ谷宿跡碑が有ります。
旧保土ヶ谷宿跡碑 大蓮寺
山門 釈迦堂
手水舎 亀の口から水が出ています。 大蓮寺本堂
日蓮宗寺院の大蓮寺は、妙栄山と号します。大蓮寺は、日蓮上人が泊まった家を改修した法華堂の地に、正住院日圓(正保2年1645年寂)が慶長13年(1608)に創建したといいます。
徳川家康側室 於万の方お手植えの柘榴(ザクロ) 南無日蓮大菩薩碑
大蓮寺を出て街道を進むと右側に遍照寺があります。
参道の説明板によれば 参道
「横浜市指定有形文化財(彫刻)木造 薬師如来坐像
この像は、量感に富み、目鼻立ちの整った面部は張りが強く、運慶の作風を継承していますが、面長の顔だちや左肩に大きな折返しつくった着衣の形状に、宋元風の影響も認められます。
市内に伝わる当代の彫刻の中では屈指の佳作で、遍照寺の本尊です。像高 85.4cm」
参道右壁面に十三仏の真新しい石像が並んでいます。
十三仏は、三十三回忌までご先祖様をお守りする13人の仏様のことです。
普賢菩薩 文殊菩薩 釈迦如来 不動明王
阿弥陀如来 勢至菩薩 観世音菩薩 薬師如来 弥勒菩薩 地蔵菩薩
阿閦如来 大日如来 虚空蔵菩薩 遍照寺本堂
弘法大師像 仏足石
遍照寺を出て岩間交番交差点を通り保土ヶ谷駅に向かいます。
今回も神社、仏閣などが多く予定時間を大幅に超過し目標の戸塚宿まではとても行けませんでした。
帰りの高速バスに乗り遅れては大変です。今日は保土ヶ谷駅までとします。
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令和5年11月13日から14日まで
歩いた時間 8時間 歩数 40042歩
街道距離 17.9km(歩いた距離28.0km)
今回もJR高速バスで11月13日23:31中津川駅前から出発し、翌朝4:45バスタ新宿4Fの新宿駅南口高速バスターミナルに到着しました。
保土ヶ谷駅に5:58着 6:00にスタートしました。
前回終了した遍照寺まで戻ります。
「岩間町交番」交差点を右折して東海道を進みます。交差点角に説明板があります。
「旧中橋跡 歴史の道
今井川の改修 かつて今井川はその流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。
しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。
保土ヶ谷宿と品川台場建設 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています 平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
旧東海道を進むと右側に助郷会所跡の標柱があります。
助郷会所は助郷村々の人馬を手配するために設けられたのが助郷会所です。
各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不正に使用されないよう監視する場所でもありました。
すぐ先の左側に問屋場跡の説明板があります。
「歴史の道 問屋場跡 問屋場 宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。
助郷 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。
高札場 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
すぐ先の右側に高札場跡の標柱があります。
宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は、幅2間半(約4.5m)、高さ1丈(約3m)の規模でした
すぐ先の交差点角の「程ヶ谷宿番所」に金沢横町道標があります。植込みの後にあり見落とすところでした。
説明板によれば「金沢横町道標四基 横浜市地域有形民俗文化財
平成元年12月25日 登録 この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。
旧東海道を進み踏切を渡り保土ヶ谷町1丁目交差点で国道1号線に合流します。横断歩道を渡った所が本陣跡でした。
保土ヶ谷宿本陣跡
説明板によれば、「 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が 「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣がありました。説明板の後ろにあるのは本陣の通用門です」
道路向かい側に標柱が見えたので、今渡って来た横断歩道を戻ります。
脇本陣(大金子屋)跡の標柱でした。
標柱の説明によれば「天保年間(1830-43)の大金子屋(八郎右衛門)の規模は、建坪119坪(約393㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行17間(約30.9m) 室数14 玄関付」
再び横断歩道を渡り本陣跡まで戻ります。
本陣のすぐ先に脇本陣(藤屋)跡の標柱があります。
標柱の説明によれば、
「天保年間(1830-43)の藤屋(四郎兵衛)の規模は、建坪119坪(約393㎡)、間口6間半(約11.8m)、奥行18間(約32.7m)、室数14の玄関付」
その先にと隣に保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設案内板があります。
水屋(与右衛門)脇本陣跡の標柱によれば、
天保年間(1830-43)の水屋(与右衛門)の規模は、建坪128坪(約423㎡)、間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14の玄関門構付。
隣に保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設案内板には
◎ 本陣・脇本陣
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)、脇本陣(3軒)で、明治3年(1870)の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
◎ 茶屋本陣
正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見付近近にあり、「茶屋本陣」 と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。
◎ 旅籠屋
はじめは 「木賃旅籠屋」 といって食事を出さず、旅人が持参した食料を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690)の頃から食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は、寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。
◎ 茶屋
往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
水屋脇本陣の直ぐ先に旅籠屋の本金子屋(伝左衛門)跡があります
保土ヶ谷宿で唯一宿場らしさを残す建物です。
この建物は明治2年(1869)に建替えられたと伝承されています。
標柱の説明によれば、「天保年間(1830-43)の本金子屋(伝左衛門)の規模は、建坪79坪(約261㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行11間半(約20.9m)、室数13」
すぐ先の横断歩道を渡り江戸方面に少し戻り大仙寺に向かいます。
八幡橋バス停の先の路地に入り踏切を渡ります。東海道本線を越えたところに
高野山真言宗の西方山大仙寺があります。
大仙寺の寺標と山門
参道(階段)途中の石碑「弘法大師」と刻まれています。 大仙寺本堂
鐘楼 弘法大師像 三界萬霊供養塔の観音像
子育地藏堂 イチョウの大木
踏切を渡り東海道に戻ります。先程渡った横断歩道の先に(右側歩道)
茶屋本陣跡の標柱があります。
標柱によれば、元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模は、建坪63坪(約208㎡)、間口10間半(約19.1m)、奥行6間(約10.9m)、室数8、門構付であった。
門構を持つ茶屋で、本陣としての特権を持ち茶屋本陣と呼ばれ、本陣を休息所としない多くの大名がここで休息したと伝えられる。
横断歩道を渡り東海道(国道1号線)の左側歩道を進みます。
これから先にある史跡や神社仏閣が道路の右にあるか左にあるかを予め調べておかないと簡単には国道1号線を横断出来ない(横断禁止になっています)ので間違えると大変な時間ロスになります。
信号交差点の左側に一里塚跡・上方見附跡があります。ここが京方面から来た時の保土ヶ谷宿入口です。ここまでが保土ヶ谷宿です。
説明板によれば 「一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から8番目のものです。
上方見附跡
保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。見附は、土盛をした土塁の上に材木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」 とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って並び、「宿内」 と呼ばれています」
松並木が続きます。 左側を流れる川の対岸に湯殿山供養塔があります
岩崎ガード交差点で歩道橋を渡り右側歩道へ。
保土ヶ谷2丁目交差点で1号線と別れ旧東海道に入ります。
岩崎ガード交差点 保土ヶ谷2丁目交差点
右に入ると歴史の道案内板があります。300m程先の右側に樹源寺があります。
歴史の道案内板 樹源寺
山門手前の地蔵菩薩 宗祖第七百遠忌報恩
樹源寺は、かつては真言宗東方山醫王寺と称する巨刹寺院だったものの罹災、保土ヶ谷宿の経部吉次の娘(妙秀日正)が発願となり、醫王寺の地に善通院日領上人を開山として寛永5年に創建したといいます。明治26年鉄道敷設に伴い、本堂・庫裏を移設したといいます。
樹源寺本堂 樹源寺薬師堂
築山と鯉が泳ぐ池
街道に戻ります。
右側に元町自治会館があり右側の坂道に入ると帝釈天王があります。
元町自治会館左側に旧元町橋跡の標柱があります 帝釈天王
標柱の説明によれば 「歴史の道 旧元町橋跡 保土ヶ谷区郷土史(昭和一三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。 橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれています。また、かつての字名は、ここから東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向」となっていました。
街道を進むと左側に稲荷神社があります。 街道を進み元町ガード交差点を左折し、
参道に庚申塔があります。 今井川に架かる元町橋を渡ります。
稲荷神社 元町橋
橋を渡ると道は緩やかな上り坂になります。右側歩道脇に庚申塔と堅牢地神塔があります。
中山道には無かった堅牢地神塔。
大地の神に、春は豊作を祈願し、秋には収穫を感謝するといった祭が起源らしい。
すぐ先の歴史の道案内板に従い右に進み坂を上ります。
左側に旧東海道権太坂改修記念碑と小社 権太坂陸橋 下は横浜横須賀道路
右側に権太坂石柱があります。 説明板によれば
「権太坂
横浜市地域史跡 平成十五年十一月四日 登録
この辺りは、権太坂 と呼ばれる東海道 を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
『新編武蔵風土記稿』に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。 平成十六年三月 横浜市教育委員会 」
権太坂の頂上辺りで右側遠くに富士山が見えました。
昨夜中津川の自宅を出た時の気温は4.0度でした。完全に冬の服装で出発してきましたので、この権太坂で汗だくになってしまいました。富士山を眺めながら着替えました。 よくぞ男に生まれけり
街道を進み境木中学校前で左折し坂を下って行くと左側に投込塚之跡碑が有ります。
投込塚之跡碑には次のように刻まれています。
「此の地は権太坂投込塚と稱し旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く之を埋葬せる處也 偶々當地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建てゝ之が菩提を弔ひ在者也 昭和三十九年四月建之」
投込塚之跡碑の左右には庚申塔、馬頭観音、があります。
街道に戻ります。
右側に若林家立場茶屋跡があります。
宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。
中でもここ境木の立場は、権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観が素晴らしく、旅人が必ず足を止める名所でした。
また、茶屋で出す 「牡丹餅」 は境木立場の名物として広く知られており、大変賑わったということです。
若林家立場茶屋跡の隣に境木地蔵尊があります。
手水舎
法然上人詠歌
月かげの いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
境木延命地蔵尊の前の広場に武相国境之木が建っている。
武相国境之木 台座の武蔵国と相模国の地図
ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはその印として榜示杭あるいは境杭と呼ばれる木柱が建てられ、境木の由来になったと伝えられている。
また、ケヤキの大木があったとの説もあります。
「東海道歩き 保土ヶ谷宿から戸塚宿まで②」に続きます。