「東海道歩き 川崎宿から神奈川宿まで①」の続きです。

 

街道に戻り4~5分進んだT字路右角の住宅外壁前に「生麦事件発生場所」説明板があります。

 

説明板によれば

「文久2年(1862)8月、江戸から京都に向かう  薩摩藩主の父島津久光(三郎)の一行400余名の大行列がさしかかったとき、横浜から来た馬の遠乗りを楽しむ4人のイギリス人と遭遇。列を乱された薩摩藩士が「無礼者」と4人に切りかかり、1人が死亡し3人が負傷する事件が起きた。言葉や習慣の違いから発生した不幸な殺傷事件は薩英戦争にまで発展したが、イギリスの近代兵器や文明に圧倒された薩摩藩は攘夷から討幕・開国へと方針を転換し、明治維新、日本の近代化へのみちを促進させた」

 

「生麦事件発生場所」の角を右に曲がった先に「御社母子稲荷神社」があります。

 

御社母子稲荷神社は「おしゃもじいなりじんじゃ」と読みます。『新編武蔵風土記』に「咳を治癒する神」との記述があるそうです

稲荷神は五穀豊穣の神です。商売繁盛の御利益があるそうです。

 

街道に戻り広い交差点(6号線)を渡りすぐに右の路地に入ります。

赤い鳥居の神明神社があります。鳥居の右側に石仏があります。

一面六臂の青面金剛の庚申塔その後ろに弁財天、蓮台に三猿が刻まれた延宝5年(1677)の阿弥陀如来像です。

 

 

 

神明神社拝殿           道念稲荷神社と同じ内容の説明板があります。

       

街道に戻ります。

左側はキリンビールの工場です。      高架下緑地に沿って進みます。

 

 

 

ネットフェンスの途切れた所に看板があります。  生麦事件碑の祠

 


 生麦事件碑

説明板によれば

「文久2年(1862)8月21日、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、2人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。
 明治16年(1883)、鶴見の黒川荘三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文(せんぶん 記念碑などに刻む文章)を依頼し遭難碑を建てました」

 

15号線の左側歩道に合流し首都高速のガード下を通ります。

300m.程進むと伊澤造船所のトタン張り外壁に「東子安一里塚跡」の説明板があります。

「旧東海道六里目の一里塚です。神奈川県内に二十ヶ所ある一里塚の内で唯一、この東子安一里塚にはその目印となるものがありませんでした。文化三年(1806)完成の東海道分間延図に基づき、西側の遍照院と村境(現鶴見区・神奈川区境)からの比率から推定されるこの地に案内板を設置しました。北側の塚には榎、南側の塚には松が植えられていました」

隣の横浜石油企業の角を曲がると駐車場の隅に才兵衛稲荷があります。

  
この地で海に身を投げた僧侶の慰霊のために建てられたそうです。

お稲荷様と言えば神様なのですが、昔からこの土地の人は神前に線香をあげる習慣があるということです。

 

街道に戻り「子安通り」信号交差点で向かい側の歩道に移動します。

すぐ先の右側に遍照院の寺標があります。踏切の奥に遍照院の山門が見えます。

  

 

  

地蔵菩薩                   六地蔵尊

  
手水舎                 手前がイチョウ、奥がタブの木の大木、

イチョウは火に強い性質を持つことから江戸時代、火除け地に多く植えられたそうです。

  

遍照院本堂   高野山真言宗のお寺 。

境内を京急本線が走り山門前には踏切があるため、「踏切寺」とも呼ばれるそうです。右は隣の遍照院会館に行った時の写真です。大迫力で電車が通過します。

「踏切寺」の名前で呼ばれるのも納得です。

遍照院は1868(明治元)年1月7日の神奈川宿火災(9町村1,200戸を焼失)で山門を除いて焼失。

山門横にある、横浜市の名木古木に指定されている樹齢200年以上のイチョウの木が、山門を火災から守ったのではないかといわれています。


街道に戻り、右側歩道を1km程進み「入江橋」手前の路地に入ります。

その先に庚申塔があります。

 

                    

  

一面六臂の青面金剛の庚申塔        街道に戻り入江橋から見た入江川。

                     臭いで海が近いことがわかります。                  

 

街道に戻り「出田町入口」(歩道橋あり)信号を過ぎると右側に良泉寺があります。

 

良泉寺山門                 良泉寺本堂

良泉寺は、海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断わったといわれる

 

街道に戻るとすぐ先に笠䅣(笠のぎ)稲荷神社の社標があります。

 
                     ガード下を通ります。

                   

明神鳥居                   笠䅣稲荷神社拝殿

説明板によれば

「笠のぎ稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938-47)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄2年(1689)に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるといことから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治2年に現在地に遷座された。
 また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとき)団子を供えるという」

境内の板碑     

本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑です 天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑ですが、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です 鎌倉時代末期から南北朝時代の慰霊碑で、この大きさ(高さ172.5cm)の板碑は極めて少なく横浜市指定有形文化財です。

 

  

境内の日露戦役紀念碑           境内の御神木の大楠  


笠䅣(笠のぎ)稲荷神社を出て京急本線のガード下を通り直ぐ右折し京急本線沿いに進みます。前方に大きな観音様がみえます。  

   

                     能満寺山門

 

山門前の芭蕉の句碑、寺標と説明板

芭蕉句碑

「父母の しきりにこひし 雉子の聲」

この句は貞享5年(1688年)、「笈の小文」の道すがら高野山を訪れたときに詠まれたもので、安永4年(1775年)に能満寺に建てられた。

 

説明板によれば

「能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像の言葉に従って建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ5寸(15㎝)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。 かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。

 

山門の四天王(仏法を守護する神)

  

増長天                  持国天

  

多聞天                   広目天

・持国天は 悪を下し国家を平和・安泰にさせる力を持つ。足下に邪鬼を踏みつけ刀を持ち右手を振り上げて仏敵を威嚇する姿。

・増長天は五穀豊穣を司り、広大な恵みで仏教を守護する。右手に戟を持ち左手に刀を持つ。 

・広目天は千里眼のような目でこの世を観察し仏教とそれを信じる者を守護する。筆と巻物を持つ姿もあるが能満寺広目天は右手に五鈷杵、左手に戟を持つ。

・多聞天は釈迦の説法を良く聞く者 別称 毘沙門天 財福の神であり疫病を払う無病息災の神。宝塔(仏様の象徴)を捧げ持ち三叉戟を持つ。天部の主尊(リーダー)。

 

  

 能満寺本堂と手水舎                               本堂の扁額「海運山

  

本堂から見た山門                                     六地蔵 と  地蔵菩薩 

 

能満寺の隣に神明宮があります。

 

 神明宮の神明鳥居             手水舎

神明宮拝殿 

説明板によれば 「神明宮の草創については、いくつかの伝説があるが定かではない。
 「新編武蔵風土記稿」 は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係にあったことを伺わせる。

神明宮の鳥居を出て右に進み突き当りを左に曲がると右角にタイルの「東海道分間延絵図」のあるミニパークがあります。ここを右に進みます

  

ミニパークの角を右に曲がり突当りを左に曲がり15号線に出る手前で右に曲がると

東光寺があります。

                        東光寺入口の寺標                                        東光寺本堂

 

大木を背に沢山の無縁塚と石塔があります。

門前の説明板によれば

「東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる。

「金川砂子」には街道に面して山門を開く様子が描かれている」

※ 「金川砂子」は、江戸時代の神奈川宿の様子を書いたもので、文政7年(1824)「煙管亭喜莊」の作です。神奈川宿と周辺の神社仏閣、歴史、生活、行事などが書かれています。

 

東光寺を出て国道15号線に戻り「神奈川2丁目」交差点横断し右に進みコンビニの角を左に曲がります。金蔵院があります

 

門が閉じています。中に入れません。

 

金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安時代末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。
 


金蔵院前の道をそのまま進み小さな交差点を2つ過ぎると高札場があります。

 

説明板によれば

かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。

その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものでした。

この高札場は、資料を基に復元したものです

 

高札場から今来た道を戻り金蔵院隣の熊野神社に向かいます。

 

大きな明神鳥居                     手水舎

 
嘉永年間の吽形の狛犬と阿形の狛犬 

           

 熊野神社拝殿   

熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、 「権現様」 として親しまれている。もと権現山(幸ヶ谷山上)にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれた。
 

 

御神木 樹齢400年の公孫樹(イチョウ)   舞殿

 
馬頭観音(左)、鎮望社(中)、鎮守社(右)  稲荷神社

 

支那事変・大東亜戦争 戦没者慰霊碑       神奈川一番組之碑

 

熊野神社を出て再び高札場の前を通り成仏寺に向かいます。

 
史跡 外国宣教師宿舎跡碑          浄土宗 成仏寺寺標

成仏寺本堂

説明板によれば

「成仏時は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。

安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師達の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成させた。またブラウンは英語の教育に尽力し、ヘボンとともに聖書の翻訳も行った」

 

成仏寺を出てさらに右へ進むと2車線の道路に出ます

左折してその先で「滝の川の土橋」を渡り直ぐ右折します。突き当りに浄瀧寺があります。

  

親柱に「どはし」の銘板          浄瀧寺

 

「史跡 イギリス領事官跡」碑        浄瀧寺本堂

説明板によれば

「浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。

法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。

聖人が『立正安国論』を著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。

また、開港当時はイギリス領事官に充てられた」

 

今来た道を戻り滝の川にそって進みます。                     

滝ノ橋と本陣跡

説明板によれば

「上の図は「金川砂子」に描かれて、江戸後期の神奈川宿の風景である。

現在と同じ場所にあった滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿である。

滝ノ橋のすぐ脇には高札場が見える。

高札場は、現在の地区センターに復元されている」

 

滝ノ橋と本陣跡の案内板のすぐ先を右に入ると宗興寺があります。

  

宗興寺本堂                  ヘボン博士施療所碑

宗興寺と ヘボン博士の説明板によれば

「曹洞宗宗興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。

開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いた。

これを記念する石碑が境内にたてられている。

このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、後に、明治学院を創設するなど、わか国の教育にも尽力した人である」

  

六地蔵尊                                                 聖観音像

直ぐ近くの住宅街の中に「神奈川の大井戸」と呼ばれる史跡がありました。徳川将軍のお茶の水に使われた名井戸です。残念ですが気付かずに通過してしまいました。

 

15号線に出て滝の橋を渡り江戸方面に戻り神奈川町本陣跡を探します。

滝の橋から50~60m程先のリクシル不動産の前の歩道端に説明板がありました。

  

神奈川町本陣跡説明板によれば

「神奈川町本陣跡と青木町本陣跡

慶長六年(1601)、東海道に宿駅・伝馬の制が定められたとき、市域では神奈川、保土ヶ谷の二宿(戸塚宿はその後の設置)が設けられました。

宿場には、幕府より指定された大名・公家・役人などが宿泊・休憩する施設として、本陣が置かれました。

神奈川宿には、滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣が出来、神奈川は石井家(源左衛門)、青木は鈴木家(源太左衛門)が任命されました。神奈川町本陣跡は、現小野モータース(2023.10.31現在リクシル不動産に変わっています)あたり、青木町本陣跡は、神奈川公園の東側あたりです」

 

再び街道を京方面に進み青木町本陣跡を探します。

大きな歩道橋を渡り向かい側道路角のマンション(ランドシティー横浜ポートサイド)の前に出ます。

                              

                                    青木町本陣跡碑

記されていたのは神奈川町本陣跡説明板と同じ内容でした。

 

再び歩道橋を渡り国道15号線の右側歩道に戻り少し先の宮前商店街へ入ります。

右側に洲崎大神があります。

  

 

洲崎大神説明板

説明板によれば

洲崎大神は、建久2年(1191)、源頼朝が安房国(現千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
 「江戸名所図会」 の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。

  

阿形の狛犬と吽形の狛犬 左右の配置に決まりは無いそうです。

 
氏子が奉納した溶岩の山に獅子        洲崎大神拝殿

 

洲崎神社のすぐ先に普門寺があります。

             

真言宗智山派のお寺で洲崎山普門寺という。 鎮海(文治3年(1187年)寂)が開山となり創建したと伝えられている。 建久2年(1191年)に創建された洲崎大神の別当寺であったが、普門寺の方が洲崎大神よりも創建が古いことになる。開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられました。

 

隣に甚行寺があります。

  

甚行寺は、眞色山と号し、浄土真宗の高田派に属す。明暦二年(1656)第一世意圓上人が本山専修寺の第十四世堯秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。

開港当時、本堂は土蔵造であったが、改造を加えてフランス公使館に充てられました。

大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和46年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造りで再建し、現在に至っている。

  

手水舎                        甚行寺本堂

 

甚行寺を出て宮前商店街を抜け青木橋を渡ります。右の坂の上に本覚寺が見えます

  

  青木橋               本覚寺に上る坂道

 

本覚寺に上る坂の途中から青木橋を見た景色。   アメリカ領事館跡碑

                       横浜市名木古木指定のスダジイ

 

本覚寺山門               『禁葷酒入山門』(きんくんしゅにゅう

                     ざんもん)と記された戒壇石     

これは、香りの強いものを食したり(にんにく等)、飲酒して入山してはいけませんという意味です。

   

観音堂前の子育地蔵尊            鐘楼

   

本覚寺本殿  説明板によれば

「本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である」

  

十三重石塔(供養塔)                涅槃仏(ねはんぶつ)
                                             釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの。 

  
境内社の稲荷社               御神木のイチョウ

 

坂を下り街道に戻ります。

二つ目の路地(やまざき歯科クリニック角)を右に曲がります。

 
                    マンション前に三宝寺のに寺標がありますが参道がどこにあるか分かりません。諦めて通過しましたが、マンションの中のエレベーターを使い屋上へ行くと三宝寺への通路があるそうです。

空中に浮かんでいる様なお寺だそうです。観たかったなぁー!

 

すぐ先に大綱金刀比羅神社と神奈川の一里塚跡があります。

説明板によれば

「大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)と一里塚跡

 この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。
 その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より7つ目に当たり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった」

  

 手水石                                                   溶岩石の上の狛犬

  

                                                                        金刀比羅社拝殿 

  
稲荷社                 左 御神木の松から彫りだした天狗面 

                    中 荒神社  右 弁天社と龍神社 


街道に戻ります。上り坂です。左側に料亭「滝川」の壁面に安藤広重の「東海道五十三次之内神奈川」のプレートが貼られています。

 

十返舎一九の東海道中膝栗毛から 「たどり行くほどに金川の台に来る。ここは片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」 が記されています。

 

料亭「滝川」の先に田中屋があります。

説明板によれば

≪神奈川宿≫
神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かつて神奈川湊を見下ろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからです。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました

≪田中家≫ 神奈川宿が賑わった当時から続く唯一の料亭が、文久3年(1863)創業の田中家です。田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の 「東海道五十三次」 にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。
≪坂本龍馬の妻・おりょう≫ 「おりょう」 が田中家で働き始めたのは明治7年、勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ、月琴も弾くことができた 「おりょう」 は、外国人の接待に重宝されていました。

 

坂道を進むと右側歩道に「神奈川の台と茶屋」の説明板があります

  

「ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。

弥次さん、喜多さんが活躍する≪東海道中膝栗毛)では、「ここは片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とある。

「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。

上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋のあたりだといわれている」

 

坂を上ると右に神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所の碑があります。

開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された

碑の右隣は権大納言鳥丸光広の歌碑 

思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは

 

ここまでが神奈川宿です。

 

「東海道歩き 保土ヶ谷宿から戸塚宿まで①」に続きます。