川崎宿に入ります。
六郷橋を渡ると長十郎梨の解説標柱があります。
多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑、明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。
発見者当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」 と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。
六郷橋 長十郎梨の解説標柱
明治天皇六郷渡御碑
江戸時代、東海道の往来のためには六郷の渡しは大切な要であり、幕府からの助成金によって常時10数隻の舟 で旅人や荷馬を渡した。明治元年(1868)の明治天皇の渡御の際には23隻による舟橋が架けられた。現在新六郷橋 には欄干の渡船のモニュメントとともに渡船跡の碑と明治天皇六郷渡御碑が建てられている。
「かわさき区の宝物シート」によれば「六郷川渡しのエピソードとして次のような話が載っていました。
「享保14年(1729)5月、ベトナムから幕府への献上物として渡ってきた雄の白象が川崎宿へとやってきた。象は 長崎から陸路をたどり京都では天皇に拝謁、東海道を15名の従者とともに歩いてきたという。象通行にかかわる 「御触書」が出され宿場はあふれる見物客とともに大きな喧噪につつまれた。予定より9日遅れで川崎宿に到着した白象は、宿内に新築された象部屋に迎えられ一泊した。六郷の渡しには近村から集められた30隻の舟と1日 280人の人足によって6日間で仮設の舟橋が架けられたそうであるが実際に象が渡った記録は残っておらず、舟橋 で象が渡るのは困難と船頭らが判断し、3隻の大きな荷足船を繋いで上に小屋をつくって渡したという説もある」
川崎大師燈籠 渡し船のモニュメント(西詰め)
橋を渡ると道は下りになります。右の15号線ガード下をくぐります。
右側に六郷の渡しと旅籠街説明があります。
「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に 「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・」 なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。
◎川崎宿の家並み
旅籠62軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鑄掛屋、米屋など合計368軒。(文久2年の宿図から)
川崎宿に入ります。
本町交差点角に新宿道標と説明板があります。
説明板には
「東海道の他の宿場より遅く造られた川崎宿はいわば新宿。後に中心部だけこう呼んだのか?宿を設ける際、新たにできた街並をこう呼んだものか。このあたりが新宿だった」
本町交差点を渡った所に「旧東海道」標柱 田中本陣跡
田中本陣と田中休愚の解説
「川崎宿に三つあったと云われる本陣の中で、最も古くから在った田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。 江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政4年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。
明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。
宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政に充て、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた 「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗にも認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである」説明板により抜粋。
「東海道川崎宿」交差点角の和菓子屋「川崎屋東照」前に「助郷会所」の説明板があります。
説明板によれば
「宿駅に常備する傳馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所にあつめられた。助郷制は、川崎宿周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった」
「東海道川崎宿」交差点を右折して京急線踏切前を左に曲がります。
「一行寺」
門が閉じられていて見学できませんでした。別名「閻魔寺」と言われ、閻魔大王像があります。境内には川崎最初の寺子屋を開いた浅井忠良の墓と、富士講の西川満翁の墓があります。
浄土宗のお寺です
非常の際には、田中本陣の避難所にも当てられていた。
一行寺先のこの角を左折して「宗三寺」に向かいます。
「宗三寺」 扁額は「瑞龍山」となっています。 宗三寺本堂
宗三寺は川崎宿の中で最も歴史が古く、創建は鎌倉時代にまで遡るという。飯盛旅籠の遊女たちの供養塔があることで知られています。
飯盛旅籠はその後廃止されるが明治時代以降も貸座敷と名を変えて存続した。宗三寺の供養塔は、大正初期に川崎貸座敷組合によって建てられたものです。遊女たちの供養塔は、広い墓地を探し回りましたが、どこにあるか分かりませんでした。
旧東海道に戻り「砂子」交差点を左折し「稲毛神社」に向かいます。
神奈川銀行を過ぎ歩道橋の手前を左に入り進むと右側に稲毛神社があります。
赤い鳥居はその歩道橋の横から入った所にあります。
西側の明神鳥居 南側の神明鳥居
赤い鳥居の手前に芭蕉の句碑がありました。
「秋十とせ 却って江戸をさす古郷」
拝殿前の大鳥居の近くに正岡子規句碑がありました
「六郷の 橋まで来たり 春の風」
芭蕉の句碑 正岡子規句碑
天地睨みの狛犬 説明板によれば
「狛犬は左右が阿吽の呼吸をもって鋭い眼光で厄魔を祓うと伝えられています。
この狛犬は平成のご大典記念として制作されました。右が天を祓い、左が地を祓うという意味が込められています。
上半身につてお願い事がある方は右の狛犬を、下半身についてお願い事がある方は左の狛犬を撫でてからご参拝ください」
鳥居横の小土呂橋遺構
この橋は東海道が新川堀(いまの新川通)を横切るところにかけられていました。小土呂橋は市内の数少ない近世石造橋の中で、その年代が最も古く、規模も大きい(5.4m×5.4m)橋です。享保11年(1726)に田中丘隅(兵庫)が石橋に改ため、それが寛保2年(1742)の洪水で大破し、翌年に幕府御普請役水谷郷右衛門によって再興さ れたのがこの橋です。
推定樹齢一千年の御神木大銀杏
ご神木大銀杏の周囲には、ブロンズでできた十二支の像があり、それぞれにその干支について書かれています。その内容がなかなか面白い。
子(ねずみ) 丑(うし) 寅(とら)
卯(うさぎ) 辰(たつ) 巳(み)
午(うま) 未(ひつじ) 申(さる)
酉(とり) 戌(いぬ) 亥(いのしし)
第六天神社(左)、堀田稲荷神社(右) 三峰神社、御嶽神社、八坂神社、大神宮など他にも境内社がありましたが省略します。
「砂子」交差点に戻ります。「砂子」交差点の角にあるこのコンビニが「問屋場跡」
川崎信用金庫の向かい側のビルの壁に「東海道川崎宿 佐藤本陣(上の本陣)跡地」の説明があります。
「本陣は江戸時代、大名や幕府の役人、勅使などが街道を旅する際に宿泊するために、各宿場町に設置された公認の 武士階級専用の宿舎である。
川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、 下(田中本陣)の3つの本陣があった。
佐藤本陣は、14代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。
本陣は、宿場町の中でも財力があり、信頼のおける名家が幕府に選ばれて、その主人が運営に当たった。
本陣には、当時武士階級の建築様式であった門や玄関構え、上段のある書院が設置され、主人にはしばしば苗字帯刀が許された」
すぐ先の交差点角に佐藤惣之助生誕の地碑があります。
「青い背広で
青い背広で こころも軽く
街へあの娘と 行こうじゃないか
赤い椿で ひとみも濡れる
若い僕らの いのちの春よ」
「かわさき区の宝物シート」によれば
「大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家としても有名な佐藤惣之助は、代々本陣職を務めてきた佐藤家 の生まれ。本陣跡の向かい側、川崎信用金庫本店前には昭和54年(1979)に生誕の地記念碑が建てられ、円鍔 勝三氏による彫像と嗣子・佐藤沙羅夫氏による揮毫の『青い背広で』の詩が刻まれる」
「赤城の子守唄」や「人生の並木道」「人生劇場」など、昭和の名曲の作詞、「六甲おろし(大阪タイガースの歌)」も作詞しています。
東海道を進んで「小土呂橋」交差点を横断します。右側歩道に「小土呂橋碑」があります。
説明板によれば
「この通りに幅5m程の流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水でした。この掘が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが 「小土呂橋」 です。
小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた4町の一つで、古くからの地名です。
橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、昔の流れに沿って 「新川橋」、「さつき橋」 は今もその名をとどめています。
この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時を偲ぶよすがとしました」
「小土呂橋」交差点から東海道を進み一つ目の信号を右折します。「教安寺」があります。
天文22年(1553)に創建の浄土宗の寺。本尊は阿弥陀三尊立像。境内には、江戸中期に庶民から「生き 仏様」と敬われた徳本上人の六字名号碑がある。また江戸時代に鋳造された貴重な梵鐘も残されてお り、寄進を行った多くの人々の名前が刻まれている。
山門前の石灯籠
石灯籠は、宿内安全、天下泰平を祈願して、川崎宿の富士講の信者が天保11 年(1840)に建立したもの。江戸時代後期、江戸で富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰の「富士 講」が関東一円に広がった。富士講の有力な先達であった堀の内村出身の西川満翁が組織したタテカワ講 によるものである。
文政12年(1829年)鋳造の梵鐘 徳本上人による六字名号(南無阿弥陀仏)碑
戦中の金属類回収令により供出させられたが、空襲警報のサイレンの代用品にしようと川崎市役所に保管されたため、鋳潰されずに済んだ。
徳本は念仏を唱えれば極楽に往けると説き、江戸時代に民衆から絶大な人気を誇った
地蔵菩薩坐像と無縁塔 教安寺本堂
東海道に戻ります。「川崎警察署東側入口」交差点を過ぎ八丁畷駅が前方に見える辺りの右側に 「芭蕉句碑」があります。
「俳聖松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の句にたくしました。
芭蕉は、「さび」 「しおり」 「ほそみ」 「かろみ」 の句風、すなわち 「蕉風」 を確立し、同じ年の10月、大阪で、「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」
という辞世の句をのこし、51歳の生涯を閉じました。それから130余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡を偲び、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。川崎市教育委員会)」
八丁畷駅の踏切を渡り左に進みます。 右側に「旧東海道」碑があります。
左側にはタイル画「百年前 昭和初期の八丁畷駅」があります。
川崎市立川崎中学校3年生(第66期)の卒業記念の作品です。
タイル画の隣に慰霊塔と地蔵尊があります。
「八丁畷の由来と無縁塚」説明板によれば、「江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場あたり)へ至ります。この区間は八丁(約870m)あり、畷といって、道が田畑の中を真直ぐに延びていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ころの特徴を備えた人骨であることが判明しました。
江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
不幸にして落命した人々の骨を供養するため、地元では昭和9年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。 (川崎市教育委員会)
南武線のガードをくぐり旧東海道の畷道を500m程進んだ信号交差点の右先に「熊野神社」があります。
熊野神社神明鳥居 手水舎
手水舎の水盤は江戸時代、天保8年(1837)に奉納されたと刻まれています。刻まれている文字は「荘子」の中の言葉で熊野神社のHPによれば、「之が本原を立てて、知は神に通ず」で意味は、「徳のある人は道の本原に立っており、その知は神秘なものに通じている」そうです。
「熊野神社拝殿」
御祭神は、国常立尊、伊邪奈岐命、伊邪奈美命
弘仁年間(810-823年)に紀州熊野の別当尊慶上人が、紀州熊野本宮御祭神の御分霊をこの地に勧請したのが始まり。徳川家康が江戸に入る際に天下泰平、国家安穏、武運長久を祈念した神社でした。その頃は鶴見川の西側にあったのですが、その後、現在は元宮という地名になった場所に遷され、さらに明治三年鉄道敷設予定地になったため現在の場所に遷座されました。
慶應3年(1867)建立 石燈籠
左側の台石正面「唐獅子」 右側の台石正面「龍」
左の石燈籠右後の石柱は明和元年(1764)本殿改築の際、造立された「鳥居の柱」とのことです。
鎖で囲まれた句碑があります。
熊野神社HPによれば
「江戸時代の俳人、加舎白雄と大島蓼太が東海道鶴見橋を詠んだ俳句の句碑です。
「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜 白雄」
「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱 蓼太」
の二句が根府川石に刻まれています。
俳句の選定、句碑への揮毫は、鶴見出身の俳人、飯田九一です。
建立は昭和21年5月です」
横浜市立市場小学校発祥の跡碑
碑文 文部大臣 奥野誠亮書
明治六年六月六日真明学舎と称して開校し明治十二年九月十日此の地に 校舎を新築第七中学区百三十三番小学市場学校と称す 横浜市立市場小学校の発祥の地なり 創立百年に当り之を記念して茲に建碑する 昭和48年6月6日 横浜市立市場小学校創立百年記念事業実行委員会
熊野神社を出てすぐ左に入ります。踏切の手前で右に曲がり進むと右側に「専念寺」があります。
説明板によれば
◎ 延命子育地蔵尊の由来
弘安2年(1272)7月、今より706年前鎌倉戦士を祀るため六郷川の渡守宇吉なる者が建立したるもの也。その功徳は熱病、吹出物、皮膚病一切を治したので、わけてイボ地蔵尊の称あり。
◎ 十一面千手観音菩薩
仏師法眼定朝作(平安中期)という。紫式部の念持仏と云われ、むかし近江国石山寺より愚蔵坊昭西(当寺開山)が奉持して東国へ下向の際、故ありて一応山専念寺(この寺号は知恩院大僧正将軍家お招きの途次、お立ち寄り下賜されたもの也)を建立安置せり。その後、毎月17日を縁日として市がたった。これをボロ市と称した。これが市場村名称の起縁である。
◎ 夜光石(仙元宮として祀る)
飛石とも云われ、5寸8分の鰹節型の石で、天正年間富士大噴火のみぎり、飛来せしもの。夜毎妖しい光を発せし故、この名あり。
弘安2年(1272)の延命子育地蔵尊 境内社の伏見稲荷
東海道に戻ります。5分程進むと左に「市場村一里塚跡」があります。
一里塚跡の上に稲荷社があります。
市場の一里塚説明板によれば
「慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4㎞)毎に街道の両側に5間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは江戸より5里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
昭和8年(1933)6月、「武州橘樹郡市場村一里塚」 (添田坦書)の碑が建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました」
隣に「市場西中町一里塚公園」があります。
旧東海道を進むと右側に庚申堂があります。
御堂の中に一面六臂の青面金剛の庚申塔。 隣に正一位下町稲荷神社
下町稲荷神社の先(横断歩道がある)を右に入ると金剛寺があります。
真言宗智山派の寺光明山遍照院と号します。金剛寺の創建年代等は不詳ですが、嵯峨天皇(809-823)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったとそうです。
寛永年間(1624-1645)に秀尊(明暦2年寂)が中興、金剛寺と称していましたが、江戸時代末期に院号遍照院を通称としていました。
玉川八十八ヶ所霊場11番、東海三十三観音霊場9番、東国八十八ヵ所霊場10番です。
弘法大師1150年御遠忌供養塔の九重塔 子育地蔵尊
金剛寺本堂と真言宗中興の祖 興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)像
東海道に戻り「鶴見川」に向かいます。 鶴見橋から下流の眺め
1966年6月鶴見川が台風により氾濫しました。当時横浜市港北区綱島に下宿していました。
台風が過ぎた翌朝、窓から外を見ると周りの田んぼが湖の様になっていました。
着替えを頭にのせて膝まで水につかりながら学校へ行った事を憶えています。
(当時の綱島は田んぼの広がるのどかな所でした)
ここから神奈川宿です。
鶴見橋を渡ると左側に鶴見橋関門旧跡があります。
説明板によれば、「安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まった。 鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅4間(約7m)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。
文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第5番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。
明治時代に入り、世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1871)11月、各関門は廃止されました。なお第5番・第6番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています」 鶴見橋関門旧跡の隣は旧東海道鶴見橋標柱です。
街道右手に寺尾稲荷道の道標が建っている。
ここは江戸時代の寺尾稲荷社へ向かう道との分岐点です。
この道標はレプリカで、当時の道標は鶴見神社の境内に保存されています。
言い伝えとしては、
寺尾城主5代目の諏訪馬の助は生まれつき馬術が下手で、何とか上達するようにこの寺尾稲荷に願をかけました。すると、馬術は上達し、北条氏康の十勇士の中に名を連ねるまでになったという言い伝えがあります。
「鶴見駅東口入口」交差点を過ぎ最初の角を右折すると「鶴見神社」があります。
鶴見神社HPによれば
「鶴見神社は、往古は杉山大明神と称し境内地約五千坪を有していました。
その創建は、推古天皇の御代(約一四〇〇年前)と伝えられています。大正九年に鶴見神社と改称しました。『続日本後紀』承和五年(八三八)二月の項に、「武蔵国都筑郡の杉山神社が霊験をもって官弊に之を預からしむ」とあり、この有力神社として江戸時代の国学者黒川春村は、鶴見神社に伝わる田遊びに関する『杉山明神神寿歌釈』を著しています。
昭和三十七年、境内より弥生式後期から古墳時代の土師器を中心として鎌倉期に及ぶ多数の祭祀遺物(祭りに使用された道具)が発見され、推古朝以前より神聖な場所として、すでに祭祀が行われていたことともに、横浜・川崎間最古の社であることが立証されました」
手水舎 左は「国旗制定百年記念碑」 鶴見神社境内貝塚
横浜市指定史跡。弥生時代末期から古墳時代前期。平成20年2月の発掘調査で本殿前の東西5~8m、南北約10mの範囲に厚さ70~80cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認された。この貝層を構成する貝種は2枚貝ではカガミガイ、ハマグリ、巻貝ではイボキサゴが主体であり、8種以上の鹹水産(かんすいさん)貝種からなっている。この時代の貝塚が良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です。
吽形の狛犬 阿形の狛犬
鶴見神社拝殿 浅間神社
鶴見神社本殿 寺尾稲荷道道標
境内社の間に寺尾稲荷道道標があります。
「寺尾稲荷神社道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和30年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
正面には、「馬上安全 寺尾稲荷道」右側面位は、「従是廿五丁」 左側面には、「宝永二乙酉二月初午 寛延三庚午十月再建 文政十一戌子四月再建立」とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さを伺い知ることができます。
寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。 (横浜市教育委員会)」
JR線のガード下を通り「鶴見駅西口入口」交差点を左折して鶴見駅西口に向かいます。
本日はここまでとします。
鶴見駅から東京駅へJR京浜東北線で戻り高速バスで帰宅します。
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前夜高速バスで出発し、令和5年10月31日4:45にバスタ新宿着。
鶴見駅東口を6:00にスタートし「鶴見駅入口」交差点で東海道に合流しました。
「左側に信楽茶屋跡があります。
「信楽茶屋は、東海道の立場として栄えた。鶴見村の中で最も大きな茶店でした。「江戸名所図会」 にも描かれ、古いのれんを誇り、繁盛しました。竹の皮に包んだ梅干しを売り、大山石尊(現阿夫利神社)祭礼の時には、殊に賑やかであったといいます」と記された説明板があったそうです。
信楽茶屋の向かい側に鶴見神社参道の石柱があります。
東海道を進むとすぐ先の右側に「名主 佐久間家」跡の説明板があります。
「ここには、江戸時代に、代々、鶴見村の名主を務めた佐久間家の屋敷がありました
代官用の玄関・敷台をもつ当時の建物が2001年(平成13年)まで、ここに残っていました。
名主は村人に年貢やお触書など幕府の命を伝える一方、さまざまな交渉事に村人を代表してあたる村の世話役でした。当時、鶴見川がしばしば氾濫し、村に大きな被害を与えていましたが、こうした災害時にも、村人のために尽くしたと伝えられています」
道路向かい側に鶴居堂(かっきょどう)の説明板があります。
「ここは、せきの特効薬「苦楽丸」で街道筋に知られた「鶴居堂」を営む黒川四郎左衛門の屋敷がありました。鶴居堂の名は、ある日、4羽の丹頂鶴がこの屋敷の庭先に舞い降りてきたことに由来しています。
鶴居堂は明治の末ごろに姿を消したそうですが「苦楽丸」の看板を掲げた「黒川薬局」の建物が昭和20年代の初めまで、現在の鶴見銀座商店街(ベルロードつるみ)のまるはち文具店のあたりにありました」
100M程先の信号交差点を横断歩道で直進しし京急線の高架下を通り「おらが蕎麦」の角を曲がります。
少し進むと、右側のエスプラン(洋菓子屋)の外壁前に「サボテン茶屋跡」碑があります。
「旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡 みぎひだり つのを出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋」 と刻まれています。
東海道の名物茶屋として賑わい力餅を売っていました。店主が長崎から持ち帰ったサボテンが、江戸末期には高さ3.5m位に成長したものが5株あってサボテン茶屋と言われていました。明治44年(1911)の鶴見大火で焼失し、今は茶屋跡として洋菓子店の外壁前に石碑が建てられています。
街道を進み「下野谷町入口」交差点を通ると前方に鶴見線のガードがあります。
このガードは鶴見線「国道駅」につながっているそうです。中は薄暗いのですが、お店がある様で明かりが見えます。昔見た石原裕次郎や小林旭の映画に出て来そうな雰囲気です。
奥の方まで入って見ればよかったと後で後悔しています。
ガード下を通り進むと右側に「慶岸寺」があります。
早朝で中には入れませんでしたが、
浄土宗の寺です。開山は慶岸上人(天正9年(1581))示寂です。本堂には、阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られているそうです。
慶岸寺参道には子育地蔵堂があります。 地蔵堂に掛かる子育地蔵尊の扁額
慶岸寺を出て街道を歩き始めると道の両側に魚屋さんが軒を連ねています。
中山道の木曽平沢で漆器の店が軒を連ねていたように町中が魚屋さんです。 時刻6:35
お店は8時半から11時ですが、この時間には仕入れた新鮮な魚介類を店出しする準備をしています。早朝はお寿司屋さんなどプロの仕入れで混雑するので一般の方は9時半~10時半頃の買物がオススメだそうです。生麦魚河岸では、『少しでも、誰でも、気軽に』をモットーに一般の方に対してもプロと同じように販売しているそうです。
ここは、「生麦魚河岸通り」といい400mほど続いています。
江戸時代、開港前の横浜で大いに賑わっていたのが生麦です。
生麦では、江戸時代より、幕府に魚を献上する「御菜8か村」のひとつとして、魚が売買されていました。江戸時代からの賑わいを今にも残しています。
街道を進み魚屋さんの店並が途切れます。左側に「正泉寺」があるはずですが見当たらない。地図を見間違えて路地に入ってしまいウロウロしていると、犬と散歩をしている方に出会い尋ねました。親切に正泉寺の前まで案内して頂きました。旅先で困った時の人の親切に心より感謝しました。
「情けは人のためならず」新渡戸稲造(にとべいなぞう)の言葉があります。
「施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな」
正泉寺参道の地蔵尊 正泉寺山門
正泉寺は真言宗智山派。寛永元年(1624)の開創。
本尊は海中より出現したといわれる薬師如来坐像。御身8寸。春日仏師崑首羯磨の作と伝わります。
※崑首羯磨(びしゅかつま) は美術工芸に巧みな人
青い「もみじ」の参道を通ります。無縁供養之碑、阿弥陀如来(足元に三猿)など
亀供養塔 亀が乗っているめずらしい供養塔(左の石塔)
明治45年、生麦で地引網が行われ、魚にまじって亀(体長1.2m 巾80㎝)がかかり、漁師たちは竜宮の使いだとして、酒をのませました。亀が死んでしまい、亀供養塔が建立されました。
地蔵菩薩、弘法大師像 正泉寺本堂
左の石塔は弘法大師一千五十年御遠忌碑
正泉寺の直ぐ先、右側に赤い鳥居の道念稲荷があります。
道念稲荷神社
道念稲荷神社拝殿 地蔵菩薩
説明板によれば
「蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされていましたが、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第一日曜日に行われるようになっています。
萱で作った長大な蛇体を若者・子供が担いで 「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」 と大声で唱えながら町内を担いで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
横浜市教育委員会)
「東海道歩き 川崎宿から神奈川宿まで②」に続きます。
」