「東海道歩き 日本橋から品川宿まで②」の続きです。
浜川橋を渡ると右手に「天祖諏訪神社」があります。
天祖諏訪神社の神明鳥居 手水舎
天祖諏訪神社拝殿 ケヤキの大木
厳島神社鳥居(境内社) 日露戦役記念碑
街道を進み国道15号と合流する手前に鈴ヶ森処刑場遺跡があります。
磔台 火炙台
「火炙台
八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである 鈴ヶ森 史跡保存会
磔台
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された 真中の穴に丈余の角柱が立てられその上部に縛り付けて刺殺したのである
鈴ヶ森 史跡保存会」
左から鈴ヶ森之碑 鈴ヶ森刑場受刑者之墓 南無妙法蓮華経題目碑
水難者供養塔 馬頭観世音
鈴ヶ森処刑場遺跡を出て国道15号線に合流します。
「大森海岸駅」の案内板のある歩道橋を渡り15号線の右側の歩道を進みます。
磐井神社があり、神社前の歩道に「磐井の井戸」があります。
磐井の井戸
この井戸の水を飲むとき、心が正しければ清水、邪心があれば塩水、という伝えがあります。第一京浜国道(昭和2年、1927年完成)として東海道が拡幅され、もとは境内地にあったものが、神社前の歩道に残ることになりました。区指定文化財。(大田区HPより)
磐井神社の名前はこの井戸に由来します。
磐井神社の明神鳥居 手水舎
子獅子が合計で6匹います。子宝の象徴として親しまれています。
磐井神社拝殿
磐井神社の由緒
式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社です。『三代実録』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されています。 別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されています。
御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功天皇・姫大神・大己貴命 (磐井神社HPより)
磐井神社には、非公開の叩くと鈴のような音がするという鈴石と鳥の模様が浮き出た鳥石があります。
拝殿奥の本殿(千木のある建物)
手前の石塔群は右から
・皇太子殿下御野立所記念碑(こうたいしでんかおのたちしょきねんひ)
大正天皇がまだ皇太子であった明治四年(1909)1月17日、大森方面へ行啓された。その折この磐井神社にも立ち寄り付近の風物を観覧後、還御された。この碑は、氏子らがこの光栄を記念して大正四年(1915)10月1日に建立したもの。
・力石
・「竹岡先生書学碑」 寛政8年(1796)建立
・鳥石碑(鳥石の由緒が刻まれた碑)
元文6年(1741)江戸中期の書家松下鳥石が、鳥石(鳥の模様が浮き出た自然石 非公開)を奉納
舞殿 海豊稲荷神社
小さな池に囲まれた笠島弁財天 御神木のイチョウの大木
磐井神社を出て、国道15号線を進みます。
右側に大森神社があります。 大森神社拝殿
ご祭神は木の神の久久能智命(くくのちのみこと)
天正年間の創建と伝えられる。当時この辺りは海辺であり、里人達は漁業をもって生活をしていた。ある時黄金色に輝く像が岸辺に流れつき里人達は畏れて沖へ流すこと三度に及んだが元の場所に寄り来たるので社を建てて、この像を祀ったのが当社の起源といわれている。そのため、この社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。明治元年に神祇伯 白川資訓王より大森神社の社号並びに額面を賜わり、その後昭和7年10月大東京都実現の折に大森神社と公称するようになった。(東京都神社庁HPより)
神社入口に「百度」石がありました。
お百度参は、神社や寺院への参拝を100回くり返すことで願いを叶えるという平安時代の末頃から広まっている信仰の1つです。普通の参拝では成就の難しそうな切なる願いを神仏に聞き入れてほしいときに行います。
お百度石を基点としてお参りを100回繰り返します。
大森神社を出て今来た15号線を「大森スポーツセンター前」交差点まで戻り、横断し美原通りに入ります。
大田区大森スポーツセンター スポーツセンター前の「旧東海道」標柱
美原通りを進みます。
右側に美原不動尊があります。 地蔵堂 左に百度石がありました。
真言宗のお寺で昭和25年の建立です。小さなお寺ですがきれいに掃き清められています。
美原通りを進み「環7美原通り」交差点の手前に旧東海道の標柱があります。
交差点を横断するとまた標柱があります。
美原通りを進み左側の小さな郵便局の手前路地を奥に進みます。
津島神社 津島神社拝殿
百度石は中山道の神社や寺では見なかった。
美原通りに戻り次の交差点を右折し、すぐまた右折します。
玉森稲荷神社があります。 拝殿 狛狐を金網で囲っています。
日露戦争に出征して無事に帰還された者が奉納した征露紀念碑が建っています。
美原通りに戻り、内川橋を渡ります。
〇印の所に「羽田道(すがるや通り)の道標。
道標の説明では「羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれ、「駿河屋」 という旅籠があったので、現在の 「するがや通り」 という名が残されている」と刻まれています。羽田道はこの道標を過ぎてすぐ左に入ります。
美原通りを進み「大森一里塚」を探します。
年配のご婦人に尋ねてみましたが、「この地に嫁いで60年になるが、塚跡など見た事が無い」との事。
諦めて歩き始め「久保」商店さんの前で年配のご婦人に再度尋ねると、店の前の歩道の植込みの辺りを指して、「ここにあったんですよ」との事。木製の説明板が立ててあったそうですが、今は無くなっていました。
久保商店さん 久保商店さんの斜め前大森一里塚跡の説明板があった場所
美原通りから国道15号線「大森警察署前」交差点を斜め左に進み大森警察署建物の壁沿いの歩道を進み路地を右折し警察署の裏に出ます。
大森区役所跡(現在は大森警察署)
大きな碑は明治10年(1877年)西南戦争と、 小さな碑は明治27(1894年)から28年(1895年)の日清戦争に、この地域から従軍し、戦死した人々を慰めるために建てられました。ともに山県有朋が碑銘を書いています。
この路地を進み国道15号線を左折し、「大森町駅」交差点を横断し進みます。
右側に「貴船神社」があります。扁額は「貴舩神社」でした。
貴船神社 明神鳥居 手水舎
拝殿 福満子稲荷神社
貴舩神社の創建の年代ば明らかでない。江戸時代には大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であった。明治になって菅原神社が東海道をはさんでその真向いに祀られたが、のち貴舩神社に合祀され、それ以来貴菅神社と俗称するようになった。(「大田区の神社」より)
貴舩神社の隣の敷地に御堂があります。
谷戸の閻魔大王・延命地蔵尊堂が祀られています。
江戸時代の1665(寛文5)年には祀られていたようですが、貴菅神社同様に国道拡幅のため現在地に遷された旨の説明書きがあります。
15号線を進み「大田区体育館前」交差点を過ぎると右側に「梅屋敷公園」があります。
梅屋敷は、文政年間(1818年から1830年)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部です。(大田区HPより)
公園入口の「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷碑」 明治天皇と梅屋敷説明
説明板によれば、
「梅屋敷は、明治元年(1868)から明治30年(1897)の間に天皇の9度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治6年(1873)3月6日の御観梅のときには小梅一株をみずからお手植えなされ、子の梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたと云われています。その後、昭和8年(1933)に史蹟として保存指定を受け、昭和13年(1938)に東京市へ寄付、さらに昭和28年(1953)に大田区に譲与され、現在に至っています。 (大田区)」
梅屋敷の狂歌堂真顔の歌碑
説明板によれ
「旅人の 神に手向けの 弊代や 白絹咲きし 庭中の梅」
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。 (大田区)」
梅路、梅志の句碑
説明板によれば、
梅路 「しら梅の梢や月のたかみくら」
梅志 「松竹は表にうらハ梅の春」
この句碑は弘化3年(1846)山本久蔵が梅路と号し、建立したものと言われています。また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。 (大田区)」
15号線に戻ります。
東蒲田二丁目交差点を過ぎ呑川(のみかわ)に架かる「夫婦橋」を渡ります。
「夫婦橋交差点」を過ぎると右側に「京急蒲田駅」があります
駅の中を通り東口から西口に出ます。
「希望」像 蒲田八幡神社
西口の「希望」像横の横断歩道を渡り歩道を左に進みます。
交差点を右折し、妙安寺の前を過ぎると右前方に「蒲田八幡神社」があります。
「蒲田八幡神社由緒」によれば
「祭神 誉田別命 例祭 八月八日
蒲田八幡神社は、宇佐八幡宮を勧請せる由緒深き神社にして、其の年暦を伝へざるも更に古社なることは、境内小圓墳伝説等史実の明示するところとなる。案ずるに、当地既に新石器時代より住民の生活するところとなり、縄文式文化とともに原始信仰の発祥を来たし、農耕の興りし弥生式文化時代を経て、斎場の形作られし聖地なり。
慶長年間、新宿分村に際し、行基作の神体三座の中春日の像一体を蒲田神社より分かち、鎮守神体とせしに神霊あらたかなりしと伝ふ。
明治維新となり、神仏分離により春日の像を別当妙安寺に安置す。
戦災に遭遇するも忽ち再建の気運勃興せり。戦後、復興し行く蒲田の中心なるを以って、昭和24年8月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と称へ、氏子崇敬者の奉賛に依り昭和33年8月8日御社殿復興遷宮祭を執行す」
※誉田別命は第15代天皇の応神天皇。
神庫 社務所
蒲田八幡神社拝殿 吽形の狛犬 阿形の狛犬
天祖神社の御祭神は天照大御神 日本武尊です。
境内社の満願火伏稲荷神社 蒲田駅西口側の参道入口
国道15号線に戻ります。 30分程進み「東六郷三丁目」信号を通過すると少し先の左側に「六郷神社」があります。参道(脇参道)を通り正面参道に向かいます。
「東六郷三丁目」 六郷神社
六郷神社HPによれば
「御祭神は誉陀和気命(ほんだわけのみこと)[応神天皇] (蒲田八幡神社では誉田別命)
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんはここにあります」
神門前の梶原景時が寄進した太鼓橋(神橋) 神門
六郷神社拝殿 屋根に千木が付いている方が本殿(右)
吽形の狛犬 阿形の狛犬
神楽殿 手水舎
六郷橋の親柱 貞享2年(1685)の石工三右衛門作の狛犬
慶長5年(1600)家康により六郷橋が架橋され、後、架けられた橋も幾度となく洪水被害で流失しています。
境内社の左に、明治43年(1910)洪水被害後に架橋された仮橋(木橋・大正2年洪水で流失)の親柱です。
脇参道を戻り15号線の歩道に戻ります。
15号線側六郷神社鳥居前から歩道(旧東海道)が15号線と別れます。
「六郷土手」信号交差点を右折して15号線のガード下をくぐり左折して「北野天神」に向かいます
平癒塚、止め塚、学成就塚,落馬止め天神碑があります。
御利益は、学業成就、入学、入社、商売繁昌、病気の平癒、病気再発防止、産婦の流産防止、痛み止め、交通安全、飛行安全、人気凋落防止
「悪い事は一切止める」そうです。
万年石(左)、千年石(右)
「江戸時代天神さんの祭りの時、氏子が力自慢のため担いだり、抱えた力石を村人が相談の上、自分たちの一生が達者で働けるようにと願い、千年石を鶴さん、万年石を亀さんと名付け老若男女にそれは親しまれました。天神さんの縁日にはその鶴亀の力石をお互いになで合い、ご利益にすがりました。
ボケないで健やかな生涯を長寿で全うしたい人は、鶴さん(千年石)、亀さん(万年石)の力石にやさしく手を触れて下さい」との事です
北野神社拝殿
別名 「落馬止め天神」 または 「止め天神」 と言い、徳川8代将軍吉宗が乗る馬が暴走し、あわや落馬というときに、将軍の落馬を止めたのがこの天神様の御加護だと言われています。
御祭神は菅原道真公
北野天神を出て土手沿いに進み、15号線のガード下を通り階段を上り六郷橋に出ます。
渡し船のモニュメント(東詰め) 六郷橋からの景色
ここまでを品川宿とします。多摩川に架かる六郷橋を渡ると川崎宿です。
次は「東海道歩き 川崎宿から神奈川宿まで」です。