東海道歩き 日本橋から品川宿まで①の続きです。

 

高輪大木戸跡を過ぎ「泉岳寺」交差点を右折します。

 

ゆるやかな上り坂の先に泉岳寺中門が見えます。

赤穂浪士たちの歩いた道を自分も歩いていると思うと、身の引き締まる思いがします

元禄15年(1702年)12月14日寅の刻(西暦1702年1月31日午前3:00~3:40頃)、火事装束に身をかためた赤穂浪士47人が本所「吉良邸」に討ち入りました。本懐を遂げた浪士達は、隊列を整え、降り積もった雪を踏みしめながら、未明の江戸の街を縦断して泉岳寺まで歩き、旧主浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供えました。 引き上げの距離はここまで約12kmあり、吉良邸引き揚げが卯の刻(午前6時から7時)頃、泉岳寺到着は辰の刻(午前8時から9時)頃といわれていますので3時間程で到着しています。

武装した集団が江戸の町を泉岳寺まで無事行軍出来たことが不思議です。

元禄の世は令和の今と同じ「平和ボケ」だったのかな。

  

中門の扁額「萬松山」             境内の観音像と地蔵尊

大石内蔵助良雄像

説明板によれば、

「この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有者が転々としていましたが、泉岳寺に寄付され、大正十年十二月十四日に除幕したものです。 内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。

泉岳寺山門

説明板によれば、「この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです」という事は、赤穂浪士がここに引き上げて来た当時は、元禄15年(1702年)だから、山門は無かったかもしれない?

中門はどうだろうと思い再度説明板を見ると「現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています」こちらも当時は無かったかもしれない?

泉岳寺本堂

本堂は空襲で消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。
ご本尊は釈迦牟尼仏、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。

赤穂義士の墓所に向かいます。

  

赤穂義士墓所入口                                   入口横に「水琴窟」 

            義士への鎮魂」と題する庭師からのメッセージがあります

  

「首洗い井戸」                                       「義商 天野屋利兵衛浮図」碑 

吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。                                                                                                                        

「義商 天野屋利兵衛浮図」碑 

赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援した「義商」として知られているが、実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と関係のない人物です。

  

階段上の門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治に移築したそうです。

階段を上り入口の門を入り、受付で線香を300円で買います。それが入場料になります。

お墓で写真撮影OKだったので、線香をあげながら写真取りしました。

 

長矩公夫人之墓                     浅野長矩公之墓

 

大石良雄之墓                大石主税之墓と十三回忌供養の碑

                      数え16歳で最年少の義士でした。

 

義士の墓

 

墓所の階段を下りて1基の灯籠と墓碑に気付きました。

高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)墓碑     安政六年(1859)、開港直前の横浜に乗り込んだ江戸の材木商高島嘉右衛門は、金貨密売で入牢七年の試練を経たのち、ふたたび横浜で活動を開始します。当時横浜は新しい町づくりで活況を呈し、嘉右衛門は持ち前の才覚を発揮し、横浜開発の諸事業を手がけます。鉄道、水道、瓦斯など多方面にわたる彼の事業は文明開化の魁となった。
一方、嘉右衛門は、獄中で身につけた易学を大成し、「高島易断」の開祖となった。

 

東海道に戻ります。

15号線右側に「高輪神社」があります。

  

石造りの明神鳥居です。                            高輪神社拝殿

ご祭神は宇迦御魂神(うがのみたまのかみ)誉田別命(ほだわけのみこと)
猿田彦神(さるたひこのかみ) 創建は室町中期 明応年中。

 

拝殿左側に太子堂                     手水舎

 

太子堂前の恵比寿神、大黒神      力石 祭礼などの奉納に「力競べ」に使用

                   した石 左右の狛犬の脇に一個ずつある。

                              

東海道に戻ります。

 

高輪二丁目交差点右側角に「高輪海岸の石垣石」が展示されています。

 

説明板によれば「、ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
 平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。成13年(2001)5月港区教育委員会」

 

桜の木が茂る 石垣がきれいな「さくら坂」を右に見て品川駅前の歩道橋を渡ります。

 

 

「八ツ山橋」交差点を左折しJR線の架橋「八ツ山橋」を渡ります。

 

「八ツ山橋」交差点              横断歩道を渡ります。

八ツ山橋の親柱があります。

錆が目立っていて少し残念でしたが、存在感ある大きな親柱でした。

八ツ山橋は日本で最初に鉄道が開通した区間に架けられた,最初の鉄道跨線橋。

親柱の右側は八ツ山橋」、左は「やつやまはし」と刻まれています。

土台部分には「大正三年六月」と刻まれ、右側には「弐千五百七拾四年」と皇紀が刻まれています。皇紀は 日本書紀に記された神武天皇即位の年を元年として定められた紀元です。

 

地下通路の先にある「なまこ壁造りのトイレ」横の踏切を渡る道が東海道でした。

トイレ横の踏切を渡ると左に「右 品川宿」新しい道標があり北品川本通り商店街となります。

この辺りから品川宿です

 

今まで歩いてきた道は、高層ビルに囲まれた片側3車線や4車線の道でしたが、始めて生活感のあるかつての街道らしさを感じられる街に出ました。

踏切の先の八百屋さんの手前左角に

「問答河岸跡」碑があります。

問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前。

しながわ観光協会HPよによれば

「三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されています。
家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています」

八百屋さんのすぐ先のロイヤルガーデン品川の前に土蔵相模跡」碑があります。

しながわ観光協会HPよれば

「旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られています。
文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催しました」

 

土蔵相模跡から見た北品川の街並み。     丸屋履物店

  

 京の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の履き倒れといったように、粋な江戸っ子は履物にも強いこだわりをもっていました。東海道一の宿、旅人が行き交い賑わった品川宿には、かつてはたくさんの履物屋がありましたが、今も唯一残るのが旧東海道沿いの「丸屋履物店」。創業は慶應元年。(しながわ観光協会HPより)

 

「一心寺」   豊盛山延命院 一心寺は、安政2年(1855)創建、真言宗智山派のお寺です。ご本尊は成田山の分身である不動明王。古くから延命と商売繁盛の寺として信仰を集めています。毎月28日が縁日で、その日は素焼きの皿(ほうろく)を裏返しにして頭に載せて灸をすえる「ほうろく灸」が体験できます。(しながわ観光協会HPより)

 

左側に「品川宿本陣跡」(聖蹟公園)があります。

説明板によれば、 

江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本・門跡・公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南品川宿と北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。

大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしました。

明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。

品川宿交流館

「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が管理、運営する施設です。まちづくり活動の拠点として、品川宿の情報発信の場として、そして地域のみなさんと、品川宿へ観光やビジネスで訪れるみなさんが相互に交流し、この品川宿に新しい活力が生まれることを願って運営しています。(北品川商店街HPより)

 

「品川橋」江戸側親柱 ひらがなで刻まれています。 

説明板によれば、  「品川橋の今昔
 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
 〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
 〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。平成三年四月一日 品川区」

 

品川橋から見た上流の赤い鎮守橋     京都側の親柱 漢字で刻まれています。

  

 

「まちなか観光案内所 南品川櫻河岸」

  

桜やクルーズで人気の目黒川が交差する場所に、築90年以上のかつて交番だった建物を活用した観光案内所です。

来訪者や地域住民に周辺の水辺の観光スポットや名所・イベント、歴史資源を案内するほか、品川宿が育んできた文化を伝えます。ぜひ、お立ち寄りください。

(品川区HPより)

案内所の向かい側の城南信用金庫前に「脇本陣跡」・「高札場跡」があります。

説明板によれば、

「東海道 品川宿 是より南 南品川宿

この高札の場所は、脇本陣跡、(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)治兵衛が営んでいました。
 品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。
 東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。
 東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社で)、 その後、同じ建物内に人馬の重さを検査する貫目改所も設けられました」

 

荏原神社に向かいます。            

  

鎮守橋                 荏原神社の社号標     

  

白木の明神鳥居                                           恵比寿神

荏原神社拝殿

荏原神社の創立は和銅2年(709)、古くは貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と呼ばれていました。現在の社殿は弘化元年(1844年)に完成したもの。祈雨と止雨の守護神とされる高龗神(たかおかみのかみ)をはじめ、天照大御神や須佐之男命などを祀っており、品川の龍神さまとして信仰を集めてきました。

旧鎮守橋の親柱               明治天皇御東幸内侍所奉安所碑

  

明治天皇は荏原神社を明治元年(1868)から翌年にかけ3度行幸され、当社を内侍所としました。

※内侍所とは、宮中において天照大神の御霊代として神鏡をまつってあるところ。代々女官(にょかん)の内侍が奉仕しているので内侍所と呼ばれた。

  

迫力のある狛犬  吽形            阿形

 

東海道に戻り南品川を進みます。

  

右側に「街道松の広場」 があります。     「品川宿の松」

説明板によれば、 「浜松宿の街道松  この松は、旧東海道品川宿 のシンボルとなる「街道松」として、東海道 が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約八十年の黒松です。
 斜めに傾いた幹は、 風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。
 松の名称は、 寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。
 また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。平成五年三月吉日 寄贈」

 

説明板によれば、

「南品川二丁目児童遊園の街道松

この松は、旧東海道品川宿 のシンボルとなる「街道松 」として東海道 が取り持つ縁で、十一番目の宿場があった静岡県三島市 教育委員会より品川区に寄贈されたものです。
今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育ていきたいと考えています。
また、約百五十メートル北の「街道松の広場 」には、浜松市 より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。  平成五三月吉日 寄贈」

 

街道右手奥に赤い山門の天妙国寺があります。

顕本法華宗・鳳凰山天妙国寺は、弘安8年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子である天目上人により創建されました。各時代、地域の有力者に保護され、15世紀半ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が17年の歳月をかけて七堂伽藍を建設。天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入る際に宿泊し、翌年10石の寺領を受けました。寺所蔵の『御三代成之覚』には、初代徳川家康が1回、二代徳川秀忠が2回、三代徳川家光が44回、将軍家の宿泊が記録されています。

境内には、浪花節中興の祖 桃中軒雲右衛門(1873~1916)、剣の達人 伊藤一刀斎(?一説に1560~1628) 等のお墓があります。  (しながわ観光協会HPより)

 

街道右側にに歴史を感じる建物がありました。

岡松畳と思ったら「畳松岡」でした。

(有)畳 松岡は1779(安永8)年の創業で、現在の店主は7代目という。建物は1915(大正4)に建てられた。二階が低い中二階の形式で、浜風を防ぐための工夫との事。 この建て方は都内では残っている建物はいくつもないと思われる貴重なものだそうです。

 

街道右側路地の奥に「諏訪神社」がありました。南品川の街並み  青物横丁商店街

  

 

「東海道南品川」交差点の先に品川寺(ほんせんじ)があります。

山門前の境内に銅造地蔵菩薩坐像があります。宝永5年(1708年)建立。

江戸六地蔵で唯一笠をかぶっていないのが特徴的。
像高は現存する江戸六地蔵の中で一番高く、275cm。神田の鋳物師 太田駿河守正義の作。東京都有形文化財。

 

  

亀の台座の石塔                    溺死者供養之塚

  

品川寺山門                         鐘楼

梵鐘は慶応3年(1867)パリ万国博覧会出品後行方不明となりましたが、スイス・ジュネーヴで発見され、60余年を経て昭和5年(1930)に里帰りしました。

  

品川区認定天然記念物 大銀杏樹齢600年            三猿の庚申塔大銀杏

品川寺の七福神

  
ゑびす神                             ⼤⿊天                            毘沙⾨天

   

弁財天                                    福禄寿神                         寿⽼神 

 

七福神とは、ゑびす神、⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天、福禄寿神、寿⽼神、布袋尊の七神です。彼らのうちゑびす神だけが⽇本古来の神様。⼤⿊天、毘沙⾨天、弁財天はインドの神様、福禄寿神、⽼寿神、布袋尊は中国の神様です。

布袋尊

  

 神変大菩薩(役の行者)        弁天堂

 

海照山普門院 品川寺は、真言宗醍醐派の別格本山で大同年間(806~10)開創と伝えられる品川区で最も古いお寺です。本尊は水月観音(非公開)。東海七福神の毘沙門天を祀っています。

品川寺本堂

 

街道に戻るとすぐ右側に海雲寺があります。

海雲寺は、鎌倉時代中期の建長3年(1251)のに海晏寺(臨済宗)の一塔頭として開かれました。慶長元年(1596)に曹洞宗に改められ独立。本堂には本尊十一面観音像を安置しています。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っています。

荒神堂に祀られている千躰荒神は江戸時代よりかまどの神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されています。

 

海雲寺山門                     明王堂

 

海雲寺本堂                          本堂内部

  

力石             えんの行者                   平蔵地蔵 (右)

平蔵地蔵 

平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしていましたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものだそうです。当初青物横丁にありましたが、1900年(明治33年)京急本線建設に伴い当寺に移されました。

街道の右手の路地に海晏寺の寺標が2基建っている。         

手前には「贈太政大臣岩倉公御墓参拝道」

奥には「鮫洲正観世音菩薩道」と刻まれています。

海晏寺墓地には岩倉具視、松平慶永(春嶽)、由利公正など幕末・明治期に活躍した人々の墓所があります。

前方の京急本線高架をくぐり15号線に出たのですが目の前にあるのに国道が渡れません。諦めて街道に戻ります。     

 

街道に戻り、都道420号線を渡り「十七番 八幡神社」標柱を右折。

鮫洲八幡神社 御祭神は誉田別尊・気長足姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊

 

標柱                   鮫洲八幡神社

 

三興マテリアルサプライ(株)前を右折すると前方に赤い鳥居が見えます。

 

仲町稲荷神社です。            左の公園に坂本龍馬像があります。

嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護に当たっていた。当地は、後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り開いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言える。

 

今来た道をまた戻り街道を江戸方面に少し進み「吉田商店」の角を曲がります。

その先の公園に 浜川砲台跡」があります。

現在の浜川中学校を中心とした地域は、かつて土佐藩の下屋敷があり、ペリー再来航後の安政初年に立会川河口左岸に砲台が設置されました。

新浜川公園に2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」は、この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものです。

品川龍馬会のメンバーを中心に地元の人々が資金を集めて造り、区に寄贈されました。 (しながわ観光協会HPより)

 

街道に戻り「 浜川橋」を渡ります。

 

説明板によれば、

浜川橋

 立会川(たいあいがわ)が海に注ぐこの辺りの地名に浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」(なみだばし)ともいいます。
 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の一六〇〇年頃と思われます。 現在の橋は昭和九年(1934)に架け替えられたものです。

涙橋の由来

 慶安四年(一六五一)、品川にお仕置場場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸幕府から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました」

 

「東海道歩き 日本橋から品川宿まで③」に続きます。