令和5年10月3日

昨夜23時31分に中津川駅前をJR高速バスで出発し東京駅に5:10到着しました。

ところが、田舎者の悲しさで、下りたバス停が東京駅の何処なのか、ビルに遮られて位置関係が分からない。東京駅広すぎる。

乗って来たバスの運転手に「日本橋」はどの方向か聞くと、この先の交差点を右に行けとの事。

まだ暗い東京の街を歩き始めました。

聞いたとおりに「呉服橋」交差点を右に進みましたが・・・・・・。

おかしい、右に東京駅八重洲中央口が見える。これはまずい?と思いながらさらに右方向に・・教えてくれた運転手さんには悪いがこのまま進んではダメだ。すぐに携帯のナビをチェックする・・・・扱い不慣れなナビでさらに迷路に爆  笑

さっきの右折した「呉服橋」交差点を直進すれば「日本橋」に行けた。

前途多難な出発となりました。(右の方に日本橋三丁目がありました。運転手さんの言う事は間違いではなかった。彼は日本橋という地域を教えてくれた。私の聞き方が悪かった様です)

 

「呉服橋」交差点

明るくなってきました。

30分程ウロウロしてやっと日本橋が見えて来ました。早朝の日本橋は車も人もすくなくとても静かです。

 

 

橋の中央に昭和47年、時の総理大臣佐藤栄作の書による「日本国道路元標」が埋め込まれています。

ここを今回のスタート地点とします。

橋の中央にあり日中は交通量が多く、とても危険で写真取りは出来ませんが、この時間なら大丈夫。

 

 

日本橋北詰の東側の「乙姫の広場」にある日本橋魚市場発祥の地碑」碑

説明板によれば

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする 「魚河岸」 がありました。ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいを見せていました。
 中でも日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるとも言われ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。説明板右側の像は乙姫様。

 

※佃島の漁師たちはなぜ特別な漁業権を与えられたか?

「本能寺の変」が起きた時、大阪「堺」にいた徳川家康は、急ぎ本拠地岡崎城に戻ろうと神崎川まで来たが、川を渡る舟が無い。どうする家康!その時、佃村の庄屋・森孫右衛門と漁民たちが漁船を提供しました。その後の1590年(天正18年)、国替えで、家康が江戸に入る際に、その恩を忘れず、特別な漁業権を与えて彼らを江戸に呼び寄せました。

受けた恩は一生忘れない。やはり天下人となる様な人は凄い。

 

麒麟像 街頭に明かりがともっています。             獅子像

  

日本橋

 

1630年に日本橋は架けられた。翌年、幕府直轄の主要5街道の起点と定められました。現在の橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋です。欄干の中央部分には美しい麒麟(きりん)像があり、日本橋のシンボルとなっています。国の重要文化財です。

 

 

高札場跡

 

東京市道路元標日本国道路元標(レプリカ)         

 

「滝の広場」の双十郎河岸碑

架橋100周年を迎えた日本橋に、船着場が完成し、その完成式に、坂田藤十郎と市川團十郎が参加し、記念碑セレモニーが開催されたことから、2人の十郎という名前が付けられた。

ここは江戸時代間口5間の小屋あり、罪人の晒し場でした。

晒し場といっても死体などを晒すのではなく、罪人を朝から夕刻まで並んで座らせるものです。 (中央区観光協会ブログより)

 

「名水白木屋の井戸」が「日本橋」交差点の手前の「コレド日本橋」横の路地にあるのですが工事中で入れません。

江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。
正徳元年(西暦一七一年)、白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。

翌二年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。
以来、付近の住民のみならす諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。

この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを平成十六年(西暦二〇〇四年)ここに移設再現したものです。東京都指定旧跡です。

 

東海道に戻ります。

日本橋三丁目交差点まで来ましたが、

交差点近くにある「ヤン・ヨーステン」の像が見つからない。

像というから胸像の様な物を想像していました。

近くの路地の料理屋さんで掃除をしていた人に聞いてみたが知らないと言う。

諦めて交差点を渡ろうとすると、中央分離帯にオランダ製の高さ7mの「平和の鐘」があり、その前にありました。

 

平和の鐘                  ヤン・ヨーステン記念碑  

「ヤン・ヨーステン記念碑」の下の説明プレートによれば

「日蘭修好380周年記念 ヤン・ヨーステン記念碑  二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また点球儀は“時”の象徴でもあります。
 左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。

ヤン・ヨーステン( ?~1623)八重洲の由来となったオランダ人(日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員です。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内1丁目付近)。その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。また、慶長14年(1609) 長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。

 

日本橋三丁目交差点を過ぎると左に工事中のビルがありその裏あたりに「歌川広重住居跡」があるそうなのでいってみます。

探せど探せどありません。行ったり来たり、諦めて東海道に戻ろうとしたところ、工事中のビルの白い安全鋼板に何か貼り付けてあります。

 

  さんざん探して、これだけかよ! ガッカリムキー

説明板によれば 「安藤広重住居跡  所在地 中央区京橋一-九
浮世絵師安藤(歌川)広重(一七九七~一八五八)が、嘉永二年(一八四九)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。
住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野屋敷の裏門外にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。   平成七年三月 中央区教育委員会」

 

気を取り直して東海道に戻ります。

京橋2丁目交差点を過ぎると右側に昭和8年に建てられた明治屋京橋ビル」があります。

建物の地階と地下鉄駅(銀座線京橋駅)とを連絡させて設計・施工した現存最古の民間ビルです。

イタリア・ルネサンス様式のデザインで、曾禰中條建築事務所(建築家の曾禰達蔵と中條精一郎が開設)が手掛けました。

こうした建物が東京大空襲や戦後の環境の変化を乗り越えて今日まで保存された意義は大きく、昭和史を語り継ぐ貴重な文化財です。

近代的なビル群の中で、ひときわ昭和初期のモダンさを放っている建物です。

 

明治屋を過ぎ「京橋」交差点まで来ると前方に首都高速道路の高架が見えます。

高架手前の左側に「石造りの親柱」があります。

  

京橋」は、江戸時代初期に大川(隅田川)から八丁堀(堀川)に続く船入堀として開削された京橋川に架かる橋でした。創架年は日本橋が架橋された慶長8年(1603)とほぼ同時期とされており、江戸市中の御入用橋(幕府公金による御用普請・維持管理の橋)の中でも、日本橋・京橋・新橋の三橋は擬宝珠(欄干柱頭部の宝珠形装飾)が付いた格式高い橋でした。

その先にコンクリート造りの「親柱とガス灯」があります。

右がコンクリート造りの親柱

台座に 「大正11年11月成」 と 「きようはし」 の銅板が埋められています。

左は煉瓦銀座之碑」

説明板によれば  「明治5年2月26日
銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数4,000戸と称せらる。東京府知事由利公正は、罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企創建築し、政府は国費を以って煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ、銀座通り商店街形成の濫觴(らんしょう)となりたり」

 

道路(国道15号線)の向かい側の交番横にもあります。説明板によれば

「京橋は、慶長8年(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和38年から40年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱2基と、石およびコンクリート造の親柱1基が残されています。
 このうち、二基の石造親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による 「京橋」 と 「きやうはし」 の橋名が彫られています。 また、石およびコンクリート造の親柱は、大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」 と 「きようはし」 の橋名と 「大正11年11月成」 の銅板プレートが付けられています。
 明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることが出来る貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。           (中央区教育委員会)」

 

交番から再び首都高速の高架下を戻ると昭和32年(1957)に建立の「江戸歌舞伎発祥之地」碑があります。碑の側面には猿若中村座之史跡と刻まれています。寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ちました。

 

すぐ隣には、「京橋大根河岸青物市場蹟」碑があります。

寛文4年(1664年)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。

冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたそうです。

 

東海道を進みます。

銀座1丁目交差点を過ぎると左側に「銀座発祥の地」碑が有ります。 

 

銀座1丁目交差点             説明板によれば

「慶長17年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ、明治2年遂に銀座を町名とする事に公示する。昭和30年4月1日建之 銀座通聨合会」

 

銀座4丁目の「木村屋」 パン屋さんとは思えない力強い看板の文字。

明治8(1875)年4月4日 明治天皇の水戸家への行幸の折、

侍従山岡鉄舟より酒種あんぱん(桜あんぱん)が献上され、ご試食の栄を賜り、天皇のお気に召し、皇后は特に愛され、引続き上納の栄を賜りました。「木村屋」の文字は慶応4年(1868)3月9日、府中宿で東征軍参謀・西郷隆盛に「江戸城明渡し」に絡めて15代将軍・慶喜の処遇条件を緩和するよう粘り強く折衝した幕臣・山岡鉄舟の書による扁額を再現したものです。

「桜あんぱん」を献上した4月4日を記念して、「あんぱんの日」となっています。

銀座4丁目交差点角の銀座三越デパート前のライオン像

昭和47年(1972)11月に「三越創業300年」を記念事業として、日本橋本店のライオン像に倣い富山県高岡市で鋳造されました。

屋上に三十三間掘から出土した地蔵尊が祀られているそうです。

パワースポットとして紹介されています

 

銀座8丁目交差点の手前角を左に入ると左側の銀座8丁目10番ビルの角に   芝口御門跡」があります。

説明板によれば

「ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年まで新橋が架かっていました。
 宝永7年(1710)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建策に基づき我が国の威光を顕示するため、この新橋の北詰めに、現に外神田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
 城門は橋の北詰めを石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。  (中央区教育委員会)」

 

東海道に戻り首都高速の下を通ると左にコンクリート造りの「新橋跡の親柱」があります。

説明柱によれば

新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和38年(1963年)川の埋め立て工事とともになくなりましたが、現存する「新橋親柱」は、大正14年(1925年)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで造られた橋の一部で、地域名の由来を今に残す貴重な遺構です 港区教育委員会」

 隣の植え込みの前に銀座柳の碑があり、碑の後ろに銀座の柳2世が植えられている。  

銀座の柳2世                    銀座柳の碑

「植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残りの うすみどり 吹けよ春風 紅傘日傘 今日もくるくる 人通」 作詞:西條八十、 作曲:中山晋平.

 

東海道(国道15号)を進んでJR東海道線のガードを抜けると交差点角に日比谷神社がある。

祭神は伊勢の神宮外宮の神様・豊受大神と穢れを祓う祓戸四柱大神をお祀りしています。

鎮座400年あまり前に創建された日比谷神社は、平成21年に当地へと遷座されました。

※祓戸四柱大神とは

瀬織津比賣大神(せおりつひめのおおかみ)速開都比賣大神(はやあきつひめのおおかみ)
気吹戸主大神(いぶきどぬしのおおかみ)
速佐須良比賣大神(はやさすらひめのおおかみ)

ビルに囲まれた赤い明神鳥居が輝いて見えました。

 

日比谷神社前を通り国道15号を進み「大門」交差点を右折し「芝大神宮」に向かいます。

「更科布屋」の角を右に入ります

後でホームページを調べて分かった事ですが、この蕎麦屋さんは、寛政三年(1791年)、そば打ち上手として知られた信州の反物商・布屋萬吉が江戸行商の折、領主・保科兵部少輔の助言でそば屋に転向したそうです。創業232年です。

私は「そば」は、「そば汁」で美味い、不味いを判断する方なのですが、このお店のホームページにこんなことが書かれていました。「そば汁は、醤油、鰹節のだし汁、砂糖、味醂のどれが入っているか分かってはいけません。どれが勝っても、どれが負けてもいけないというのが極意なのです。当店のそば汁は、4種類の材料が調和を持って完全に混ざり合い、渾然一体となった深みのある味を醸し出すものと自負致しております」    機会があれば食べてみたい。

 

高さ12.5mの石造りの大神明鳥居がみえます。「芝大神宮」です。

 ご祭神は天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)   

平安時代寛弘二年に創建、古くは芝神明と称したが明治五年正式に官許され芝大神宮に改称す。祭礼は期間の長さから(11日〜21日)「芝神明だらだら祭り」として知られ、生姜市、甘酒茶屋で有名、授与品には「千木筥(ばこ)」がある。これは東京の郷土玩具としても知られている。

江戸時代境内でおきた、め組鳶と角力とのいさかいは「め組の喧嘩」として再三歌舞伎で上演されました。 どちらが悪いわけでもなく、原因を生んだのは喧嘩がはじまったときに鳴っていた半鐘(はんしょう)」だとした粋な裁きがありました。罪を問われたのが火事を知らせるための鐘だったというお裁きでした。仲間を呼ぶのに火の見櫓(ひのみやぐら)の鐘まで鳴らした、その鐘が悪いという事で半鐘が島流しにされたそうです。さすが江戸っ子、とっても粋な計らいです。その半鐘も明治時代になってから芝大神宮に無事に戻され、だらだら祭の期間中は現在でも展示されています。

 

大鳥居の左側に「御神燈」、「社号標」、「生姜塚」などがあります。

「生姜塚」は、毎年9月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られています。別名生姜市・生姜まつり。

 

大鳥居右側の「貯金塚」           芝大神宮拝殿 

根気根気何事も根気と刻まれている

 

参拝される方は、皆さん必ず鳥居の前で一礼して階段を上って行かれました。

私の思っていた東京人のイメージが変わりました。

今日歩いてきた東京の街の江戸文化は高層ビルに囲まれ、沢山の自動車が走り、時には爆音を響かせ猛スピードで走る車があります。歩きながら「家康さん、あなたの江戸はこんな風に変わりましたよ」と呟いていました。参拝される方たちを見てほっとした気持ちになりました。日本固有の文化・習慣が大都会の中でも続いている事に安堵しました。

 

「更科布屋」さんまで戻り「増上寺」に向かいます。

「増上寺大門」

徳川将軍家の菩提寺である浄土宗大本山増上寺の正面入り口です。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所があります。

和宮は家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じました。
没後遺体は京都へ戻すよう沙汰がありましたが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られました。

増上寺三解脱門

東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和8年(1622年)に再建されました。3つの煩悩「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)から解き放たれる(解脱)門です。国の重要文化財で、高さ、間口とも約20mあります。

 

鐘楼堂                水盤舎

鐘楼堂 1633年(寛永10年)に創建された鐘楼堂は1945年(昭和20年)の  空襲で焼失。現在の鐘楼堂は戦後再建されてもの。

水盤舎 徳川家光の三男甲府宰相綱重の霊廟にあったものです。明治の解体、昭和の空襲を逃れこちらに移設されました。 

 増上寺大殿(本堂)                  空襲で焼失した後、1974(昭和49年)に再建。

安国殿 本尊は阿弥陀如来立像

 

光摂殿 天井絵が有名です。

 

  

グラント松                ブッシュ槇

グラント松  米国第18代大統領グラント将軍が明治12年に来日した際のお手植えの松       

ブッシュ槇  米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として、昭和57年に来日した際のお手植えのこうや槇                   

 

東海道に戻ります。

大門交差点の先左側のビルの前に浜松町由来碑あります。

 

浜松町由 来碑

元禄9年(1696)に遠州(静岡西部)・浜松出身の「権兵衛」なる人物が名主となってから、浜松町と名のるようになったそうです。

碑は文字が剥げて判読できませんでした。

 

金杉橋で首都高速高架下を流れる古川を渡ります。船が何艘か見えます。

 

金杉橋の名前の由来は「暗い夜に金色の光を発する杉に似た栴檀(センダン)の木が沖合からの目印となったため、漁師たちの願いにより金杉大明神が建立された」「金洲崎(かなすさき)という洲崎の名称が転訛した」、などの説があるそうです。

 

芝五丁目交差点の路地を左に入った所に「西郷南洲・勝海舟会見之地」碑があります

 

西郷南洲の孫吉之助の筆による丸い碑が建っています。

江戸城総攻撃を目前にした慶應4年3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされました。この重要な会見の地については諸説があるようですが、13日の予備的会談は高輪の薩摩屋敷、14日の最終会談はこの碑の建つ田町の蔵屋敷で行われたようです。この会談の陰の功労者が、銀座木村屋でふれた人物「山岡鉄舟」です。

東征軍が江戸に迫る中、幕府は江戸に火を放ってでも東征軍と戦い死守するという主戦論が根強いなか、勝海舟は山岡鉄舟を府中宿にいた西郷のもとに派遣します。単身敵陣に乗り込み西郷が提示した「慶喜の備前藩預け」を断固拒否し、粘り強い交渉により西郷の決意を揺るがし方針を転換させ幕府との再会談を約束し3月14日西郷・勝会談となり、無事江戸無血開城となりました。

「江戸城総攻撃を中止し、江戸が廃燼似帰すのを防いだ最大に功労者は西郷・勝の二人ですが、陰の功労者「山岡鉄舟」を忘れてはいけない。

西郷は「命もいらず,名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにし国家の大業は成し得られぬなり」と山岡鉄舟を高く評価し、維新後賊軍であった彼を明治天皇の侍従としました。

 

すぐ先に「田町駅西口交差点を過ぎると、その先に「札ノ辻」交差点があります。

交差点の向かい側の「リボンアンチークス」の前に「札ノ辻」説明板があります札の辻という名称の由来は、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたことによります。当時この場所からは江戸湾が眺められ、絶好の景色だったそうですが今はそんな風情は全くありません。ここの交差点は東京でも特に交通事故の多い交差点だそうです。

15号線をさらに進みます。  右側に「御田八幡神社」があります。

ご祭神は

誉田別尊(ほんだわけのみこと)

天児屋根命(あめのこやねのみこと)
武内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)   和銅二年(709)東国鎮護の神として鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられています。何度かの遷座を経て寛永五年(1628)現在地に鎮座しました。明治三十年御田八幡神社と改称。

さらに進むと15号線左側に歩道を遮るように高輪大木戸跡」があります。

  

説明板によれば

「高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸六大高札場の一つであった。
 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を留めていないので、東京に残された数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。 (東京都教育委員会)」

 

東海道歩き 日本橋から品川宿まで②に続きます。