上尾宿からの続きです。
庚申塔(不動尊の道標)のすぐ先で さいたま市に入ります。
すぐ先の右側に「河村屋」があります。
江戸文化文政期に地酒「養老の瀧」を取り扱っていて、その酒粕を利用して粕漬を創り出したのが「創作漬物 河村屋」の始まり。
さいたま市に入ります。 創作漬物 河村屋
500m程先に南方神社があります。
旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、明治40年近隣にあった9社を合祀し、現在の名前となりました。地元では「お諏訪さま」と呼ばれている。
10分程進むと宮原小学校の栴檀(センダン)の木があります。大宮市指定文化財天然記念物
南方神社(みなかたじんじゃ) 宮原小学校の栴檀の木
国道17号バイパスの下を通ると左側に加茂神社があります。
創建は不明。祭神は、五穀豊穫と子孫繁栄の神を意味する別雷命(わけいかずちのみこと)。
加茂神社 250m先の右に天神橋の 庚申塔
すぐ先に天神社があり、その先の「宮原駅入口」から300m程先の果物屋「花銀」さんの向い側に宝暦9年(1759)の橋供養塔があります。
天神社 橋供養塔
国道17号線と新幹線の高架下を通り100m程先に東大成(ひがしおおなり)の庚申塔 元禄十年(1697)の建立です。猿田彦大神が祀られています。
700m程先のロッテリア隣に南無三界萬霊塔 安永六年(1777)の銘と隣に供養塔があります。
JR線の地下道を通り100m程で氷川神社裏参道入口を左折します。
地下道入口 氷川神社 裏参道入口
氷川神社楼門 舞殿
拝殿 神池の橋
三の鳥居 二の鳥居
一の鳥居から再び中山道に戻りました。ケヤキ並木を歩きます。
2km程先に一本杉の仇討ち碑があります。
万延元年(1860年)常陸国鹿島津の官沖の船中で水戸藩士宮本佐一郎と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ、斬り合いとなり宮本佐一郎が命を落とした
息子鹿太郎は四年後丈久4年(1864年)1月28日の早朝、江戸へ向かう河西を針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、父の仇を討って本懐を遂げたと伝えられている
一の鳥居 一本杉の仇討ち碑
「大原陸橋(東)」交差点を横断した右側に「針ヶ谷の 庚申塔」があります。
1km近く先の北浦和歩道橋の右に廓信寺があります。本尊 木造阿弥陀如来座像は県指定有形文化財、仁王門、木造金剛力士立像は市指定有形文化財。浄土宗のお寺です
廓信寺寺標の隣に「紅赤の発祥地」説明板があります。これは明治31年(1898)秋
紅赤発見し関東一円に普及させた山田いちと甥の吉岡三喜蔵の功績案内です。
「針ヶ谷の 庚申塔」 廓信寺参 浄土宗のお寺
仁王門 「紅赤の発祥地」説明板
「北浦和駅東口」を通過し、浦和橋を渡ります。
500m程先に成就院入口があります。
さらに20m程先に浦和宿二・七市場跡。ここは 二と七のつく日に市が立った。
50mm程先の右側横断歩道の端に「野菜を売る女性の像」がある。
浦和宿本陣跡はこの奥の「仲町公園」となり「明治天皇行在所址」があります。
野菜を売る女性の像 明治天皇行在所址
1km程先に 調(つき)神社があります。およそ1800年前に創建された。
調とは、租・庸・調の調で、伊勢神宮へ納める貢物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わっている。鳥居の無い神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも特徴的です 。調の読みが「つき」で月つながりで「うさぎ」になった。鳥居のない神社です。
浦和宿道標 調神社
調神社の辺りが浦和宿のはずれです。
1km程先の坂の上の歩道橋の下に焼米坂の碑があります。
江戸時代、新名物やき米の看板を掲げ、中山道を通る旅人に、籾のまま炒った米をついて殻を取って売る茶店が数件あり、焼米坂の名もそこから付けられました。また、
坂を下り、住宅街を通ります。近くに小学校があるのに歩道が極端に狭い。
住宅街を通り「田辺医院」の先にある「信号交差点」を右折し「ツルヤ交通」前を通ります。
「六辻」交差点を直進し次の信号を左折します。300m程先の右側に熊野神社。
焼米坂の碑 熊野神社
高架道路の下を通るとすぐに一里塚の跡」日本橋から5里目と「弁財天」があります
隣にある石碑に彫られている由来よれば、 10分程進むと左側に宝蔵寺があります
この辺は湿地が多く水難から守るために 日蓮宗のお寺です。
水神である弁財天をお祀りしたそうです。
「錦町3丁目」信号交差点を横断します。 「交番」横に蕨宿の道標と木戸跡
中山道蕨宿景観建造物です。 歴史のある建物
地蔵の小径 壁に「薬」の看板のある建物
この「萬寿屋」さんは、昔は「茶店」で
今はせんべい屋さん。
10代続いている老舗だそうです。
歩道貼られたに中山道宿場絵のタイル 蕨宿本陣跡
蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えた。
慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ね、その役は子孫に受け継がれ明治維新まで続いた、
文久元年(1861)皇女和宮の御休息の場となり、明治元年(1868)同3年明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
向かいには岡田五郎兵衛の本陣があり、この2つが蕨宿の本陣でした。ここには、老中水野忠邦や松平加賀守なども宿泊した。
蕨市歴史民俗資料館 蕨町道路元標
蕨市歴史民俗資料館分館 江戸側の木戸址
中山道蕨宿道標 ここまでが蕨宿。 日本橋まで18kmの表示。
ここから国道17号に合流します。
「川岸3丁目」交差点を横断しローソンの手前を左折します。200m程で広い道に出ます。右折して200m程で菖蒲川を渡り右折し川沿いに100m程先を左折します。
菖蒲川の「かわぎしはし」 (有)稲葉運送さんの角を左折
T字路を左折します。(戸田渡船場跡を見て再びここに戻ります)
戸田橋(東)交差点手前に水神社があります。
水神社 正面の「水神宮」の碑には寛政八年(1769)の銘があります。
境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。古くは荒川の端にあったものです。
T字路を左折します。 水神社
「戸田橋(東)」を右折し歩道を登ります。 中山道戸田渡船場跡と説明板
戸田の渡し説明板によれば、
「この荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道 戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
やがて、明治8年1875)5月には木橋の戸田橋がついに完成、「戸田の渡し」が廃止となりました」 <戸田市教育委員会の案内より抜粋>
説明板の先は行き止まりの為先程のT字路を通過して
荒川の土手への階段を登ります。 荒川に架かる「戸田橋」にでました。
埼玉県から東京都板橋区に入ります。
橋を渡った先に歩道が無いため交番横の階段を下り、17号線の側道を進み、
「舟渡」交差点に合流します。
東京都板橋区に入ります。 石段を下ります。
日本橋まで16kmです。 新河岸川の「志村橋」を渡りました。
「志村坂下」交差点の先で国道17号から左に曲がり中山道に入ります。
「志村3丁目」交差点で再び国道17号に合流します。
「志村3丁目」交差点 日本橋まで14km
歩道橋左下にお地蔵様があります。 向い側の中山道に渡りたいけど遠くの横
断歩道まで行って横断し戻ります。
都営三田線のガード下を通ります。 「すだじい」の木(板橋区の保存樹木)
ガードを抜けたすぐ左が清水坂公園。昔は清水が流れ出ていたそうです。
清水坂の碑と説明板 日本橋を旅立ち 旧中山道で最初の難所。この坂は急で,途中大きく曲がっていて,街道で唯一富士を右手に一望できる名所であった と言われています。
清水坂を上った所に道標と庚申塔があります。中山道から霊山である富士山や神奈川の大山に向かう道が分岐する場所でした。
清水坂の碑と説明板 道標と庚申塔
この先「志村坂上」で17号線に合流します。
次の「志村一里塚」交差点に巨大な一里塚がありました。
開発の進んだ東京にこんな立派な一里塚が残っていました。感激!!
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。
志村一里塚(北塚) 志村一里塚(南塚)
一里塚の隣に齋藤商店があります。明治22年(1889)に当地で原木商として創業しました。建物は、昭和8年(1933)の中山道(現国道17号線)拡張工事にともなって新築されたものです。区の有形文化財に指定されています。
600m程先の左側に宝勝山蓮光寺 南蔵院があります。
真言宗 智山派のお寺 ご本尊は十一面観音菩薩。
一里塚の隣にある齋藤商店 宝勝山蓮光寺 南蔵院
南蔵院本堂 国道17号線から清水町交番の左側を進みます
500m程先で 環七通りの下を通りさらに200m程先に「縁切榎」があります。
江戸時代ここの向い側に旗本の屋敷があり庭に榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。文久元年(1861)の和宮下向の際には榎を避けるための迂回路がつくられた。
近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
環七通りの下を通る 縁切榎
中山道板橋宿上宿の道標 交番の手前にあります。 交番隣のモミュメント
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。
自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替えられたものです。
板橋 石神井川
橋を渡ると「中宿」です 「ライフ仲町店」の交差点を右折します。
右側に板橋宿中宿飯田脇本陣跡の案内板があります。
ライフ仲町店の隣に板橋宿本陣跡(飯田新左衛門家)があります。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていた。建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しました。
ここは「大久保大和」の名で新政府軍に出頭した近藤勇が、元新選組隊士(御陵衛士)の加納鷲雄・清原清に正体を見破られた場所です。
遍照寺 真言宗智山派のお寺です。山号は大日山。成田山新勝寺末寺。
境内に祀られる寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型がある。
板橋宿本陣跡 遍照寺
「板五米店」 土蔵造の建物(大正3年築)。
近世町家の雰囲気に、レンガ壁で洋風の意匠を加味した建築が、近代の息吹を感じさせます。現在は「おむすびカフェ」として営業しています。
「板橋3丁目縁宿広場」の向かい側、「えんじゅく整骨院」の角を左折し50m程の所に「板橋宿平尾脇本陣豊田家」跡があります。「
「板五米店」 「板橋宿平尾脇本陣豊田家」跡
中山道に戻ります。
観明寺 室町時代の創建と伝わる真言宗寺院です。本尊の聖観音立像は12世紀頃の作
参道入口左(寺標の後ろ)にある庚申塔は、寛文元年(1661)に造られたもので、
青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古のもので、区の指定有形文化財になっています。
観明寺 国道17号と首都高の下を通ります。
平尾交番の方に進みます。
平尾追分 中山道最初の宿場・板橋宿は「仲宿」「上宿」「平尾宿」に分かれており、平尾宿には中山道とその脇街道である川越街道との分岐点があった。現在、国道17号と首都高が通る平尾交差点の北側(板橋宿側)付近にあたる。写真では右に続く道が中山道の続きで、高架に沿って左手に向かうのが川越街道です。
平尾追分 近藤勇の墓
埼京線の踏切を渡り1つ目の信号を右折し30m程進んだ所に「近藤勇」の墓があるので寄り道しました。
慶応4年(1868)、流山で捕らえられた新選組局長の近藤勇は、当時板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に送られ、その後処刑されました。近藤勇の墓は、新選組隊士・永倉新八が発起人となり作られました。函館で戦死した副長・土方歳三をはじめ百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。
中山道に戻ります。
延命地蔵 約190年前(文政年間)の建之。永い旅路につかれ当地で死亡した人馬の霊を供養すべく建之されました。地元の人達が毎年8月24日を命日とし全人類の平和と幸福を願い供養して居るそうです。
延命地蔵 都電荒川線の踏切を渡ります。
巣鴨地蔵通商店街 巣鴨の庚申塚
この庚申塚は、明暦3年(1657)の江戸の大火後に造られました
巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていました。
高岩寺 17号線と合流します。
高岩寺本尊の延命地蔵尊は、とげぬき地蔵として有名です
江戸時代、ある武士の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復した。これが寺で配布している「御影」の始まりです。
その後、ある女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。
巣鴨橋を渡ります。 徳川慶喜巣鴨屋敷跡地
1867年(慶応3年)、明治天皇に政権返上を奏上した徳川慶喜は、翌年、寛永寺で謹慎した後、水戸そして駿府で謹慎生活を送ります。1869年(明治2年)、謹慎は解かれたが、駿府(静岡)での生活を続け、1897年(明治30年)巣鴨の地に屋敷を構えた。。
大圓寺 金龍山大円寺、曹洞宗の寺院です。 本尊は聖観世音菩薩。
国指定史跡の幕末の砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)の墓があります。
境内にほうろく地蔵が祀られています。
追分一里塚跡 このT字路の左角あたりに一里塚があったそうです。今は説明板があるのみ。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。
大圓寺 追分一里塚跡
このT字路を右折します。
東京大学の煉瓦塀沿いに進みます。 東大赤門
東京大学は元「加賀前田藩上屋敷」のあった跡で広大な敷地です。
「赤門」は文政10年(1827)に第11代将軍徳川家斉の娘溶姫(ようひめ)が、前田家に嫁いだときに建立された朱塗の御守殿門であり、重要文化財に指定されています。
湯島聖堂 1690年、上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟を五代将軍・綱吉がこの地へ移したのがはじまり。1797年には、西隣に幕府直轄の昌平坂学問所が開設されました。現在の建物は、関東大震災後の1935年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。
湯島聖堂 神田明神
神田明神の歴史は古く、天平2年(730)創建。江戸の総鎮守。
江戸三代祭りといわれる神田祭でも有名です。(日枝神社の山王祭、富岡八幡宮「深川八幡祭り」) 平将門を祭神の一つとしていることから、神田明神を崇敬する者は、将門討伐に深い関係のある成田山新勝寺へは参拝してはならないと言われています。
神田神社の山門 「神田明神下」交差点を右折しました。
昌平橋を渡り「神田郵便局前」を左折。 「須田町」横断し神田駅東口を通過
日本橋三越本店のライオン像
前身は「三井越後屋」という呉服商で有名でした。当時の店は江戸でも一、二を争う人気店でもしられ、ここで着物を買う事は江戸庶民の憧れでした。
ライオン像 「日本橋」の文字が段々と大きく見える
東京市道路元標(照明灯) 日本国道路元標
国の重要文化財です。 (本物は道路中央にあります)
左側の親柱の上に獅子像(阿像) 右側の親柱の上に獅子像(吽像)
南側(東京駅側)の獅子像 北側(三越側)の獅子像
手にしているのは東京都の紋章。明治22年(1889)に、東京市の紋章として制定されたものです。
柱の植物は上の方が松、下の方が榎です。その理由は、江戸時代の五街道には、松並木と一里塚が設けられ、一里塚には榎が植えられていたからです。
向かい側の歩道に阿形の獅子が有ったのですが気付かず撮影できませんでした。
現在の橋は明治44(1911)年に完成したもので、平成11(1999)年に国の重要文化財に指定されています。
橋の中央部にある麒麟像
キリンビールの麒麟には羽が無いのに日本橋の麒麟には、羽があります。
日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、羽を付けたといわれています。
橋の中央部にある麒麟像 センターラインの黒く見える物が日本国道路元標
日本橋の下を流れる日本橋川は隅田川に注いでいます。
日本橋由来記の碑
現在の日本橋は明治47年に完成したルネッサンス風の近代的な橋として照明灯や道路元標と共に重要文化財に指定されています。
橋の中央にあるプレート状の道路元標は、1967年に都電が撤去され都電の照明灯で架線の支柱だった道路元標は不要になって 撤去され1972年になってプレート状の現在のものが設置された。そしてその名も「日本国道路元標」となりました。日本橋の橋銘は十五代将軍徳川慶喜の筆になるものです。また「日本国道路元標」は佐藤栄作総理の筆になるものです。
2022年2月28日京都三条大橋に向け一歩を踏み出して10月15日、日本橋に到着出来ました。
地図上の距離は530kmですが、道に迷いあちこち歩き回り、実際は530km以上の距離になったと思います。歩数も1,107,890歩になりました。
「中山道歩き」で色々と片付けなければいけない仕事がたまってしまいました。
そちらを処理し落ち着いてから次は東海道を日本橋から三条大橋まで歩きたいと思います。