「中山道歩き 上州・武州路を歩く 松井田宿から高崎宿まで」続きです。 

                 

中山道を進み上信電鉄の踏切を渡ると左に高崎アリーナがあります。

 

上信電鉄の踏切              左に高崎アリーナ

 

上越新幹線の下を通ります。「新後関町」交差点を直進し17号バイパス下を通過。

 

 

倉賀野宿まで2.3kmの表示      粕沢橋を渡りすぐ左に入ります。

 

 

「倉賀野町西」に出て県道に合流。      左側通行碑

 

安楽寺山門                 山門横の馬頭観音

 

安楽寺本堂               安楽寺異形板碑

 この板碑は、鎌倉時代末から南北朝時代前半の造立と推定されている。
 

 

境内の勝軍地蔵尊(甲冑を付けた地蔵尊)   境内の二十二夜堂(観音堂)

 

中山道に戻ります。

 

倉賀野神社入口               倉賀野神社

 

 

倉賀野神社拝殿

拝殿は、彫工北村家の三代喜代松の作品です。

 

倉賀野神社を出て「上町」信号を過ぎた所に高札場・上問屋場跡があります。

 

高札場・上問屋場跡

 

  

 脇本陣跡碑のある家                                             脇本陣跡

  

向かい側に脇本陣跡碑のある旧家                            脇本陣跡         

 

「倉賀野駅入口」信号交差点に倉賀野仲町山車倉があります。そこに「中町御傳馬人馬継立場跡碑」があります

 

 

ドラッグストアの駐車場に倉賀野宿本陣跡碑があります。

倉賀野の本陣は一軒で、元和年間(1615~23)から一貫して勅使河原家が勤めた。

同じ駐車場脇の郵便ポストの隣に擬宝珠が付いた中山道倉賀野宿碑、男女双体道祖神、常夜灯があります。

 

倉賀野宿本陣跡           中山道倉賀野宿碑、男女双体道祖神、常夜灯

 

「中町」信号交差点から100m程先の左側に「太鼓橋」があります。               今は橋の下は道路になっています。 五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり板橋で度々の大水で押し流された。

享和三年(一八〇三)、アーチ橋に架け替えられました。
 

 

太鼓橋             そのすぐ先の左側に倉賀野古商家おもてなし館

 

「下町西」交差点に「小栗上野介忠順と埋蔵金ゆかりの地」碑があります。

  都市伝説に因んで観光用に建てたもの?

100m程先の左側の屋敷門脇皇太子殿下御降誕記念碑があります。

昭和43年に皇太子時代の天皇陛下がここを訪れた。

 

 

50m程先の右側に「たかさき都市景観大賞」にもなった「大山邸」があります。

その先の「下町」交差点に閻魔堂、追分常夜灯、道標があります。

常夜灯は、1814年(文化11)建立。道標には「従是 右江戸道 左日光道」と刻まれています。「日光例幣使街道」との追分です。

 

大山邸                 「日光例幣使街道」との追分

 

 常夜灯には寄進者の名が刻まれ、中には相撲関係者も多く、雷電為右衛門鬼面山与五衛門などや歌舞伎の松本幸四郎、市川団十郎などです。

追分の中山道側には閻魔堂があります。

 

追分常夜灯               閻魔堂

 

閻魔堂あたりまでが倉賀野宿です。

 

JR線の上を高架で通り、国道17号線「新柳瀬橋北」信号を直進し高圧線鉄塔が見えたら右に入ります。

 

 

「岩鼻町」信号を右折し烏川の柳瀬橋を渡ります。

橋を渡り左のサイクリングロードに入ります。

 

北向子育観音               烏川の柳瀬橋

 

 お伊勢の森           関越道のトンネルをくぐり中山道に戻ります。

 

200程先に沢山の石塔群が祀られている「信迎庵」があります。

100m程先に川端家住宅があります。 国登録の文化財

  

信迎庵                 川端家住宅

 

さらに100m程先に伊勢島神社があります。中山道に点在していた庚申塔、道祖神、二十二夜塔などある。

500m程先で温井川に架かる「弁天橋」を渡ります。

 

 

伊勢島神社  祭神は天照大神        弁天橋 

 

弁天橋を渡った左側にスリーデーマーチ発祥の地碑。《歩け歩け運動》はここから全国に広まりました。

向かい側の道下に「弁財天」があり、境内に芭蕉の句碑と道祖神があります。

掬(むすぶ より はや歯にひびく 泉かな

掬は「すくう」と読むそうです。

 

スリーデーマーチ発祥の地碑         弁財天

 

 
100m程先に新町宿小林本陣跡    すぐ先に宝勝寺入口 真言宗豊山派の寺院 

 

「新町駅入口」信号交差点の50m程手前に史跡旅館「高瀬屋」跡があります。

小林一茶が常夜灯の寄付を強要されたという旅籠です。その時の句が「手枕や 小言いうても 来る蛍

「新町駅入口」信号交差点を過ぎると左側に明治天皇新町行在所があります。高崎市指定文化財です。

明治天皇が、明治11年(1878)北陸・東海地域の御巡幸際に9月2日新町に宿泊された施設がこの行在所です。

入口左に「新町道路元標」があります。

 

史跡旅館「高瀬屋」跡           明治天皇新町行在所          

 

すぐ先の右側、洋菓子屋さんの駐車場に高札場跡の説明板があります。

新町郵便局を過ぎると左側に浄泉寺があります。

安土桃山時代の天正2年(1574)に開山したと伝わる浄土宗の寺院です。

境内の推定樹齢400年の大銀杏は、高崎市指定天然記念物です

 

高札場跡の説明板             浄泉寺

 

浄泉寺を過ぎるとすぐに左に専福寺があります。寺標の前に「田口文五郎信武墓所」と刻まれた柱があり側面に「文政九年(一八二六年)新町に生れ江戸の和算(数学)の権威者白石長忠門人となり多くの子弟を育てた」と刻まれています。

専福寺は真言宗智山派の寺院。創建は江戸時代初期の万治3年(1660)境内には、推定樹齢300年の"くす"や"かや"の大木があります。

隣に諏訪神社があります。

 

専福寺                 諏訪神社

200m程先に 

 

八坂神社                 境内に芭蕉の句碑があります。

傘(からかさ)に 押し分け見たる 柳かな

 

八坂神社を過ぎ国道17号線に合流します。合流ヶ所に「見通し灯籠」があります。

小林一茶が寄付を強要されたという灯籠です。

ここが新町宿のはずれです。

神流川橋袂に新町宿側の常夜灯(見通し灯籠)モチーフがあります。

 

 見通し灯籠                 見通し灯籠モチーフ

 

本庄宿側の常夜灯のモチーフ 上州(上野国)から武州(武蔵国)に入りました。

「勅使河原(北)」信号交差点を斜め左へ進みます。

 

 

すぐ先の左側に勝場一里塚跡碑 (〇の所) すぐ先の畑の中に庚申塔があります 

 

 勝場一里塚跡碑              庚申塔

 

賀美小学校の敷地の中に賀美村道路元標 200m程先に殉国慰霊之碑
 

     賀美村道路元標        殉国慰霊之碑

 

200m程先に畑時能(はたときよし)の首塚があります。

南北朝時代・南朝方の武将。新田義貞四天王の一人。

「伊知地の戦」で死亡し、重臣児玉五郎左衛門光信は、主君の首を携え敵陣を突破し、その後首塚に葬った。

すぐ先に陽雲寺入口 があります。甲斐武田家滅亡後、武田信玄の正室が仏門に入ったというエピソードが残る寺

 

畑時能(はたときよし)の首塚        陽雲寺入口                                               

      

首塚を過ぎると金窪城址の標識があります。

「神流川の戦い」で滝川一益により攻められ落城。現在城址は「金窪城址公園」として整備されていますが、遺構はわずかに土塁が残るのみです。

中山道に戻ります。100m程先の左に八幡宮があります。

 
金窪城址                八幡宮

 

しばらく歩くと左に庚申塔があります。国道17号線に合流する200m程手前に

薬師堂があり庚申塔や二十三夜塔があります。

 

庚申塔                 薬師堂  

 

国道17号線「神保原(北)」信号交差点を横断し神保原一丁目」信号交差点を左折します

 

国道17号線「神保原(北)」上矢印      神保原一丁目」 左矢印

 

 

民家の庭先に庚申塔              再び庚申塔

 

 

神保原村道路元標              楠森橋を渡ります。

 

500m程先に浅間山古墳  上里町指定文化財です。古墳石室から土器や矢じり等が出土しています。

 

現在は稲荷神社になっています。 浅間古墳から30分程歩きY字路をに入ります。      

 

5分程歩くと巨大な歩道橋を渡り右折しすぐ「千代田3丁目」信号を左折します。

金鑽神社(かなさなじんじゃ)があります。

御室山を神体山として祀っています。日本武尊が東征の際に、身に着けていた火をつける道具を御室山(御室ヶ獄)に納めたことが始まりとされ、天照大御神や須佐之男命などを祀っています。 

 

金鑽神社手前の歩道橋             金鑽神社     

 

 

隣に真言宗智山派大本山高尾山奉安所入口。  200m程先の左側に旧小森商店  

                      (酒問屋)跡

さらに300m程先に旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

明治29年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建ての煉瓦造の倉庫です。

本庄宿は幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治16年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。

この建物は、明治27年に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられました。

「中央1丁目」信号交差点の旧本庄仲町郵便局前に「本庄宿の標柱」があります。

       

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫                 本庄宿の標柱

 

「中央一丁目」交差点から100m程先の東和銀行本庄支店の辺りに内田本陣 があったそうですが、それらしき案内はありません。

埼玉りそな銀行の辺りにも田村本陣があったそうです。

「中山道交差点」信号交差点の辺りが本庄宿のはずれです。

 

埼玉りそな銀行             「中山道交差点」信号

 

 

三界萬霊塔 珍しい供養塔です      新泉橋を渡ります。          

 

300m程先に立派な門構え(長屋門)の歯医者さんがありました。

歯医者さんを過ぎ500m程進むと子育て地蔵と庚申塔。             

                                   

     

 

「牧西」信号交差点を通過。            火の見櫓ありました。

 

火の見櫓の隣に八幡大神社があります。

建久年間(1195)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。
 

八幡大神社                庚申塔
 

 

深谷宿・旧中山道方面の標識に従い右折します 畑作地帯を黙々と歩きます。

 

                              

 滝岡橋を渡ります。           滝岡橋から見た小山川

 

 滝岡橋を渡ると稲垣一等卒殉烈記念碑があります。

大正時代に軍事演習で溺れた少尉を助けようとして濁流にのみこまれた稲垣一等兵の行為をたたえるため建立されました。

「岡(西)」信号交差点を横断し坂を上ります。 

坂を上ると「馬頭観音」と「中山道古道について」説明石板があります。         

     

        

300m程先に「岡部消防組 第一部」 古い建築物です。

200m程先に島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)創立時期は不明。

祭神は、瓊々杵尊(ニニギノミコト)・木之花咲夜姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)。

 

 

 

耕地整理記念碑           芭蕉の句碑 逆光になって良く分からないが

                    「原中や 物にもつかず なく雲雀

 

 

庭先の馬頭観音              「普済寺」信号交差点を横断します。                     

 

 

普済寺の入口                  普済寺参道の馬頭観音

 

普済寺の入口から500m程先に岡部神社参道があります。 

岡部神社は、武蔵国榛沢郡岡部の武将岡部忠澄の祈願所と伝えられる社。

1184年(寿永3年)、一ノ谷の戦いで平清盛の異母弟平忠度を討ち取る活躍をした忠澄は、戦功に感謝して杉を植栽した。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉丹尊(いざなみのみこと)。

岡部北」交差点右に高島秋帆 幽因地入口があります。砲術家の高島秋帆が幽囚されていた地。東京の高島平は砲術の訓練をした場所です。

 

岡部神社参道                      

「岡部北」交差点のすぐ先に源勝院入口があります。源勝院(曹洞宗)は、岡部の地を領地とした安部家の菩提寺。

国道17号線の「岡部南」交差点の手前左側に曹洞宗の寺院の正明寺があります。

 

源勝院入口                正明寺参道

 

「岡部南」交差点から200m程先の「アポロ石油」ガソリンスタンドの手前を左の中山道に入ります。

国道17号線と交差する「宿根」信号交差点の手前にに瀧宮神社がある。

滝宮神社は明応5年(1496年)6月貯水池を掘ったところ、現在のこの場所より、まさに滝のごとく水が湧き出てきたので、神様のお恵みお導きとして、社殿を建て滝宮神社と奉称してお祀りした。

  

滝宮神社               「宿根」信号交差点を斜め右に進みます。

 

「宿根」信号交差点から400m程先の交差点手前に左側に萱場稲荷神社があります

さらに400m程先に清心寺入口があります。源平一ノ谷合戦で平忠度(たいらの・ただのり、1144〜1184)を討取った岡部六弥太忠澄(おかべ・ろくやた・ただずみ、生誕不詳〜1197)が戦後忠度の霊を弔ったという供養塔があります。  

  

萱場稲荷神社                                            清心寺入口   浄土宗のお寺                                                             

 清心寺入口から200数十m先に深谷宿西側の常夜灯があります。

天保11年(1840)の建立です。透かしの「三」はこの常夜燈を立てた富士講の講印。宿場の発展を願い、天下泰平、国土安眠、五穀豊穣と刻まれている。

向い側に呑龍院の赤い鐘楼があります。 

 

深谷宿西側の常夜灯           呑龍院赤い鐘楼

 

  
   呑龍院の 石仏と南無阿弥陀仏碑の祠             地蔵尊

 

 

       醸造元(菊泉)町中にこんな高い煙突がある

 

  

関根辨之助商店             糸屋製菓店  最中が有名だそうです。

 

   

ここにも煙突があります。酒醸造元七ツ桜     「七ツ桜」 の看板

平成16年に廃業しました。

 

深谷宿飯島本陣跡 宝暦2年(1752)より明治3年(1871)ま で本陣職を務めた。現在は飯島印刷所です。

                        

深谷宿本陣跡               酒醸造元藤橋

 

  

伊勢屋  おはぎ だんご屋さん     金物屋  商品の陳列方法が懐かしい。

 

行人橋 木橋が主流だった江戸時代には珍しく石橋だった。                         

行人という僧が、唐沢川の洪水でたびたび橋が流されるのを嘆き、もらい集めた浄財で橋を架け、以来、この橋は「行人橋」 と呼ばれています。

大谷邸 昭和恐慌の時、時の深谷町長故大谷藤豊氏がお助け普請で建てた木像2階建て洋館付き和洋折衷住宅。国登録有形文化財です

 

行人橋                 大谷邸

 

大谷邸から150m程先に深谷宿東側の常夜燈があります。

市指定文化財の旧深谷宿常夜燈は、深谷宿の西と東の入口に旅人のための目印として造られた。

300m程先で17号線との交差点を歩道橋でわたります。

 

深谷宿東側の常夜燈           国道17号線の歩道橋を渡っています。

      

歩道橋を渡ると「見返りの松」があります。

宿場の外れにあるこの見返りの松は、宿に泊まった江戸への旅人が、一夜の間柄となった女との別れを惜しんだ場所だったことから名付けられた。残念ながら平成18年(2006)2月に枯死し、伐採されました。

見返りの松

次は「中山道歩き 上州・武州路を歩く 熊谷宿から大宮宿まで」です。