「中山道歩き 上州・武州路を歩く 坂本宿から松井田宿まで」の続きです。
「西松井田」信号交差点から1km程先に松井田郵便局があります。
松井田郵便局から100m程先を左へ入ります。前方に八幡宮の扁額が掛かる石鳥居があります。
創建年等の詳細は不詳ですが鎌倉時代初期の建久8年(1197)に源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)が参拝に訪れたとの記録がある古社です。群馬県指定重要文化財
祭神は誉田別命、息長足姫命、玉依姫命。
八幡宮の扁額が掛かる石鳥居 境内の庚申塔
中山道に戻ると「高橋商店」の前の街頭柱に上木戸跡地の案内板があります。
それによると10m程先の歩道橋の辺りが上木戸跡地です。
上木戸跡地の案内板 10程先の歩道橋の柱の辺りが上木戸跡地です
歩道橋の手前を左に進むと不動寺があります。
仁王門は、江戸時代初期の改築です。左右に仏様をお守りする阿吽の金剛力士像。
仁王門の左手前に三基の異形板碑は、観応三年(1352)などの文字が刻まれている石塔婆である。仁王門も石塔婆も群馬県の重要文化財です。
不動寺の県指定重要文化財仁王門 不動寺の県指定重要文化財の石塔婆
歩道橋にに戻るとすぐ先に「うまかんべえ」の看板を出しているお店の辺りに高札場があったそうです。
歩道橋の近くに高札場跡 「仲町」信号交差点の手前に休憩所
「仲町」信号交差点左角に松井田町道路原標があり、交差点の先右側には松井田宿 金井本陣(字仲町藤右ヱ門屋敷)跡があります。現在は群馬県信用組です。
松井田町道路原標 松井田宿 金井本陣跡
「山城屋酒店」この辺りに外郎(ういろう) 崇徳寺入口 臨済宗のお寺です。
を売る店があったそうです。
※外郎は頭痛、胃腸の漢方薬です。
脇本陣(字下町徳衛門屋敷)跡 道路反対側に「かんべや」
二階の看板に妙義山登山口と書かれてある
「下町」信号交差点右側角の民家のフェンスに程先の下木戸跡地の説明板があります。
ここまでが松井田宿です。
1km程先で松井田宿から続く県道を右に入ります。
国道18号線に合流する手前の左側に供養塔や石祠群があります。
合流すると左のリホーム店の敷地に酒盛城跡の説明板があります。
武田信玄・勝頼が松井田城を攻略した際にこの砦で酒盛りをしたと伝わります。
その先の「旧中山道入口」交差点の右に安中市指定重要文化財郷原の妙義道常夜燈の標柱などがあります。常夜灯の台石には「是より妙義道」と刻まれいます。
酒盛城跡 郷原の妙義道常夜燈、道祖神など
交差点から400m程先の右側に道祖神があります。さらに300m程先に道祖神、百番供養碑、木柱の道標「松井田宿2.9km」があります。
すぐ先に自性寺があります。真言宗豊山派のお寺です。隣に日枝神社があります。
自性寺 日枝神社
100m程先の左の民家の庭先に馬頭観音 すこし先の左側に「つるべ井戸」
「つるべ井戸」から500m程先に道祖神 さらに500m程先に八本木戸長役場跡
※戸長役場 明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。
400m程先に八本木地蔵堂があります。
地蔵堂のご本尊延命地蔵菩薩像は木像寄木造りで、総高1.15m、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。霊験あらたかな秘仏として100年に一度御開帳される。
境内に寛永二年(1625)造立の安中最古の庚申石祠 があります。
八本木地蔵堂 境内の聖徳太子孝養の像
坂を上ると右側に八本木立場茶屋跡 中学校の前を通ります。
八本木立場茶屋跡から700m程先に二階建の蔵があります。
二階建の蔵から150程先の交差点の右角に原市町道路原標があります。
二階建の蔵 原市町道路原標
原市町道路原標から100m程先に明治天皇原市御小休所碑があります。
明治11年(1878)北陸東海巡幸の際ここで御小休所となりました。
同じ敷地に原市高札場跡があります。
高札場跡から300m程先に原市村戸長役場跡があります。
原市村戸長役場跡 立派な構えの旧家があります。
200m程先に天然記念物安中原市杉並木の標柱があります。
杉並木は江戸期には700本余りの杉並木があったが残された杉は立派で、国の天然記念物に指定され現在は10数本を残すのみです。
この先の「ホテルルートイン安中」の前に道祖神があり、さらに18号線を横断し 500m程進むと右側にまた天然記念物安中原市杉並木の標柱があります。
道祖神 天然記念物安中原市杉並木の標柱。
天然記念物安中原市杉並木の標柱の先に新島襄旧宅入口の碑と道祖神があります。
ここを右に入ります。 新島襄旧宅
京都に同志社英学校を設立し、キリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23(1890)年1月23日に神奈川県大磯で亡くなりました。
(安中市HPより)
中山道に戻り5分程進んだ左側に常夜灯 があり奥に愛宕神社があります。
さらに5分程進むと右側に竜昌寺の案内 があります。
50m程先の右側に 便覧舎址があります。
湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。民間人が創設した最初の図書館です。
その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。(安中市HPより)
便覧舎址の向かい側に醤油専門店の有田屋があります。
有田屋は江戸末期・天保3年(1832)に味噌・醤油醸造元として創業。
現在、醤油も大量生産、速醸の時代であるが、有田屋は昔ながらの天然醸造法で、じっくり発酵・熟成させる本物の醤油造りをかたくなに守り続けている」
便覧舎址 有田屋の蔵 隣りに店舗があります。
300m程先の左側に蔵造のサカウエ薬局 があります。
その先右側に安楽寺山門があります。天台宗のお寺です。
サカウエ薬局 楽寺山門
安楽寺の斜め前に長徳寺があります。時宗のお寺。
長徳寺を過ぎて信号交差点を左折し、その先の信号交差点を左折し安中藩武家長屋へ
残念、工事中で閉館していました。
長徳寺 安中藩武家長屋
交差点に戻ると安中市指定重要文化財の旧安中藩郡奉行役宅があります。
郡奉行とは安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には3人の郡奉行とその配下に4人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の治安・裁判などの仕事をしていました。 安中市指定重要文化財
旧安中藩郡奉行役宅
中山道に戻らずに交差点を直進すると左に安中教会があります。
群馬県で最初に建てられた教会(設立1878)
この建物は新島襄没後30年記念に建てられた新島襄記念堂で大正8年(1919)竣工の石造り。
その先に旧碓氷郡役所があります。
大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となりました。
現在残っているのは碓氷郡役所の建物だけです。
平成8年度から地域文化財保全事業により、改修、保全し公開されています。
新島襄記念堂 旧碓氷郡役所
旧碓氷郡役所の前で右折して中山道に戻ります。
右折して下り坂の途中に「使者場入口」の立札があります。
安中城の城門は、東門、大手門、町口門、坂口門、中門、西門などがありました。「使者場入口」は町口門のことです。
お城は、明治六年の廃城令によって、取り壊されました。
坂を下り伝馬町交差点を左折しで中山道に戻ります。
100m程先の右側に郵便局があり前庭に「安中宿本陣跡碑」があります。
「使者場入口」 安中宿本陣跡碑
この先の信号交差点手前に熊野神社参道があります。
この交差点が安中宿下木戸跡です。ここまでが安中宿です。
この先、「下野尻」信号交差点で歩道橋を渡り18号線の左側の歩道を歩きます。
熊野神社参道 「下野尻」信号交差点
碓氷川に架かる久芳橋を渡ります。右斜面に東邦亜鉛(株) 安中精錬所がみえます。
久芳橋を渡るとすぐ左に下りる階段があります。細道を抜け中山道に出ます。
中山道の案内表示が無いので心配しながら進みました。
庚申塔、一里塚跡を通過し、どうにか「中宿」交差点に出ました。
中山道はこの交差点を左折して県道171号線に合流します。交差点の向こう側に諏訪神社があります。
創建は安土桃山時代の天正年間(1573~1591)で、中宿の鎮守です。
「中宿」交差点 諏訪神社
碓氷川に架かる鷹巣橋を渡ります。 鷹巣橋東交差点の左に板鼻宿碓氷の渡し場跡 があります。中山道は鷹巣橋東交差点を右に進みます。
左側に鷹巣神社の社標があります。参道は県道171号で消えています。
鷹巣橋 鷹巣神社
中山道横を流れる板鼻堰用水があります。碓氷川と九十九川の合流地から取水し、高崎市西部へ流れる農業用水路です。400年程前に造られたそうです。
300m程先の公園に双体道祖神、忠魂碑があります。
公園から100m程先の板鼻公民館入口に板鼻宿本陣跡があります。
跡地は公民館になっています。皇女和宮の宿泊地にもなった所です。
板鼻堰用水 板鼻宿本陣跡
「板鼻宿」信号交差点に「板鼻町道路元標」 板鼻宿の古民家
第九中仙道踏切をわたります。 入沢製作所の脇に庚申塔と地蔵尊があります
双体道祖神 板鼻橋を渡ります
県道に合流する手前に
金井方平翁頌徳碑と板鼻土地改良記念碑 「板鼻下町」信号交差点で18号線に合流
500m程先に寒念仏橋(かねつはし)供養塔があります。
「坂東 秩父 西国 橋供養」と刻まれています。板鼻宿の「念仏講中」が念仏供養2万日達成を記念し石橋を改修しその近くに供養記念塔を建てたもの。
この辺りが板鼻宿のはずれです。
500m程先の八幡大門信号交差点の左に八幡宮の大鳥居があります。
上野國一社八幡宮の鳥居。この神社は、天徳元年(957年)の創建。境内敷地は約9,000坪で、源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていました。
八幡宮まで800mもあるので断念しこの交差点を直進します。
500m程先の「小林山入口」交差点左角にダルマ屋さんがあります。
塗装前の白いダルマが並んでいる。
ダルマ屋さんから500m程先の浅間神社の向い側に藤塚一里塚跡があります。
群馬県下で、唯一現存する一里塚跡。向こう側に行きたくても横断歩道が近くにありません。通過します。
ダルマ屋さん 藤塚一里塚跡
「上豊岡」信号交差点を横断し国道から左の中山道に入り500m程進むと、「日石灯油」の看板の出ている米屋さんの手前に「湯沢のお地蔵様」があります。
この「地蔵様」は、宝暦三年(1753)に茶屋本陣の飯野家により建立され、風雨で損傷したため安政三年(1856)に再建されました。右側は「二十二夜塔」
すぐ先に上豊岡の茶屋本陣があります。皇女和宮もここで休憩しています。
湯沢のお地蔵様 上豊岡の茶屋本陣
まつもと商店 だるま工房 右側の石材屋さんの手前角に庚申塔
豊岡小学校の手前右側に若宮八幡宮。
江戸末期には江戸火し消新門辰五郎、明治期には乃木将軍が参拝され、当時は参拝客が絶えなかったそうです。
若宮八幡宮から1km程進み国道に406号線に合流する手前左側に下豊岡みちしるべと八坂神社があります。正面に「草津温泉」と刻まれています。
若宮八幡宮 追分道標「下豊岡みちしるべ」後に八坂神社
国道406号に合流し200程先の左側に石神社があります。
「君が代橋西」信号交差点で国道18号線に合流し新君が代橋を渡ります。。
橋を渡ったのは良かったのですが 道路が複雑に交差して中山道が何処にあるのか分からなくなりました。
どうにか中山道に戻りましたが20分程時間ロスしました。
杉並木を通り、ボーリング場の前を通ります。
「常磐町」信号交差点角に「山田文庫」があります。
明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でした。1974年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在は一般に公開されています。
右側に岡醤油醸造(株)があります。 番所跡 今は赤坂公民館です。
番所跡の向かい側に長松寺があります。
三代将軍家光の弟忠長は家光との確執により父秀忠の死後高崎城内に幽閉され寛永10年(1623)28歳で自刃して果てた。この自刃した部屋が移設されています。長松寺の大間、向拝天井絵及び涅槃画像は、高崎市指定重要文化財となっています。
坂を上った先に恵徳寺があります。
恵徳寺を開山した大光普照禅師は直政公( 高崎城初代城主 )の信任厚く、 ある時 「和田の名称を松崎と変えたいが」 の問いに 「松は枯れるが高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」 と進言。直政公多いに喜び『高崎』と命名したと云う。
(曹洞宗恵徳禅寺の由緒・開山説明板より)
長松寺 恵徳寺
恵徳寺の先に高崎神社北門があります。
高崎神社は、もとは熊野神社といい、紀州の熊野の神を祀っている。伊邪那美の神を主神とし、その他に速玉男神と事解男神とが合わせ祀られている。伊邪那美の神は、伊邪那岐の神と夫婦の契りを交わし、結びの神と崇められている。
高崎神社 神明鳥居 高崎神社 拝殿
すぐ先の「本町一丁目」を横断し「本町二丁目」を横断し次の「本町三丁目」を右折しました。「正一位鞘町稲荷大明神」を過ぎ「宮元町」信号交差点に着きました
道が違うようです。「本町三丁目」と思って右折してから1km程歩いています。
地図をよく見ると「本町二丁目」が連続して2か所あります 2つ目の「本町二丁目」を「本町三丁目」と見間違えてここまで歩いてしまった
左折して高崎駅方面に向かい「連雀町」交差点で中山道に合流しました。
上信電鉄の踏切を渡ります。この辺りまでが高崎宿でした。
「中山道歩き 上州・武州路を歩く 松井田宿から高崎宿まで」はここまでです。
次は「中山道歩き 上州・武州路を歩く 倉賀野宿から深谷宿まで」です。