碓氷峠頂上で長野県から群馬県に入ります。

左の空き地に赤門屋敷跡説明と胸像があります。ここには赤門屋敷跡で「加賀藩前田家」 の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門がありました。

諸大名が参勤交代で追分・沓掛・軽井沢 を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫し休憩し、無事碓氷峠迄来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休憩された。

明治19年(1886)碓氷新道の完成、明治26年(1893)信越本線の全線開通で上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり、熊野神社の社家町 「峠部落」 も大きく変わり赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。

此の屋敷は熊野神社代々の社家 「峠開発の祖」 曽根氏の屋敷です。

胸像は曽根忠英氏です。

この空き地にみくにふみの碑があります。説明板によれば

「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十 (よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみ よまむひと)
 よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 の意である。
 これは峠の社家に伝えられていたものを滅失を恐れて昭和30年熊野神社に建てたものである」

 

峠を下ります。

碓氷川水源地入口の説明板があります。木々の間から下をのぞくと池が見えます。

説明板によれば「明治天皇御巡幸の際に御膳水となった名水である」

 

思婦石 説明板によれば

群馬郡室田(現在は高崎市)の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で、安政4年(1857年)の建立の歌碑です。
別名「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われています。

全く何が刻まれているのか分かりません

「ありし代に かへりみしてふ 碓氷山」と刻まれているそうです。

 

   

神宮寺の仁王門跡                長坂道                             こんな道もあります。

 

  

 こんな道もあります。        陣場ヶ原案内板                  突然、バスが現れました。

陣場ヶ原案内板によれば  太平記に新田方と足利方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方の碓氷峠合戦記がある。この辺りが古戦場といわれています。

  

山中茶屋跡                      栗が原         この辺りで靴に砂利が入る

山中茶屋跡説明板によれば 「寛文2年(1662年)には、13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2か所あったそうです。

明治の頃小学校もできましたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている」

栗が原説明板によれば この辺りに明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」ができました。これが、交番のはじまりです。

 

この辺りで左靴の中に石が入ったので脱いで石ころを出し、靴紐を締め直し右靴もついでに・・・・・・・・・・おや!!右足ズボンのすそが赤い

く血に染まっていますはてなマーク・・・びっくり

・・・・山ヒルだぁー叫び

くそームキームキームキー

右足に2匹、山ヒルが付いて血を吸っているえーん

引っ張って取ろうとすると半分にちぎれた。

持っていた防虫スプレーをもう一匹にかけると丸くなってコロリと落ちた。

靴にも一匹付いていて上に登ろうとしている。気持ちわるィーゲッソリ

こいつも防虫スプレーで退治びっくりマーク

かまれても痛くも痒くもない、だから気付かない。

傷口をペットボトルの水で洗い、ばんそうこうを貼りました。

 出発前に部屋で防虫スプレーを体中吹き付けて来たのにはてなマークはてなマークはてなマーク

あっびっくりマーク・・・しまったショボーン 靴にかけてないガーン 

靴はペンションの玄関に置いていて吹き付けてなかった。ガーン

これじゃあ「耳なし芳一」じゃないか。

こんな所に長居は無用です。

急いで下山します。

 

  

掘り切り                           碓氷峠の関所跡                  風穴

掘り切り ここに来るまでに、四軒茶屋跡、座頭転がし、北向き、南向きの馬頭観音などがありましたが足元から山ヒルが上がって来るようでゆっくりしてられない。

いそげびっくりマークいそげびっくりマーク

靴が濡れていて防虫スプレーの効き目が薄まってしまい、意外と早いスピードで靴に取り付き登ってくる。ゲッソリ  気持ちわるーィ

碓氷峠の関所跡  上った所にところに休憩所があります・・・とんでもないムキーこんな気持ち悪い所で休憩なんか出来るかァームキー

  

大きな馬頭観音                 覗(のぞき )                        刎石坂 

 覗(のぞき )  天気が良ければ坂本宿を見下ろせる場所だそうです。

説明板に一茶の句 「坂本や 袂の下の 夕ひばり

一茶は山ヒルに食われなかったのかはてなマーク 聞いてみたい。食われればこんな句になったかな。ニヤリ

「坂本や 草鞋の下の 大山ヒル」笑

  

柱状節理                             ここで転倒しました           堂峰番所跡

柱状節理 火成岩が冷却・固結するとき、亀裂を生じ自然に四角形や、六角形の柱状に割れたものです。

この下り坂で転倒しました。小学校の運動会以来です。背中のバッグが頭の上に圧し掛かり危うく顔面を強打する所でした。ケガはしませんでした。

これも山ヒルのせいだムキームキームキー

 

 

碓氷峠坂本宿側入口

やっと恐怖の碓氷峠から脱出し国道18号に出ました。   

バス停小屋で急いで服を脱ぎパンツ一丁姿で全身をチェックしました。

国道を走る車が全て私を見ていきます。かまうもんか、こっちゃあてぇへんなんだ。

 

左の靴の上に1匹、こいつは元気がない、防虫スプレーが効いているのかな。

しかし、左足に1匹、美味しそうにまだ血を吸っているやつがいる。

防虫スプレーをかけると簡単に丸くなって落ちた。

さらに1匹、脱いだポロシャツに付いている。

こいつはまだ血を吸っていない。

情状酌量の余地ありとしてビニール袋に生け捕りにして持ち帰ることにします。

 女房に見せてどんな反応をするか楽しみィーニヤリ

 

 

国道18号線を横断し草道に入ります。 再び18号線に合流します。妙義山が見えます。  

150m程先に八幡神社があります。50m程先に芭蕉の句碑があります。

「 ひとつ脱て うしろに負ひぬ 衣かへ 」 

 

芭蕉の句碑              中山道坂本宿上木戸 京都側入口です。

木戸跡を過ぎ、峠の湯入口から30m程先の左側に道標「上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡」があります。側面に「西 京へ百二里」 「東 江戸へ 三十四里」と刻まれています。

中山道坂本宿上木戸から150m程進んだ左側に小林一茶の定宿『たかさごや』

があります。 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。一茶はここで次の句を残している。 「坂本や 袂の下は 夕ひばり

 

道標「上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡」   旅籠『たかさごや』跡

 

すぐ先に若山牧水宿泊旅籠つたや跡があります。

牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を超えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋『つたや』に無理に頼んで泊めてもらうことにした。寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのが次の歌である。                                                                        「秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰りの唄

 

  旅籠つたや跡             坂本宿から見た刎石(はねいし)山

 

旅籠つたや跡から50m程先に旅籠かぎや跡があります。 

かぎやは坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を 『かぎや』とつけたといわれる。   

天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。

かぎやのすぐ先に坂本公民館となっている酒屋脇本陣跡があります。
 
旅籠かぎや跡            酒屋脇本陣跡(坂本公民館)

 

酒屋脇本陣跡の隣に永井脇本陣 永井家は立派な冠木門に切妻造の家屋です。

永井脇本陣から50m程先の向い側に佐藤本陣跡があります。

坂本に2つある本陣のうち「佐藤本陣」は、「上の本陣」 と呼ばれていた。

3代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務付けた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。

大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壷道中で坂本宿は大変な賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった。

明治8年(1875)4月10日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校されました。

     

永井脇本陣               佐藤本陣跡 その後坂本小学跡

 

佐藤本陣 から50m程先に坂本宿金井本陣跡があります。

ほとんどの大名や例幣使が坂本泊まりであったことから、多くの大名がこの金井本陣に宿泊した。皇女和宮も宿泊された。

中村碓嶺(たいれい)生誕の地 坂本宿は、街道文芸として俳諧・短歌が発達したので地元に多くの俳人が傑出した。
『碓嶺』は幼少よりこれらの影響を受け、40数km離れた本庄に住む長庵に師事し遠路通ったという。そのため、めきめき頭角を表し当時、村上鬼城を横綱とすれば、髙崎で西馬、坂本で碓嶺が両大関といわれるほどになった。
弘化三年(1846没、67歳。辞世は、明る夜を かくす雲なし 時鳥(ホトトギス)
     

坂本宿金井本陣跡            中村碓嶺(たいれい)生誕の地

  

中村碓嶺(たいれい)生誕の地から250m程先に江戸側入口下木戸跡があります。

木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。

文久元年の絵図によると、用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百六十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。 「雨が降りゃこそ松井田泊まり ふらにゃ越します坂本へ

この先で高速道路下を通ると水神宮があります。

水神宮の説明板に古歌が書かれていました。 

 「清き水 掬(きく)して喉を 潤へり 峠越えゆく 気のみなぎけり」

 

 

江戸側入口下木戸跡            水神宮

 

水神宮から400m程先に白髭神社入口があります。ここを右折して50m程進むと石鳥居の隣に二十三夜塔と男女双体道祖神があり、石段の先に白髭神社拝殿があります。

日本武尊は東国を平定し碓氷嶺東麓川久保坂に差し掛かった時、山の神が白鹿に化け濃霧で尊の進路を妨げ進路きわまった。すると、剣を持った白髭の老人が現れ、白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。尊は、白髭の老人の霊験をみたのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い、石祠を建てて祀った。

景行天皇40年(240)白髭の老人にちなみ白髭神社の創立となった

白髭神社の祭神は、猿田彦命・日本武尊・飛滝大神である。

 

白髭神社入口                  白髭神社拝殿

 

中山道に戻ります。150mほど先で国道18号線から左の中山道に入ります。

下り坂を進むと薬師の湧水とその先に 川久保薬師堂があります。 

元和9年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた。
そこで、無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された。

   

薬師の湧水                                      川久保薬師堂

 

坂を下った所に川久保薬師坂と刻まれた石碑があります。

この先で霧積川の霧積橋を渡ります。 

碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。

増水期になると度々流失しました。

このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて、宿継ぎ御用綱として使われ、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を対岸に渡すことに使われた。

 

川久保薬師坂石碑             霧積橋

 

霧積橋を渡り150m程先で碓氷馬車鉄道顕彰碑前を通り、旧碓氷アプト式鉄道のガード下を通ります。

ガード下を通り直ぐに右側の細道に入ります。鎮魂碑と招魂碑があります。

信越本線の廃線など各種交通機関の建設に当たって殉職された者や災害、交通事故のため亡くなった者の慰霊のために鎮魂碑。隣には、碓氷アプト式鉄道の建設のため亡くなられた鹿島組の招魂碑が建っている。説明文の最後の一行が心に残りました。

「遊子願わくば一遍の回向を賜らんことを 合掌」

 

       碓氷馬車鉄道顕彰碑         鎮魂碑と招魂碑

 

中山道に戻るとすぐ左に碓氷関所跡の石段があります。

碓氷峠にあった関所を、元和年間にこの地に移しました。
入り鉄砲に出女の取締りを主とした要所で、門柱や門扉は当時もので、総ケヤキ材の堅固な造りです。

今はお猿さんが関守をしています。

反対側の石段を下りるとすぐ先に東門の位置の標柱があります。

  

碓氷関所跡               碓氷関所跡碑の隣にお猿さん 

 

東門の位置から200m程先に諏訪神社の社標があります。奥に 諏訪神社の鳥居 

が見えます。

諏訪神社の先に群馬県指定史跡横川の茶屋本陣碑があります。

この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部です。碓氷関所に一番近い茶屋本陣です。

 

 

矢野沢橋を渡ると石垣の上に大きな碑が建っています。

  
御嶽山座王大権現              手前の草むらには、庚申塔、二十三夜塔などがあります。

 

中山道に戻ります。

右側にJR横川駅があります。信越本線の群馬県側における終着駅です。

駅前に有名な峠の釜めし屋さんがありました。

横川駅を過ぎ踏切を渡り国道18号に合流します。 

国道18号と 信越本線に沿って歩きます。踏切から400m程進むと大きな欅があります。そこを右に入ります。

風化した石仏、灯籠 と 百合若大臣の足痕と書かれた説明板があります。

「この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、石の上がへこんだと言われています。 その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向うの山に向け 「よしあの山の首あたりを射貫いてみよう」 と思いつき、満身の力をこめて射をはなった。その時、後足を踏ん張っていたのがこの石と言われています」

 

JR横川駅                百合若大臣の足痕

ここ先で「小山沢」信号交差点で国道18号線に合流し歩道を歩きます。

途中の小山沢側道橋でJR線と18号線の間の法面に石祠があります。

石祠が見えたらすぐ先で右に入ります。

入りとすぐ左に庚申塔、馬頭観音、南無阿弥陀仏名号碑、道祖神があります。

そこから300m程先で左折し18号線「御所平」押し釦信号を横断し踏切を渡り右折します。 踏切を渡り振り返ると妙義山がみえます。

右折すると、左に石祠、庚申塔と二十三夜塔がありその先に碓氷神社の扁額が掛かる両部鳥居があります。長い石段をみて拝殿まで上るのを中止しました。鳥居で礼をして次に進みます。

 

高墓踏切                 碓氷神社

 

先を進むと左の土手上に馬頭観音があります。その先にまた馬頭観音があります。

さらに馬頭観音があります。

  

馬頭観音          馬頭観音         馬頭観音

 

その先に馬頭観音と地蔵菩薩と茶釜石があります。お地蔵さん足下には首もあります

茶釜石  この奇石は、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたま、ここを通った蜀山人(太田南畝)は、この石を叩いて珍しい音色に、早速、次の狂歌を作ったといいます。
 「五料(五両)では あんまり高い(位置が高い) 茶釜石 音打(値打ち)をきいて 通る旅人
 この石は、叩くと空の茶釜のような音がするのでその名があるそうです。

お地蔵様夜泣き地蔵と呼ばれています。

昔、馬方が荷のバランスが悪く難儀しながらこの地まで来ると、偶然にも地蔵の首が落ちていた為、重りとして利用しました。その後、馬方は容易に荷を運ぶ事が出来、目的地である深谷で荷物を下ろすと地蔵の首も必要がなくなり棄てしましました。すると地蔵の首は口を開き「五料に帰りたいよ~」と毎晩泣き叫ぶようになり、哀れと思った深谷の住民が元々安置されていた五料に運び胴体に乗せたそうです。その後、地蔵は泣く事は無くなり道中の人々の安全を見守っていると伝えられています。                              

 

馬頭観音と地蔵菩薩 左下に茶釜石       お地蔵様の首

すぐ先に馬頭観音や庚申塔があり、 その先に道祖神があります。 

道祖神のすぐ先で「榎」踏切を渡り左折します。

踏切から300m程先に松井田宿五料の茶屋本陣の案内板があります。

案内に従い左折します。「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡」の前を通り踏切を渡ります。

五料の茶屋本陣・お東が正面にあります。                                                             

  

「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡」  五料の茶屋本陣・お東 

 

五料の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は、中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所として置かれたものです。明治11年9月6日に明治天皇が北陸東海道御巡幸の折 「御小休所」として使われました。
 この 「お西」 中島家は、16世紀末から代々名主役を勤め、特に、天保7年(1836)から明治5年(1872)までは 「お東」 と一年交代で名主を勤めていまし た。お西は昭和33年8月1日、お東は昭和59年12月25日に群馬県史跡に指定され、お西は昭和48(1973)年中島公男氏から町に寄贈されました。

 

  

               五料の茶屋本陣お西碑

    

中山道に戻ると左側の床屋さんの庭に二十三夜塔と庚申塔があります。

この先高速道路の下を通り国道18号線の歩道を進みガードレールの切れ目から横断します。(横断歩道ではありません要注意

ガードレールの切れ目からこちら側に駆け足で横断し直ぐにY字路を左に入ります

横断して。 

 


10分程歩いた先で「第十中仙道踏切」をわたります。

500m程先の右側に新堀一里塚跡の説明板があります。

明治20年代までこの中山道を挟んで南側と北側に一里塚があり、ここは北側の一里塚跡で南塚は10m南にあるそうです。辺りを見渡しましたが分かりませんでした。

この先で県道に合流します。

自然石で積まれた長い石垣が続く敷地に曹洞宗の大泉山補陀寺があります。

開祖は無極慧轍(むごく  えてつ)曹洞宗の創始者である道元禅師(1200-1253)の教義を受け継いでいる寺です。松井田城主大道寺政繁の墓があります。

 

新堀一里塚跡 (北塚)          曹洞宗の大泉山補陀寺

 

「西松井田駅前」信号交差点手前に標柱「坂本宿← 松井田宿→」があります。

 

「中山道歩き 上州・武州路を歩く 坂本宿から松井田宿まで」はここまでです。

次は「中山道歩き 上州・武州路を歩く 松井田宿から」