和田宿休憩所から始めます。

 

和田宿休憩所の向い側に本亭なが井跡あります。

 

 近年まで「本亭」という旅館でした。屋号は「なが井」で、その昔、和田郷の庄屋を務めていた。

長井一族は本陣、問屋、名主を担った最有力の家門です。

 

和田宿休憩所の隣に和田宿脇本陣があります。

 

文久元年(1861年)3月10日の大火で和田宿内109戸を全焼した際、脇本陣も類焼した。
同年11月、皇女和宮降嫁の際、和田宿宿泊のため、昼夜兼行で宿内復旧工事がなされた。この脇本陣もその時の建築です。

 

四辻に和田宿本陣があります。

  

復元した本陣御入門               和田宿本陣

和田宿本陣は和宮降嫁の年である文久元年(1861)の3月10日に、宿内の出火により他の多数の旅籠と共に焼失した。しかし、11月の和宮の宿泊のために、幕府よりの拝借金を得て、急ぎ再建された。
明治維新まで本陣長井家が居住していた。明治12年(1879)に戸長役場にあてられ、その後和田村役場となり、昭和59年(1984)4月まで使用された。
現在の御入門は明治期に丸子町向陽院へ移築された御入門を実測して復元した。

 

「かわちや」

説明板によれば「文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したが、その年の10月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。
和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている」     現在は「歴史の道資料館」 となっています。

 

橋を渡り火の見櫓の先に双体道祖神と水場があります。

その先に八幡社の扁額が掛かる石鳥居の八幡神社があります。

さらに進むと和田中学校の前に和田神社の石鳥居があります。

さらに進むと道標があります。「是より和田宿」と刻まれています。

この辺りまでが和田宿です

 

15分程進むと「中山道一里塚跡」碑があります。日本橋から49里目の一里塚跡

 

一里塚跡の先に「若宮八幡社」があります。境内には、天文23年(1555年)和田城主大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦した際、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死したため信定父子の首級がここに埋葬されており、墓碑が建っています。

境内の端に芭蕉の句碑があります。

安能雲は稲妻越待つたよ里可南と刻まれている

(あのくもは いなずまをまつ たよりかな)

 

さらに100m程進むと水道之碑、馬頭観音、道祖神などがあります。さらに道上に阿亀馬頭観世音と福大大士碑があります。

500m程先の「大きな屋敷」の隣の石垣上に青面金剛の庚申塔や平成8年の獅子舞と子供たちの姿のレリーフ碑があります。

隣にバス停「上立場」があります。

 

バス停「上立場」と「大きな屋敷」      三千僧接待碑と説明板

三千僧接待碑は信定寺別院慈眼寺境内に建立されていたものだが、寛政7年(1795)この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍(いちやく)二千を増した三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
 

火の見櫓の前に水場がありました。石柱に「のみ水」と刻まれています。

その先にとてもめずらしい??があります。

みみずの碑です。

鳥居を刻みその中に男女(?)の「みみず」がスカートの様な服を着て足下に「みみず」と浮き彫りしています。鳥居が刻まれているのでみみず神社かな。

説明板によれば「ミミズの碑”は、この地に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓(みみず)は、土壌動物の代表です。みみずは枯れた落ち葉や木の枝などをよく食べ糞をします。その糞は「土」となります。「生まれたばかりの新鮮な土」「植物がよく育つ土」なのです。
少し残酷ですが、蚯蚓の地区では「みみずのひもの(はらわたを出して板の上にはりつけた)」つくり、解熱剤として煎じて使いました」

 

   

 千木のあるバス停 を過ぎ    茅葺のバス停 を過ぎ               水明の里 

「下和田中組」       「上深山口」

水明の里は公園になっていて、芝生の園内に石灯籠、歴史の道中山道標柱、馬頭観音があります。公園は142号線沿いにあります。

142号線に合流し、アポロガソリンスタンドの横の階段を下ります。

この先で依田川に架かる橋を渡ります。広重の中山道六十九次続き絵にこの辺りの景色が描かれています。

この先で大門川を渡り左折し、大門橋信号交差点を右折します。

 

    依田川に架かる橋

セブンイレブンが見えたら左に入ります。142号線に合流する手前に四泊一里塚跡 があります。日本橋から48里目です。

 

再び国道142号線に合流し「長久保横町」信号交差点を左折します。  

 

長久保宿に入ります。           旅館辰野屋(武重家)

旅館辰野屋は出梁造り・総二階建てで母屋は、江戸時代末期の構築と推定され、ダイ

ナミックな建築構成・厳選された材料や加工性が宿場の繁栄を偲ばせています。

 

先に進むと交差点角の中山道長久保宿碑に「左ぜんこうじ」と刻まれています。 

交差点右側に木造3階建ての旅館濱田屋があります。右折して坂を上ります。

  

旅館濱田屋                 釜鳴屋竹内家住宅 

釜鳴屋竹内家 構築年代は詳らかではありませんが、寛延2年(1749)の絵図面に記載されていることや、玄関先の最も古い享保16年(1731)の祈祷札に打ち換えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられ、長野県内では最も古い町屋建築であるといわれています。
また、竹内家には江戸時代初期からの古文書や、笠取峠立場絵図や長久保宿場札の版木も保存されていて、これらも町文化財に指定されています。(長和町教育委員会)

 

本陣跡(石合家住宅) 石合家は長久保宿創設当初から、江戸時代を通じて本陣と問屋を勤め、4代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。

 当時の建物としては、大名や公家等の賓客が利用した 「御殿」 と呼ばれる座敷棟と幕末頃の構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。 

構築年代は詳らかではありませんが、

江戸時代中頃の寛延2年(1749)の絵図面に現状と同じ間取りが記載されていることや、細部意匠の様式から17世紀後半と推定され、中山道では現存する最古の本陣遺構であると云われています。

 

坂道を上ると長久保宿歴史資料館一福処濱屋、江戸時代末期から明治初期の農家型

建物の吾一庵あります。

さらに坂を上った所の道標に「松尾神社100m、笠取峠2km」と刻まれています。まつり地蔵、日本第一酒造之祖神の石塔があります。


 

松尾神社境内からの写真           松尾神社拝殿        

松尾神社の創建は不詳ですが日本三大酒神で官幣大社である松尾大社(京都府京都市右京区松尾町)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。古くから酒造家から信仰の対象となり、江戸時代に入ると上田藩主真田家の崇敬社として庇護され社領4斗2升9合が寄進され、参勤交代で長久保宿を利用した大名家からも参拝が行なわれています。

 

境内奥から草道を上り中山道に出ます。坂道を進むと左に笠取峠原道入口があり、入口から沢沿いの山道を上り中山道に合流します。中山道を進むと途中に馬頭観音と石仏、長和町の保存樹木に指定されている枝垂桜があります。

枝垂桜の向い側の原道に再びに入ります。

国道142号線に出ます。

峠の手前にこれより長久保宿」の常夜燈笠取峠碑があります。

 

笠取峠に着きました。峠の茶屋  長久保宿から登坂が続きましたが息が切れる事もなくわりと楽に登ってきました(じい様の瘦せ我慢笑

峠の茶屋の向い側に立場茶屋小松屋跡の立札があります。

登ってしまえば後は得意な下り坂、どんどん進みます。

途中の右側に笠取峠竣工記念碑があります。

さらに下ると左側に笠取峠一里塚跡。日本橋から47里目です。近くに男女双体道祖神があります。 右側を歩いていると見落とします。

  

 笠取峠一里塚跡             笠取峠の松並木西入口

慶長7年(1602)幕府は中仙道の整備に着手、この松並木はその一環として同年幕府から小諸藩に赤松数百本が下付されたものを植栽したものです。

以後小諸藩により補植、保護がなされてきました。
昭和49年(1974)長野県天然記念物に指定されました。
現在100本余の老松が往時を今に伝えています。

松並木は途中で142号線を横断しまた続きます。

横断した左側に小諸藩領界石があります。小諸藩が文化3年(1806) に領分境の東西へ建立したうち西側のものです。笠取峠にあったものの復刻です。

これを境に西は幕府領、東は小諸藩領です。

  

 小諸藩領界石                   松並木の休憩所

松並木の休憩所周辺には常夜灯、道祖神、句碑、歌碑などがあります。

吉村煙嶺の句碑 「古道の名残も捨て難けれども繕う多 道や春めく 人通り 」

※吉村煙嶺は立科町出身で初代小諸町長です。

若山牧水の歌碑 岨道の きわまりぬれば 赤ら松 峰越の風に うつなびきつゝ」                         

        「老松の 風にまぎれず 啼く鷹の 声かなしけれ 風白き峰に」

保科五無斎の歌碑

「我死なば 佐久の山部へ送るべ焼いてなりとも生でなりとも但し運賃先払いにて 苦しからず候」

 

142号線に合流し「芦田宿入口」信号交差点を右折します。50m程先を左折します。

石打場公園があります。ここから芦田宿です。

宿場に入ると右側に文化元年(1804)頃よりの旅籠屋があります。

金丸土屋旅館です。その向かい側に酢屋茂があります

 

金丸土屋旅館               酢屋茂

酢屋茂は1892(明治25)年創業の歴史ある老舗醸造元。信州みそや醤油を昔ながらの伝統的製法を守って作っているそうです。

酢屋茂の向い側の空き地に「庄屋山浦家説明板」があります。      

※庄屋 領主側の指示・命令を村人に伝え、厳守させ、村の責任者として村にかかわる問題全般にわたって先頭に立ち村人をまとめる。現代の村長のような役職です。

「芦田中央」交差点右側に芦田宿土屋家本陣跡があります。

芦田宿は、慶長2年(1597)に設立。江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久では一番早くできた。
 本陣土屋家は、問屋を兼ね、芦田宿の開祖でもあった。
 本陣御殿(客殿)は寛政12年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える 「宿札」 も残され、往時をそのまま伝えています。

 

本陣の向い側の空き地に「芦田宿脇本陣山浦家」標柱がります。

 

中居」交差点を渡った右角に「これより中山道芦田宿」表示があります。ここが江戸側に入口です。芦田宿はここまでです。

 

10分程進むと左に「中山道茂田井間の宿入口」標柱があり矢印方向に進みます。

茂田井間の宿入口から300m程先に茂田井の一里塚があります。日本橋より46里目です。

 

 矢印方向に進みます             茂田井の一里塚

 

石割坂茂田井村上組高札場跡を過ぎ200m程先に大きな馬頭観世音があります。

300m程先に三階建ての家がありその隣に「雪隠」と書かれたトイレがあります。

雪隠」記憶の中に残っていた懐かしさを感じます。

 

茂田井村下組高札場跡を過ぎると蔦屋(大澤酒造株式会社)があります。            

創業は元禄2年(1689)                         

名主を代々務めていました。

しなの山林美術館、民俗資料館が併設されています。      

 

100m程先に叶屋(武重本家酒造株式会社)があります。

創業は明治元年(1868)酒造施設30棟が国の登録有形文化財です

向い側に若山牧水の歌碑があります。

 

 叶屋                  若山牧水の歌碑

用水の流れの脇に若山牧水の歌碑 3首

「ひとのいふなる 御園竹 われもけふ飲みつ よしと思へり」

「しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」   
「ひとの世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにの楽しみ」

※若山牧水は長年の大量飲酒による急性胃腸炎と肝硬変を併発して昭和3年9月17日に沼津市の自宅で亡くなりました。享年43。

 

この先で神明社を過ぎ坂道を上り県道に合流します。

5分程進むと左に整骨院があります。その向かい側に石仏があります。

さらに200程先の横断歩道のある左に道標「右 御巡見道」があります。

御巡見道は江戸幕府が諸藩を査察する目的で派遣した巡見使が歩いた道です。

 

この先で国道142号線の下を通る手前で右に進みます。途中で左の小さなトンネルを通り坂を下ります。途中の斜面に馬頭観音がありました。

坂を下り「御桐谷西」(おとや)信号交差点を横断し「「御桐谷」信号交差点のY字路を左に進み100m程先を左に進みすぐに右へすすみます。枡形?です。民家の間を通り坂道を下る途中に馬頭観音がありその先で県道に合流します。

右側に大伴神社があります。参道右側に「中山道望月宿」の道標があります。

ここから望月宿です。

 

日本武尊の時代からある神社です。社伝によると景行天皇40年(317)の鎮座という古社です。拝殿までの階段は58段です。

 

左側に明和3年(1766)建築の国登録有形文化財 

真山家(旅籠大和屋跡)があります。隣に問屋も兼ねていた望月宿脇本陣跡。 

 

 

斜め前に本陣跡 現在は大森小児科医院  佐久市立望月歴史民俗資料館

 

望月は古くから朝廷の牧場として重要視され、名馬の産地として知られていました。

中世から鎌倉時代まで「官牧」として栄え、江戸時代に宿場となりました。

朝廷に「御馬」を献上する儀式は江戸時代も続けられました。

紀貫之の「逢阪の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒」(拾遺和歌集)が残っています。

本陣の跡は望月歴史民俗資料館と大森小児科医院になっています。

 

少し先に犬神家の一族の映画で那須ホテルとして

使用された井出野屋旅館があります。斜め前に旅籠山城屋があります。

 

山城屋は江戸時代9軒あった旅籠の1軒だった「山城屋喜左衛門」が、今でも「御宿 山城屋」として旅館業を営んでいます。

 

少し先のバスターミナルを過ぎバイク屋さんの角を左折し長坂橋を渡ります。

長坂橋を渡ると正面に弁財天があります。ここから登坂です。

坂の途中に中山道長坂石仏群があります。水神天、馬頭観音、百万遍供養塔、男女双体道祖神などです。上るとさらに石尊大権現、大聖不動、普寛霊神などがあります。

 

広い道に出て100m程上りまた山道に入ります。

 

瓜生坂頂上です。中山道瓜生坂碑、百万遍念仏碑、大乗妙典供養塔があります。

 

下り坂です。ロスした時間を取り戻します。瓜生坂一里塚跡(南塚)45里目です。

途中に望月宿石燈籠と望月城跡看板、望月宿案内板があります。その先で国道142号線を横断し山道を下ります。

県道に合流します。合流する手前に中山道道標と中山道牧布施道標があります。

県道を進み「布施温泉入口」信号交差点を横断し直ぐに右に入ります。

 

 男女双体道祖神(祝言道祖神)

説明板によれば「長野県安曇野地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像です

 

百沢集落を通り「百沢東」信号交差点から142号線に合流します。

 

 

 

142号線を進み「八幡西」信号交差点を左折し,すぐに左の中山道に入ります。

大きな馬頭観音と小さな馬頭観音の前を通り広い道に出るとバス停「八幡宿入口」

があります。この辺りが八幡宿(やわたじゅく)の入口です。

 

「八幡中町」交差点を過ぎると右側に

 

八幡宿脇本陣跡 門が残るのみです。    脇本陣の斜め前に八幡宿本陣跡 

皇女和宮様が泊まった本陣ですが、こちらも門だけが残っています。 

 

300m程進むと八幡宿のはずれです。八幡神社があります。

 

                    「止戈為武」の扁額が掛かる随神門

八幡神社随神門 彫刻のすばらしさに驚きました。
 天保14年(1843)6月、今から150年前小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主となり、数百本の材木を、またケヤキ材は川西地方村々の寄進により造営された。楼門高く懸かっている額は、明治時代奉納されたもので、戈を止めて武を為すと横書きされている。

 

八幡神社から500m程進んだ右側に 生井大神(井戸水の神)と馬頭観音があります。その先に観音菩薩があります。

その先の自動車学校の向かい側に一里塚跡標柱があります。標柱のみです。

50m程先を左に進み丘に上ると2基の灯籠、芭蕉の句碑、大日如来像があります。    芭蕉の句碑 「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」 浅間山が見えます。

 

 

千曲川にかかる中津橋歩道を渡り橋の袂の階段を下り橋の下を通ります。

川原に舟つなぎ石があります。

舟つなぎ石は、石に穴をあけ船橋の舟をつなぎとめたもの。

流れが穏やかな時は船を繋いで作った舟橋で渡りました。

長雨が続くと激流に変わり川留めとなり、旅人は何日も待たされました。

おかげで旅籠屋は大いに繁盛した様です。

中津橋を渡った辺りから塩名田宿です。 

 

川魚料理竹廻家の角を曲がります。3階建の元お茶屋さんの「角屋」のまえを通り

中山道塩名田宿碑・十九夜塔・道祖神などのある水場の前を通り広い中山道に出ます。

 

塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝えている佐藤半左衛門住宅があります。

公民館の向い側に問屋・本陣があります。

問屋・本陣丸山新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦6年(1756)に再建されたが、現在は御殿部分が改装した住宅になっています。

 

佐藤半左衛門住宅              問屋・本陣

公民館駐車場の説明板によれば 

花街塩名田  塩名田が活気を帯びてくるのは明治三十年代(1897~1906)になってからであろう。

八幡から料理業二人が移転して営業、新角屋は上等の芸妓屋で32年に塩名田一流の料亭として開業して44年に新築して名声が上がった。

しかし、昭和10年代になると、今までの平穏な世相は一変してしまって、三味線の音も消えていった」

  

塩名田宿の町並み             塩名田交差点」の 道祖神と

石柱は「中津村道路元標」         中山道塩名田宿標柱

                     ここまでが塩名田宿です。

塩名田交差点の5差路を道標の前を進み坂道を10分程上ると重要文化財駒形神社

 

参道の橋を渡り石段を上り両部鳥居をくぐると左に拝殿があります。

駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないが、この地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置しているので、牧に関連した神社と推定されている。
 

1km程進むと畑の中に大きな木曽御嶽講の石碑と庚申塔があります。さらに500m程先に諏訪神社があります。参道石段の手前に男女双体道祖神があります。

 

木曽御嶽講の石碑と庚申塔         諏訪神社

 

300m程先の石垣上に石祠、石造群があります。

さらに1km程先で中部横断自動車道のトンネルを通ると左に荘山稲荷神社があります

 

荘山稲荷神社両部鳥居           拝殿

鳥居右側に芭蕉の句碑 「野を横に 馬引きむけよ 郭公」(ホトトギス)

 

中山道に戻り、この先の信号交差点を過ぎると景色が一変します。田園風景から巨大なショッピングセンター、ホームセンターなど沢山の商業施設が立ち並ぶ商業都市に変わります。

 

「浅間病院西」信号交差点を横断します。   相生(あいおい)の   

「相生の松」は、一本の根から二本に分かれた松の木のことで、それは長寿と夫婦の和合を象徴する。

文久元年(1861年)11月7日、皇女和宮は、ここで輿を留め、御野立小休しました。

和宮は縁起をかついで中山道で江戸に向かうことにしたが「相生」の名は縁起が良いと野点を行ったそうです。今の松は三代目だそうです。

 

中山道は「相生の 松」で左に曲がり岩村田高校の横を通ります。その先に御嶽神社があり、すぐ先の小海線踏切手前に若宮八幡神社の社標があります。

踏切から50m程先の右側に下曲口(しもしゃぐち)神社曲口(しゃぐち)神社と刻まれてた石碑があります。

その先の「相生町」信号交差点の左手前に西宮神社があります。御神燈前に道祖神、男女双体道祖神、金精様があります。交差点を左折し、「岩村田本町」交差点を過ぎアーケード街を進み、「岩村田」交差点から150m程先の右側に龍雲寺入口があります。

左側歩道を歩いていると見落とします。

 

西宮神社               龍雲寺入口
 

龍雲寺総門                龍雲寺楼門と鐘楼

 

龍雲寺本堂               武田信玄の遺骨発見地点に建つ五輪塔

龍雲寺は鎌倉時代の初め、地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたお寺。昭和6年5月29日境内にて玉垣修理中に地中から偶然骨壺を発見し同時に出てきた埋葬品から武田信玄の物と確定しました。発見場所の近くに信玄公廟もあります。

 

中山道に戻り「住吉町」交差点を過ぎ初めての横断歩道の先の左側に善光寺道道標(レプリカ)があります。「善光寺道 小諸二里 享保二十乙」と刻まれています。

右側を歩いていると見落とします。

善光寺道道標から150m程進んだ右側に住吉神社があります。

境内に溶岩で作った常夜灯、交通事故で折れた享保20年(1735)の善光寺道道標、樹齢400年の御神木のケヤキがあります。  

 

善光寺道道標               住吉神社

 

「佐久IC東」交差点を過ぎ上信越自動車道上にに架かる橋を渡り「食肉センター」信号交差点のY字路を右に入ります。

次の信号交差点の右角の藪の中に鵜縄沢端一里塚跡の説明板があります。

日本橋から42里目の一里塚。

10分程進むと左側に赤い幟を沢山並べているクルマ屋があります。

その奥に「皎月原」があります。

 

鵜縄沢端一里塚跡            皎月原

皎月原は伝説によれば、用明天皇(586)の皎月という官女が、お咎めを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女は、ある時、小田井の原へ馬を引き出して乗り回していた。天の竜馬だった白馬は、空へ駆け上がり、平尾山の頂上に立ち止まった。そこで官女は 「吾は唯人ではない。白山大権現だ」 と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、その跡には草が生えなかったので、その所を皎月の輪と呼ぶようになったと伝えられている。
岩が「御神体」となっています。他に石祠や皎月歌碑があります。

 

「小田井南」信号交差点を右に進みます。信号交差点の50m程手前右側に馬頭観音と石塔があります。

さらに10分程進むと中山道小田井宿の道標があります。この辺りから小田井宿です

道標から100m程先の右側に「下問屋跡」(尾台家住宅)があります。

標柱側面の説明によれば「「明和9年(1772)の大火以降のもので、切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室を備えた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用したと記されている」

 

 

小田井宿の標柱が             「下問屋跡」(尾台家住宅)

 

簡易郵便局の隣の庭先に「脇本陣跡」標柱があります。建物はありません。

すぐ先の左側に「上問屋跡」があります。本陣ともに安川家が勤めました。

標柱の説明によれば「天保2年(1831)道中奉行に差し出した図面とほぼ変わらない旧状を呈し、荷置場、帳場、客室部、厠、土間などがよく保存されている」

隣に高札場があります。

 

上問屋跡                 安川本陣跡

説明板によれば「安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。

宝暦6年(1756)に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる(長野県史編纂時の調査による)。
 また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は、大用所・小用所ともに2畳の畳敷きとなっている。御代田町教育委員会)」

 

本陣の先に小田井宿お休み処があります。その手前を右に進み宝珠院にむかいます。

参道入口に大きな馬頭観音があり、参道には地蔵菩薩と梵字塔・華成学校創設の地碑などがあります。  

 

宝珠院境内の枝垂れ桜           宝珠院のアカマツ

枝垂れ桜、宝珠院のアカマツは御代田町の天然記念物で、樹齢はいずれも約300年

 

中山道に戻り小田井宿お休み処の横の道を進み長倉諏訪神社に向かいます。

 

長倉神社の両部鳥居              拝殿

境内に神馬舎があり中に藁で作られた神馬(親馬と仔馬)が納められています。

 

中山道にもどります。

この先の信号交差点(県道137号)の左角に標柱「小田井宿跡入口」筆塚、道祖神があります。標柱側面に「慶長7年(1602)に中山道が整備された。小田井宿は、その69次のうち日本橋から数えて22次、江戸から40里14丁の距離にある。軽井沢町追分宿、佐久市岩村田宿の間の宿であり、比較的こじんまりとした宿場で、婦女子が多く泊まったことから別名を 「姫の宿」 ともいう。本陣、問屋、旅籠等の建物が現在残っている」  

ここまでが小田井宿です。

 

県道137号線を横断すると左に御嶽山座生大権現、八海山御岳山、清瀧不動明王などの石碑群があります。

ここから1.5km程(約20分)先の「栄町」信号交差点を右折し八百屋さんの向かい側の地下道を通り「しなの鉄道線」をくぐります。

地下道を出てゆるやかな坂道を150m程上った左側の民家の庭先に「御代田の一里塚入口」の標柱があります。案内に従い住宅の間を進むと畑の中に東塚、西塚がありました。

 地下道入口                御代田(みよた)の一里塚(西側)

江戸時代初期は、御代田の一里塚は東塚と西塚の間を通っていました。その後街道が変わりここに取りに越されました。その為保存状態もよく貴重な史跡です。

 

中山道に戻ります。

150m程先の左上に「大山神社」があります。。

大山神社から1.5km程先に御代田観音があります。

さらに400m程先に千ヶ滝湯川用水温水路があります。ここは冷たい雪解け水を稲作に適した水温に上げる為の人工池です。

このまま進み「浅間サンライン入口」信号交差点の手前で大きく左に曲がりますが

中山道はまっすぐ進み「ミニ中山道69次」の横を通り国道18号線に合流します。

その先に「分去れ」があります。北国街道と中山道の分岐点です。

 

千ヶ滝湯川用水温水路          「分去れ

 

「分去れ」には道祖神その後ろに安永6年(1777)の森羅亭万象歌碑

「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」と刻まれている。その隣には延宝7年(1679)の分去れ道標、寛政元年(1789)の常夜燈、子供を抱いたお地蔵様があります。

森羅亭万象は平賀源内のこと。

 

ここから先が追分宿です。

 

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