JR贄川駅前の水場をすぎ1km程進み案内板に従い左に入ります。

 

坂を上ると坂を上ると右側に道祖神、観音大士、青面金剛(庚申塔)などのせきとうがあり、左側に諏訪神社があります。

 

若神子集落があり、ここにも水場があります。国道の合流し50m程先の左側擁壁上に「若神子一里塚」があります。

説明板によれば  若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち楢川地域内の5か所の一里塚のうちの一つで、江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。 (塩尻市教育委員会)

 

「桜沢トンネル」手前の「片平」信号を右折し片平集落に入ります。

集落手前の左上に 鶯着禅寺(おうちゃくぜんじ)があります。

 

道路の向い側には庚申供養塔と男女双体道祖神、摩利支尊天、御嶽神社の石碑があります。 

片平集落を通り国道に合流します。

国道を進むと左側の草地に庚申塔があります。その先の左坂の上に鳥居が見えます

白山神社の鳥居です。

 

鳥の先の草道に進みます。         白山神社拝殿

石がゴロゴロしている坂を下り,途中から石段を下り国道に出ます。

 

奈良井川の片平橋を渡り300m程先に桜沢の茶屋本陣があります。

 

                        桜沢茶屋本陣跡

桜沢茶屋本陣跡の門の左側に「明治天皇桜沢御小休所」碑「明治天皇御駐輦趾」碑が、門の右側に「明治天皇桜沢御膳水」碑がそれぞれ建っています。

桜沢はいわゆる立場です。

立場というのは、宿場と宿場の間にあって人足や駕籠掻きが休息をとる場所のことです。桜沢は、本山宿まで一里六町、贄川宿まで三十町の場所に位置しています。桜沢の茶屋本陣は代々百瀬家が務めていました。

 

150m程進んだ右側に山に入る坂道があります。この道が旧中山道です。

坂を上ると八手観世音菩薩と南無阿弥陀仏碑があり、近くに旧中央西線の廃トンネルがあります。

坂を下り国道に合流すると道標「是より南木曽路」の碑があります。

 

昭和15年に建立されたものです。表面には「是より南木曽路」、裏面には「歌ニ絵ニ其の名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれています。

 

 

 

 

この先で国道に合流します。標高812mの標識がありました。

国道横にミツバチの巣箱が20程ありました。大型トラックが頻繁に通る国道沿いでも蜂たちは健気に働いていました。

 

歩道を進み国道がJR線を越える高架に差し掛かる手前で左の小道に入ります。

再び国道に合流します。JR線の向こう側に熊野神社があります。すぐ先のトンネルを通れば行けます。

 

熊野神社には寄らずに先を進みます。

右側に道祖神、秋葉大権現、筆塚があります。

JR日出塩駅を通過します。その先に曹洞宗の長泉院があり、続いて一里塚があります

 

山門前に六地蔵、庚申塔があります。   日出塩一里塚跡 江戸から61番目です。

 

日出塩の一里塚の手前に左に入る道がありそちらにはいります。こちらが中山道です

日出塩の青木の説明板と日出庄開闢祖 青木大神碑があります。

かつてここに樹齢4,5百年の桧大木があったそうです。その桧は銘木と歌われ、洗馬宿の肘掛松と共に「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われて有名だったそうです。
先を進むと通行止めとなっています。以前は中山道は線路を渡って国道側に合流していたそうです。

日出塩の一里塚まで戻り国道を進みます。

 

本山宿入口  国道から左に入ります。

右側の1段高い所に本山宿高札場跡(説明板のみ)秋葉大権現碑と常夜灯があります。さらに進むと右側に上る坂道がありります。荒澤不動尊、忠魂碑、天満宮、馬頭観音などの石塔群があります。さらに国道上の橋を進むと本山神社があります。

中山道に戻ります。

民家庭先に本山口留番所跡の説明板があります。

「本山宿は尾張藩木曽との境であったので宿南には口留番所が置かれました。

幕府指定の関所とは異なり各藩(松本藩)独自で治安維持、特産品の不当な流失を防ぐ為に設立されます。

女人の通行(出女)の監視と年貢徴収前の米の横流し(松本藩外への流出)防止の為の監視を主な業務としていました」

 

その先に本山宿脇本陣、上問屋跡があります。

 

脇本陣、上問屋場は兼用で花村家が勤めています。

上下問屋場は月の上15日が花村家で上問屋、月の下15日が小林家で下問屋を受け持っていました。

その先に本陣跡と明治天皇本山行在所跡碑があります。

 文久元年(1861)11月4日、本山宿は14代将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮の宿泊地となった。京方10,000人、江戸方15,000人が4日にわたり通行し、空前絶後の大行列となった。助郷20,000人・馬2000疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は2,000本の提灯のお灯りで昼間のようであったと伝えられている。

 

 

本陣の向い側に宿場時代の面影を建物があります。

何回も大火に見舞われたが、現在残る建物は幕末から明治時代の建築で、道に面して平入り出桁造り、千本格子の2階部屋など宿場時代の面影がよく残っています
なかでも明治以降前後に建てられた秋山家(若松屋)・田中家(池田家)・小林家(川口家)の3軒の住宅は国登録有形文化財に指定されています。

300m程先に本山そばの里があります。

本山宿の名物は「そば」で、宝永3(1706)年の雲鈴の隋筆[風俗文選]にそば切り発祥の地が本山であると記載されています。

それまで蕎麦は団子にしてゆでたり、そばがきで食べていましたが、包丁で切ってうどんの様に細く切って食べる様になってそば切り発祥の地と言われるようになり宿場を通る人に人気でした。

 

400m程進むと右側に本山宿下町石造群、秋葉神社​​​​​​がありこの辺りが本山宿のはずれです。

この先で右に進み国道に合流し「牧野」信号交差点を左折し1km程先の右側斜面に

牧野一里塚跡があります。 その先の右奥に滝太神があります。  

 

滝大神の鳥居をくぐり森の奥に進むと滝の側に本殿がありました。

中山道に戻りJR線のガード下を通り坂道を上ります。

右に「言成地蔵尊入口」の案内があります。踏切を渡り坂道を上ります。

言成地蔵尊本堂 説明板によれば

この言成地蔵尊は、『願い事をすれば必ず叶えてもらえる』地蔵様として洗馬宿時代から周辺の信仰を集めている。

初め洗馬宿の出入り口の急坂にあって人々の安全を願っていたが、余りにも落馬する人が多く、ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬ってしまい、これでは縁起が悪いと新福寺に移して安置されたと伝えられている。新福寺は廃仏毀釈によって廃寺になったので、その後地元住民によって今の位置に移され昭和3年御堂を新築して現在に至っている。 洗馬区 」

参道には南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔などの石塔群があります。本堂には沢山の折鶴が祀られていました。

 

中山道に戻ります。

すぐ先に洗馬公園があり道路横に高札場跡碑が有ります。近くに芭蕉の句碑もあります。「入梅はれの わたくし雨や 雲ちきれ」「わたくし雨」は「にわか雨」のこと

 

萬福寺を過ぎると右側に洗馬宿脇本陣跡と明治天皇御駐輦之處碑があります。

同じ敷地に荷物貫目改所跡 の案内板があります。

荷物貫目改所は、荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されていました。

 中山道では、洗馬・板橋・追分の3宿に置かれていました。

 規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役に過重な負担がかからないようにしました。 

 

すぐ先に洗馬宿本陣跡があります。

宝暦年間(1751~64年)頃から百瀬家が努めました。

洗馬宿本陣の庭園は「善光寺道名所図会」の中で、「中山道に稀な」と評された庭園だったが、鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり、失われました。
昭和7年(1932年)の火災では宿場の大部分が焼かれてしまい、現在宿場時代の面影は薄い。本陣や脇本陣もこの時の火災で焼失してしました。

 

JR洗馬駅入口を過ぎ進むと左に

 

あふたの清水

案内板の先の階段を降りると、中腹に「ふるさとの水20選 邂逅(あふた)の清水」の看板があります。水口からこんこんと清らかな水が流れ落ちています。

平家追討のため挙兵した木曽義仲が、この地で義仲四天王の一人である今井兼平と合流したといわれる。そして兼平は疲弊しきった義仲の馬を、この清水で洗うとみるみるうちに回復したそうです。そんな故事から名付けられたのが洗馬宿です。

逅(あふた)の清水から奈良井川方面の風景は、広重の「洗馬の夕月」に描かれています。 

中山道に戻ります。

すぐ先のY字路に道標があります。これは昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以後右側の新道が開通した折にこの先の常夜燈のある枡形からここへ移されたものです。「右中山道、左北国往還 善光寺道」 と刻まれています。
 

中山道と善行寺街道の分去れの常夜灯

「中山道は右に折れて肱松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。
 江戸へ30宿59里余。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿 19里余。
 ここにある常夜燈は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人は、この灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った。  (洗馬区)」

洗馬宿はここまでです。

 

ここを右に進み坂を上り県道に合流します。

松の左が「細川幽斎肱懸松」 碑。

肘掛松 説明板によれば

「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」 と歌われた赤松の名木。細川幽斎が 「肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」 と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘をかけて休んだとの説もある。左方標柱辺りにあった。(洗馬区)

 

平出歴史公園」信号交差点を直進し直ぐに左側民家横を通り畑の中の細い道に入りコスモ石油の裏から国道19号線に合流します。

ブドウ畑が広がっています。

中山道一里塚」信号を右折し「第1仲仙道踏切」を渡ります。平出史跡公園です

 

中央西線最初の踏切です。     縄文時代から平安時代にかけての大集落です。

 

 

平出一里塚   両塚が形状を保っています。

この一里塚は、日本橋の基点より59里目のもので、宝暦6年(1756)頃には、この付近に茶屋2軒のあることが分かっている。
 (塩尻市教育委員会)」(説明板より一部抜粋)

 

平出遺跡」信号交差点を横断し、。昭和電工のコンクリート塀の横を進みます。

JR線のガード下を通り5分程進むと左側に耳塚神社があります。

この耳塚は天文17(1548)年5月、武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の時、討ち死にした将兵の耳を葬った所といわれている。

耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなると評判になり伊那地方からなど多方面から話を聞きつけて参拝したそうです。

隣に大門神社があります。

 

大門神社両部鳥居      

柴宮八幡宮とも呼ばれ境内からは銅鐸が出土しており、10世紀頃の創建と推定されています。柴宮銅鐸出土の地碑、樹齢300年を超える大欅などがあります。

「下大門」信号交差点を右折し田川に架かる塩尻橋を渡り直ぐ右折しすぐに左折し

住宅の間を通り「大小屋」信号手前に出ます。

 

「大小屋」信号交差点を斜め左に入ります。    

交差点角に 石碑群があります。庚申塔や秋葉大神などの石碑が5基建っています。

 

 

 

 

5分程進むと左側に

国重要文化財 堀内家住宅

旧堀の内村の庄屋を務めていました。
建物は、築200年の本棟造りです。

本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式です。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴です。

また5分程で阿礼神社に着きます。

 

阿礼神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命 (おおなむちのみこと)、誉田別天皇 (ほむたわけのすめらみこと:第15代応神天皇)です。

延喜式の中にその名をつらねる格式高い宮です。

塩尻陣屋跡

現在は笑亀酒造株式会社となっています。

明治16(西暦1883)年、陣屋跡にて酒造業『嘉根満本家(かねまんほんけ)』を創業、銘酒「笑亀正宗」の醸造をはじめました。酒名を「笑亀」と改めながら、塩尻伝統の酒の味を守り続けています。

塩尻宿脇本陣跡、塩尻宿本陣跡は明治15年に焼失し、敷地に碑が建っているのみ。

 

 

高札場跡、下問屋跡

下問屋は月の下15日問屋役を務めました。

 

 

 

 

この先に天皇の行幸のときの仮宮があった明治天皇鹽尻行在所(しおじりあんさいしょ)碑、月の上15日問屋役を務めた上問屋跡、飛脚問屋跡(月に三度江戸への飛脚)があります。

 小野家住宅 屋号「いちょうや」国重要文化財

旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行いました。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門があります。
 

この先に十王堂跡があります。十王とは、閻魔(えんま)大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされています。

すぐ先に塩尻口留番所跡があります。ここでは藩内を通る女性と重要物資の米・塩・材木などを厳しく調べていました。

 

「仲町」信号交差点角に柿沢一里塚跡があります。ここまでが塩尻宿です。 

 この場所は、塩尻4宿開宿400年にあわせ、江戸から57里の東山一里塚と59里の平出一里塚から、市民有志150名で向かい合いに歩いて出会った場所と、絵地図、文献や古老の話を総合的に考察し「ほぼこのあたり」として特定した 

ここを左に進みます。

 

 

永福寺                  有形文化財  永福寺仁王門             

高野山真言宗の寺院です

本尊は天平9年(737年)行基の作と伝わる駒形馬頭観音。大永元年(1521年)に源義仲の子孫と称する木曽義方が義仲の菩提を弔うため創建し、祖父の木曽源太郎豊方を開基とし、法名から長福寺とした。

九代将軍徳川家重の幼名長福丸であったことから、享保2年(1717年)に永福寺と改称しました。

 

下柿沢交差点を横断します。右側に柿沢高札場跡があります。

柿沢集落に入ります。

 

ゆるやかな坂道の両側に雀おどしのある本棟造りの家、なまこ壁の蔵、美しい石積み、このような家が道の左右にあります。かつて柿沢には立場があり賑わっていました。

坂道をさらに進みます。四辻の角に柿沢の男女双体道祖神があります。

この四辻を右に入った所に、天文17年(1548年)武田信玄と長野の小笠原長時が戦った、塩尻合戦の戦死者を葬った首塚胴塚があります。

 

中山道に戻り長い坂道を上り集落が途切れた所に馬頭観音があります。

その先の長野自動車道の高架を渡り、国道20号線を横断します(横断歩道はありません)  横断してから地下道がある事に気付きました。

横断すると山の中を進みます。途中に新茶屋立場跡、牛馬守護神碑があります。

茂みの中にタラノ木が群生しています。

山道から国道20号線に合流します。直ぐに左の中山道に入ります。

犬飼の清水跡があります。これは江戸時代お公家様の愛犬がこの清水で元気を取り戻したそうです。今は枯れています。

国道の歩道橋の横で左に坂を上ります。1km程先に東山一里塚があります。

南側の一基が残っています。   500m程先に茶屋本陣(上条家)があります。         

 

茶屋本陣の向い側に「明治天皇塩尻嶺御膳水」碑すぐ後ろには今も井戸があります。

庭に山口青邨の句碑があります。「野沢菜の 紫ならんとして 冬に

峠まであと200m程です。頑張れびっくりマーク

 

 

塩尻峠の頂上です。標高1012m

明治13年(1880) 6月24日に明治天皇が昭和22年(1947)10月14日​​​​​​昭和天皇御巡幸されたことを記念する碑があります。

 

急坂を下ります。足でブレーキを掛けながら下ります。途中に「大石」と昔から呼ばれている石があります。巨石と聞いていたが意外と小さい。この急な坂道に転げ落ちずにある事の方が驚きです。

諏訪湖が見えるびっくりマークびっくりマーク

 

峠を下ると石船観音があります。

この先は中央自動車道、岡谷インターなどにより中山道が消えています。

案内板も殆どありません(あったかも知れませんが?)。住宅もありません。人通りもありません。峠越えで疲れているのに最悪ですムキー。塩尻側とは大違いです。

 

石船観音を過ぎ左折し広い道に出ます。

4差路を直進します。右に「マルイチ山田機工」さんがあります。

ガードレールの突当りをに進みます。

岡谷ICの上の橋を通ります。後は道なりに進みます。

 

「右しもすは 中山道 左しほじり峠」と彫られた道標の先に

茶屋本陣跡(今井家)があります。この辺りが今井立場で賑わっていました。

 

中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になりました。門前には「明治天皇今井御小休憩所」の大きな石柱があります。

茶屋本陣の斜め前に今井番所跡があります。この番所は口留・穀留の両面の検問を行い、此処を通過するには前もって許可の手形が必要でした。

番所には、高島藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄りが当たりました。

番所の隣には「明治天皇今井御膳水」碑があります。

 

この先「中山道歩き人」には道案内が大変分かりにくいので要注意です。

下諏訪駅付近までの道筋をまとめると次の様になります。

横河川の橋を渡り→左に「東堀の一里塚跡」見えます→「出早口」信号交差点で国道20号を横断し→うどん屋じん兵衛の前を通り→「長地中町」信号交差点を直進し→二股に分かれる道を右に入ります→セメント工場の中まで進み細い橋を渡り右に曲がります→ローソンの前に出ます→ローソン左の細い道へ→細い道を抜けたら左に曲がり国道20号に出ます。→「富士見橋」信号交差点を右折します。→道が二又に分かれるので左に入ります→魁塚→再び国道20号に合流します。→「下諏訪駅前」信号交差点

このルートに史跡が2つあります。

東堀の一里塚跡 日本橋から56番目    魁塚(さきがけづか)

 

 史跡 魁塚(相良塚)  薩摩藩の西郷隆盛の指示で武力倒幕のため兵を集め下準備をして、維新政府軍の先駆けとし活躍した人物に相良総三と同志がいます。新政府になれば年貢が半減になるという旗印を掲げ、中山道を東へと兵を進めましたがその途中に新政府軍から偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑されました。

1868年(慶応4)3月3日の事でした。

魁塚には相良総三と7人の赤報隊幹部、道中で命を落とした隊員4人、相良と親交のあった諏訪高島藩士の石城東山(一作)をまつっています。

新政府に裏切られ汚名を着せられ、処刑された相良と同志の最後はいたましいものがあります。

 

「下諏訪駅前」、「大社通り」100m程進み高札場の前を左の坂道を進みます。

この辺りが下諏訪宿の入口です。

民家の庭先から温泉が出ています。手で触れてみると熱いお湯でした。

さすが温泉の町。

温泉旅館の間を通りT字路の左角に「御宿まるや」があります。

 

江戸時代の元禄年間創業。旧脇本陣として古い歴史をもつ宿です。
下諏訪の旧脇本陣兼旅籠を復元した美しい木造建築です。

T字路の突当りに甲州街道、中山道合流之地碑があります。

下諏訪は和田峠、塩尻峠を控え甲州街道との分岐点であり温泉場という好条件が重なり大いに賑わっていました。

甲州街道、中山道合流之地碑の後ろに「綿の湯」があります。当時この綿の湯だけが旅人に開放されていたそうです。当時はもちろん混浴でした。古き良き時代笑

 

右が甲州街道、左が中山道です。

江戸から甲斐路を抜けて下諏訪に至る甲州街道(かつて甲州道中と呼ばれていました)との合流地点。

ここを右に進み塩ようかんの新鶴さんの前から「諏訪大社下社秋宮」に向かいます。

  

神楽殿                                                  幣拝殿と左右片拝殿

神楽殿は国の重要文化財に指定されています(神様に雅楽や舞を奉納したり祈願を行う建物)注連縄は長さ7.5m、重さ1トンです。                                 狛犬は青銅製では日本一です。高さ1.7mです。

本殿はありません。ご神体は自然そのものになります。

 

中山道に戻ります。

下諏訪宿本陣跡

下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。
維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお宿泊所になり、明治13年(1880)6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になりました。  

温泉旅館の町並みを進むと四辻に「銕焼地蔵尊と“かね”の説明板」があります。

中山道はここ直進しますが、右折します。

来迎寺山門と扁額(引接山)

浄土宗知恩院派の寺。和泉式部の幼少の頃にまつわる伝説とその守り本尊で最明寺入道北条時頼が運んできたと伝えられる銕焼地蔵尊があり、毎年4月中旬にご開帳供養が行われます。

伝説は「平安の昔、顔に大けがを負った「かね」という少女が、普段から信仰厚くお参りしていたこの地蔵様に拝んだところ、不思議なことに傷は地蔵様の顔に移り、傷はたちどころに治ったという伝説があります。そして美しく成長した少女「かね」の噂は都にまで聞こえ、時の帝に召し出され、のちにかの平安の歌人、和泉式部になったとの言い伝えから、立身出世にもご利益があると言われているそうです」

中山道に戻り急坂を下ります。

現在も湯量が豊富で、かけ流しの公衆浴場として親しまれている「旦過の湯」の向い側に今井邦子文学館があります。

 

下諏訪町で幼少女期を過ごしたのち、島木赤彦門の女流歌人として活躍し女流歌誌「明日香」を主宰創刊した昭和を代表する女流歌人です。

 

 

 

 

 

少し先の四辻の角に常夜灯があります。その脇に「番屋跡」碑が有ります

番所跡から200m程進んだ右側に御作田神社があります。

ここにも温泉が出ています。                   少し先に「伏見屋邸」があります

    伏見屋邸は1864年(元治元年)の建築と推定される木造二階建ての旧商家。復元修理し、まち歩きを楽しむ観光客の休憩や住民の交流の場として開設しました。国登録有形文化財です。

すぐ先に下諏訪の一里塚があります。日本橋より55里目。

 

龍の口を過ぎるとY字路に道標があります。「右 中山道 左 諏訪宮」

左の諏訪大社下社春宮に向かいます。

 

諏訪大社下社春宮鳥居          幣拝殿 国の重要文化財

この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので幣拝殿と呼ばれている。建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。

 

諏訪大社の境内から赤い浮島橋を渡ると万治の石仏があります。

岡本太郎氏(1911-1996)がカメラを持つ手をふるわせながら「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛したそうです。

万治3年(西暦1660年)と刻まれていることから、万治の石仏と称されることになりました。

 

諏訪大社の境内から草道の急坂を上り中山道に戻ります。

出た所に「大社諏訪神社」の社標があります。

ゆるやかな坂道を上り国道142号線に合流します。

150m程進み中山道は左に入ります。

142号線に合流する手前に御柱に囲まれた道祖神があります。

合流すると右側に鳥居が見えます。扁額に「山之神」と書かれています

142号線を進み、茶色の板に白字で「中山道」と書かれた案内板に従い右折します

少し先にステンレス表示板に和田峠8.6kmと書かれています。

再び142号線に合流します。 

合流した先に落合発電所があります。諏訪地方に電気を送って百年 諏訪地方の電気発祥の地と説明板に書かれています。

すぐ先の右側の坂道を上ります。途中に芭蕉の句碑があります。

芭蕉の句碑「ゆき散や 穂屋のすすきの 刈残し

道祖神や馬頭観音があります。急な坂を息を切らせながら上りました。

木落し坂の上です。天下の木落し坂碑      下まで降りてみました。

 

説明板によれば

諏訪大社の御柱祭は7年目毎申・寅年に行います。
 樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から引き出す 「山出し祭」 が御柱年の4月、町内を曳航し建立する 「里引き祭」 を5月に行います。
 曳航途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場 「木落し」 です。男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100m余り・傾斜度45度近い崖のようなこの木落し坂頂上から、一気に引き落とします。「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」と唄われてきました

この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱8本を3日にわたって行います。

 

町屋敷地下横断歩道を通り142号線歩道に出ます。

左のガイドレール脇に「一里塚碑」とペンキで板書いた木札があります。

案内に従い進みます。

 

日本橋から54里目の樋橋一里塚跡碑

142号線に戻りるとステンレス板の表示場があり和田峠6.2kmとなっています

しばらく進むと右側に樋橋(とよはし)茶屋跡入口があります。諏訪・和田両宿間(約22キロ)の峠路に立場茶屋として造られました。

大名や公家などが休む茶屋本陣も置かれていました。「皇女和宮」もここで休憩したそうです。

142号線を1km程進むと大きな道路標識に「水戸浪士の墓→」があります。

142号線から右に入りY字路を右に進みます。

道端のステンレス板表示が和田峠5kmとなっています。142号線の下を通ると

 浪人塚(水戸浪士の墓)

元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗党)の総勢千余名が、一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決し京都に向かう途中和田峠で、松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出しました。そのとき亡くなった方を慰霊する塚です。

中山道を進むと再び142号線の下を通り200m程先で142号線に合流します。

30分程進み142号線が大きく左カーブする手前から右の山道に入ります。

入口にカーブミラー「中山道」の案内板があります。

 

山道を進みます。左斜面に西餅屋一里塚跡があります。日本橋より53里目。

 

一里塚の手前にステンレス板に「和田峠2.4km」

 

この先で国道142号線を横断して再び山道に入ります。

西餅屋茶屋跡説明板西餅屋茶屋跡碑があります。 

西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の5里18丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休憩する所)です。
ここには茶屋本陣の小口家など4軒があり、藩界のため、ときには穀留(こくどめ)番所が置かれた。幕末の砥沢口(とざわぐち)合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。
 

この先の山道が前日の雨で道が消えてどこが道か分かりません。そのまま真っすぐ上り始まました。急斜面をしばらく上り不安になり振り返ると木々の隠れて上ってきた道(?)が分かりません爆  笑 道を間違えたと分かっても草をかき分けひたすら上ると

舗装道路に出ましたニコニコ 旧142号線でした。ここから100m程下ると西餅屋から上ってくる山道の出口と向かい側に山道への入口がありました。

 

山道を進みステンレス板の表示が峠まで1.2kmになりました。この先で旧142号線を横断しまた山道へ入ります。ステンレス板の表示が1.0km・・そして

0.6km・・・0.4km・・・・お地蔵様と水鉢があります。

 

 

峠が見える所まで来ました。・・・あと0.2km・・・・・じーさまは体力の限界、息も絶え絶え。

じーさまーガンバレーびっくりマークびっくりマーク

頂上だぁー びっくりマークびっくりマーク  標高1531mもっと高いと思いました。

中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあった。皇女和宮は文久元年11月6日(新暦では11月29日)に峠を越えています。行列にお付きの者は「3万人」、行列の長さは「50キロ」にわたったそうです。凄い人数です。「食料」や「水」、その他 膨大な数の物を運ばなくてはなりません。世紀の大イベントでした。

 

峠を一気に駆け下ります。上りと違い道も広くよく整備されていてルンルンです。

2度ビーナスラインを横切り3度目から先が通行止めです。ビーナスライン歩きます

 

東餅屋茶屋跡              廃墟

 和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の 唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり、人馬の休息所となっていた。
 この東餅屋では、5軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624-43)より、一軒に一人扶持(1日玄米5合)を幕府から与えられ、難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれていました。
 

150m程先で右側の石畳の道に入ります。  広原一里塚跡があります。

説明板によれば 「この辺りを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂った原であった。
 冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれた時、五間(約9m)四方のこの一里塚は旅人の道しるべとなったことであろう。 この塚は江戸より52番目の一里塚に当たる。
 (文化庁・長野県・和田村)」

さらに山道を下り、丸太の橋を渡り、避難小屋(?)があります。そこから300m程先の苔むした石の傍らに近藤谷一郎巡査殉職の地碑があります。

さらに下り旧国道142号線を横断します。殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑があります。

近藤巡査は上田警察署丸子分署に勤務中の明治22年8月22日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。享年22歳。  

犯人は頭部に傷を負って接待茶屋に逃げ込んできたが、茶屋の主人が護送中の犯人であることに気付き、通りかかった住民2人と取り押さえて事件が判明した。

 

石段を下り旧国道142号線に出ます。茅葺屋根の接待茶屋跡があります。

 

江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金1000両を幕府に寄付した。その金の利子100両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下付し、文政 11年(1818)に設置された施行所の一つである。
11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。その後、山抜け(山崩れ)により流失したが嘉永5年(1852)現在地に再建され明治3年(1870)まで続けられた。 (文化庁・長野県・和田村)

接待茶屋跡前の水場があります。冷たくてキリっとした雑味のないとても美味しい水でした。

旧142号線からすぐ先の右側の山道に入ります。どんどん下ります。

峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀った三十三体観音と避難小屋?の前を通り

旧142号線に出ます。ここが和田峠男女倉登り口です。

 

この先で新国道142号線に合流し1km程進むと右側に「中山道唐沢一里塚」の案内板があります。国道右側の石段を上った先にほぼ原形を保った2基の一里塚があります。日本橋より51里目。

 

142号線に戻り100m程進み中山道は左に入ります。唐沢集落を過ぎ再び142号線に合流します。

10分程進むと茅葺のバス停(扉峠口)があります。 さらに進むとドライブイン杉の屋があります。

 

 

 

「杉の屋」を過ぎて「十割手打ちそば黒曜」の辺りから歩道がありません。

10分程危険な道を恐々進み右側の中山道に入ります。(あまりに危険な為側溝の中を歩きました)

青い中山道案内板に従い進みます。和田鍛冶足(かじあし)信号交差点に出ます。信号手前の左側に鍛冶足一里塚跡があります。他に道標(右諏訪街道、左松澤道)、歴史の道中山道碑、中山道碑があります。50里目の一里塚です。

 

和田鍛冶足交差点を横断し200m程進むと民家前に男女双体道祖神があります。

男女双体道祖神よりも土壁に掛けられたレトロな「金鳥」看板が気に入りました。

さらに500mに和田宿高札場跡があります。この辺りから和田宿です。

200m程先に立派なうだつの「よろずや」 和田宿休憩所があります。


「中山道歩き 信濃路を歩く 本山宿から和田宿まで」はここまでです。

次は「中山道歩き 信濃路を歩く 和田宿から軽井沢宿まで」です。