「中山道歩き 木曽路を歩く 中津川宿から上松宿まで」の続きです。

 

上松駅前の「広小路」信号交差点を直進しY字路を右に入ると、枡形の右角に一里塚跡碑が有ります。「本町一里塚跡」です。

そのまま進むと左に脇本陣を務めた原家があります。原家は「問屋、庄屋」もかねていました。その向かい側に今は歯科医院となっている本陣跡があります。

上松宿の本陣は代々藤田九郎左衛門家が歴任し、明和3年(1766)には玉林院の山門造営に尽力、文化6年(1809)の第7次伊能忠敬測量で忠敬が宿泊、文久元年(1861)11月2日に皇女和宮が江戸降嫁の際に宿泊しています。

上松宿は昭和25年の大火で古い建物は大半が消失しました。

 

すぐ先の上松町本町区公民館の角を右に曲がると玉林院があります。

 

玉林院鐘楼門                玉林院本堂

明治26年12月に玉林院は火災に遭い、本堂、庫裡は焼失したが、土蔵とこの山門は幸いにも火災を免れました。 この山門鐘楼は、玉林8世涼潭・9世渇山両和尚の頃に再建されました。棟札によれば、明和3年(1766)11月に落成しています。

 

 

玉林院の先に若宮八幡宮があります。上松町で一番古い神社で、棟札には 正徳四歳(1714)甲牛九月日、大社八幡宮建立 と書かれています。

 

十王橋を渡り左に曲がると上松宿のはずれでそこにはかつて十王堂がありました。

高札場は十王橋の橋詰山手にあったそうです。

 
十王橋                 地蔵尊と馬頭観音、道祖神

地蔵尊は十王堂に祀られていたもので、慶応3年(1867)5月の大洪水で十王堂とともに流失しましたが、それから75年後の春のお彼岸に河川の石の間から発見されてからは、対岸の山腹にあった馬頭観音とともに祀られてきたと伝えられています。

十王橋先の交差点を右折し国道19号線に合流します。

「笹沢」信号交差点まで進み左折し新国道19号線に合流し、JR中央線の鉄橋下を通り右折します。

しばらく進むと右側斜面のフェンスの切れ目に石塔群があります。案内表示は無いので注意していないと通り過ぎます。

 

賽の河原地蔵の六地蔵

棧跡の下流約 100mの木曽川の川原を、賽の川原と呼んでいます。中山道の山手側に地蔵や馬頭観音の石造が建てられていています。危険な木曽の桟を前にして、昔の旅人は川原に下りて石を拾い地蔵に供えて旅の安全を祈願したといわれています。石像8体があります。

 

100m程進むと木曽の桟(かけはし)があります。

桟は木曽川に架けられた赤い橋ではなく、山の岨道の途ぎれた断崖絶壁に木曽川に沿って木の桟道が架けられたものです。 正保4年(1644)には、その木桟が旅人の松明で焼失しました。

翌慶安元年6月、尾張藩は街道確保のため、大金を投じて中央部を橋にする長さ56間(102m)に及ぶ石垣を築造しました。 対岸には松尾芭蕉 正岡子規の句碑や明治天皇聖跡碑があります。

芭蕉の句碑 「桟や 命をからむ 蔦かつら

子規の句碑 「かけはしや あぶない処に 山つつじ
                  「桟や 水にとどかず 五月雨
子規の短歌 

むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし

 

中山道に戻り500m程進み右側の坂道に入ります。沓掛一里塚跡 説明板と石碑があります。さらに進むと沓掛馬頭観音堂があります。

 

沓掛一里塚跡(川側の1基)        沓掛馬頭観音堂  

                     ここが沓掛一里塚の山側の1基です。

すぐ先に見えるJR線のトンネルを抜け線路沿いに進み舗装道路に出たのですが??。

道が違うようです。トンネルを通らずトンネル手前の草道を進みました。多分中山道ではなかったと思います。線路沿いの舗装道路に出る事が出来ました。

 

 

そのまま進み国道に合流し、板野工芸さんの前で右折しJR線の四角いトンネル

(カルバート?)を抜け山の中へ。

 

山の中に御嶽遥拝所があります。石段を上ると御嶽神社の鳥居と「御嶽神社」石碑があります。

遥拝のため鳥居が建設されたこの鳥居は、寛永9年壬申毀損の記録があるから相当古くからあったものと思われる。

 寛永2年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。

 文政4年7月金剛院順明によって石の華表に建替えられた。石柱周囲5尺5寸、高さ3間である。壇内2畝26歩である。

 

山の中を進みJR線のトンネルを抜け国道に合流し「元橋」信号交差点を通過し

「イオン」の大きな看板の先で右の中山道に入ります。

 

 

 

まさかの通行止めです。

 

国道をそのまま歩きようこそ木曽福島への案内板のある左の旧19号線に入ります。

坂を下りバス停沼田野を右折します。中平立場茶屋跡の前から左に入ります。

 

左下に寝覚発電所木曽川取水堰堤

が見えます。

関西電力寝覚発電所で使う水を取水しています。

この先で旧国道19号に合流します。

左に「JAきそ」が見えたら日産自動車の手前の道に入ります。注意していないと見落とします。

 
塩淵の一里塚跡 江戸から70番目の一里塚  右の細道を上ります。

坂を上り木曽町役場の前に出て左に進みます。左に御嶽山本宮が見えます。

 

 御嶽大神

祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神としている。修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。(Wikipediaより )

駅横の好立地にしては、かなり寂びれた印象でした。

 

 

JR木曽福島駅     駅前Y字路の水車のモニュメントと道標。ここを左に進む。

 

中八沢橋を渡り、坂を上り枡形を左に右に曲がり「上の段」に出ます。

ここは江戸時代を偲ばせる街並みが残っています。

 

なまこ壁沿いの路地の奥に大通寺があります。 大通寺の鐘楼門

 

 

高札場の前を通り坂道を下り、広い通りに出て右折し、七笑酒造の前を通ります。

「文化交流センター」信号交差点を右折します。

 

文化交流センター            本陣跡碑

本陣跡 現在は文化交流センターになっています 入口横に本陣跡碑があります。

 諸大名が泊まるときには、門前に 「誰様御本陣」 と立札を掲げ、玄関に幕を張りました。また夜になると高張提灯を立てたといいます。
 本陣は明治半ばに壊され、明治39年に役場庁舎が建てられましたが、昭和2年の福島大火で焼失し、その後現在の庁舎が建てられております。」

 

「文化交流センター」交差点から大手橋を渡り進むと山村代官屋敷の前に出ます。

 

山村氏は、木曽氏の重臣として活躍しました。後に、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配を任される木曽代官となり、以後、明治2年に至る274年間木曽谷を支配し、関所を守っていました。 

 木曽の山林と4大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は強大で、その屋敷は豪壮を極めたものでした。

 

文化交流センター交差点に戻り中山道を進みますが、代官屋敷を木曽川上流方面に沢山の見所があります。時間があれば「やまぼうしの咲く長福寺」、「木曽義仲の墓のある 興禅寺」、明治の息吹を感じる御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)を訪れてはいかがでしょうか。

 

「文化交流センター」交差点に戻り、「上町」交差点を過ぎると右側に山の上に向かう小道があります。 木曽福島関所への登り口です。

 

木曽福島関所跡碑             西門 

国史跡福島関所跡の説明板によれば

「福島関所の創建された年代は明らかではないが、中山道の開かれた慶長7年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時天下の4大関所と称していたものである。
 当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治2年(1869)6月までその機能を果たしてきた。  この関所は、特に 「女改め」 と 「鉄砲改め」 とに重点が置かれていた。  徳川幕府による交通政策上、重要視されていた。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんど留めていなかったが、昭和50年夏に行なわれた発掘調査の結果、寛文年間(1661-70)頃のものと推定される。
関所跡の奥に高瀬家資料館があり、島崎藤村に関わる史料と関所番や生活に関わる道具類が所蔵、展示されています。

巨大な冠木門を通り関所を後にします。ここまでが木曽福島宿です。

この先で「関町」信号交差点で国道19号線に合流し左に橋が見えたら左側道に入りY字路を左に進みます。

さらに進むとY字路があります。今度は右に進み、「くるまや国道店」の横に出て国道に合流します。

国道向い側に大日如来坐像と経塚、隣に芭蕉の句碑があります。

思い出す 木曽や四月の 桜狩り

 

国道19号線を進み「矢崎橋」信号交差点右の細い坂道を上ります。

国道に合流しデイリーヤマザキの前に来たら左の中山道に入り国道に沿って進みます。

 

案内に従い右の小径を上ります。途中に石仏群があります。     

坂を上ると国道に出ます。ここ道わきに出尻一里塚跡 江戸から69里目の一里塚

ここで国道を横断(横断歩道はありません)してJR線下のトンネルを通ります。

「上田口」信号交差点を横断し、Y字路を右に進むと手習天神があります。                                                                        

手習天神 説明板によれば

「このお宮は、古くは山下天神と呼び、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。

 源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。

 境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ、中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参詣したものと言われています。

 このお宮の祭りは、毎年8月24日、25日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行われています。 (木曽町)」

鳥居の隣に 二十三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑と薬師堂があります。

 

しばらく集落の中を通り集落はずれのカーブミラーのある所で案内板に従い左の坂道を下ります。

 

錆びて不安な橋を渡り草道を進み石作駒石(いしづくりくせき)の墓や道祖神と小社 

の前を通り県道267号線に合流します。

 

 

中山道中間点

江戸、京都双方から、67里38町

(約268km)に位置している場所です。

 

 

 

 

 

 

原野の石仏群を過ぎ、無佐澤橋を渡ると庚申塔群があります。

その先左奥にJR原野駅あります。そこを過ぎると原野の集落に入ります。

集落はずれで第五中仙道踏切を渡ります。すぐ先のY字路を右に進みます。

線路沿いを10分程進むと一里塚跡があります。

 

宮ノ越一里塚跡 江戸から68里目の一里塚

10分程進むと下町公民館があり道祖神や水神、廿三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑、大乗妙典供養塔、西国三十三所観世音菩薩があります。

下町公民館の辺りが宮ノ越宿の入口です。

 

 

明治天皇御膳水

明治13年6月(1880)明治天皇中山道ご巡幸の際に、旧本陣にお小休みされ、この井戸水をもってお茶を献上しました。

宮ノ越宿本陣跡

説明板によれば

「宮ノ越宿は、慶長6年(1601)徳川幕府の中山道整備の時、薮原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から36番目の宿として新設され、明治3年(1870)の宿駅制度廃止まで続いた。
 宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、絵図の本陣は元治2年(1865)の大火で焼失したがすぐに再建された。
 明治13年(1880)の明治天皇中山道巡幸の折この本陣に小休止され、明治16年(1883)の大火では主屋が焼失するが客殿部は残った。その後生活の場として一部改造されるが、木曽11宿中で唯一現存し、明治天皇も休まれた部屋がそのまま残る貴重な建物である。
 (木曽町)」

 

100m程先の「寺橋」を渡ると徳音寺があります。

徳音寺鐘楼門

徳音寺は木曽義仲が母親の小枝御前を弔うために仁安3年(1168)に建立したお寺で、木曽氏の菩提寺となっている。

この鐘楼門は木曽における江戸時代中期の楼門建築を代表するものとして、よくその姿をとどめています。

境内には天明年間(1781-88)に建立された木曽義仲公霊廟と木曽義仲を中心にして一族のお墓があります。

 

徳音寺の隣に

 

 

義仲館

木曽義仲の生涯に関する歴史資料館。建物は全体が武士の館を模して造られている。

義仲橋を渡り中山道に戻ります。

葵橋を渡り右折し木曽川沿いに進みます。

 

御小休の址碑

有栖川宮織仁親王、宮妃薫子両殿下御休所之跡碑があります。

皇女和宮の元婚約者の有栖川熾仁親王夫妻が中山道旅行の折、手塚家で休息しました。

 

 

 

 

巴橋                    巴淵

巴淵碑と謡曲 「巴」 と巴淵の説明板によれば

謡曲 「巴」 は修羅場の中でも女性を主人公とした唯一の作品です。木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと 「木曽義仲が討ち死にした場所で、弔って欲しい」 という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現われ、「自分は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった」 と語る。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。
 巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。 (謡曲史跡保存会)

 

この先「巴渕」信号を右折し少し進むと左側に赤い鳥居が見えて来ます。

 

 

南宮神社一の鳥居 (両部鳥居)                          南宮神社二の鳥居 奥に拝殿

平安時代末、幼少時代を木曽にて過ごした木曽義仲は、京都の石清水八幡宮より勧請された旗挙八幡宮で仁安元年(1166)元服したと伝えられている。その後、宮ノ原の地(宮ノ原の地(今の旗挙八幡宮付近)に己の屋敷を築いた折現在の地に当社を遷し篤く崇敬した。

 

案内に従い国道を進み横断歩道を渡り左折し進むと旗挙八幡宮があります。 

旗挙八幡宮の御神木           八幡宮両部鳥居 奥に拝殿

樹齢800年以上の大欅の古木(左)と実生(みしょう)で生育した樹齢150年余りの2代目欅。           

ご祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、木曽義仲公

当神社は、平安時代末、幼少時代を木曽にて過ごした木曽義仲公が、養父中原兼遠と共に京に上った時、源氏一門の崇敬の篤い石清水八幡宮を歓請し当地に祀ったと伝えられている。

 

中山道に戻ります。「巴渕」信号を過ぎ、その先の「神谷入口」信号の先の、山吹トンネル左側の、山道に中山道は入りますが、通行止めです。トンネルを通ります。

 

トンネル出口(藪原宿側)から100m程先の左側に「吉田の一里塚」と馬頭観音があります。

「七笑」のお酒の大きな看板が目印です。

後の説明板は中学生の手書きです。

 

 

 

 

10分程進むと「焼肉権兵衛」が右側に見えて来ます。駐車場に西国巡礼供養塔、 馬頭観音、庚申塔などの石塔群があります。

 

さらに5分程進み吉田洞門外側の歩道を通ります。

20分程進むと「藪原」信号交差点につきます。斜め左に入り坂道を下りJR線の

下を通り、直ぐ右折して民家の間を抜けT字路左側D51機関車があります。

D51の横に藪原の一里塚があります。

中山道はT字路を右に進みます。

 

江戸より66番目の一里塚 ここは木祖村民センターの一部でした。

一里塚の後ろに戦役英霊之碑、平和之塔、宝泉開拓団記念碑がありました。

 

中山道に戻り駐在所の前を通り小さな川を渡り、すぐ右の小径にはいります。お墓と田んぼの間を進み、民家の間を通り、高札場前に出ます。藪原宿の入口です。

 

藪原宿高札場跡             山六篠原商店

江戸時代から中山道土産として全国にその名を知られた、お六櫛(おろくぐし)。硬く粘り気のある「みねばり」の木を使ったくしは、やさしい使い心地の逸品です。薮原周辺では、約300年前から職人たちが匠の技を磨いてきました。「お六櫛工房 篠原」の篠原武さんは国の「現代の名工」に指定されています。

 

防火高塀跡

元禄八年七月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火がありました。

その後、防火対策として宿再建の際各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ツ辻の広小路を作りました。文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きそのうえに高い土塀をつくって防火壁としました。当時、これを「高塀」と呼んでいた。
この薮原宿のような防火高土塀によるのは少ない例です。

 

宿内を進むと白壁と茶色の腰板が印象的な古い建物の隣に藪原宿本陣跡があります。

安政年間の記録によれば、間口十四間半(約26メートル)奥行二十一間半(約39メートル)の敷地(約310坪)で、その中に六間半に門を構え、番所・厩・玄関付の屋敷で、部屋数は上段の間を含め二十余でした。

南寄り間口八間が本陣古畑氏(六代より寺島と改姓)に居宅となっていたが、宿泊者が多いと共用しました。
薮原宿の本陣は中山道難所の一つだった鳥居峠の麓に位置し、宿泊するものが多い故か規模は木曽の宿駅の中では比較的大きい方です。文久元年(1861)には皇女和宮もこの本陣に宿泊しまた。

 

本陣跡を過ぎ100m程進むと小さな沢に架かる橋があります。注意していないと気付かず通過してしまいます。

鉄道が通る前は、この橋の手前から右に上る道があったようです。

この辺りが藪原宿のはずれです。

橋を渡ると前方に線路上に架かる渡線橋が見えます。 
渡線橋を渡り山際の道に出ると飛騨街道追分(分岐点)の道標があります。

奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる飛騨街道(奈川道)の追分です。

かつてはこの辺りから線路を跨ぐ道がありました。

明治44年に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製紙工場で働く飛騨の女工達がひんぱんに往来するようになりました。

中山道からははずれますが、飛騨街道追分(分岐点)から「葛沢(くっさわ)の大橋」を渡り坂を下り、上った先に藪原神社と極楽寺があります。
 

藪原神社                  藪原神社拝殿

藪原神社は江戸時代には熊野権現とも呼ばれていましたが、明治四年に今の名になったそうです。

本殿は文政10年(1827)建立と言われ、木祖村の有形文化財に指定され藪原の鎮守様として親しまれています。祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)・速玉男命(はやたまのおのかみ・事解男命(ことさかおの みこと)

境内に芭蕉の句碑

 杜かけにワれらもきくや郭公(ほととぎす)

 

隣に極楽寺があります。臨済宗妙心寺派のお寺

 

極楽寺山門               観音堂 観音堂が改築された際には格天井の絵画を藤田嗣治(つぐはる)が担当しています。

境内に坂村真民の詩碑があり「念ずれは花ひらく」の冒頭部分が刻まれていました。

大桑宿の天長院でも同じ詩を刻んだ碑が有りました。あちらも臨済宗妙心寺派のお寺でした。

 

中山道に戻ります。尾州御鷹匠役所跡を過ぎ、オオモミジで有名な天降社を過ぎ

旅人がのどをうるおした「原町清水」を過ぎ鳥居峠入口に着きます。

 

舗装道路、石畳、そして砂利道に変わります。 歩いてきた藪原宿が見えます。

御岳神社

戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から、御嶽を遙拝し、戦勝を祈願した。

その功あって勝利を得ることができたので、峠に鳥居を建てた。

以来、この峠は『鳥居峠』と呼ばれるようになりました。

熊除けの鐘があります。ここで2個目です。栃ノ木が群生しています。

子産の栃と説明板に書かれた古木があります。子宝に恵まれない人が、子産みの栃と言われるこのトチノキの皮を煎じて飲むと子どもに恵まれるそうです。

 

 

鳥居峠の一里塚跡碑 塚はありません   本沢自然探勝園(葬沢)

葬沢 説明板によれば 

天正10(1582)年2月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場です。

この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれています。

 

 

鳥居峠奈良井側入口  奈良井宿に入ります。   鎮神社

鎮神社、はもとは鳥居峠にあったものを、天正年間(1573~92)に奈良井氏が現在地に移したとされています。

元和4年(1618)に、疫病流行を鎮めるために下総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれています。

 

水場、高札場を過ぎて宿場内に入ります。

 

 中村屋 塗師の創始者、中村恵吉の分家  奈良井宿名所 鍵の手」の石碑

に当たる櫛問屋。市指定有形文化財です。

 

 

 長泉寺山門                本堂の「龍の大天井絵」

  現在の本堂は幕末の慶応2(1866)年に建てられたものです。 山門は、元々は奈良井宿の本陣のものでした。火災で本陣は焼失しましたが、正門が残され、その後当寺の山門として移築されました。

徳川家光により始められた宇治茶を江戸まで運ぶ 「お茶壺道中」 の宿泊所として毎年使用されていました。

本堂の「龍の大天井絵」は、明治時代になってから飛騨の匠・山口権之正(やまぐちごんのかみ)が描いたものです。“正”は“かみ”と読み、飛騨の匠の優れた棟梁に許された官名です。このほかにも、山口権之正は長野県内に数多くの作品を残しています。

上問屋跡

国の重要文化財に指定されています。

天保11年(1840)の建物が残されており、現在は史料館として保存されています。

館内には、この家に伝えられた古文書や家具等が陳列されています

明治天皇奈良井御行在所碑があります。

 

 

右側に越後屋創業は寛永年間(1624~1644)の旅籠。

現在も旅館として営業しています。

観光案内所前の水場と食事処松波の間を進むと本陣跡があります。

 

 

 

 

 

観光案内所前の水場と食事処松波の間を進むと本陣跡があります。

標柱があるだけです.

右側に松阪屋(手前)、

隣に徳利屋

徳利屋は市指定有形文化財

 昭和15年頃まで旅籠屋を営んでいたそうです。

        

  

横水の水場 隣に重要建造物群選定の碑     奈良井宿下町の街並み

 

宿場の町並みが途切れた先にY字路があります。この辺りが奈良井宿のはずれです。

右が中山道です。左の狭い方の坂道を上ります。初期中山道はこちらの道を通っていたそうです。

  

八幡宮の石段を途中まで上り杉並木を歩いていくと二百地蔵が現れます。

二百地蔵となっていますが、そのほとんどが観音様です。お地蔵様はそこまでの数はありません。木曽の長い歴史の中で、鉄道敷設や国道の開削の際に行き場を失った観音像(聖観音、千手観音、如意輪観音など)や地蔵がここの地蔵堂に集め祀られたそうです。
石仏の制作者や作られた年代も違うため、様々な表情の石仏があります。

 

中山道に戻り戻ります。

JR線の地下歩道を抜け道の駅に向かいます。

 

道の駅にある木曽の大橋 総桧造りの太鼓橋です。

 

中山道に戻ります。

 

JR奈良井駅の前を通ります。       丸山漆器店 国の登録有形文化財です。

 

踏切を渡り、奈良井川を渡り、国道19号に合流します、

川の流れが変わりました。ここから川は日本海に向かいます。

 


国道19号を進み「平沢南」信号を左に入ります。第3仲仙道踏切を渡ります。

中山道はそのまま進みますが、笹良漆器店前の小道を左に下り、JR線の鉄橋の下を通ります。初期中山道はこちらを通っていたそうです。

奈良井川に架かる橋を渡ります。橋戸一里塚跡があります。

 

橋戸一里塚
 この一里塚は、経路変更の経緯を示す貴重な交通史跡であり、地区住民により平成19年に周辺整備が開始され、中山道の歴史をしのぶ公園として親しまれている。
 (塩尻市教育委員会)

この説明は右岸左岸が逆になっているいるのでは?

 

中山道に戻ります。

150m程進むと木曽平沢の案内板があります。

16世紀末頃に集落形成が始まったとされています。

慶長7年に江戸幕府により中山道のルートとして整備されたことで宿場である奈良井宿の枝郷という位置付けの工人町として発展を始め、高地の寒冷気候が漆工に適していることもあって、江戸時代を通して中山道随一の漆器生産地として栄えることになりました。今日においても漆器生産量は日本有数です。

2006年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。

 

 

木曽平沢の町並み

 

平沢の町はずれに諏訪神社があります。

 

諏訪神社舞殿  神紋が二つあり、    隣の塩尻市楢川支所に芭蕉の句碑

右が建御名方命 左が香具突知命    「送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」 

 

「道の駅」木曽ならかわに寄り道し 「平沢北」信号で国道19号に合流します。

楡沢橋を過ぎび国道から右側の中山道に入ります。

桃岡橋を渡り「桃岡」信号を右折し直ぐに左折します。一里塚があります。

 

押込一里塚跡 江戸より63里目の一里塚。     坂の途中の水場

 

坂を上ると石塔群津島神社があります。小さな橋を渡り進み草道の茂みの中を抜け坂の上に出ると国道の側道にでます。

 

金網(グレーチング?)の上を歩きます  食堂SSを過ぎると左に「贄川のトチ」

                                                           県の天然記念物    樹齢約千年です。

100m程先の右側にJR線の上を通る渡線橋があり渡ります。

渡線橋を渡り民家の庭先を抜けて左折します。

深澤家住宅

江戸時代末期の木曽地方における宿場の町家の姿を忠実にとどめていることから、国の重要文化財に指定されています。

水場、津島神社・秋葉神社を過ぎ5分程進んだ所に贄川関所跡があります。

  

中山道の人と物の往来を監視するために置かれた贄川口留番所で、女改め、白木改めなどを行っていました。
明治2年に取り壊されたが、多くの文献をもとに昭和51年に復元されました。

 

メロディー橋を渡り国道に合流します。

この辺りが贄川宿のはずれです。

JR贄川駅に立ち寄りました。駅前の説明板に「贄川宿は、中山道69次の33番目の宿場である。また、木曽路の北の防衛拠点として建武2年(1334)に関所が設けられ、木曽福島関所の副関として当時重要な役割をはたしていた」

木曽路はこの先の桜澤の道標「是より南木曽路」の碑までですが、都合でここを区切りとします。

本山宿に向かいます。

 

次は「中山道歩き 信濃路を歩く 本山宿から軽井沢宿まで」です。