中津川宿から美濃路、近江路を歩き一か月後再び中津川宿の高札場に立ちました。

ここが江戸側の中津川宿入口です。

 

 

 

 

 

 

旭が丘公園

茶屋坂を上り旭が丘公園の手前に芭蕉の句碑があります。

山路来て なにやらゆかし すみれ草

美濃路を歩いてきた旅人はなぜこの句がここにはてなマーク 山路はこれからですよ。

木曽路を越えてきた旅人にはよく理解できる句です。

※「ゆかし」というのは、心惹かれる・なつかしいといった心情です。

公園には伏見稲荷神社、はだか武兵(ぶひょう)の祠、天満宮、石碑、石仏などがあります。

 

尾州白木改番所跡碑

尾張藩の直轄地であった木曽山から採伐した材木の輸送は、重量材(丸太類)は木曽川を利用して流送し、軽量材木類は牛、馬による駄送の方法がとられていました。 木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていました。
これ等の施設は明治4年(1871)廃藩置県によって廃止されました。

 

急な坂道を登った峠に

覚明神社

覚明とは御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられている行者さんで、天明5年(1785)5月5日に木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まったおり、主人佐次兵衛一家が皆でもてなし、その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈ったと云われています。その開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったのがこの神社の始まりです。

ここを過ぎると急な下り坂です。

下り坂の途中に「子野の一里塚」がありました。

坂を下ると今度は極端な上り坂です。「与坂」と言います。

上っていると後ろにひっくり返る様な坂です。こんな坂は初めてです。

 

 

与坂立場跡

ここには延享2年(1745)から天明2年(1782)まで白木を取り締まる与坂番所がありました。

また越前屋という茶屋があり、三文餅が名物でした。

「三文餅」は米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めて塗った物だそうで

今はカフェになっています。

 

一気に急坂を下ります。

 

おがらん神社(落合五郎兼行之城跡)

落合五郎兼行は平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来で美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたと言われている。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光、今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻になる巴の三男一女があり、平家物語の中、義仲の有力な武将として取り上げられている。 

 

落合宿入口の枡形にある善昌寺の「門冠の松」

樹齢450年と言われていにある

 

 落合宿本陣跡

落合宿本陣井口家は、代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務運営を行う指導的な家柄で、苗字帯刀を許される礼遇を受けていました。

明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、御小休所となっています。

岐阜県17宿の中で、唯一当時の姿を留めている大変貴重な建物です。

本陣門は文化12年(1815)の大火で焼失したが、大火後に加賀藩前田候から贈られたもので、本陣門脇には、明治天皇落合御小休所碑が建っている。

 この建物は文化15年(1818)に建てられました。

明治14年に今までの板葺き平屋の建物を、土蔵造二階建てに立て直していますが、玄関から上段の間までの内部、加賀藩の前田家から火事見舞に拝領したという正門は昔のままです。

 

この先の枡形までが落合宿です。

 

山中薬師(浄土宗医王寺)

嘉永6年(1853)の建立。薬師如来は行基(ぎょうぎ)の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1として広く信仰を集めている。

またこの寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐のお告げによる「狐膏薬」伝説が伝わっています。助けた狐に教えてもらった「狐膏薬」を

「御夢想 狐かうやく」として看板をだし売り出しました。

この膏薬が大へんよく効くと大評判になって、村の人はもちろん、旅人から伝え聞いて遠くからわざわざ買いにくる人が絶えませんでした。

医王寺の境内に芭蕉の句碑があります。  

梅が香に のっと日の出る 山路かな」 

 

落合の石畳

濃飛流紋岩がつかわれています。濃飛流紋岩は美濃地方、飛騨地方にある岩石です。

説明板によれば 「 国史跡 中山道 平成22年2月22日追加指定 落合の石畳 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。

 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には「馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7km)、道幅2間から3間、尾州より普請」とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間の中山道の維持管理を行っていたことがわかります。

 石畳の構造としては石畳の道幅約4mで1平方mあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。

 石畳の長さは約840mで、その間3ヶ所(径708m)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度「歴史の道路整備事業」にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。 中津川市教育委員会」

 

新茶屋の一里塚跡を過ぎると馬籠宿に入ります。

「是より北 木曽路」の碑  

昭和15年(1940年)7月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫(きごう)したものです。

この碑は藤村記念館の落成10周年を記念して、昭和32年(1957年11月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立されました。

 

近くに芭蕉の句碑「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」があります。​​​​

この碑が建てられたのは天保13年(1842)のことで、この頃、岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする 「美濃派」 の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられた。

 

ここは信州サンセットポイント百選の地です。(2023年8月撮影)

ここには正岡子規の句碑 「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」があります。 

 

                       

石屋坂を上り馬籠宿に着きました。

道中では誰一人出会うことはありませんでしたが、ここに来て観光客でいっぱいです。

道標には、「中山道馬籠宿 江戸へ八十里半 京へ五十二里半」 と刻まれています。

 

馬籠宿は全長600m程の坂道にあります。

 

右側に清水屋資料館 藤村の手紙など多数保管されています。

 

本陣跡

代々、島崎家が務めた。島崎藤村の生家であり、藤村記念館として公開されています。

明治天皇停蹕之蹟(めいじてんのうていしつのあと)があります。

1880年(明治13年)6月28日、明治天皇は馬籠宿本陣島崎秀雄宅で休憩されました。

 

高札場跡

明治時代以降廃止になりましたが、近年当時の高札場に忠実に復元され内容も江戸時代中期の正徳元年(1711)の毒薬やキリシタンの禁止、明和7年(1770)の徒党を組むことの禁止などが再現されています。

馬籠宿は明治24年の大火でほとんどが焼かれ、今の集落はその後の建物です。

ここが馬籠宿江戸側の入口です。

 

妻籠宿に向かいます。

途中アップ、ダウンを繰り返しますが基本は上り坂です。

水車塚を過ぎ梨子ノ木坂を上ります。「熊出没注意」の看板があります。

 

県道を2度横切った先の休憩小屋に

十返舎一九狂歌碑があります。

渋川の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物

古くから峠の名物は栗こわめしであった。江戸期の戯作者十返舎一九は文政2年(1819)に木曽路を旅して 「岐蘇街道膝栗毛」 の馬籠宿のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。

 

馬籠峠集落にはいります。

馬籠峠集落の町並み  

右側は牛方衆組頭今井仁兵衛住宅跡(中津川市景観重要建造物指定)平成17年2月13日までは長野県木曽郡山口村馬籠の峠集落でした。生活文化圏が中津川市に属するため、早くから越県合併紛争が起こっていました。平成の大合併で再び越県問題が持ちあがり、平成17年2月13日をもって岐阜県中津川市馬籠の峠集落となりました。

粉先に熊野神社があり、「明治天皇御膳水碑」があり明治天皇がこの辺りで休憩されたようです。 

 

馬籠峠  標高790m。 かつては801mでしたが道路を作る際に峠を削ってこの標高になっています。

「峠の茶屋」があります。外人さんが休憩してました。

茶屋の横に正岡子規の句碑があります。「白雲や青葉若葉の 三十里

 

ここからは妻籠宿まで山の中の下り道です。

立場茶屋

 説明板によれば「立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅一軒だけになっている。
 牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が10間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて8間に縮小されている」

今は休憩所になっていました。

 

となりに一石栃の白木改番所跡があります。

木一本でも無断で盗めば首が飛ぶ時代です。厳重な監視が行われていた。

 

下り坂の途中に樹齢300年と推定される「さわら大樹」があります。

下枝が立ち上がっていて神様が腰掛けて休む場所として神居木(かもいぎ)と呼び大切にされているそうです。

 

この先に峠の出口があり、県道を横断して再び旧道に入ります。

橋を渡り県道に出て旧道に入るのですが道路工事中の為案内に従い県道を進みます。

 

崖下に進む階段を下りて行くと滝があります。

女滝

男滝

男滝女滝の説明板によれば

「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩の場であった。滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。
 この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。

また吉川英治著 「宮本武蔵」 の舞台にも取り上げられている。
 滝に向って左が男滝、右が女滝である。滝周辺は険阻なため、道はしばしば付け替えられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である」

 

この先の木々の間にカモシカがいました。カメラを向けるとさっと見えなくなってしまいました。

 

倉科祖霊社

説明板によれば「ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。
 伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。
 七郎左衛門は、主人貞慶の命を受けて大坂の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者30余名とともに討死してしまった。時に天正14年(1586)3月4日のことであった。
 当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、そうした因縁からこの争いも起きたと思われる」

 

山道を抜け坂道を下ると県道に合流します。その手前に「下り谷の一里塚跡」と

道標に「とうがめ沢 下り谷を経て馬籠峠へ」があります。

 

県道を進み庚申塚のある所から中山道に入ります。

大妻籠集落に入ります。

民宿が三軒並んでいます。

 

水車のある休憩所

 

この先で広い道に出てすぐ中山道に入り神明橋を渡り山の中を進みます。

小さな集落を過ぎ再び広い道(初恋街道)に出て大妻橋を渡りふたたび中山道に入ります。

蘭川沿いに歩き妻籠宿有料駐車場の脇道を通り、国道256号を横断して妻籠宿内に向かいます。

 

古い家並みが続きます。

 

宿内で右の旧中山道と左の新道に分かれます。

新道を進むと延命地蔵堂、瑠璃山光徳寺があります。

旧中山道を進み枡形で新道と合流します。

 

妻籠宿本陣

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子に来た広介でした。
本陣は明治になって取り壊され、その後、御料局妻籠出張所が建設されましたが、のちに町に払下げられたのを機に、平成7年、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに復元されました。

 

脇本陣奥谷

代々脇本陣・問屋を勤めた家で、現在の建物は明治10年にそれまで禁制であった木曽桧をふんだんに使い、当時の粋を集めて建てたものです。
また、島崎藤村の初恋の相手「おゆふ」さんの嫁ぎ先でもある。

門柱の右奥に明治天皇妻籠御小休所跡碑があります。

 

妻籠宿高札場跡

江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札場を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多かった。

 

この先で地蔵沢橋を渡り口留番所跡を過ぎた辺りが妻籠宿のはずれです。

しばらく歩き久しぶりの急坂をこえると妻籠城址の案内板があります。 

左の山道をさらに登ると妻籠城址に行けるようですが、坂道はもう結構です。

 

すぐ先に

しろやま茶屋があります。  朽ち果てるのを待っている様な状態です。

 

しばらく進み「くぼほら茶屋跡」を過ぎた上り坂に良寛碑があります。

木曽路にて この暮れのもの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて小牡鹿鳴くも」

この歌は手まり上人と言われた良寛が木曽路を通った折に詠まれた二首の内の一首です」(説明板より)

 

さらに坂を上ると両側に一里塚があります。

 

上久保の一里塚  説明板によれば「一里塚は、慶長9年(1604)から17年(1612)にかけて、一里(約4km)ごとに築造されたものである。一里塚の基準は、5間四方(約9m)、高さ一丈(約3m)で、塚上に榎や松を植えた。街道の両側に対に築造され、旅人に安息と利便を与えた。 町内には、十二兼・金知

屋・上久保・下り谷の4ヶ所に一里塚があったが、現在原形を留めているのはここだけである。江戸から数えて78里目の塚である」

ここの枝垂れ梅は南木曾町の三大枝垂れ梅といわれています。後の二つは、この先の「和合の枝垂れ梅」と「三留野宿本陣の枝垂れ梅」です。見頃は3月中旬です。

 

「戦沢橋」を渡り進み小さな橋を渡り4差路に出ます。 

そこに「かぶと観音」があります。境内に「ふりそで松」の説明があり木曽義仲や巴御前に由来する所の様です。

 

この先で左下に南木曾町の町並みを見ながら坂を下ります。

坂を下った先にY字路があります。

左はSL公園、JR南木曾駅へ。右が中山道です。

 

SL公園で休憩して中山道に戻る時「一刻院」の木札の掛かっているお堂がありました。お堂の中は数えきれない程の仏像が祀られていました。

 

中山道に戻り南木曾町の天然記念物「和合の枝垂れ梅」を過ぎすすむと園原先生碑

があります。どこかの学校の先生の碑にしては大袈裟すぎます。

説明板を見てもよく分からないのですが神官の家に生まれ「神学則」「木曽古道記」を書いた人物。死後5年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたものです。

 

中山道から見える貯木場

 

蛇抜沢にかかる蛇抜け橋を渡ります。蛇抜けとは蛇抜けとは山津波の事です。

 

この辺りまでは中山道は一本道で間違えることはありませんが、ここからは案内表示をに注意して進みます。道が複雑になります。

 

大沢田川橋」を渡り右折し直ぐ左の旧道に進みます。この先で中山道は民家の庭の中を進みます。

梨子沢橋」渡ります。

近くに等覚寺があります。こんな小さな町に驚くほど立派なお寺があります。

曹洞宗の日星山等覚寺   仁王門の山門

このお寺は円空仏がある事で有名だそうです。

等覚寺の資料から貞享3年(1686)8月頃円空は南木曽に滞在して、造像に励んでいた。南木曾町では6体の円空仏が発見されているが、等覚寺にあるのは、次の3体です。 韋駄天像(町有形文化財) 弁財天十五童子像(同) 天神像(同)

 

三留野宿本陣跡

説明板によれば 「この長野地方法務局南木曽出張所跡地は、三留野宿本陣があったところである。本陣の建物は、明治14年(1881)7月10日の三留野宿の大火災の際焼失してしまった。ちなみにこの時の被害は、家屋74軒、土蔵8軒にい達した。
 しかし、庭木の枝垂梅(町の天然記念物)と明治天皇御膳水が本陣の名残りを留めている。明治天皇は、大火の前年の13年6月27日に一泊されている。御膳水の井戸は昭和54年に復元したものである。

 

しばらく進むと家並みが途切れ、JR線の鉄橋の下を通り山沿いの道を進み国道に合流します。

鉄橋の手前の木工所から右に入る道があります。与川道です。江戸時代この先の木曽路は大変危険な道でした。そのう回路として利用されました。山道を歩く5時間のハイキングコースだそうです

 

羅天橋 沢に架かる橋です。歩道の下は木曽川

山が木曽川まで迫り多くの沢が出来ています。

江戸時代、この辺りは「桟」(かけはし)が何か所も架けられ危険な思いをして渡る難所でした。

浅田次郎作「一路」にも登場する難所です。島崎藤村の「夜明け前」の書き出しは「木曽路はすべて山の中である。 あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」です。

まさに三留野宿からこの先の野尻宿辺りに当てはまる書き出しだと思います。

 

国道19号線の歩道を進み中山道は「柿其入口」信号を左に入ります。

明治天皇中川原御膳水碑 

「明治天皇御小休所記念碑」と「明治天皇中川原御膳水」碑が民家の入口にあります
1880年(明治13年)6月27日、ここで休憩され「御膳水」を飲まれたそうです。

御膳水碑横に小さな池がありました。

 

さらに進むとJR十二兼駅があります。

駅の渡線橋を渡り国道19号線に出て三留野宿方面に戻ると150m程先の信号機のすぐ欲に「十二兼の一里塚」(碑のみ)があります。

中山道に戻り踏切を越え国道に合流します。

「十二兼北」信号の右坂道を上ります。右に熊野神社があります。

小さな集落を抜け急な坂道を下り国道に出ます。ここで国道を横断したいのですがカーブでが見通しが悪くて大変危険です。

 

恐々横断し国道から左の中山道に入ります。

踏切を渡ると左下に

読書(よみかき)ダム

関西電力株式会社の水力発電専用ダムで、読書発電所(最大出力11万9,000キロワット)の取水ダムです。

木曽川には発電専用ダム22ヶ所と多目的ダム5ヶ所あるそうです。

 

また踏切を渡ります。次にまた踏切がありますが、ここは渡らず踏切を左に見ながらすすみ今度は「阿寺渓谷入口」信号を右に見ながら中山道を進みます。

10分程進むと「下在郷一里塚跡碑」があります。

 

二反田橋を渡ります。

西の「はずれ」と呼ばれる屋号の家

ここが野尻宿の入口です。

「野尻七曲り」と言われるように曲がるくねった街並みです。

 

渥美清の「男はつらいよ」に出ていた庭田屋

映画「男はつらいよ」第22作「噂の寅次郎」のロケ地となりました。寅さんが木曽路を旅した際に宿泊した旅館です。宿場町の雰囲気が感じられる建物です。

 

「庭田屋」さんの角を左に曲がります。

国道19号線の地下道を通り坂を上った所に妙覚寺があります。

 

妙覚寺山門                マリア観音

説明板によれば「当寺は、天台宗行基の古跡正安中草創権大僧都阿闍怪安と伝えられ、後、臨済宗妙心寺派に改宗し初屋和尚により開山されました。

 寛永元年(1624)再建され、京保5年(1720)須原常勝寺の弘道法嗣秀峰和尚を講じて中興開祖としました。現在の本堂は享保11年(1726)に建てられたものです。裏庭には天保3年(1832)の作とされる十字架を左手に高くかかげたマリア観音があり、これは野尻川向にあったものを、昭和46年に現在の場所に安置したものです」

 

中山道に戻ります。

庭田屋さんの先を左に曲がるとJR野尻駅です。

野尻宿脇本陣跡

本陣は問屋を兼ねて森家が務め、脇本陣の木戸家も問屋を兼ねていました。

しかし両建物とも明治27年(1894年)の火災により焼失し、遺構は残っていません。

 野尻宿本陣跡  説明板によれば

野尻宿は中山道69次の内、江戸方から40 番目の宿で須原宿から1里30町(7.3km)、三留野宿へは2里 18町(9.9km)。

 野尻本陣は慶長6年(西暦 1602年)に指定され、木曽氏家臣の森家(徳左衛門または喜左衛門)が家督を継いでいた。

 この本陣は門構えの附いた建坪192坪(632㎡)の大きさで木曽下四ヶ宿(野尻、三留野、妻籠、馬籠)の中では最も大きいが、享和2年(1802年)に投宿した大田南畝は質素な造りであったと「全成紀行」に記している。
 宿の出入り口にある2軒の「はずれ」(屋号)と「はずれ」の間の6町660m)には108軒の家に986 人が住み(天保14年1843年)、道筋は敵の襲来を防ぐために七つの曲がり角があって馬の走り抜けが出来ないようになっていた。これは野尻宿の特徴であり「野尻の七曲り」と云われ、今も残っている。
 「明治27年(18944年)の大火で一帯が焼失してしまい往時の景観は留めていないが、当時の図会にある本陣を中心にした家々の中には、今もその末裔が同じ場所で七曲りに沿って住んでいる
 

南無妙法蓮華経題目碑

日蓮宗の「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑の台石が、イボ石と呼ばれています。
これに触るとイボが治るといわれています。

石垣の上に高札があったそうです。

この辺りが野尻宿の東の「はずれ」です。

 

倉之坂を下り「鹿嶋神社」入口を過ぎ踏切を渡ります。

荒屋沢橋を渡ります。

 

木曽川対岸の大桑発電所

大桑発電所は導水路により落差を得て発電する水路式発電所です。

最大1万2600キロワットを発電します。1921年(大正10年)に運転を開始しました。

中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして経済産業省の「近代化産業遺産」に2007年度認定されています。

発電所建屋は煉瓦造です。

 

この先で国道に合流します。

中山道は右の「第10仲仙道踏切」を渡りますがこの先の大桑駅のホーム渡線橋が真横に見えるあたりを左に下りて右の墓地横に初期中山道の一里塚があると聞いたので行ってみます。

 

大桑の一里塚跡

塚には「中山道一里塚 当地は鎌倉時代より木曽の街道として栄えた。桃山時代に主要街道とされ、一里ごとに土を盛り塚とし道標とした」 と刻まれています。

 

中山道に戻り先程通過した踏切に戻り渡ります。

長野橋を渡り大桑駅を左奥に見て長野宿橋を渡り右折し岨づたいの坂道を進みます。

右側に天長院が見えて来ます。

参道にいろんな表情のお地蔵さんがあります。山門横に子供を抱いた地蔵尊がありマリア地蔵尊と言われているとか。

境内に坂村真民の詩「念ずれば花ひらく」が刻まれています。

この詩は真民自身が目を患い絶望の淵にあった時生まれたと語っています。

「念ずるというのは、前向きに生きようとすることであって、希望なのである。どん底に落ちても、念じながら這い上がってくる不屈の魂である」(坂村真民)

 

中山道の案内に従い進みます。

伊奈川橋 
英泉の伊奈川橋の絵も「橋杭」が無いが今の伊奈川橋もありません。

伊奈川橋を渡り右折し岩出観音に向かいます。

岩出観音の手前に神明神社があります。

 

道路から見た岩出観音の懸崖(けんがい)造り 

岩出観音はカエデが有名だそうです。

 

伊奈川橋にもどり中山道を進みます。

 

木曽川対岸に発電所が見えます。

須原発電所

1922年(大正11年)に運転を開始しました。中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして経済産業省の「近代化産業遺産」に2007年度認定されています。

 

第9仲仙道踏切を渡り 須原宿に入りました。

須原宿の道標

 

この先で枡形を左に曲がり右に進み水神様のある枡形を右に上りまた枡形を左に曲がります。

常勝寺の前に出ます。

 

常勝寺参道と寺標              常勝寺山門

 

 

常勝寺本堂                 常勝寺大梵鐘

昭和27年3月29日重要文化財指定   嘉慶年間に木曽家第11代源親豊公が木曽川辺りに開創し、その後木曽川の洪水による流出の後、当地に慶長3年(1598)移建したものが現在の諸堂宇で、山門、本堂、庫裏何れも桃山建造物として国の重要文化財に指定されています。

常勝だるま大座像、人間国宝「香取正彦」作の大梵鐘のほか木曽氏歴代による寄進物も数多く木曽の古い姿を知る重要な資料となっています。」

 

水舟

サワラ材の丸太を刳り貫いた宿場用水当時から、米、野菜、食器などを洗い人々の憩いの場でした。

 

銘酒「木曽のかけはし」で有名な西尾酒造、脇本陣跡と並んでいます。 

脇本陣の説明板によれば

「旧脇本陣西尾家の祖は、代々菅原の氏を名乗る続柄にして、大永・天文年間(1522-54)の頃、此の地信濃の国須原に住し、地域の開拓に力を尽くす。

 西尾家は、木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣として重きをなす。殊に西尾丹波守は、馬術また武芸に優れ、木曽義昌公の信任極めて厚く、鳥居峠また妻籠城の合戦等に参画転戦し、その武功著しきものありしと伝えられる。
 天正18年(1590)木曽義昌公は、豊臣秀吉の命により突然下総の国網戸に移封せらるるも、西尾家は依然此の地に留まり、その後は木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取締役等の重責を担う。
 慶長5年(1600)中山道宿場の出来るに伴い、須原宿の脇本陣・問屋・庄屋を兼ね、宿役人として重きを為し、地域の発展に貢献せり。 その後寛延・慶応の二度に亘る火災に遭遇し、記録の一部を焼失するも、今なお当寺の隆昌を物語るに足る古文書・書画・什器等多数蔵することは文化財として貴重な存在である。

 酒造業は古く江戸時代の創業にして現在に至る。 (大桑村)」

 

水舟と正岡子規の歌碑

寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月出づるほとの 空たにもなし」 正岡子規は明治24年(1891)に須原宿を訪れている。

 右の「日本名勝写生紀行」案内板には「須原に至りし頃は夜に入りて空こめたる山霧深く朧々の月は水汲人の影を照らして寂寞たる古駅の趣いふ計りなく静かなるに道の中央には石にて囲ひし古風の井戸有りて淡島神社の灯篭其の傍らに寂しく立てり」

 

この後本陣跡、高札場跡の前を通りますがどちらも木札が建つのみです。

JR須原駅前に幸田露伴の碑があります。露伴は出世作「風流仏」の中で須原宿に滞在した時の事を書いています。

この先で国道に合流します。

 

須原の一里塚跡

国道に合流する手前に一里塚跡碑  江戸より75番目の一里塚

 

国道横の「歩道案内」に従い進みます。(ここからしばらく歩道がありません)

 

国道に合流し猿沢橋を渡ります。

右側にJR線の下を通るトンネルがあります。その先に神明神社があります。

神明神社の大杉

ここは国道からは見えません。もっと人目に付きやすい、訪れやすい所にあればここの大木は今よりもっと注目されるでしょう。

 

中山道に戻ります。

中山道は左に入りしばらくしてまた国道に合流します。

生コン工場を過ぎ「境の沢橋」渡ると左に入る広い道があります。

その角に廃屋(喫茶店?)があります。その廃屋と国道の間を抜けて草道を下り広い舗装道路に出ます。

木曽川対岸の桃山発電所がみえます。

1923年(大正12年)に運転を開始しました。

桃山発電所は導水路により落差を得て発電する水路式発電所です。

最発電所建屋は鉄筋コンクリート構造2階建です。

 

この先の「池の尻」信号交差点で国道19号線に合流します。

 

国道非常駐車場横の茂みの中に一里塚があります。

倉本一里塚跡

説明板によれば

「上松で北から4番目の一里塚です。 一つの町村で4つも一里塚のある所はありません。
現在地より南へ20mほどの地点、左右に一里塚がありました。 今でもこの民家は、屋号を 「一里塚」 と呼んでいます。 この一里塚の位置は、京へ63里、江戸より74里です。 残念ながら現存しません」

 

大澤橋を渡り右折しJR線の鉄橋下を通り坂を上り倉本駅に出る所ですが、途中で通行止めになっている為、国道を歩く事にしました。

 

1km程進むと棧沢橋(さんさわはし)に着きます。橋を渡り左に入ります。

 

小さな集落を通ります。すぐ近くを木曽川が流れ、対岸に渡る吊り橋があります。

木曽路はどこも湧水に恵まれているようで、ここも水場がいくかありました。

集落を抜けると国道の「立町」信号交差点に出ます。

交差点の歩道橋の階段脇に「明治天皇御小休之跡碑」があります。

明治13年明治天皇が中山道を通られた折、ここで御小休されたのを記念して建てられたそうです。

 

歩道橋を渡り中山道を進みまた国道に出ます。右側に「神明神社」があります。

ここもJR線に分断されています。

神明神社    鳥居の向こうは線路です。

石段を下り隣の坂道を上り、JR線の狭いトンネルを抜け、右の石段を上り、線路沿いに進みます。石段を上った所に神明神社拝殿、本殿があります。

 

今来た道をトンネルまで戻り今度は今度は左の坂を上ります。

「木曽古道」の表示板のある草道を進み 

坂の上に出ました

この後民家の庭先を抜け舗装道路に出ました。

舗装道路を進みJR線の鉄橋下を通り、国道合流し、荻原橋を渡ります。

 

「荻原」信号を右に入り荻原集落を通りまた国道に合流します。

合流する手前に一里塚跡碑があります。

荻原一里塚跡 説明板によれば 「この一里塚は、上松宿内の一里塚からちょうど一里(約4㎞)南へきた荻原集落の入口にありました。集落の北の入口であるこの一里塚には、左右両方とも榎が植えられていました。南の入口には、高札場があったといわれています。
 この一里塚の位置は、京へ64里、江戸より73里です。 残念ながら現存しません。」

 

国道を10分程歩くと小野の滝があります。

説明板によれば 

広重・英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。

明治42年(1909)鉄道の鉄橋が真上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。

かつてここを旅した細川幽斎は 「老の木曽越」 のなかで、「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝

も、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」 と、手放しで誉めています

また、浅井冽は、この地を訪れて  ふきおろす松の嵐も音たえて  あたりすずしき小野のたきつせ
と、歌を詠んでいます。今も上松の旧跡に変わりありません。

 

「小野の滝」交差点信号を右折しJR中央線の鉄橋下を通り坂を登ります。

滑川橋を渡り右の石畳の坂道を上り住宅街に出ます。

案内に従い進み、桂の古木の横を通り越前屋たせ屋の前に出ます。

 

越前屋                    たせ屋

昔の旅人は越前屋の「寿命そば」を食べるのを楽しみにしていたそうです。

「寿命そば」がそれ程までに有名だったと島崎藤村は「夜明け前」に書いています。

十返舎一九の「木曽街道中膝栗毛」にも登場する老舗。

たせ屋は江戸時代の立場茶屋で茶屋本陣も兼ねた旧家。上松町文化財に指定されています。

 

「中沢橋」を渡り交差点を直進し坂道を上ります。

 

諏訪神社があります。

鳥居に先は小学校の校庭です。校庭を横切って進むと諏訪神社拝殿、五社神社拝殿があります。

中山道に戻ります。

 

諏訪神社鳥居の隣に

上松材木役所御陣屋跡碑と説明板 

寛文3年(1663)から4年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の原畑の地に直轄の材木役所を作りました。
周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。

 

 

 

島崎藤村の文学碑                 斎藤茂吉の歌碑

ここの中山道沿いの小学校に入る階段の右側に島崎藤村の文学碑があります。       

山は静かにして 性をやしない 水は動いて 情をなぐさむ

さらに小学校前の植込みの中に斎藤茂吉の歌碑があります。 

駒ケ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく

 

小学校を過ぎ交差点を横断し坂を下ります。

右側に心明霊神などの石塔群があります。

坂を下り「下町」信号交差点に出て右折します。

広小路交差点を左折すると上松駅です。

 

「中山道歩き 木曽路を歩く 上松宿から贄川宿まで」に続く