柏原宿から京都三条大橋までを出来るだけ短縮しました。

 

美濃路から近江路に入ります。

寝物語の里を過ぎ「カエデ並木」を歩きます。

江戸時代は「松並木」だったそうです。

踏切を渡り柏原宿に向かいます。

民家の前に柏原宿東見附跡の説明板がありました。

ここからが柏原宿です。

 

八幡神社

境内に芭蕉の句碑があります。「其まゝよ 月もたのまじ 伊吹山

 

柏原宿は伊吹山の麓にあり「伊吹もぐさ」で全国的に有名でした。

伊吹山で採れる蓬(よもぎ)を原料にして「もぐさ」を扱う商家が多く土産品として販売していました。

 

左の建物は「伊吹堂」です。創業360年を超える伊吹もぐさの老舗で、現在も当時の建物のまま、「伊吹堂亀谷左京商店」を営んでいます。

 

茶屋御殿跡

ここは京都・江戸間を往復する徳川将軍家の休泊施設として築かれた御殿の跡です。説明板によれば「柏原御茶屋御殿は、天正16年(1588)に徳川家康が中山道を通った際、土豪西村勘介の屋敷に宿泊したことに起源をもつとされています。その後、家康、秀忠が中山道を通るときには西村屋敷を利用していましたが、元和9年(1613)の徳川家光将軍宣下の上洛の時、御茶屋御殿として整備されたことが西村家の記録に記されています。」 現在は、建物の跡形もなく、当時の井戸を残すのみです。

 

柏原一里塚跡

一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。
慶長九年(一六○四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。 そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。 工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、五間(九メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。 おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。 (現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。 」

 

居醒(いさめ)の清水

東征からの帰りに日本武尊(ヤマトタケル)は、伊吹山の荒ぶる神(大蛇・白猪とも)を退治したが、大蛇の猛毒で発熱し気を失うほどでした。

やっとのことで山を降り、この泉まで来て清水で体を冷したところ熱も下がり、気力も回復したそうです。

清水の中には日本武尊の腰掛石、鞍掛石と蟹に似た蟹石があります。

日本の名水100選に選ばれています。

 

醒井宿の三水(居醒の清水、十王水、西行水)の内の一つ西行水

西行法師にまつわる伝説が残る湧き水です。

西行法師が東国(関東の方)へ旅をしている途中、醒井にあった茶屋でお茶を飲んだそうです。西行法師が茶屋を去り飲み残されたお茶の泡を茶店の娘が飲んだ所、何故か妊娠し男児を出産しました。

西行法師が帰りに再び同じ茶店に立ち寄り、この話を聞くと「本当に我が子であるのならば、元の泡へ戻れ」と唱えました。すると子どもはたちまち泡となって消えてしまったという伝説が残っています。

 

西行水を後にすると道標があります。「番場宿へ一里」と刻まれています。

この辺りが醒井宿のはずれです。

 

高速道路の高架下を通ります。

久禮の一里塚跡

久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。

117番目の一里塚

 

カエデ並木を通ります。

米原道との交差点角にあるポケットパークの中山道番場宿碑

番場宿は「東山道」の頃からの宿駅です。

慶長年間に「米原道」が開かれ、当時琵琶湖湖岸にあった米原までの物資輸送拠点として栄えました。

 

番場宿本陣跡

番場宿には○○跡の真新しい標柱が多くみられますが、古を偲ぶ建物はありません。

 

蓮華寺

聖徳太子の創建です。

歴代天皇の尊崇も厚く菊の御紋を下賜されています。

太平記)では、第13代執権・北条基時の子の北条仲時は、足利高氏の裏切りによって敗れました。

再起を期して鎌倉に向かう途中に蓮華寺にて進退窮まり元弘3年(1333年)5月7日仲時と従った432人がこの場で腹を切って自害しました。

 

さらに本堂裏手の丘に「忠太郎地蔵」があります。長谷川伸の「瞼の母」の「番場の忠太郎」のお地蔵様です。忠太郎は架空の人物です。

 

望湖堂跡  遠くに琵琶湖が見えます。   

峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどでした。

 

峠を越えれば得意の下り坂。急坂を一気に下ります。

彦根市に入り、まもなく鳥居本宿に入ります。

鳥居本宿は中山道を通る旅人だけでなく彦根城下を行き交う人々でも賑わっていました。また、隣の高宮宿の多賀大社に詣でる人々でも賑わっていました。

 

赤玉神教丸本舗

創業万治元年の神教丸本舗。現在も有川家の立派な建物が残っています。
腹痛や下痢止め薬で有名でした。

多くの有名人が立ち寄っています。

皇女和宮降嫁の時に休憩所となり、明治天皇の小休所になっています。

弥次さん喜多さんも立ち寄り「もろもろの病の毒を消すとかや、この珊瑚珠の色」の

狂歌を残しています。

写真の左、郵便ポストの前は枡形に曲がっています。そのあたりに鳥居本の地名由来の多賀大社の鳥居があったそうです。

 

本陣、脇本陣、問屋場などは説明板があるのみで古を偲ぶ建物はありません。

 

合羽所「松屋

合羽は鳥居本宿の名産品でした。 

江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し今では看板だけが産地の歴史を伝えています。

昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています

2001年には、かつての家屋の構造をいかしながら改修されました。

 

中山道道標

「右 彦根道」「左 中山道京いせ」と刻まれています。

道標が設置されて4年後の天保2年(1831年)に描かれた「鳥居本宿絵図」にはこの道標の表記があり、中山道と分岐した道の先には「彦根道」と記されています。彦根道は中山道と彦根城下をつなぐ道。江戸時代には切通道あるいは朝鮮人街道とも呼ばれましたが、江戸時代以前は佐和山の太鼓丸の堀切を経由して大手(鳥居本)側と彦根側をつなぐ城内の道であって一般の人々の往来はなく、また、山田町地先から中山道(当時の東山道)までの間に道もありませんでした。両者間に新道が造られ、彦根道として整備されるのは、彦根藩2代井伊直孝の時代のことです。
この道標は、制作年代が明確でほぼ原位置を留めており、また設置して4年後に描かれた宿絵図にも描かれるなど、滋賀県を代表する道標の1例として貴重です。

(彦根観光ガイド)

この辺りまでが鳥居本宿でした。

 

近江鉄道の踏切を渡ると高宮宿です。

 

高宮宿は隣の鳥居本宿と共に彦根藩を支えた商業都市です。

高宮布という麻布の集散地として栄え、また、古事記にも書かれている歴史ある多賀大社の門前町として賑わっていました。

 

高宮布・「布惣」 (ぬのそう)跡

高宮布は高宮周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布とも呼ばれ江戸時代に成ってからも高宮は、ますます麻布の集散地として栄えました。「布惣」では七つの蔵にいっぱい集荷された高宮布が全部出荷され、それが年に12回繰り返さなければ平年でないといわれたと聞きます。現在五つの蔵が残っており当時の「高宮嶋」の看板が現存しています。

明治の中頃から絹や綿におされて、高宮布はだんだんすたれましたが、「布惣」だけは商売を続け、明治末期までただ一軒、守り続けていました。しかし、明治44年ごろに時代の流れに押され、ついに繁栄の歴史を閉じました。

(説明板、彦根観光ガイド)

 

多賀大社大鳥居と常夜灯

中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永12年(1635年)に建立されたものです。柱間は8m、高さは11mもあります。

大きな石造りの常夜灯
大鳥居の脇に高さ6メートル、底辺は一辺3・3メートルの正方形です。灯明をともす小窓まで石造で十三段の階段が付いています。古くは一対で建立されていたそうです。ここから多賀の社まで約3キロ、昔は20メートル毎に参道に石灯ろうが並んでいましたが今は少なくなってしまいました。

 

芭蕉の紙子塚のある小林家

紙子塚とは芭蕉の着ていた着物(紙子)を芭蕉没後庭に埋めたもの。

円照寺の依頼で小林家は紙子の汚い坊さんを芭蕉とは知らずに泊めました。

翌日、円照寺住職が汚い坊さんを迎えに来て初めて芭蕉と知りました。

小林家では感激し新しい着物を贈り、芭蕉の着ていた古い紙子を頂きました。

その時に芭蕉が詠んだ句が 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子

※紙子は厚手の和紙に柿渋を塗り臭みを抜いた紙で作った衣服。

むちん橋(歩道)南側

天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用をひろく一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じました。

渡り賃を払わなくても通れる橋にしたことから「むちんばし」と呼ばれるようになったという。

高宮宿はここまでです。

 

伊藤長兵衛家屋敷跡

中兵衛は伊藤忠商事と丸紅の創業者です。初めは近江麻布を西日本を中心に 売り歩いていたが、次第に足を伸ばし下関まで進出し長崎の黒船や異国の話を聞き長崎に出かけます。

そこで国内ばかりに目を向けていてはダメだと悟ります。その後大阪に店を出し外国からラシャやビロードを輸入するようになり、世界を相手に貿易を始め総合商社へと成長しました。           

 

愛知川宿に入ります。

 

愛知川宿は近江商人発祥の地の一つで愛知川商人と呼ばれる人々により栄えていました。

日本料亭「竹平楼」

創業は宝暦8年。江戸時代は旅籠屋を営んでいた老舗です。

敷地に「明治天皇御聖蹟」碑があります。明治11年ここでご休息されたそうです。

 

飲川(のまずがわ)を渡ります。

不飲川の由来は、上流で平将門の首を洗い水が濁ったからと伝わっています。

 また、戦国時代に、この川に多くの死体が横たわっていたからとも伝わっています。

 

愛知川宿の出口のゲートを出て国道に合流します。

愛知川宿はここまでです。

 

常夜灯

祇園神社境内西隅に国道8号向きを正面として建てられています。石造大型の燈で、弘化3年(1846)2月の銘があり、寄進者47名と石工の名も銘刻しています。

燈の高さは4m35cmあります。

愛知川にかかる御幸橋

江戸時代には無賃橋と呼ばれていましたが明治11年天皇陛下御巡覧で架け替えられてから御幸橋と呼ぶようになりました。

 

てんびんの里五個莊の茅葺屋根の家

 

旧五箇荘郵便局

大正14年(1925)竣工。デザインと構造の両面から1920年代の典型といえる建築です。1910年から25年頃までの大正時代を象徴する建築です。

 

京町屋風商家

説明板によれば 「この建物は明治初期の建築で江戸時代から呉服繊維商としてきょうと、大阪で活躍した市田庄兵衛家の本宅です。奥に細長い京町屋風の建築様式で、平成13年に北町屋町が購入、保存、活用しています。(市指定文化財)」 説明板左の表門は 「凱旋門」 と言われ、日露戦争の総司令官・大山巌元帥が凱旋時に投宿された大坂の由緒ある邸宅の門を移築したものです。

 

 

茶屋本陣跡、旧片山家住宅です。近くにも片山半兵衛家があります。

右角に天保8年(1837)の「金比羅大権現」と刻まれた常夜燈があります。

武佐宿と愛知川宿の中間にあり大名家・公家などの休憩所として利用されました。

 

てんびんの里

「てんびんの里」と書かれた石柱に銅像が置かれています。
近江商人の里を表しています。

 

清水鼻の立場があったところで、清水鼻名水があります。

昔から湖東三名水の一つ、清水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。 古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、道行く人達にも潤いを与え、喜ばれています。   (五個荘地区まちづくり協議会)

 

 

ここは地下道を通り横断します。      奥石(おいそ)神社

 

牟佐神社

市神様が祀られ、境内には盛大な市が立ちました。ご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)

神社の門前に武佐宿東口の大門跡がありました。
武佐宿の東側にあった高札場跡もここにありました。

大門は他宿の木戸と同じで出入りする人を監視していました。

ここから武佐宿に入ります。

 

本陣跡(下川家)  皇族、公家、大名、幕府役人が休憩、宿泊した場所。現在は門構えのみを残しています。 

 

 西の高札場跡 愛宕山と書かれた石碑と常夜燈 

この高札場前で親切な豆腐屋さんに出会いました。いろいろと武佐宿の説明をして頂き、沢山のパンフレットを頂きました。ありがとうございます。

 

近江鉄道武佐駅 この辺りに西の見附跡がありました。

「見附」とは宿場の治安維持を目的としたもので、旅人や荷物の移動を監視し、通行税をとる関所のことです。武佐(むさ)宿の西の入口側は、近江鉄道武佐駅付近にあり、「大門(おおもん)」とも呼ばれました。

ここは枡形になっています。まっすぐ進んできた道がここで右に曲がり武佐駅で左に曲がり踏切を渡ります。

 

横関川(日野川)の「渡し」の説明板

流量が多い時は「船渡し」で流量が少ない時は川岸に杭を打って二艘の船を繋ぎ、板を乗せ渡っていました。

今は横関橋を渡り直ぐに土手沿いの道を歩きます。

 

善光寺川を渡ると「間の宿」として賑わった「鏡宿」です。鏡は東山道の宿駅として指名されていたが、江戸時代に中山道となってからは、宿駅から外されてしまい守山宿と武佐宿の間の宿となりました。

 

旅篭「京屋」跡  

 

鏡神社

街道右手の段上に鏡神社がある。

南北朝時代の建築で 「日本書紀」 にも記されている朝鮮半島の新羅から陶製技術を伝えた天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社である。

承安4年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬山から奥州への旅路、この地白木屋に泊まり境内宮山の石清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。

鏡神社へ参拝した16歳の若者は 「吾こそは源九郎義経なり」 と名乗りを挙げ源氏の再興と武運長久を祈願したという。

陶製技術は後に「信楽焼」などに引き継がれていきます。

 

平宗盛公胴塚

義経は、壇ノ浦の合戦で清盛の子である、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として、鎌倉に向かいまました。

しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。

その帰路、「鏡の宿」を通り過ぎた篠原(しのはら)地先において、平宗盛父子を処刑しました。

義経のせめてもの配慮で親子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられました。

その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」がありましたが今は枯れてありません。

首は京都に運ばれました。ここが平家終焉の地となりました

 

 十輪院

中山道沿いの野洲川のほとりに、明暦3年(1657年)徳允居士が開いたお堂です。

徳允は立入氏の先祖で、お堂は立入家が代々守り伝えてきました。

元禄5年(1692年)には看守覚源がおり、黄蘗宗直指庵の末寺でした。
本尊地蔵菩薩立像は、新川神社と縁のある尊像と伝え、鎌倉時代に遡ると考えられます。鎌倉時代の聖観音立像(野洲市指定文化財)も祀られ、湖東三十三所の第五番札所で、「ひとすじに みなを唱えば誰もみな 渡る瀬やすき やすの川波」の御詠歌が知られています。

お堂の裏に芭蕉の句碑もあります。「野洲川や 身は安からぬ さらしうす

※晒(さらし)とは織物や糸から不純物をとりのぞき漂白する工程で、晒の麻織物としては野洲川の伏流水を使う野州晒が有名でした。

 

野洲川大橋     橋長413.6 mある長い橋。

鈴鹿山脈の御在所岳を源とし琵琶湖に注ぎます。

昔、河口に八つの洲が有ったので八洲川と呼ばれ、転じて野洲川と呼ばれるようになりました。

通常は仮橋、増水時は舟渡、朝鮮通信使通行時は仮土橋を架けました。

後ろに見えるのは三上山

三上山は平将門を討った藤原秀郷が大ムカデを退治した山で有名です。

 

野洲川大橋を渡った辺りから守山宿です。

京都から江戸方面に向かう場合「京たち守山泊り」が一般的で最初の宿泊地として賑わいました。東海道を進むときは石部泊りです。

 

守山宿本陣跡

本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所で、江戸時代には、問屋・脇本陣・本陣などの役割を果たしました。   文久元年(1861年)10月22日、十四代目将軍・徳川家茂に降嫁される皇女・和宮親子内親王(ちかこないしんのう)が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊されています。   この場所は、昭和40年まで特定郵便長宅でしたが、平成16年2004年)に取り壊されました。

(守山観光物産協会)

本陣跡碑の左には、天保4年(1833)の宿場絵図に描かれた井戸があります。

 

土橋

旧栗太郡今宿村と野洲川郡守山宿の郡境を流れる境川(吉川)に架かる中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀御普請橋です。

橋の幅は二間(3.6m)、橋の長さは二十間(36m)ありました。

現在は、長さ4.8mのコンクリート橋になっている。

 

今宿一里塚跡

日本橋から128番目の一里塚。
今宿一里塚は規模は小さくなっているが、南塚のみ残り榎が植わっています。

先代の榎は昭和中頃に枯れたが、脇芽が成長して現在に至っています。

 

大宝公園の大宝神社

大宝神社はかっては大宝天王社といいました。大宝元年(701)疫病流行のとき、地主神を祀っていた「追来神社」の境内に素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を迎え祀ったところ疫病が鎮まったと伝えられます。

明治の神仏分離令により大宝神社となりました。

境内に芭蕉の句碑があります。「へそむらの まだ麦青し 春のくれ

※「へそ」は大宝神社のある辺りの地域名です。

 

 

 高架の下を通り左のトンネルに入る。ここが分からず迷いました。

 

伊砂砂神社

旧本殿は、室町時代の作で、国の重要文化財に指定されています。

 

草津駅の近くまで来ました。気が付くと周りは高層ビル。ここも中山道です。

 

JR草津駅方面への大通りの交差点を横断していると中央分離帯に一里塚の案内板があります。

この辺りが「草津の一里塚跡」と言われています。

アーケードの繁華街を通ります。

 

草津川隧道口(江戸側)

 

草津追分見附の追分道標常夜燈  説明板によれば

「この道標は、東海道と中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2cmを測り、 江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
 道標竿部南面に 「右 東海道いせみち」、西面に 「左 中仙道美のぢ」 と東海道、中山道の行先が刻まれています。
  また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。
 なお、草津4丁目の立木神社境内には延宝8年(1680)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。  平成20年3月31日 草津市教育委員会」

 

草津宿には3つの入口があり、東海道の「坂口見附」、京方入口には「黒門」、中山道にはここ「追分見附」が設けられていました。

 

草津宿本陣跡

別名「木屋本陣(きやほんじん)」と呼ばれています。 寛永(かんえい)12年(1635)に創建されましたが後に焼失し、膳所(ぜぜ)藩主本多家(ほんだけ)の「瓦ヶ浜(かわらがはま)御殿」を拝領したものといわれ、4727平方メートルという広大な敷地に、建物面積1706平方メートル、部屋数39という本陣としては最大クラスの屋敷です。書院造で表門、御除門、敷台付き玄関に庭という、本陣としての型通りに建てられており、東海道筋では唯一ほぼ完全に残っている本陣です。建物のほかにも、多数の関札(せきふだ)、膨大な大福帳(だいふくちょう)(宿帳)など貴重な資料が残されています。大福帳には、忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)や浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)、皇女和宮(こうじょかずのみや)、シーボルト、新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三(ひじかたとしぞう)などの名前も見られます。

 

 草津宿街道交流館 

街道マップや幕末の草津宿の模型や旅の道具、道中記類などの資料を展示しているそうです。

写真右側の道標は「右東海道」「天明七年五月吉日」と刻まれています。

 

江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将の太田道灌を祖先に持つ太田家は、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。

太田家が酒造りを始めたのは、廃藩後のことで、大吟醸道灌・本醸造千代八千代などがある。

 

矢倉立場跡 「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれています。

説明板によれば

 東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。 立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の 「うばがもち」 を売る店があった。 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や 「東海道名所図会」 「伊勢参宮名所図会」 などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る 「矢橋の渡し」 の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。 浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。

旅人は、俗謡に 「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」 と詠まれ、 旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
  そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で 「急がば回れ」 の語源になったところでもある。 武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋 (「醒睡笑」) と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、 風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、 遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したものである。

 

平清宗胴塚    ブロック塀の向こう側にあります

平清宗胴塚説明板によれば

「平清宗(1170―1185) 平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。

源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる

「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉」 

総大将宗盛は野洲篠原で斬首され、長男の清宗はこの地において掘弥太郎景光の一刀で斬首された(享年17歳)

 首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家一角に保存供養されています。

 

野路萩の玉川跡

 「古き宿駅 野路駅の名残り」 説明板によれば

野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。 『千載和歌集』の源俊頼の歌に
   あすもこむ 野路の玉川萩こえて   色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。  付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する

平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます。

 

弁天池

弁財天が祀られ、水を司る神を祀っています。

 池には、中央に孤島があり、小さな社が祀ってあります。

 水不足の年には雨乞いや豊年祈願の祭りを行った池であろうと思われます。

 琵琶湖の竹生島にも弁財天が祀られています。弁財天の起源は、水の神であるので恵の雨を降らせ、豊穣をもたらす神として信仰されてきました。また、技芸運の神としても崇められています。

 この池には、村百姓の娘「つゆ」と膳所(ぜぜ)藩や西国大名の飛脚御用を勤めていた江戸の日野屋重兵衛店の奉公人「喜助」との悲恋物語が語り継がれています。大事な書状を落とした喜助はおつゆをかばって、後に牢獄死。それを知ったおつゆは、この「弁天池」に身を投げたというお話。

      

建部大社一の鳥居

創建は社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年とされています。

 のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地へ遷座されました。

祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ),大己貴命(おおなみちのみこと)

 頼朝は伊豆流布の途次、源氏の再興を祈願したと言われています。そして建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くしました。

 

瀬田の唐橋碑  裏面に俵藤太百足退治伝承の地と刻まれています。

平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が、百足を退治したというところ。藤太は瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁の願いを聞き入れ、瀬田

橋から三上山に住む大ムカデを弓で退治したと伝わっています。

昭和51年1月26日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から石仏が発掘され同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。
 専門家の鑑定によると、室町末期の作で、腕の良い石工が彫った珍しい石仏です。

滋賀県は唐橋の中央に向け小堂を建て、橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願し橋守地蔵としてお祀りすることになりました。


 

膳所城跡公園入口復元された大手門

近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。  戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり楼閣(ろうかく)は取り壊されました。城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。  現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多く集めています。(滋賀・琵琶湖観光情報より)

 

義仲寺(ぎちゅうじ)

源義仲(みなもとのよしなか)を葬った塚のあるお寺です。

室町時代末に、佐々木六角氏が建立したと伝えられてます。 

門を入ると左奥に、松尾芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並んでいます。

芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に51歳で亡くなり、「骸は木曾塚に送るべし」の遺言により当寺に埋葬されました。

境内には、芭蕉の辞世の句である

「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑があります。

寺にある句碑「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は芭蕉の死後亡骸を義仲寺に収めた弟子『又玄』が詠んだものです。昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。

此附近露国皇太子遭難之地碑があります。

明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた「大津事件」の発端となった場所。 当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。 大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。

 

大津宿本陣跡

大津宿には2軒の本陣があり、この地はその内の大塚嘉右衛門宅です。

 当時の本陣は3階の楼上からの琵琶湖の眺めが絶景だったといわれています。 

建物は現存せず、明治天皇聖跡碑が建っています。

 

「逢坂1丁目北」信号交差点 蝉丸神社下社

琵琶の名手蝉丸をまつる神社は、旧東海道沿いに三社あり、こちらは下社です。
平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、その名があり古くから歌舞音曲の神として知られています。

境内には紀貫之の歌で有名な「関の清水」や重要文化財の「石燈籠」があります。

紀貫之の歌 「逢坂の 関の清水に 影見えて 今やひくらむ 望月の駒」や、

小野小町の歌 百人一首でおなじみの「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」の歌碑があります。

 

逢坂山関跡 この関は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破と並ぶ天下の三関のひとつです。隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立です。

 

山科地蔵と徳林庵

山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口6箇所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
 徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(しのみやさねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。
 境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。

 

五条別れ道標

宝永4年(1707)11月建立。

昭和62年の5月に京都市登録史跡に指定された道標です。
五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面への道を示しています
 

日ノ岡峠の車石広場

山科から東山を越える日ノ岡峠は、京都の市内に入る最後の峠です。山科盆地と京都盆地を分ける峠です。

東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)を分けて、車道には舗石が並べられ車石と呼ばれていた。

「三条神宮通」を過ぎ左側歩道の四角い郵便ポストのあるマンションの前に

坂本龍馬・お龍結婚式場跡があります。

当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は 「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍の出会いや「内祝言」 の具体については、明治32年(1899)ごろに聞き取られた彼女の回想に詳しい。お龍は1906年まで生きていました。

三条白川橋道標

延宝6年(1678年)設置された京都における現存最古の道標です。

「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」と刻まれています。

 

明智光秀首塚

説明板によれば

「天正10年(1582)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、 近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたといわれる。 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」

 

高山彦九郎
高山彦九郎は、江戸時代後期の尊皇思想家です。各地を遊歴して勤皇論を説き、吉田松陰など幕末の志士に影響を与えました。彼は三条に足を運ぶ度に御所の方角に向かって膝をついて拝礼をしていたため、その姿が銅像になったのでした。

 

かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートル。なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されています」

写真は池田屋騒動の刀傷が残る擬宝珠です。

 

「東海道中膝栗毛」にちなんで、弥次さん喜多さんの銅像があります。

草津宿から大津宿までは神社仏閣、史跡、名所が多くゆっくり見学出来ませんでした。ほぼ駆け足で移動しました。

中山道各宿場の神社仏閣の多さに驚きました。本陣や脇本陣は消えても神社仏閣は地元の人や信者に守られて現代まで歴史を繋いでいます。

最後の難所、日ノ岡峠を越え蹴上を下るところで子や孫たちが出迎えてくれました。

三条大橋で記念撮影をした事が道中最大の喜びでした。

 

次は「中山道歩き 木曽路を歩く 中津川宿から贄川宿まで」です。