中津川宿から柏原宿までの美濃路の中山道歩きをまとめてみました。

 

2022年2月28日中津川宿を出発して京都に向かい歩き始めました。

大した準備もせずに、日ごろのウォーキングのような気分でスタートしました。

中津川宿高札場跡

隣に、常夜燈、二十三夜塔、庚申塔もあります。

高札場というのは人々が守らなければならない事を板に墨で書き人目に付きやすい場所に掲示した所の事です。実際の高札場は茶屋坂を20mほど上った飛騨街道との交差点にあったそうです。

中津川宿は山また山の木曽路を下った西に開けた盆地にあります。

美濃路はここから始まり京、大阪へ,東は御坂峠を越え飯田、伊那谷へ、南は岩村から三河に向かう交通の要衝であり物資の集散地でした。

江戸、京、大阪の最新の情報、文化を手にする事が出来ました。

3と8の付く日には六斎市が開かれていました。今も毎月第一日曜日に六斎市が開かれ賑わっています。

 

新町通りを進み梅村書店の前の小径を川の流れに沿って歩いていくと、桂小五郎隠れ家址」という木札が立っています。

その札には「このあたりに昔「料亭やけやま」があり、文久2年(1862)長州藩士桂小五郎(後の木戸孝允)が、京都に向う藩主毛利慶親(もうりよしちか)公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人市岡殷政(いちおかしげまさ)と間秀矩(はざまひでのり)の好意で、秘に「料亭やけやま」に隠れ待機した。

やがて中津川会議三日間の結果、桂らの主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した

明治変革の秘史を物語る場所である。」

と書かれています。それまで長州は幕府の開国を支持していましたが、3日間の会議により朝廷が支持する「破約攘夷」へ方向を変え藩主毛利慶親(よしちか)は京都に向かいました。

 

駅前通りとの交差点を過ぎると新町に入ります。左側に中津川名物栗きんとんで有名な和菓子屋「すや」があります。

創業は元禄年間(1688~1704)江戸からくだってきたひとりの武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いたのがはじまりとの事です。

 

 

中津川宿脇本陣  

 脇本陣は中山道歴史資料館のあるNTT中津川営業所の一区画にありました。 森家が享和3年(西暦1803年)頃から、脇本陣、問屋を代々務めていました。

森家の先祖は戦国武将森長可(小牧長久手の戦いで戦死)の一族といわれています。

治13年(西暦1880)明治天皇が旅行されたとき、休憩されましたので、「明治天皇行在所」(あんざいしょ)という碑が入口に立っています。 

          

中津川宿のある中津川村は、尾張藩の領地でしたが、旗本として尾張藩に属していた山村家(木曽福島関所守)の支配地でした。しかし、中津川には山村家の代官所に勤める武士がほんの少数いるだけで、町人(商人や職人)や農民がほとんどでした。宿場や村の日々の運営や争いごとの解決、水害等への対処などは、本陣・脇本陣・庄屋等の村のリーダー達が相談して自治的に進めていました。

こうした背景の下、幕末期に多くの平田門人が輩出しました。

明治15年(西暦1882)3月3日自由民権運動を起こした板垣退助たちの演説会場にもなりました。

中津川宿の人達の多くが門人となり学んだ平田国学とはどんな学問だったのか。

学校の日本史の授業では、国学は賀茂真淵や本居宣長の名前だけ憶えればOKでした。彼らは古事記、万葉集など古典の研究をした人ぐらいの記憶です。

平田篤胤は本居宣長の死後入門し国学を志し、本居宣長の説を継承して宗教的に体系づけ外来の儒教、仏教を批判し, 純粋に日本古代の神道に復することを強く唱えました。外国の言いなりにならず、日本の独立を守りぬくと同時に、天皇のもとに民衆が豊かで平等に暮らせる社会、それが平田国学のめざす世の中でした。幕末から明治維新にかけて尊王攘夷運動、廃仏毀釈運動などに大きな影響を与えました。

 

枡形を曲がるとはざま酒造

間家はもともと京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住みました。江戸中期より酒造りを始め、以来200年以上にわたり醸造業を営んでいます。

恵那山の伏流水を仕込み水として使う「恵那山」が有名です。

 

この先の中津川橋までが中津川宿でした。

 

小手ノ木坂

中山道は左の石段を登ります。 この坂道は市内中山道の中でも急峻な坂でした。明治13年(1880)明治天皇巡行の際、駒場村の青年達が天皇の馬車を先引きして通したそうです。

この辺りは東山道坂本駅跡ではないかと言われています。駅は16kmごとに置かれる公の人馬継立施設で、東山道は土岐駅から大井駅を経て、坂本駅に入り御坂峠を越えて信州阿智駅に向かいました。

東山道と言えば、日本武尊東征のおり、吉備武彦が付知川渓谷を下り、木曽川を中津川市苗木の津戸から渡り、千旦林か茄子川のどちらかの地で日本武尊と合流し、御坂峠を越えたと言われていますので、はるか昔、日本武尊がこの道に立っていたのです。

 

この先で中山道は国道19号線、中央自動車道などで分断されていますが、標識に従い進みます。

 

茶屋本陣(篠原家)

「明治天皇茄子川御小休所御膳水」があります。

ここが茄子川村の中心地でした。

中津川宿と大井宿の間は10.5kmあり長かったため茶屋本陣が置かれました。

画像右側の常夜灯は秋葉山道常夜灯(安永5年1776)建立されました。右が遠州秋葉道です。

 篠原家は、酒造業を営み、茄子川小休本陣として参勤交代の大名の休憩所を勤めました。

皇族や公家の姫の降嫁による通行は八度ありそのうち三度がここを利用しました。明治天皇御巡幸の際池の鯉に蚕(かいこ)のさなぎを与えられたそうです。

 

茄子川の集落を過ぎ中津川市から恵那市に入ります。

 

甚平坂

広重大井宿の絵を刻んだモニュメント。甚平坂の頂きは小公園になっています。

明治13年6月、明治天皇が伊勢方面の視察のために中山道をお通りになる際に、地元の人達が総出でこの坂の頂上を2mほど掘り下げて坂の斜面を少しなだらかにしました。それで天皇のアラビア2頭だての馬車も無事に坂を越えました。

 

坂を下り明智鉄道のガード下通り枡形を曲がると

大井宿本陣跡

本陣は、昭和22年に母屋部分が火災で焼失しましたが表門周辺は焼け残りました
屋根は反りをもたせた瓦葺で、破風板や小屋組みの細工、彫刻も丁寧に仕上げられています。門の奥の松は、樹齢300を越すといわれる老松です。

 

恵那市教育委員会の説明によれば

中山道大井宿は、江戸から約87里(344km)46番目の宿場で、京都へは47里余(188km)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ヶ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃17宿中随一の繁栄を誇っていた。宿は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場という5町に分かれ、東の高札場から西の大井橋まで6丁半(710m)あった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる枡形によって区切られていた。大井宿ではこの角が6ヵ所あって、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。

 

阿木川に架かる大井橋   大井橋には木曽街道六十九次の絵が並んでいます。

大井宿はこの橋の手前までした。

 

大井宿を外れ住宅もまばらになる国道19号線左側に西行硯水公園があります。

西行は、二度目に奥州を訪れた帰り、木曽路を経てこの地を訪れ、三年ほど暮らしました。西行はこの泉の水で墨をすったと言われています。

歌碑には

「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ」

と彫られています。

西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日〈1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の平清盛らと同じ北面の武士であり、僧侶、歌人でした。 俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。

出家の原因は、高位の女官との恋に破れたためとか、親しい友人が亡くなったためとか(?)です。僧の道を歩み始めてからも、時の権力者たちや女房連の歌の指導役をしていました。その後「東大寺勧進」の為奥州平泉に行った帰りに、この地で竹林庵を作り暮らしました。

大井宿に伝わる話では亡くなったのは文治9年2月14日で、遺言により中野坂(今は西行坂)頂上に埋葬されたとされています。葬儀は長国寺住職が行い位牌も長国寺にあるそうです。

 

最初の試練は十三峠でした。

 

 

大湫宿までの約10kmの間13の峠が出現します。実際は20以上のアップダウンの連続で息切れが激しく途中で立ち止まることが何回かありましたが、平坦な尾根道もあり高原のハイキングコースのような気分で乗り越えました。

 

西行塚展望台の案内板に誘われて横道に入ると途中西行の歌碑があります。

待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧

(入相のかね=日暮れ時に寺でつく鐘)

続いて芭蕉に句碑があります。

西行の わらじもかかれ 松の露

伝西行塚 岐阜県指定文化財(史跡)

岐阜県のホームページによれば「この塚は大井町長国寺縁起の記載等を根拠として西行の墓と信じられているが、五輪塔の年代から、西行の墓とは考えられない。室町末から江戸時代初期の頃に、西行を慕う人々によって建立されたと考えられる」 従って「伝」の一文字を加えて指定された。

 

 

 

 

 

 

 

途中には槙ヶ根一里塚、紅坂一里塚、権現山一里塚がほぼ完全な形で残っています

一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財です。

疑問があります。

国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区の志村一里塚垂井町日守の垂井一里塚2カ所だけです。なぜこれらの十三峠の一里塚は国の史跡に指定されていないのでしょうかはてなマークはてなマーク

 

途中に絶好の休憩ポイントがあります。

深萱立場跡

深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあります。茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があり、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を出していました。

立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物です。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬にあたらないような工夫 がされていました。

すぐ近くにバス停がありJR武並駅に連絡しています。

十三峠大湫宿側、十三峠はここまでです。

眼下に大湫宿がみえます。

 

皇女和宮も泊ったに大湫宿宿本陣跡は小学校になっています。

校庭に「皇女和宮」歌碑がありました。

皇女和宮の行列は10月20日京都を出発。今の暦では11月下旬から12月上旬です。

今のように暖冬ではなかったと思います。

「惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消えても」

と強い決意で出発しました。

しかし、数えの16歳、今の中学3年生ですよ。心細かったと思います。

そんな心境で読まれた歌が刻まれています。

遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり

思いきや雲井の袂ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは

強い決意で出立したはずなのに、心細さと悲しみ耐えながら降嫁された和ノ宮の気持ちが表れています。

しかし、和宮は幼少ながら天皇家、朝廷の存在意義を身をもって知り、自分が国の存在に関わる任務をもっていることを自覚し、国の民を慈しむことを学 んできた女性でした。

お相手の家茂は温厚で思慮深い若者で、和宮の他には側室をもつことがなかった。

和宮が降嫁したわずか4年後、家茂は20歳という若さで亡くなります。

家茂の死後、姑の天璋院(篤姫)と力を合わせ、大政奉還の際の無血開城に力を尽くしました。

和宮はその後、わずか32歳という若さでこの世を去ります。

「家茂のそばに葬って欲しい」との遺言を尊重し、墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺に葬られました。

 

 
大湫宿の街並み 2階が虫籠(むしこ)窓の家や縦格子の家があります

虫籠窓というのは主に漆喰の塗屋造りと呼ばれる町家建築の二階部分に、縦に格子状に開口部を設けた固定窓のことを指す。漆喰を塗り回され、窓といっても開け 閉めは出来ません。明り取りです。

 

大湫宿はずれの高札場を後にして細久手宿に向かいます。

 

次の琵琶峠にも和宮の歌碑がありました。

住みなれし都路出でてけふいく日 いそぐもつらき東路のたび

琵琶峠は距離も短く十三峠程の辛い思いは無かったと思います。

八瀬沢一里塚、奥之田一里塚、がほぼ完全な形で残っている歴史街道です。

琵琶峠で京都から日本橋を目指して歩いてきた大学生に会いました。2~3分程の立ち話でしたが人柄の良さが感じられる青年でした。若さがうらやましかった。

 

細久手宿 大黒屋

木造2階建ての往時を残す貴重な建物のひとつ。現在も旅館として営業を行っており、宿泊する事ができます。慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、細久手宿戸数65軒のうち24軒が旅籠を営んでいました。 その1軒が、『尾州家定本陣大黒屋』です。本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりです。

 琵琶峠で出会った京都三条大橋から日本橋を目指している大学生も前日、大黒屋さんに泊まったと話していました。道中で出会う中山道歩きの人には、すごく親近感がわきます。

このさきの鴻之巣一里塚もほぼ完全な形で残っていました。 

 

津橋の物見峠入口を見逃し県道65号線を歩き続け、途中で気付いて引き返す時の情けなさ、辛さムキームキームキー  

物見峠を越え御嵩宿に向かう山の中に山小屋風の喫茶店がありました。

ちょうどのどが乾いていたので立ち寄ることにしました。枕木の階段を上り店内に入ると、女性客ばかり7,8人がいました。こんな山の中の喫茶店に??。ケーキが美味しいと有名なお店だそうです。場違いな感じでしたが、薪ストーブの前の席で美味しいコーヒーを頂きました。

 

謡(うとう)坂、牛の鼻かけ坂をすぎ国道21号線に合流します。

 

和泉式部廟所

和泉式部は、平安時代を代表する三代女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。

 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の赴くままに東山道をたどる途中、御嵩の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。

 碑には 「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ」 

という歌が刻まれています。

 

御嵩宿に入ります。

御嵩宿商家「竹屋」

明治10年(1877)頃の建築と推定され、街道を人や物資が往来し、大きく賑わいをみせていた頃からの豪商として、宿場内での役割を果たしてきました。そのたたずまいは、商家にふさわしい質素で風格のある造りが成され、今日では徐々に姿を消しつつある江戸時代の建築様式を色濃く残す建物といえ、平成9年には、このうち「主屋」並びに「茶室」が御嵩町指定有形文化財になりました。

 

大寺山願興寺山門  工事中でした

大寺山願興寺は伝教大師(最澄)によって弘仁6年(815)に建立された古刹。地域の人々からは「蟹薬師」あるいは「可児大寺」という名で多くの人々に親しまれています。薬師如来像他23体と本堂(現在全解体修理中・令和8年落成予定)が国の重要文化財に、境内の西の門として建てられた鐘楼門が県文化財にそれぞれ指定されています。4月には1000年以上の歴史を持つといわれ、五穀豊穣を祈るお祭り「御嵩薬師祭礼(県重要無形民族文化財」が行われます。(みたけ観光ナビ)

本堂は天正9年(1581)の再建。現在は大規模な改修工事中でした。

 

すぐ近くに名鉄御嵩駅があります。

 

国道21号線と合流を繰り返し伏見宿に入ります。

伏見宿本陣跡

跡地は公民館になっています。右側の石柱は領界石で「是より東尾州領」と刻まれています。  

伏見宿は元禄7年(1694)土田宿を廃止して作られた宿場です。天保14年の記録では本陣1、脇本陣1,旅籠屋29軒でした。木曽川沿いに「新村湊」(船着き場)があり物資輸送の拠点として名古屋、伊勢方面に多くの物資が運ばれていました。

「伏見」交差点のすぐ先左側に元旅籠屋「三吉屋」

伏見宿で唯一、当時の面影を留めている「旧旅籠三吉屋」の建物です。

「生薬屋」と「旅籠屋」を営んでいました。左隣は伏見郵便局。

 

木曽川を渡り太田宿に入ります。

 太田の渡し跡      橋は太田橋

当時の木曽川は急流で深いため徒歩渡しは出来なかったので、渡し船を利用していました。石畳が残っています。

承久3年(1221)の承久の乱で、鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇軍が戦った「大井戸の渡」は、現在の太田の渡しあたりと推測されています。

 

 祐泉寺

祐泉寺の説明板によれば

龍興山祐泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝によれば文明6年(1474)、土岐源氏・土岐頼政の次男、東陽英朝禅師(大道真源)が湧泉庵という庵を結んだことに始まると言われています。
永正年間(1504-21)には八百津の大仙寺の末寺となり、祐川庵といいました。寛文年間(1661-73)には、関の梅龍寺末寺の祐泉寺となり、明治になって妙心寺本山の直末となりました。
また、火難水難から守るとの言い伝えが残る瀧場観音があり、美濃西国27番目の札所になっています。
境内には坪内逍遥や北原白秋といった文人が詠んだ歌碑、槍ヶ岳を開山した播隆上人、「日本ライン」 の命名者、志賀重昂の墓碑などが残されています。

境内の

松尾芭蕉の句碑  「春なれや 名も無き山の 朝かすみ

北原白秋の歌碑 「紅葉堅 秋雨ふれり うちみるや 石灯篭の あお苔のいろ

坪内逍遥の歌碑二首

   「やま椿 さけると見れば いにしへを 幼きときを 神の代とおもう

   「この木の実 ふりにし事の しのばれて 山椿はないと なつかしも

 

太田宿脇本陣林家住宅   国指定の重要文化財。

脇本陣説明板によれば

旧太田脇本陣林家住宅は、明和6年(1769)に建築された主屋と、天保2年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の2棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各1軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。
 この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目をひきますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。
 また、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと 「したにーしたにー」 と声を張り上げながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。 (美濃加茂市)

 

昭和58年の9.28災害では、木曽川中流域の美濃加茂市、坂祝町がいずれも弱小堤防であったため、この区間から溢水氾濫した洪水によって大災害に見舞われた。

 このため、この災害を契機として、緊急的かつ抜本的な改修工事が必要となり、激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)として採択され、築堤及び護岸工事が実施されました。

 美濃加茂・坂祝における激特及び緊急改修事業はS58~H6に実施され、築堤、護岸、特殊堤などが完成しました。しかし、これらだけでは9.28災害の再発防止にはなっていません。

 新丸山ダムによる洪水調節と合わせて初めて安全に流下させることができます。再発防止のために、新丸山ダムは重要な役割を果たすことになります。新丸山ダム建設事業は、既設丸山ダムを20.2m嵩上げすることにより、洪水調節能力などを高め、洪水氾濫の防止・軽減などを図る事業です。(新丸山ダム工事事務所HPより)

木曽川沿いの堤防道路はロマンス街道と呼ばれています。全長4kmあるそうです。

 

堤防道路から旧国道21号線を歩きます。

奇岩、怪石の木曽川を眺めながら延々と遊歩道(日本ラインロマンチック街道)が続きます。

中山道の案内標識に従い国道下のトンネル(増水時は通行止め)に入ります。

うとう峠入口の標識

国道とJR高山線の薄暗いトンネルを抜けここに出ました。

草道、砂利道、石畳の坂道を上ります。息を切らせながら登ります。

峠を抜けると周りは住宅街です。

 

住宅街の坂道を下ると

遠くに犬山城が見えました。坂を下った所に有名なうなぎ屋さんがありました。

匂いだけ頂いて通過しました。

 

鵜沼宿に入ります。

鵜沼宿は明治24年(1891)の濃尾大地震により壊滅的な被害を受けました。

バブル期に各務原市からの資金により復元作業が江戸時代末期の鵜沼宿家並絵図を基に行われました。

中山道鵜沼宿町屋館 説明板によれば

「由来  当館は、江戸時代に「絹屋 」という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家住宅です。

平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の附属屋、西側の離れの三棟からなります。

主屋は、明治二十四年の濃尾震災 で倒壊し、その後、再築されたものです。

附属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。

離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものとみられ、太田宿 から移築されたものと伝えられています。
三棟とも、市指定文化財 ・景観重要建造物に指定されています」

 

菊川酒造 創業 明治4年

本陣の正面でもあるこの場所には、江戸時代には河内屋という旅籠がありました。河内屋は絹屋の本家に当たる家です。この河内屋の井戸水は水質がよかったのか、皇女和宮が通行する際にお食事用の水として指定され、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています。本蔵と豆蔵は登録有形文化財です。

 

中山道鵜沼宿脇本陣

中山道鵜沼宿の脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891年)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。 江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しています。

脇本陣隣に芭蕉の句碑があります。

貞享2年(1685)、「野ざらし紀行」 道中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享5年(1688)7月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
  汲溜の 水泡たつや 蝉の声
の句を詠み、さらに同年8月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折りには、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
  ふく志るも 喰へは喰せよ きく乃酒
 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
  おくられつ 送りつ果ハ 木曽の秋
と詠み、美濃の俳人達との別れを惜しんだといわれます。

 

宿はずれの交差点を左に行けば名鉄線「鵜沼宿駅」があります。

この交差点を直進し20分程で国道21号線に合流し、1時間程国道を歩きます。

三柿野町」信号を過ぎ右側の各務原市街に入ります。

 

 

中山道新加納立場

中山道鵜沼宿と加納宿のほぼ中間に位置し、二つの宿場間が四里十町(約17km)と長いため、中山道の「立場(旅人の一時休憩施設)」として栄えました。
新加納で中山道は枡形に折れ、高礼場(藩の公示場所)や旗本坪内家の陣屋(城を持たない旗本の屋敷)、規模の大きな茶屋などが建ち、宿場的な趣をもつことから、新加納立場は「間宿」とも呼ばれて賑わいました。文久元年(1861 年)の皇女和宮の降嫁の際には休息所とされました。

 

 長森細畑」交差点を横断すると中山道らしさを感じる古い大きな家がつづきます。

 

中山道加納宿東番所跡  宿の出入りを取り締ました。

城下町加納宿の東の入口です。

この近くに名鉄加納駅があります。

 

この辺りまでは道を間違えることはないが、加納宿は岐阜市街地にあり、城下町としての防衛上枡形が多く右に曲がったり左に曲がったりと複雑です。

この辺りで道が分からなくなりウォーキング中の女性に道を聞くと親切に中山道まで一緒に歩いて案内してくれました。ありがとうございました。

その方の話しでは、ここで道を聞かれるのは初めてではないそうです。

山道では案内表示もありますが加納宿、赤坂宿など町中を通る中山道は他の看板が多くて中山道の案内表示を見落とすことがあり油断大敵です。

道標はあるが道路の端にある為見落とす事があります。

 

岐阜市は昭和20(1945)年7月9日午後11時頃の空襲により死者約900人、負傷者1,000人以上、焼けた家屋約20,000戸以上、空襲による罹災者は最大10万人でした。市街地の約7割を焼失し、一夜の空襲によりまさに焼け野原になってしまいました。したがって、加納宿には古を偲ばせる建物はありません。あるのは跡碑ばかりです。

必死で道標を頼りに進みます。

加納城大手門跡と道標 「加納城 500m 直進」「右 河渡宿」

関ケ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子、三法師)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。中山道の重要性が高まり岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から西国に備える重要な地として加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城しました。築城には解体した岐阜城の建材が使われました。

今は、加納公園、小中学校になっています。 

 

中山道加納宿西番所跡  秋葉神社の境内にあります。

加納宿は秋葉神社が大変多いと感じました。おそらく火事が多かったから防火の神様としてひろく信仰されていたと思います。

 

長良川

長良川と言えば鵜飼いです。

鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、その歴史は奈良時代まで遡ります。

織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護しました。

徳川家康も鵜飼を見物、保護し、岐阜の鮎鮨を江戸まで運ばせました(御鮨街道) 松尾芭蕉は岐阜を訪れた際、鵜飼を見物し

「おもうしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を残しました。

チャップリンは2度も鵜飼見物に訪れています。

 

中山道河渡宿一里塚跡

説明板によれば江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され、69の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から106里27町、55番目の宿場であった。
 加納宿へ1里半、美江寺宿へは1里6町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来・宿泊して大いに繁栄した。
 ここはかつて一里塚のあった場所である。塚は道の両側に各々あり榎が植えらて、塚の大きさは3間4方であった。 (中山道河渡宿文化保存会)

この辺りが河渡宿の入口でした。

河渡宿は第二次大戦による消失や河川改修により、古の建物はありません。

慶応橋   この辺りが河渡宿の外れになります。

橋を渡り進むと道の左右には、工場や運送会社などが並びます。

 

垂水鉄道の踏切を越えた辺りが美江寺宿の入口です。

美江神社

かつてはここに天台宗寺院の美江寺があったそうです。

美江寺千手観世音堂

美江寺一帯は度重なる水害に悩まされていました。

そこで、観音菩薩のご利益で守ってもらおうと719年に伊賀国名張から十一面観音を勧進し美江寺を立てたとされています。

しかし、戦国時代に斎藤道三が稲葉山城を築いた時、ご本尊を岐阜に移してしまったそうです。

この辺りが美江寺宿の外れです。

 

揖斐川

木曾三川(濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川)の一つ。

 

和宮御遺蹟碑と呂久の渡し呂久渡船場跡説明

説明板によれば

天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂-呂久-美江寺-川渡-加納の新路線が栄えた。

 これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
 慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、13を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭8人、助務7人が置かれていた。
 その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだと云われている。
 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折、船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて

「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」

 と詠まれた。
 後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和4年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小簾紅園が建設され、昭和45年(1970)には巣南町指定の史蹟となった。
 この地呂久の渡船場は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。
 昭和45年(1970)呂久渡船場碑建立。 (瑞穂市)」

 

この先東赤坂駅辺りまでは道が複雑です。道標を見落とさないように注意してください。

 

 赤坂宿の中心地に入ります。火の見櫓が見えます。

 

赤坂湊跡

赤坂港は明治年間に整備されました。杭瀬川の豊富で安定した水流を利用して栄えました。

赤坂港からは米、材木、酒、石灰などが主に桑名に運ばれていました。大正時代に入ると鉄道輸送に変わり衰退しました。

 

相川橋   沢山の鯉のぼりが泳いでいます。橋を渡れば垂井宿です。

人足渡跡の説明板 説明板によれば

「相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。
川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました
一方、姫君や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋が架けられました。

 (垂井町)」

 

橋を渡った所にある中山道垂井宿観光マップと東の見附け跡の説明板

説明板によれば 「垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440km、58番目の宿になります。
 見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりもしました。
 ここ東の見付から約766mにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります (垂井町)

 

 

枡形にある旅籠「亀丸屋

説明板によれば

「安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講 、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓 が残る珍しい造りである」
(垂井町)

南宮大社の大鳥居 

説明板によれば  「寛永19年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居 は約400両の金で、石屋権兵衛 が建てた。

横幅(内側)454.5cm頂上までの高さ715cm 柱の周り227cm。 

正一位中山金山彦大神 の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡である。 

  垂井町」  

小林家住宅

説明板によれば 「 国登録有形文化財 小林家住宅主家 平成二十五年十二月二十四日登録
 当家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んできた建物です。建築された年代ははっきりしませんが、幕末頃には建てられていたものと考えられます。

 切妻造瓦葺 とし2階建平入りの建物で、2階には両側面に袖卯建 を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っています。

 外観、室内とも幕末の豊かな商家に相応しい品格を持っており、防火対策が随所に残された貴重な建物です。平成二十六年三月 垂井町教育委員会」

 

垂井宿 西の見付 説明板によれば
「ここは、垂井宿 の西の入口になる西の見付である。現在は、南側のみが昔の面影を伝えている。非常事態が発生した場合は見付を閉鎖し、宿場の安全を図った。
歌川広重作木曽街道六十九次 の垂井宿の絵は、この付近から西側を描いている。雨の降る松並木の中を、粛々と大名行列が宿場へ向かっている。裸足で歩く宿役人が行列を先導する。道の両側には茶店があり、主人と客が下座して迎える。松の木や見付、茶屋などがほぼ左右対称の構図をなし、中央を走る街道の遠近感を際立たせている。奥行きとともに格式や緊張感を盛り上げる点で街道を描いた版画の傑作といえる。垂井町商工会」

 

垂井の一里塚

南側の一基だけがほぼ完全に残っている貴重な遺跡です。

国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村とここの2カ所だけです。112番目の一里塚です

 

関ケ原宿の案内標柱

 

関ケ原合戦で徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」の最初陣跡

「壬申の乱」で天武天皇もここに陣を置きました。

桃配山の語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものと言われています。

 

「関ケ原駅前」信号の角にますや旅館「創業永長元年」(1098)があります。この信号を過ぎ大垣共立銀行の先右側に脇本陣跡があります。

慶長8年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です。その禅師の生誕地の当家は、後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。

関ケ原宿にはこの脇本陣跡が江戸時代を偲ぶ唯一の建物です。後は、関ケ原の合戦関連の史跡、壬申の乱の史跡です。

 

徳川家康の最後陣地

関ケ原の戦いに大勝した家康は論功行賞の判断材料のため、この場で床几に腰かけ、味方が討ち取ってきた敵将の首を自ら首実検しました。

首は東西2か所の首塚に葬られました。敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の習慣とされ、死者への表敬の儀礼でした。

 

慶長5年(1600)9月15日(今の暦では10月21日)双方合わせて17万の大軍勢が関ケ原盆地で激突しました。両軍の布陣からは石田三成率いる西軍有利な状況にかかわらず東軍の徳川家康が圧勝します。

勝因として、家康は豊臣政権内の諸将の反目を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを引き入れた事。中でも松尾山に陣取った小早川秀秋と合戦前から内通させていた事などがります。結果として、光成には、家康ほどの実戦経験がなかった事、秀吉の下で行政能力を発揮できたが秀吉亡き後は、豊臣恩顧の武将から見れば「ただの人」であり尊敬し将来を託せる存在ではなかった。

 

不破関守跡 

東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられました。延暦8年(789年)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が多く記されています。

裏庭に入らせて頂きました。

芭蕉の句碑がありました。「秋風や 藪も畠も 不破の関

他に太田蜀山人の狂歌などがあるそうですがどれも彫が浅くて判読出来ませんでした

 

 

自害峯の三本杉

説明板によれば

「壬申の乱(672年)は天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)と同天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で起きた皇位継承争いでした。その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。関ヶ原町」

 

 

常盤御前の墓所と芭蕉の句碑

常盤御前の墓  説明板によれば
「都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若 、乙若 、牛若 の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。関ヶ原町」

芭蕉の句碑には「義朝の 心に似たり 秋の風」と刻まれています。

 

今須峠頂上  説明板によれば此処峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登り口より約1000mの道程です。 一条兼良 はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川の記 )と認めたように、この付近きっての険要の地でした。 往時この付近には、茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として、賑わっていました。 京方面に向かって約200m、一里塚を眺め峠を下ると、今須宿 に入ります(関ケ原町)

 

今須宿問屋場跡

説明板によれば

「江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。
美濃十七宿 のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。 縁起物の永楽通宝 の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます」(関ケ原町)

 

近江美濃両国境寝物語の標柱 

「近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱 (1159))後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の
話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り合った」所とも伝えられています。 寝物語は中山道の古跡として名高く古歌等に
もこの名が出ていますし、広重 の浮世絵にもここが描かれています」
「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語もしのぶばかりに」太田道灌

 平成4年1月  (滋賀県米原市)

ここからは滋賀県です。

 

美濃路はここまで。

次は「中山道歩き 近江路を歩く 柏原宿から京都三条大橋まで」です。