「中山道歩き 岩村田宿から軽井沢宿まで①」の続きです。
分去れの先に
茶屋つがるやがあります。
追分枡形の茶屋説明板によれば「寛永12年(1635)徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往
来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
(軽井沢町教育委員会)」
「つがるや」前の櫓モニュメント
「つがるや」から200m程先に
「泉洞寺」があります。
泉洞寺山門と参道の石像 左側の石碑には「不許山門入葷酒」と刻まれています。
藪原宿の極楽寺にも同じような石碑がありました。あのお寺も禅宗でした。
修行の妨げになるので「葷(くん)=ニラやニンニクなど、臭いがきつく精力がつきすぎるもの」や、お酒はお寺に持ち込んではいけないという意味です。
泉洞寺本堂 扁額は「浅間山」
氷環慈石地蔵尊(カーリング地蔵)と卓球慈光地蔵尊 縁むすび地蔵尊
大乗妙典一千部供養塔 彫刻が施された鐘楼
堀辰雄の愛した石仏(歯痛地蔵)
「堀辰雄は大正十二年八月軽井沢を訪ねて以来三十年間静かな軽井沢の自然を、こよなく愛した。
この石仏は、堀辰雄の多くの名作の一つ「樹下」(「大和路」「信濃路」)の文中にあって素朴な姿に心をひかれ、朝夕ここを散歩し、親しんだといわれており、今でも歯痛の仏様として信仰されている。 軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会」
山門脇の六地蔵尊 南無阿弥陀仏名号碑、石像など
稲垣黄鶴(いながきこうかく)の句碑と筆塚
「浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花」
追分宿の旅籠に生まれ、103歳の生涯を書道一筋に生きた女流書家。
緑豊かな静かな街並みが続きます。
泉洞寺の先の左側に諏訪神社の鳥居があります。
諏訪神社拝殿
諏訪神社境内の小林一茶句碑 聖徳太子塔(左)と御神燈(右)
「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」 他にも境内には石祠、石塔が沢山あります
諏訪神社のすぐ先の左側に「蔦屋」があります。
江戸時代後期の旅籠です(現在は個人宅)
追分宿高札場跡
説明板によれば
「追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた板札を高札という。
寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。
昭和58年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。 (軽井沢町教育委員会)」
隣が「土屋本陣跡」です
旧本陣の石垣と表札
土屋本陣は土屋市左衛門が代々勤め、問屋を兼ねていました。
明治天皇追分行在所碑があります。
「油屋」
中山道追分宿で脇本陣をつとめた由緒ある旅籠です。
昭和になってからは堀辰雄、立原道造、加藤周一に代表される文士たちが執筆に利用した宿として、多くの作品の舞台となりました。
現在は、改修した建物で「信濃追分文化磁場油や」として、旅館業と町おこし活動を行っています。
堀辰雄は、油屋の 「つげの間」 で「風立ちぬ」 を執筆した.
堀辰雄文学記念館
この門は土屋本陣の裏門を移築したものです。説明板によれば
本陣
追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長7年(1602)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に 「定路次駄賃之覚(慶長7年6月10日)」 の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。
本陣門の移築
明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の門として役目を果たして来た。
内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史的遺産である事をご理解され、平成17年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。
軽井沢町の歴史的建造物(本陣門)
軽井沢3宿の内、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中山道に面したこの地に本陣門を移築する。
門の構造(追分宿郷土館に展示)
材料は全て欅材 一間冠木付き門・切妻造(桟瓦葺)・妻蟇股・二軒繁垂木・背面控柱。
昇進橋を渡ります。 追分公園
公園の奥には室町時代初期に建立された追分最古の木造建築『浅間神社』があります
浅間(あさま)神社拝殿
浅間神社本殿説明板によれば
「浅間神社は、浅間大明神遥拝の里宮で、大山祇神(おおやまつみのかみ)、磐長姫神(いわながひめのかみ)の二神が祀られている。
この神社は、浅間山鳴動の際、明治2年(1869)、明治天皇の勅祭がおこなわれた社として著名である。
当社は、流造りで、海老虹梁、宝珠の彫りが大変良く、木鼻(象鼻)の出張りも応永様式(1394-1427)の室町時代初期の様相をよく残している。懸魚(けぎょ)のさがりに六葉が付いていて室町時代のものである。
南北佐久郡内では、臼田町の新海神社東本殿に次いで古い建築の神社で、町内最古である。(軽井沢町教育委員会)
御嶽山座生大権現 芭蕉の句碑「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」
追分節発祥の地碑
「碓氷峠の権現様は わしが為には守り神
浅間山さん なぜ焼けしやんす 裾に三宿持ちながら」と刻まれています。
追分節発祥の歴史過程説明板
「江戸初期、軽井沢は関東・信濃・北陸方面を結ぶ玄関口として重要視され、中山道が整備改修されると、東海道とともに江戸と京都を結ぶ重要幹線として、街道の様相も一変してきた。
慶長9年(1604)宿駅が制定され、軽井沢・沓掛・追分の三宿が設けられ、さらに寛永12年(1635)参勤交代制度とともに、三宿は諸国の大名通過などで繁栄をきわめた。中でも追分宿は中山道と北国街道の分岐点として栄えた。軽井沢は浅間根越の三宿として名高く、かつ、関東・上州方面への物資や旅客輸送のため、東信一帯の中馬や馬子衆の一大集結地となった。かかる歴史的・地理的条件からして必然的に労働歌的馬子唄が生まれる素地が十分にあった。
「碓氷峠の権現様は わしがためには守り神」
浅間山の自然や碓氷峠の熊野権現を、馬子たちは自分の守り神として畏敬の念を持って歌っていた。その馬子唄に軽井沢三宿の飯盛女たちが、二上り・三下り・本調子の三味線伴奏の手を工夫した。元唄と思われる馬子唄時代の代表的な歌詞、「わしがためには」 の部分を諸客に対する語として 「主のためには」 と替えたり、新作歌詞や囃子詞も付け 「追分節」 が完成された。中でも三下り調の追分節(馬子唄調・座敷唄調)はその主流となって、諸国に広く伝承伝播され、特に関東以北では新潟県の越後三下り(江差追分の母体)などに発展していったとされている。かかる点から 「追分節」 は諸国にある追分節の源泉といわれ、それが今日の定説となっている」
奥村さき歌碑
朝やけの山に向かいて
いふことなし
さばさばとわが身
ひとりのあゆみ
浅間神社境内を散策している間に「追分宿郷土館」に来てしまいました。
入口に大きな馬頭観世音碑があります
説明板によれば
追分宿で問屋を営んでいた人々により役馬の安全・供養を祈願し、寛永六年(1794)六月に建立された。
「地所寄付 小川要蔵
世話人 土屋新久郎、関卯右衛門、 土屋源五右衛門、内堀九朗次」の銘が彫られる。高さ三メートル 明治十一年の北陸御巡幸の折に、道路改修により破棄され、昭和六十年追分宿郷土館開館に伴い改修し、ここに建立された」(一部抜粋)
御影用水を渡り中山道に戻ります。 大きな常夜灯があります
追分宿駐車場 霧雨です。この辺りは標高1000m程です。
追分宿駐車場に「天皇陛下御製碑」があります。
「長き年の 後に来たりし 山の上に はくさんふうろ 再び見たり」
と刻まれています。
この後、ガソリンスタンドの横を通り国道18号線に合流し歩道を進みます。
説明板によれば
慶長9年(1604)徳川家康の命により江戸を基点とし、主要街道に一里ごとに塚を築造させた。この中山道には一里ごとに街道の左右に塚がつくられ、旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。
今はこの街道の塚が大部分崩壊してしまったが、この追分一里塚はよくその原形を保って当時を偲ぶことのできる貴重なものである。 (軽井沢町教育委員会)
この辺りは標高1000m程です
この先歩道橋のある「追分」信号交差点を通過して300m程先に
上州道追分の道標「従是左上州」があります。 道標の先の「追分そば茶屋」の手前
を右折します
折すると左の石垣の上に馬頭観音があります。 200m程先の左側に馬頭観音。
灯籠があります
借宿村間の宿 大庄屋 土屋作衛門家 15:52
沓掛宿と追分宿の中間に位置する間の宿です。
土屋家は屋号「布屋」(ぬのや)といい、中山道の代表的な米問屋でした。
他にも酒造業、質屋、中馬業、立場茶屋等を商いとしていました。
江戸時代の創建から280年幾度も改修を行い現在に至っています。
外壁は白ではなく黄色に仕上げています。
※中馬業→江戸時代、信州の農民が行った馬の背を利用した荷物輸送業のこと。17世紀、伊那地方の農民が農閑期の副業とし行ったのが始まりです。
向かい側に西長倉村道路元標
説明板によれば、「道路元標 は大正八年(1919)に旧道路法施行令が公布され、道路の起点・終点を示す目的で各市町村に一個ずつ設置された、約三〇センチ角、高さ約六〇センチの柱です。
軽井沢町には東長倉村道路元標、西長倉村道路元標が設置されました。
西長倉村道路元標は現在の天皇道の入口付近、「布屋」前の道路脇に置かれましたが、車の往来が増えたことで場所を移されており、地域住民によって保護、保存されてきました。その後も数度の移設を経て、現在は元の場所から北東へ約二メートル移動しています。
平成二十八年十二月 軽井沢町教育委員会」
すぐ先の左側に遠近宮(おとこちのみや)があります
祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと) 遠近宮の両部鳥居
玉垣明神(魔の石)
説明板によれば
「昔、神社の前の道端に大きな石があって馬の乗り降りに便利でしたが、利用した人に足を患う人が多くあって「魔の石」とよばれていました。
皇女和宮が徳川に輿入れの時に災いが有ってはと、取り除こうとしましたが大きく重くて動きませんでした。
後の明治天皇のご巡行の時にはこの石が簡単に掘り出せました。
村人はあまりの不思議さに驚いてこの石を境内に安置して玉垣をめぐらし「玉垣明神」として祭ました」
二の鳥居(明神鳥居)の奥に拝殿
拝殿の由緒によれば
「創立年代不詳なれど古来より当地区の鎮守産土の神として崇敬せらる。現存の棟札によると享保年間には杜殿鳥居等整備せられたことが分かるが、それより遥かに古く当借宿地方開発の当初守護神として奉祀せられたものである。
信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人(おちこちびと)のみやはとがめん
という在原業平作の有名な歌によって、遠近宮と奉称せられたものと思う。祭神磐長姫命(いわながひめのみこと)は浅間山の守り神であって、富士山の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の御姉神にあたる。長寿健康の守り神であり、また特に安産の守護神としての御神徳高く遠近よりの祈願参拝者が多い」
境内の三笠山大神、御嶽神社、八海山大神 境内にキジがいます。
名物腰掛け石 説明板によれば
「この石は盆踊りや子供たちの草野球のため邪魔な石でした。そこで、区の役員が砕いて取り除こうとしましたが堅くて途中で作業を放棄しました。
時がたって村の歴史を研究していくうちに、この石が東京国立博物館に所蔵される「中山道分間延絵図」の中に在原業平遠チ近チノ宮「腰掛石」と書かれ、絵図に書かれているのを見つけました。誰も知らなかったとはいえもったいない事でした。 借宿昔語りの会」
中山道に戻ります。
女人街道入口の説明板 女人街道入口の馬頭観音
説明板によれば、「下仁田道(姫街道・女街道)入口
下仁田街道は中山道「間の宿 借宿」より分岐して、油井、風越山、馬越原を過ぎ、和美峠を越え上州に入る。さらに初島屋、本宿を経て、西牧関所(藤井)を通って下仁田へ至る。最終的には富岡・藤岡を経て中山道本庄宿合流する街道である。
中山道は京都と江戸を結び、参勤交代を中心に武家や公家の往来、公用荷物の輸送を目的として整備された街道であるため通行に煩雑な手続きを必要としたので、庶民の通行や商人の輸送には不便があった。そのため中山道の脇道として、下仁田道や入山道などが利用された。
江戸時代中期頃から次第に商品の流通が盛んになり、下仁田道は商人や中馬などの運送業者による流通路や、庶民の神仏信仰の道として多くの人々に利用された。また上州根小屋より妙義山中之嶽神社へ通じる山岳信仰の道でもあり「中ノたけ道」と軽井沢石造物に刻まれている。
下仁田道は中山道の脇道として、近世以降は姫街道・女街道とも呼ばれるようになった。
下仁田道は、文化十一年(1814)伊能忠敬と測量隊が第八次測量の江戸への帰路に測量した歴史的経緯を持つ街道でもある。 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会」
この先300m程で国道18号線の側道に入り軽井沢バイパスの下を通り再び18号線に合流します。
うなぎ屋さんの角を右に入ります。
すぐ左に百八十八番順礼供養塔、庚申供養塔 すぐ左に馬頭観音があります
三基の馬頭観音 200m程進むと左に「秋葉神社」の台輪鳥居。
※台輪鳥居は島木(笠木の下)と柱の接合部に「台輪(だいわ)」と呼ばれる輪が付いている
秋葉神社拝殿と灯籠 境内の阿夫梨大神碑と石祠
中山道に戻ります
隣に「古宿公民館」があります。 200m程先に二十三夜塔があります。
※二十三夜塔は旧暦23日の夜、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事を行い、その記念や供養のあかしとして建てられたもので、月待塔(つきまちとう)ともいいます。
1kmほどすすみ国道18号線に合流します。 「中軽井沢西)信号交差点を過ぎ次の交差点左角の住宅の表札に「本陣 土屋」と記されています。
沓掛宿本陣跡
かつての宿場らしさは無く地名も中軽井沢に変わっています。
その斜め右側の八十二銀行駐車場奥に
脇本陣蔦屋跡の標柱があります。 中軽井沢」信号交差点を通過します
右へ行けば中軽井沢駅。
湯川橋手前で中山道は右折しますが左に「長倉神社」が見えますので左折します。
沓掛宿の江戸側入口 いよいよ軽井沢宿に入ります
長倉神社
橋の手前の道祖神 長倉橋
聖徳皇太子碑 石段の上に拝殿
長倉神社拝殿 稲荷神社 左に見えるのは天満宮
西宮神社 八坂神社
長倉神社境内の沓掛時次郎の碑
説明板によれば、
「千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦めば弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛時次郎 (長谷川伸書)
流行歌の一節が書かれている。剣をとっては滅法強いが義理と人情にはからきし弱い。男沓掛時次郎は、中山道街道筋の古い宿場、火の山浅間に抱かれた 「くつかけ」 を背景に長谷川伸(18844~
1963)の筆によって生み出された架空の人物である。
「沓掛」 が 「中軽井沢」 という名に変わったが、沓掛宿を偲ぶよすがとなろう。
高さ3mの自然石に、長谷川伸氏の筆を刻んだもので背後に浅間三筋の煙が眺められる。傍らの湯川の清流に時の流れが感ぜられる。
昭和28年(1953)5月に当寺の沓掛商工会が中心となって建立されたものである。
湯川橋の手前を右折して中山道に戻ります。
右折して振り返ると浅間山が見えます。
英泉の追分宿の絵
しなの鉄道線の下を通ります。 ここを右折し坂を上ります。
坂を上った左側に宮の前一里塚跡があります。
ここは中軽井沢駅の裏です。
江戸時代の初期の「中山道、沓掛宿」は駅の裏側(南側)にあったようです。
先ほど右折した所まで戻り左に進みます。すると道が二手に分かれます。
疲れている時は、安易な道を選びがちですが、ここは左の坂道へ。
正解でした。
右下に湯川を見ながら歩きます。
疲れを忘れるような気持のよい道でした。
10分程でこの交差点に出ました。
ここを左折し、菓子屋さんの前を通り踏切を渡り国道18号線に合流します。
旧近衛文麿別荘(市村記念館) 霧雨が濃くなって来ました。
別荘はこの奥にあります。
大正時代に建設され、内閣総理大臣も務めた近衛文麿氏が別荘として購入した建物を移築保存しています。現在は資料館として利用され、近衛文麿氏や、別荘地の開発に尽力した政治学者・市村今朝蔵氏、実業家・雨宮敬次郎氏などに関する資料を展示しています。
国道18号「離山」信号付近 旧軽井沢に入ります。霧雨が本降りになりました。
離山信号交差点の道路原標 旧軽井沢の別荘地の中を進みます。
雨に降られて広重の絵の様な状況になりました。
広重の沓掛宿の絵
食事をしたかったのですがとても高そうなレストランばかりで・・・・・だめだこりゃ。
コンビニをさがすことにしましたが・・・・・ありません。
離山通りの道標
霧雨で分からないが離山(はなれやま)がすぐ近くにあるそうです。
皇女和宮様がお通りになる時、「離れる山」では縁起が悪いとして「子持山」という名前に変えた事があったそうです。
六本辻を曲がって予約していたペンションへ。
ペンション佐藤のぬくもり 18:30
到着時間が何時になるか分からなかったので食事はお願いしていませんでした。
近くのコンビニで仕入れました。 19:00
霧雨が本降りになり、薄いヤッケを透して雨が浸み込んでずぶ濡れ状態です。
まず入浴,そして一杯。
食後、明日の準備。
ルートを入念にチェックしました。
どうぞ明日は晴れますように!!
画像の中には令和5年4月11日に再度歩いた時に撮影した画像も使用しています。
「中山道歩き 軽井沢宿から松井田宿まで①」に続きます。