「中山道歩き 下諏訪宿から和田宿まで①」の続きです。

 

 

 

 樋橋(とよはし)茶屋跡入口      樋橋村の今昔  説明板によれば

樋橋村は、江戸時代(寛永11年)に誕生しました。中山道和田峠の登り口に立場茶屋として栄え、茶屋本陣があり大名、公家、幕府役人や一般の旅人が休んでいきました。 文久元年(1861)11月6日、皇女和宮様がご降嫁の時、茶屋本陣でお休みになられました。茶屋本陣の 「御殿」 を改築し、お休みいただきましたが、その折、ご心境を詠まれた和歌を本陣に残されたと伝えられています。この時のお通りは4万人とも言われます。茶屋本陣跡は、昭和45年に下諏訪町文化財に指定されました。
 元治元年(1864)11月20日、水戸藩の尊攘派で天狗党と呼ばれた1000余人の一行が上京の途次通行し、幕命でこれを阻止するために高島藩・松本藩連合軍とが戦った 「和田嶺合戦」、樋橋戦争とも呼ばれた戦いがありました。
 明治15年(1882)から組長記録が残っていて、明治15年の樋橋は下諏訪村21番組と称し、戸数14戸でした。明治22年までは組長は伍長総代と呼ばれていました。明治18年、待ちに待った下諏訪学校樋橋派出所が新築されました。建築費は当時のお金で23円55銭、生徒は14人でした。
 明治37年樋橋から立った小松源太郎氏が初めて町議会議員に当選。
 大正2年9月24日、大火が発生し9戸が全焼してしまいました。このとき当時13歳だった小松良人氏は萩倉に知らせに走り、萩倉消防組が消火に駆けつけてくれました。大正12年には電灯線が配線され、ようやく電燈が灯りました。
 昭和14年に萩倉、樋橋、東俣が第6区となり、昭和16年の人口は89人でした。昭和26年に小松茂平氏空き家を買収して樋橋公会所とし、29年には公衆電話が開通しました。32年に上水道が完成。
 昭和30年代半ばから児童数が減少し、昭和37年3月樋橋分教場は77年の歴史に幕を下ろしました。
 その昔、樋橋の人々は養蚕・炭焼き・稲作で生計を立てていましたが、時代も変わり現在では農業人口も減り、国道や周辺も大きく変わっています。
 歴史ある公会所も老朽化が進みましたので、地元企業の皆さんの協力をいただき下諏訪町からの建設事業補助金を受ける中で、村の皆さんの協力のもと昔の姿を残しつつ、憩いの場として立派に改修ができました。
 樋橋は現在9戸25人が暮らしています。長い歴史が残るこの村をこれからも皆で力を合わせて守って行きたいと思います。 

 

樋橋茶屋本陣跡  

ここは下諏訪・和田両宿間(約22キロ)の峠路に立場茶屋として造られました。

立場(たてば)茶屋→宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のことです。もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれています。立場に土地の名物などを用意したのが立場茶屋。

茶屋本陣→江戸時代に中山道を参勤交代などで通行する大名や公家、幕府の役人などに休憩所として利用されていました。

 

 

水戸浪士の墓の案内の先を左に進みます。 峠まで5km。

 

天狗党の乱 浪人塚(水戸浪士の墓) 

元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗党)の総勢千余名が、一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決し京都に向かう途中和田峠で、松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出しました。そのとき亡くなった方を慰霊する塚です。

 

天狗党の乱

江戸時代末期、幕府は開国を迫られるなかで、天皇を尊び、日本を侵略から守るために外国勢力を打ち払おうという「尊王攘夷思想」が唱えられるようになりました。「天狗党」はこの思想の出発の地とも言うべき、水戸藩の尊王攘夷派を指す名称で、各地に広がった運動の中心的な存在でした。水戸藩内部においても何度も抗争をくり返し激派と鎮派に分裂をし、激派は「天狗党」へとつながり、鎮派は反改革派と手を結んで反天狗の「諸生党」となって、両党が激しい武力抗争を引き起こします。やがて、黒船来航を機に斉昭が幕府より海防参与に命じられたことから、水戸藩では改革派の「天狗党」を中心に尊王攘夷派が形成されることになりました。なお激派の一部は後に、尊王攘夷派を弾圧した開国派である井伊直弼を暗殺る「桜田門外の変」を引き起こします。尊王攘夷運動が全国へ広がりをみせていた1864年3月、藤田東湖の子である藤田小四郎を中心に据えた「天狗党」は、攘夷の実行を幕府に促すために、藩内の筑波山で挙兵します。これ以降の天狗党による一連の騒乱を「天狗党の乱」と呼びます。天狗党には水戸藩士の他にも、他藩の武士や農民なども参加して勢力を拡大していきます。しかし対立する諸生党や幕府による追討軍との間で戦いの過程で、天狗党の一部の派が軍資金不足を補うために、近隣町村の宿で、役人や富裕層から金品の強奪などをし、このことが彼らへ悪いイメージを焼き付けることになってしまったのです。その後、京都にいた徳川斉昭の子・慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えることを決めた天狗党は、武田耕雲斎を総大将、藤田小四郎を副将として1000人あまりの大部隊を編成し、京都をめざして西上することになりました。道中で、高崎藩や松本藩らとの交戦をしつつ主に中山道を通って美濃まで進みましたが、追討諸藩が街道を封鎖したため、越前へ大幅に迂回することを余儀なくされます。雪の中、越前の山道を進み、現在の福井県に着きますが、追討軍の包囲網の中に孤立。さらに頼みの慶喜が幕府追討軍の指揮を執っていたことを知り、前方を封鎖していた加賀藩に降伏して50日余りの行軍が終わりました。降伏の結果、捕らえられた天狗党員の数は828名。そのうち武田耕雲斎や藤田小四郎ら幹部を含め352名が斬首により処刑され、他は遠島、追放などの処分をされました。さらに彼らの降伏が水戸に知れたことにより、水戸藩内では天狗党の家族も次々と処刑されます。

1868年の戊辰戦争を機に、耕雲斎の孫である武田金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の援助もあって実権を取り返していきます。朝廷から諸生党追討の命を取り付けて水戸藩内で報復に着手し、今度は諸生党の家族が次々に処刑されるという悲惨な事件に発展してしまいました。水戸学の発展で多くの学者を輩出し、尊王攘夷運動の中心であった水戸藩でしたが、このような激しい内乱によって多くの有能な人材が失われたため、明治新政府で要職の地位についた人物のなかに、水戸藩出身者はひとりもいませんでした。

 

中山道に戻りまた142号線の下を通り、そしてまた142号線に合流します。

30分程坂道を進み道が大きく左カーブする所で右の山道に入ります。

ここで下諏訪のコンビニで買ったおにぎりで昼食にしました。

500ccのお茶はここでみんな飲んでしまいました。もう1本必要でした。

  

こんな道が続きます。

 

 

峠まで2.4km

 

西餅屋一里塚

 

 

遇客大安碑       峠まで先程2.4kmだったのに2.9kmに増えてるムキー

 

西餅屋茶屋跡説明板と西餅屋茶屋跡碑 

説明板によれば

「西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の5里18丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休憩する所)であった。
 中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の4軒があり、藩界にあったので、ときには穀留(こくどめ)番所が置かれた。幕末の砥沢口(とざわぐち)合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。
 (下諏訪教育委員会)」

 

ガレ場 

西餅屋茶屋跡を過ぎると前日までの雨でこの先の道が消えていました。

雨で斜面が崩れ幾筋もガレ場が出来、どれが道か分かりません。

迷った末に一番登りやすそうなガレ場を選ぶ。

それが間違いだった。

ガレ場はいつの間にか枯れすすきの急斜面に変わり登っても登っても道に出ない。

こんな所を皇女和宮が登るはず無いだろう。くそー、道迷い

30分ほど悪戦苦闘しながら急斜面を登りようやく舗装した道(旧国道142号と後でで分かりました)に出ました。

舗装道路に出たけれど自分が今どこにいるのか分からない。

とにかく舗装道路を下る事にしました。

しばらく下ると中山道の標識が見えました。よかったぁーニコニコ

 

西餅屋茶屋跡で消えていた道はここに出るはずでした。

 

舗装道路(旧142号線)から中山道に戻り再度登ります。  

30分程の道迷いでかなり体力を消耗したようです。

 

 

峠まで1.2km           再び旧142号線を横断し山道へ入ります

 

峠まで1km               峠まで600m

 

 

峠まで400m               お地蔵様と水鉢があります。 

峠が見えます。             峠まで200m

じーさまは体力の限界、息も絶え絶え息も絶え絶え。じーさまーガンバレーびっくりマークびっくりマーク   

 

頂上に着きました。 時刻14:38 頂上だぁー  びっくりマークびっくりマーク

 

 歴史の道中山道碑

 

古峠説明板と和田宿へ11kmの案内板

説明板によれば

「中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。 明治9年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆ど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみである。 (文化庁・長野県・和田村)

 

賽の河原地蔵

 

峠の空気を吸って元気回復しました。駆け足で林道を下ります。

下り道は良く手入れされていました。下り坂最高!元気回復、鼻歌出そう笑

ビーナスラインを4回通過し途中のコルゲー トパイプのトンネルは通行止めでした。

 

東餅屋茶屋跡の説明板

「標高1531mの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり、人馬の休息所となっていた。
 この東餅屋では、5軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624-43)より、一軒に一人扶持(1日玄米5合)を幕府から与えられ、難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれ、 土屋氏が勤めていた。
 鉄道が開通するとともに往来も途絶え、5軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家は無く)石垣を残すのみである。

 (文化庁・長野県・和田村)」

旧国道142号線の東餅屋ドライブイン跡を過ぎ150m程進んだ所で右の石畳の道に入ります。

 

広原一里塚説明板   

説明板によれば

 「この辺りを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂った原であった。
 冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれた時、五間(約9m)四方のこの一里塚は旅人の道しるべとなったことであろう。 この塚は江戸より52番目の一里塚に当たる。
 (文化庁・長野県・和田村)」

 

さらに山道を下ります。

近藤谷一郎巡査殉職の地碑が有りました。

(2023.3.20撮影)

 

接待茶屋説明板と歴史の道中山道碑

説明板によれば

「江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金1000両を幕府に寄付した。その金の利子100両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下付し、文政 11年(1818)に設置された施行所の一つである。
11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
 その後、山抜け(山崩れ)により流失したが嘉永5年(1852)現在地に再建され明治3年(1870)まで続けられた。 (文化庁・長野県・和田村)

 

  

接待茶屋説明板の隣の石段を上ると殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑があります

(2023.3.20)

殉職警察官近藤谷一郎君之碑説明

近藤谷一郎巡査は、慶応3年(1867)10月20日、新潟県北蒲原郡において近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治22年(1889)2月4日長野県巡査を拝命し、同年3月9日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰となった。
 上田警察署丸子分署に勤務中の明治22年8月22日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。享年22歳。   犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかった住民2人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌8月23日捜索隊によって谷川の中で発見された。   治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年8月22日の命日に、村民をあげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から 48年過ぎた昭和12年(1937)、丸子警察庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に 「殉職警察官近藤谷一郎君之碑」 の慰霊碑が建立された。
 慰霊祭は、例年8月22日の命日に和田村民の手によってしめやかに開催されてきたが、昭和63年 (1988)の100回慰霊祭をもって和田村主催から、和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。
 (丸子警察署・和田村役場)

 

100回忌慰霊祭記念の石燈籠と石碑

隣の石碑には昭和63年8月22日と刻まれています。

(2023.3.20撮影)

 

茅葺屋根の接待茶屋跡 (和田峠永代人馬施行所)  

無料で粥や焚火、飼葉などを提供していたそうです。

 

接待所の湧水   

冷たくてキリっとした雑味のないとても美味しい水でした。甘露です。

 

接待茶屋跡を過ぎ再び山道を下ります。

 

三十三体観音説明板と避難小屋?

説明板によれば

「かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認され、ここ旧道沿いに安置された。 内訳は、千手観音13体、如意輪観音4体、馬頭観音10体、不明20体で、4体は未発見である。 峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀ったものであろうか。 

(文化庁・長野県・和田村)」

 

 

旧国道142号線に出ました。        (2023.3.20撮影)

 

  
   和田峠男女倉登り口

 

この先で新国道142号線に合流し1km程進むと右側に「中山道唐沢一里塚」の案内があります。                         

 

国道右側の石段を上った先に2基の一里塚があります。

歴史の道中山道碑、唐沢一里塚説明

この一里塚は、江戸より51番目の一里塚である。
 一里塚は、江戸日本橋を基点として一里(約4㎞)ごとに道の両側に5間(約9m)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目印とし、また、憩いの場所ともしたものである。 和田、上諏訪宿間に一里塚は6ヶ所あったが、これはその一つである。
 この塚は、中山道の一部路線変更により山中に取り残されたもので、天保2年(1831)の絵図面では既に路線から外れている。  

現在樹木は残っていないが、塚は2基ともほぼ原形を留めている。

(文化庁・長野県・和田村)

 

142号線に戻り100m程進み中山道は左に入ります。唐沢集落を過ぎ再び142号線に合流します。

 

10分程進むと茅葺のバス停(扉峠口)があります。 さらに進むとドライブイン杉の屋があります。

  

茅葺のバス停                                        ドライブイン杉の屋

 

「杉の屋」を過ぎて「十割手打ちそば黒曜」の辺りから歩道がありません。

大型車が多い道でとても危険です。

  
あまりに危険な為側溝の中を歩きました。 ここで右の坂道を下ります。

 

ここを右に進みます。 消火栓の横には自然石の道標があります。 

 

和田鍛冶足信号交差点の角に鍛冶足一里塚跡があります。

他に道標(右諏訪街道、左松澤道)、歴史の道中山道碑、中山道碑があります

 

和田鍛冶足信号交差点を渡ります。

200m程進んだ左側に男女双体道祖神があります。

石垣の上に男女双体道祖神があります。「金鳥」看板がレトロな感じです。

 

和田宿高札場跡 

 

よろずや土蔵

 
 立派なうだつの「よろずや」        和田宿休憩所

 

 

和田宿脇本陣               和田宿脇本陣説明板

「本陣に次ぐ格式をそなえ、本陣差し合いの際、一方の大名が休泊した。平素は上級武士などの宿泊所にあてられた。和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒があった。
文久元年(1861年)3月10日の大火で和田宿内109戸を全焼した際、脇本陣も類焼した。
同年11月、皇女和宮降嫁の際、和田宿宿泊のため、昼夜兼行で宿内復旧工事がなされた。この脇本陣もその時の建築である
既存の建物は翠川家の御殿部分のみであるが、上段の間、二の間、脇上段、次上段の間のほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構である」

 

和田宿 本亭なが井跡   近年まで「本亭」という旅館でした。屋号は「なが井」で、その昔、和田郷の庄屋を務めていた。長井一族は本陣、問屋、名主を担った最有力の家門です。

 

和田宿 本亭なが井跡の薬医門

 

旧米屋鐵五郎本舗

文政時代(1804~1830年)に「米屋」という屋号の商家があった場所で、江戸時代にも米屋鐡五郎という者が問屋を営んでいたとのことです。その木造2階建ての建物が空いていたため、この空き家を県の「地域発 元気づくり支援金」をご活用いただいて、和田宿の活性化を進める地域住民等で構成される「和田宿のあした―住みよいふる里を考える会」(通称:和田宿あしたを考える会)の皆さんの手で地域の交流拠点施設として改装・整備されたものです。

 

石合

中山道の一つ江戸よりの長久保宿本陣である石合家から分かれて10代目ないし11代目と なる家柄といわれています。 旅籠屋を営み、和田宿の「年寄り」であったと伝承されています。 本陣の斜め向かいという和田宿の中心部に位置し、町並み景観上も重要な位置にあり、 典型的な旅籠屋の外観を今に伝える貴重な建造物のひとつです。

 

蕎麦や徳田

名主羽田家跡が蕎麦屋さんになっています。

羽田家は明和2年(1765)以降名主を勤めた。建物は文久元年(1861)の大火で焼失したが、その後再建されました。

 

 

和田宿本陣 

和田宿本陣は和宮降嫁の年である文久元年(1861)の3月10日に、宿内の出火により他の多数の旅籠と共に焼失した。しかし、11月の和宮の宿泊のために、幕府よりの拝借金を得て、急ぎ再建された。
 本陣建物は大名などの宿泊に当てられる 「座敷棟」 と、本陣の所有者などが使用する 「主屋」 にわかれており、この建物は 「主屋」 当たる。明治維新まで本陣長井家が居住していた。明治12年(1879)に戸長役場にあてられ、その後和田村役場となり、昭和59年(1984) 4月まで使用された。
 建物の規模は、間口12間(約21.6m)、奥行9間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示している。
 和宮の宿泊に使用された 「座敷棟」 と、入口にあった 「御入門」 は明治年間に丸子町の龍願寺、向陽院にそれぞれ移築された。 (和田村・長野県・文化庁)

 

復元した御入門 説明板によれば

「中山道和田宿本陣は、文久元年(1861)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」 優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行 100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。
 居室棟、冠木門は旧位置に復元したが、御入門は既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。 また、座敷棟については同じく敷地棟の関係から復元することはできなかった」

 

 

旧旅籠大黒屋跡 隣の出桁造りの建物は問屋跡     山木屋問屋跡

 

 

土蔵造の穀屋         その向かい側に  旧旅籠「たかき」

 

「かわちや」

説明板によれば

文久元年(1861)  3月10日の大火で焼失したが、その年の 10月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。
 和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。

出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。
 昭和56年度、歴史の道整備事業の一環として総工費3000万円で、延床面積422㎡を復元し、「歴史の道資料館」 としたものである。
 (文化庁、長野県、和田村)

 

橋を渡り火の見櫓の先に

 

双体道祖神と水場があります。        すぐ先の左に菩提寺入口

 

八幡社の扁額が掛かる石鳥居 

 

 八幡宮の扁額が掛かる八幡神社拝殿

 

八幡神社本殿の説前板          常夜燈と八幡神社拝殿

祭神は応神天皇である。
かつて和田城主大井氏の居館の鬼門除けに作られたとの伝承がある。
白木造一間流造の本殿は、間口1.7m、奥行1.8mの大きさで、蟇又(かえるまた)に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配扇子形になっているのが特徴である。全体にすっきりした建築で18世紀前期の建築と推定されている。拝殿と覆屋を併合した入母屋造りの建物も珍しい建築である。 (長和町教育委員会)

蟇又とは横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材です。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれる 

 

 

歴史の道中山道碑、和田宿案内       和田中学校の前に和田神社の石鳥居

 

 

芹沢バス停                「中山道一里塚跡」碑があります。

           塚は昭和35年(1960)の道路改修で取壊されました。

 

一里塚跡の先に「若宮八幡社」があります。

 

鳥居の後ろに舞台があり、その直ぐ後ろに拝殿・本殿が一体となっている

本殿は享保6年(1721)の建立である。
境内には、天文23年(1555年)和田城主大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦した際、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死したため信定父子の首級がここに埋葬されており、墓碑が建っている。また推定樹齢300年の杉の木があり、保存樹木に指定されている。(説明板より)

 

 

推定樹齢300年の杉の木          欅の大木

 

芭蕉の句碑

「安能雲は 稲妻越待つ たよ里可南」 と刻まれている。

(あのくもは いなずまをまつ たよりかな)

 

さらに1km程進むと

 

水道之碑、馬頭観音、道祖神など。   さらに道上に阿亀馬頭観世音と福大大士碑

 

 

大きな屋敷の隣に青面金剛の庚申塔や平成8年の獅子舞と子供たちの姿のレリーフ碑があります。

 

三千僧接待碑と説明板

信定寺別院慈眼寺境内に建立されていたものだが、寛政7年(1795)この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍(いちやく)二千を増した三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
 碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の一の字を三千僧の三の字に改刻した後が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、栗飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の6年に亘る凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで賄ったことがあると言われる。 (和田村・長野県・文化庁)

 

 

火の見櫓の前に水場がありました。   とてもめずらしいミミズの碑があります。

               この地域ではミミズが大切にされてきたようです。

 

 

めずらしい千木のあるバス停「下和田中組」  バス停の後ろに馬頭観世音

 

 

天王夜燈、青面金剛の庚申塔、祠など      茅葺のバス停「上深山口」

 

 

水明の里   公園になっています。  水明の里 石灯籠、歴史の道中山道標柱

 

 

水明の里 6基の馬頭観音            水明の里 馬頭観音

 

142号線に合流します。

アポロガソリンスタンドの横の階段を下ります。

階段で転倒しそうになりました。もう限界です。

 

よたよたと橋を渡ります。ここが落合橋かと思いましたが、違いました。ガックリ。

 

落合橋に着きました。  

「民宿みや」さんに連絡し迎え来て頂きます。

もう歩けません。

「民宿みや」さんはここから車で5分程でした。

車の中でご主人に「和宮様はどうやって峠を越えたんでしょうね?駕籠じゃあむりですよね」と話しました」

ご主人曰く、「特別な背負子に座って運ばれたんです。去勢した坊さんが交代でおんぶしたそうです」

「そーなんですかー。コケたら大変な事ですねー。おんぶする方もされる方も大変なおもいをして越えたんですねー。納得しました」

 

お風呂上がりのビール、と美味しいご飯。あぁー極楽極楽。

あすは岩村田宿までガンバルゾー!!   

 

次は「和田宿から岩村田宿まで①」です。