令和4年5月20日
歩いた時間 4時間30分 歩数 26,180歩
駅前の説明板によれば
「木曽路は、「これより南木曽路」 の碑が立つ桜沢からはじまる。ここから山は急に近づき澄み切った奈良井川の清流が深い谷間をぬって下るところから旅人と自然との語らいが始まる。
ここ贄川宿は、中山道69次の33番目の宿場である。また、木曽路の北の防衛拠点として建武2年(1334)に関所が設けられ、木曽福島関所の副関として当時重要な役割をはたしていた。
昭和52年、この先に関所が復元され木曽考古館とともに多くの旅行者に親しまれている」
駅前の中山道から歩き始めます。
「揚雲雀 母校は いまも 山を背に」(あげひばり ぼこうは いまも やまをせに)
藤岡筑邨(ふじおかちくそん)
駅から見たこれから歩き中山道
歩き始めてすぐ左側に水場がありました。
駅から1km程進むと左に「中山道」の案内板があります。
左に入りカーブした坂道をのぼります。
坂を上ると道祖神、観音大士、青面金剛(庚申塔)など。
左側に諏訪神社
参道右側の百万遍供養塔などの石塔群 手水所の龍の口
諏訪神社拝殿
拝殿と本殿覆屋 境内社(秋葉神社)
中山道に戻ります。
若神子集落の水場 若神子集落の水場がまたありました。
水場向かい側のなまこ壁の蔵 19号線に合流します。
50m程進むと左側擁壁上に「若神子一里塚」があります。
説明板によれば
「一里塚は、街道の里程の目安として一里おきに道の両側に設置された塚で榎や松が植えられ、往時の旅人の休息の場ともなっていた。
この若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち楢川地域内の5か所の一里塚のうちの一つで、江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。 (塩尻市教育委員会)」
「桜沢トンネル」手前の「片平」信号を右折します。左の片平集落に進みます。
集落に入る左手前の坂道に石塔があり、その先に鶯着禅寺(おうちゃくぜんじ)
延命地蔵尊(地蔵尊と馬頭観音が祀られています) 南無阿弥陀仏名号碑
左下に小さく「徳本」と刻まれています。
※徳本は江戸中・後期の浄土宗の僧
鶯着禅寺の向い側の土手の上に
庚申供養塔と男女双体道祖神 近くに摩利支尊天、御嶽神社の石碑もあります
片平集落を通り旧国道19号線に合流します
国道左側に庚申塔があります。 庚申塔の先で左に上る坂道の上に鳥居が見えます。
白山神社の鳥居です。鳥居をくぐります。
落ち葉の道を進みます。 手水所
白山神社拝殿
白山神社は加賀の国(石川県鶴来町)の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)が総本社です。
祭神は菊理媛神(ククリヒメ)で夫婦の縁から現世とあの世の縁まですべての調和結合をはかり生産者には生産の力を人には和を与える神様といわれています。
境内社 石がゴロゴロしている下り坂
奈良井川の片平橋を渡り300m程で右側斜面に「祠」と「道祖神」があります
桜沢茶屋本陣跡の門の左側に「明治天皇桜沢御小休所」碑と「明治天皇御駐輦趾」碑が、門の右側に「明治天皇桜沢御膳水」碑がそれぞれ建っています。
桜沢茶屋本陣
桜澤立場跡
桜沢はいわゆる立場です。
立場というのは、宿場と宿場の間にあって人足や駕籠掻きが休息をとる場所のことです。桜沢は、本山宿まで一里六町、贄川宿まで三十町の場所に位置しています。桜沢の茶屋本陣は代々百瀬家が務めていました。
立場茶屋・旅籠などで栄えました。国道の改修工事で様相は変わったが、両側に山が迫り、V字の谷を流れる奈良井川とともにいかにも木曽路の入口にふさわしい風情です。明治天皇巡幸の際(明治13年)は、木曽路最初の御小休所となりました。このときの一行約400名も、桜沢の各家に分かれて休息をとったとのことです。
※1里は36町で約3.927km。明治政府が決めました。
一里は1時間ほどで歩ける距離です。しかし、江戸時代は街道によって1里の定義は違っていました。それは距離ではなく、歩く労力によって決めていたからです。山陽道は平坦なため1里は72町(7.85km)。中山道、東海道は難所が多いため36町。伊勢路は中間で1里は48町(5.2km)でした。江戸時代は地方によって1里は様々でした。
※町は109mです。
桜澤立場跡から150m程進んだ右側に山に入る小道があります。
坂を上ると八手観世音菩薩と南無阿弥陀仏碑があります
近くに廃トンネルがあります。土で埋まっていて中へは入れません。
枯葉の山道を歩きます。 国道に出ました。
道標「是より南木曽路」の碑
昭和15年に建立されたものです。表面には「是より南木曽路」、裏面には「歌ニ絵ニ其の名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれています。
広重の本山宿の絵
桜沢は境沢とも呼ばれ、江戸時代には松本藩と尾張藩の藩境でした。
休憩所(四阿)の先に今はコンクリートの橋が架かっていますが、そこが
藩境でした.
この先で新国道(バイパス)に合流し右折します。
国道わきの空き地にミツバチの巣箱が20程ありました。
大型トラックが頻繁に通る国道沿いでも蜂たちは健気に働いていました。
歩道を10分程進みJR線を越える高架に差し掛かる手前で左の小道に入ります。
「雨天スリップ注意」の標識がある所です。
国道の下を通ります。
ここに出てJR線の向こうに神社らしきものが見えたのですがフェンスが張ってあり行けませんでした。
再度国道の下を通る手前に線路下を通る
トンネルがありました。
今見たJR線の向こうに見えた神社に行く
道かなと思いましたが通過しました。
大きい石碑が道祖神 右は秋葉大権現、左は筆塚です
※筆塚は寺子屋の師匠などをしのんで,教え子たちが建てた記念の碑。筆子塚ともいう。また,使い古しの筆を供養するために建てられた塚のこと。寺子屋の生徒は筆子とも呼ばれていたが,長じてから資金を集めて建立した。寺子屋の師匠は,単に子供の教育を行なうばかりでなく,俳諧など地域の文化活動の中心的な人物であることが少なくなかった。このため,その死去に際して記念碑が建てられたのである。碑には寄進者の名が刻まれていることも多く,その地域の文化構造を知る重要な資料の一つとして注目されています。
JR日出塩駅 前を通過しします。 長泉院 曹洞宗のお寺 山門手前に庚申塔
と六地蔵
日出塩一里塚跡
説明板によれば
「慶長19年(1614)本山宿の開宿に併せ築かれたこの塚は、江戸より61里の塚である。両塚には榎がうえられていたが、明治以降の開発により当時の面影は留めていない。 ここに、新型コロナウイルス感染拡大防止・終息を願い、この碑を建て区民一同で後世に引き継ぐものである。 令和2年11月吉日 日出塩区」
一里塚を過ぎて100m程進み左に入ります。
日出塩の青木
かつてここに樹齢4,5百年の桧大木があったそうです。その桧は銘木と歌われ、洗馬宿の肘掛松と共に「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われて有名だったそうです。
右後ろは日出庄開闢祖 青木大神碑
この先で通行止めです。 グーグルマップには道が載っているのに
国道に引き返すと通行止めの案内がありました。
国道に戻りました。
「本山宿」の大きなモニュメント
慶長19(1614)年に、塩尻・洗馬・本山の3宿が新しい中山道の宿に決まったが、本山宿は塩尻宿や洗馬宿のように隣村から人々を移動させて造った宿ではなく、中世からの集落でした。
ここを左に入ります。
右側の1段高い所に本山宿高札場跡があります。
秋葉大権現碑と常夜灯があります。
さらに進むと右側に上る坂道があり、その坂の入口に説明板があります。
長久寺・常光寺跡説明板によれば
「長久寺(金峰山長久寺・曹洞宗)
天正年間に奈良井義高が開基し、開山は長興寺3代の康翁寿泰大和尚、2世は充澤普和尚で、勢州渡会郡小林氏と縁あって当所へ来たる、と記されている。正徳3年(1713)には、1900坪の地内に、客殿・衆寮・庫裡・十王堂など122坪が建立されていた。慶応4年(1868)2月松本藩は東山道軍に当寺で勤皇の誓約を行った。明治4年(1871)、松本藩の厳しい廃仏希釈により、15世関宗和尚で廃寺となった。木材の一部は清行学校(下問屋跡)の校舎として使われた。
常光寺(小沢山常光寺・真言宗)
信濃三十三番札所のうち第21番 御詠歌 「本山や常の光の御寺にぞ有明月に朝日かがやく」
中世からの古寺で釜の沢奥にあった。以下の伝承が残されている。
「奈良王という者、牛に経巻をつけて伊那路を越え、釜の沢に出る途中、山中に観音様を見つけたので、堂を建て安置し、そこを堂平といった。その後、宿入口に寺を建て小沢山常光寺と称した。天正の頃、堂塔焼失したので僧なく無住となった。」 天正10年(1582)7月小笠原貞慶と木曽義昌の戦いがあり、観音堂付近で小笠原家臣が戦死した。
また天和年間(1681-83)に耶蘇教であったため廃寺になったとも伝えられている。以後幕末まで、長久寺領の常光寺観音堂として残った。
木曽名所図会に 「本山観音信濃巡礼所21番也」 と記されている。
明治4年(1871)の廃仏毀釈で、観音堂は宝輪寺(松本市今井)に買い取られ再建された。本尊の十一面観音は行方不明になっていたが、明治9年(1876)に篠ノ井の岡沢彦次郎氏が偶然知った古物商から買い取り、信濃21番岡田札所常光寺として、お堂を建立して安置し現在に至っている」
この坂を上ると
荒澤不動尊 馬頭観音、念仏供養塔、南無阿弥陀仏碑など
荒澤不動尊の隣に忠魂碑(左)と天満宮(右)
さらに上り国道上を通る橋を渡ると本山神社があります。
本山神社の扁額が掛かる石鳥居
本山神社拝殿 境内社
拝殿の奥に本山神社本殿
中山道に戻ります。
本山口留番所跡
本山宿は尾張藩木曽との境であったので宿南には口留番所が置かれました。
幕府指定の関所とは異なり各藩(松本藩)独自で治安維持、特産品の不当な流失を防ぐ為に設立されます。
女人の通行(出女)の監視と年貢徴収前の米の横流し(松本藩外への流出)防止の為の監視を主な業務としていました。
「中山道歩き 贄川宿から塩尻宿まで②」に続きます。