中山道歩き 藪原宿から贄川宿まで①からの続きです。

 

奈良井宿入るとすぐ左に楢川歴史民俗資料館があります。

  

 

楢川歴史民俗資料館の隣に案内板があります。

案内板
「 国選定重要伝統的建造物群保存地区 長野県塩尻市奈良井

所在地 長野県塩尻市奈良井 面積 約17.6ha 選定年月日 昭和53年5月31日

奈良井宿は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。
奈良井宿は、中山道最大の難所と言われた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く、『奈良井千軒』とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。
建物の大部分は中二階建てで、低い二階の全面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど、鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成している」

 

鎮神社

もとは鳥居峠にあったものを、天正年間(1573~92)に奈良井氏が現在地に移したとされています。

元和4年(1618)に、疫病流行を鎮めるために下総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれています。

 

 

鎮神社御神木の杉と舞屋            鎮神社境内社

 

鎮神社拝殿

 

水場

奈良井宿には、合計6つの水場があります。

かつては中山道を往来する人々の喉を潤したり、生活用水に使われたり。
また、火事の際に、すぐに消化ができるようにという役割も果たしていました。

 

奈良井宿高札場跡

 

 

中村屋  塗師の創始者、中村恵吉の分家に当たる櫛問屋。市指定有形文化財です。

 

  

「中山道奈良井宿 名所 鍵の手」の石碑       鍵の手水場

 

  

鍵の手にある荒沢不動尊                            長泉寺の案内板

 

長泉寺寺標と山門。   扁額は「玉龍山」

長泉寺の歴史 当寺は南北朝時代の貞治5(1366)年、元章希本(げんしょうきほん)和尚よって創建されたと言われています。古くは「清高寺(せいごじ)」と称し、その後、曹洞宗「長泉寺」となりました。 安土桃山時代の天正10(1582)年には、木曾義昌と武田勝頼の鳥居峠の戦いにおいて建物が焼失。文禄元年(1592年)に再建されましたが、江戸後期にあった奈良井の天保の大火事で再び焼失するなど、移転や火災を繰り返し、数度再建されています。現在の本堂は幕末の慶応2(1866)年に建てられたものです。 山門は、元々は奈良井宿の本陣のものでした。火災で本陣は焼失しましたが、正門が残され、その後当寺の山門として移築されました。切妻や銅板葺、一間一戸、薬医門は大火事を免れた貴重な遺構となっています。(長泉寺HPより)

長泉寺は、徳川家光により始められた宇治茶を江戸まで運ぶ 「お茶壺道中」 の宿泊所として毎年使用されていました。

 

長泉寺本堂 

 

本堂内部

 

   

本堂の「龍の大天井絵」            

本堂の「龍の大天井絵」は、明治時代になってから飛騨の匠・山口権之正(やまぐちごんのかみ)が描いたものです。“正”は“かみ”と読み、飛騨の匠の優れた棟梁に許された官名です。このほかにも、山口権之正は長野県内に数多くの作品を残しています。
天井絵の大きさは長さ約20m、幅3.5m。龍は仏法護持の神将であり、修行僧を見守るといわれています。また、水の神様でもあり、火災から建物を守るという意味も持っています。昭和期後半までは「鳴き龍」と呼ばれ、龍の目の真下で手を叩くと目の中の仕掛けが反響して独特な音が聞こえていました。しかし現在は、建物全体の老朽化のためか残念ながら音が響くことがなくなってしまいました。
本堂窓際の天井から下がっている駕篭(かご)は江戸時代末期に実際に使用されていたものです。薩摩藩の武士・福崎七之丞が乗っていました。福崎は薩摩藩主島津斉彬の側近でしたが、嘉永6(1853)年、江戸から薩摩藩へ向かう大名行列の先触れの際、奈良井へ滞在中に病死し、当寺に埋葬されました。(長泉寺HPより)

無料でこんな素晴らしい天井絵を見学出来ました。すごくお得な気分になりました。

 

天井から下がっている駕篭 

 

 

鐘楼               山門脇に「龍の大天井絵見学できます」の案内

 

街道に戻ります。

左側に上問屋跡  国の重要文化財に指定されています。

天保11年(1840)の建物が残されており、現在は史料館として保存されています。

館内には、この家に伝えられた古文書や家具等が陳列されています

明治天皇奈良井御行在所碑(画像中央)があります。

 

 

左側に伊勢屋

元脇本陣で、現在も宿泊することができます。

母屋はおよそ200年の歴史があります。

 

右側に越後屋  創業は寛永年間の旅籠。現在も旅館として営業しています。

 

 

観光案内所前の水場と食事処松波の間を進むと本陣跡があります。

 

 

 

 

 

 

 

標柱があるだけです。

(2023.3.3撮)

 

右側に松阪屋(手前)

隣に徳利屋

徳利屋は市指定有形文化財

昭和15年頃まで旅籠屋を営んでいたそうです。

 

 

  

左側に大宝寺入口                                  大宝寺参道の七福神

 

  

大宝寺山門                 臨済宗妙心寺派広伝山大宝寺本堂

およそ400年前の天正10年に建立された寺で、江戸時代に現在の本堂が建てられました。

   

                     横水の水場 隣に重要建造物群選定の碑

 

 

 

すぐ先の右側に杉の森酒造

休業中でした

 

 

 

左側に越後屋

 

 

奈良井宿下町の街並み                           

 

下町の水場

 

  

専念寺

浄土真宗 真宗大谷派
寺にいたる坂の途中に寺の入口にはその昔夜毎うなりをあげていたと伝えられる「うなり石」があります。うなりを鎮めるために、釘を打ち付けたと思われるあとが見られます。本堂裏手には、本願寺の門跡(もんぜき)の方などが休まれた部屋である「御殿」があり、復元された当時のかわやや風呂も見ることができます。木曽福島の山村代官と関係があったらしく婚姻の時に使用した婦人用の籠が残されています。

★婦人用の籠としては木曽唯一のものです。(塩尻市観光ガイドより)

 

  

坂の上にあります。            専念寺入口前の「うなり石」

説明板によれば  「専念寺 うなり石の伝説 享保十四年(1729)現在地へ本堂を移築する際、整地していると二つのおおいしが出てきた。これがその大石であり、その当時唸り出したので釘を打ち込むなどして唸りを鳴り止ませたという。当時の釘が今もなお打ち込まれている」

 

  

専念寺本堂                                               鐘楼 

 

中山道に戻りこの先の左側の坂道を上ります。

 

八幡宮に向かいます。

 

 

八幡宮の階段を途中まで上り杉並木沿いに歩いていくと二百地蔵が現れます。

 

 

 

 

 

 

二百地蔵となっていますが、そのほとんどが観音様です。お地蔵様はそこまでの数はありません。木曽の長い歴史の中で、鉄道敷設や国道の開削の際に行き場を失った観音像(聖観音、千手観音、如意輪観音など)や地蔵がここの地蔵堂に集め祀られたそうです。
石仏の制作者や作られた年代も違うため、様々な表情の石仏があります。

他にも二十三夜塔など沢山の石塔がありました。

 

中山道に戻り木曽の大橋を見て来ます。

先程上った坂を下り橋の所からJR線の地下歩道を抜け道の駅にありました。

 

                道の駅にある木曽の大橋総桧造りの太鼓橋です。

 

中山道に戻ります。

JR奈良井駅を通過します。

 

駅から200m程進むと左側に大谷石蔵が見えて来ます。 

丸山漆器店です。

石造三階建、切妻造、妻入、桟瓦葺である。大谷石積みで栃木県宇都宮大谷から運び、石工を招いて建築されました。

 

 

 

国の登録有形文化財でした。

 

贄川宿に向かいます。

 

奈良井川を渡り国道19号に合流します。

川の流れが変わっています。ここから川は日本海に向かいます。

 

19号線「平沢南」信号交差点を左に進み第3仲仙道踏切を渡ります。

 

 

踏切を渡り笹良漆器店前の小道を左(奈良井宿方面)に下ります。

 

 

JR線の鉄橋の下を通ります。       

 

進むと奈良井川に架かる橋があります。

 

 橋戸一里塚パークの案内板

 

橋戸一里塚跡  説明板説明板によれば

「中山道を含む五街道の一里塚は、慶長9年(1604)に出された江戸幕府の命により、大久保長安の指揮のもと行われた。江戸日本橋を基点として一里(約4km)ごとに街道を挟んで2基設置され、松や榎が植えられた。
 橋戸一里塚は、市内に9ヶ所ある中山道一里塚のうち江戸側から8番目の一つである。
 文3年(1806)に完成した 「中山道分間延絵図」 には、「此辺り古往還一里塚」 と記載されている。このことから、当初中山道は、奈良井川左岸にあり、そこに橋戸一里塚が設けられていたが、江戸時代のいずれかの時期に中山道が奈良井川右岸に移され、橋戸一里塚は、使われなくなったと考えられる。
 この一里塚は、経路変更の経緯を示す貴重な交通史跡であり、地区住民により平成19年に周辺整備が開始され、中山道の歴史をしのぶ公園として親しまれている。
 (塩尻市教育委員会)

 

街道に戻ります。

100m程先に屋根付きバス停があります。

バス停隣に

長野県塩尻市木曾平沢案内板

国選定重要伝統的建造物群保存地区 長野県塩尻市木曾平沢

全国有数の漆器産地である木曽平沢は、北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。慶長3年(1598)、奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられ、この道沿いに居住することにより成立したと考えられています。この道は、慶長7年(1602)、徳川幕府により『中山道』の一部として整備されます。

木曽平沢は、木曽11宿の一つである奈良井宿の枝郷でした。近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、近世後期になると『平沢塗物』の名で流通するほどに発展します。明治以降も技術革新によって成長し続けました。木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、その地位を維持し続けています。保存地区は、東西約200m、南北約850mの範囲です。

南北に本通り(中山道)と金西町の街路が縦断し、この2本の街路に面して、奥行き深い短冊状の敷地が並びます。

木曽平沢では寛延2年(1749)に大火があり、復興にあたり防火対策として行われた町割りが、現在の町割りの基盤になっているとされています。主屋は街路との間に若干の空き地を取って配されます。中庭を介して漆塗りの作業場であるヌリグラが置かれ、その奥に離れや物置が続きます。主屋を敷地間口いっぱいに建てず、隣家との間に余地を残して塗り蔵への通路とするのも木曽平沢の町の特徴です。伝統的な形式の主屋は中二階あるいは二階建て切り妻平入りで、かつては板葺き石置き屋根でした。間口は三間を標準的規模とし、通り土間にそって、表からミセ、オカッテ、ザシキを並べる基本平面を取ります。塗り蔵は二階建て置き屋根の土蔵造りで、湿度と温度を保ちやすく、通常の土蔵よりも開口部を大きく取るなど漆器の作業に適した造りとなっています。このような作業蔵は漆器生産で生計を立ててきた木曽平沢を特徴付ける建物と言えます。

塩尻市木曽平沢伝統的建造物地区は、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となって、漆器生産の町としての特色ある歴史的風致を良く伝えています。このことが評価され、平成18年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

 

さらに進むとY字路の出ます。右に進みます。

道標「左 奈良井宿」「右 木曽平沢」

 

木曾平沢の街並み

木曾平沢の街並み 漆器の店が並んでいます。

 

 

平沢の町はずれの道端右側に道標「中山道」   その隣に諏訪神社への坂道

 

その先に

 

二十三夜塔と二十三夜の説明板  「神に願かけ叶わぬならば二十三夜さまお立ち待ち」 という民謡があるように、下弦(22日、23日)のおそい月の出を待って、これを拝む風習があり、宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのであるが、特に 「お立待」 といって月の上がるまで腰を下ろさず立ち続けているという願かけをする者があり、うっかりして座ってしまったり、立っているだけでは苦痛なので、この晩集まっているものが踊りをおどってまぎらわすことが」あったという。

  また御嶽山の中興の祖として信者から崇敬された覚明行者の命日を23日として供養したことが伝えられ、1月・5月・9月・11月の4回その晩は頭(世話人)が先にたって集まり、胡座を敷いて経を読んでおつとめをしたと云う。
 これらの伝説を後世に残すため、文化7年(1810)今から約180年前、宮原六蔵氏他碑の裏側に刻である8氏により、二十三夜の碑を建てられたものである。 また、この付近の石垣はその頃の中山道の跡で、手甲脚絆姿の旅人達が往来した当時の面影を残している。
 (昭和49年5月平沢十二日同志会)

 

道が大きくカーブし左側に諏訪神社参道の石段が見えます。

  

諏訪神社                                                   諏訪神社拝殿

天正十年(1582)の武田勝頼と木曽義康の合戦の際に焼失した後、享保十七年(1732)に再建されたものです。本殿は市の有形文化財に指定されています

本殿は市の有形文化財に指定されています

 


諏訪神社舞殿   

楢川村教育委員会『楢川村文化財散歩』によれば、神紋が二つあり、右が建御名方命(たけみなかたのみこと)・左が香具突知命(かぐつちのみこと)                                          

境内から林の中を通り塩尻市楢川支所にでました。

その敷地内に芭蕉句碑があります。

正面に刻まれていると思っていましたが側面でした。

「送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」 

 

  「道の駅木曽ならかわ」で休憩し「平沢北」信号で国道19号に合流します。

 

再び国道から右の中山道に入ります。

10分程進み再び19号線に合流します。

JR中央線の鉄橋下を通り桃岡橋を渡り「桃岡」信号を右折し直ぐに左折します。

 

押込一里塚跡  説明板によれば

一里塚のある桃岡地区は、江戸時代に押込村に属していたため、押込一里塚と呼ばれた。
一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、押込一里塚は鉄道と国道十九号線の敷設で面影をとどめてなく、片側の塚は現在畑になっている。
押込一里塚から北に向かうと、木曽十一宿北端の贄川宿に入る。宿場内の中町には本陣と脇本陣があったが、本陣の建物は現存していない。
江戸時代に贄川宿の北のはずれに、『女改め』と、木材の監視・統制をする『新良貴改め』の役割を担った贄川関所があった。昭和五十一年に当時の姿を忠実に復元した贄川関所が再建された。

平成二十七年三月 NPO法人木曽ユネスコ協会 説明文 楢川中学校三年生 北原眞悠 」

 

一里塚を過ぎると坂道になります。

 

坂道の途中にあった水場       桃岡集落の南無阿弥陀仏名号碑、廿三夜塔 

                  庚申塔などの石塔群

 

 

 津島神社                小さな橋を渡り直進します。

 

 

道標「中山道」             ここを進みます。

 

 

枯葉の中に馬頭観音菩薩         斜面の上に祠があります。

 

 

坂の上に出ると下に国道の側道があります。  

 

グレーチングの上を歩きます。

 

国道左側に地蔵尊、馬頭観音、南無観世音菩薩碑などの石碑石塔群。

 

 国道左側に「贄川のトチ」の案内板があります。

 

説明板によれば

「トチは、トチノキ科・トチノキ属でヨーロッパ・北米・東南アジア等に約24種が知られているが、日本ではただ一種の落葉高木である。

  北海道から九州地方まで広く分布し、山野に自生する。特に東北地方に多いが、本県においても古来夏緑広葉樹の代表樹である。また、実はあく抜きをして 「トチモチ」 を作ることでも知られる。

  この樹は、樹齢約1000年と推定され、根元の周囲が10m以上あり、コブの上(約1m以上)では、8.6mの巨木であり、県内に現存するトチの木として最大のものである。

  また、コブの上約3mから太枝が分かれ、さらに5本に分岐して茂り、枝張りも、樹姿、樹幹の美しさにおいても県下第一のものであろう。
 地元では、樹木の下に祀られる小祠(ウエンジン様)にちなみ、「ウエンジンサマのトチの木」 と呼び、昔から大切にしているものである。
 (長野県教育委員会)」 

 

中山道に戻ります。

100m程先の右側にJR線の上を通る渡線橋があります。  

                    渡ります。

 

民家の間を通りここに出ます。

 

深澤家住宅

屋号は加納屋で、商家を営んでいました。

江戸時代末期の木曽地方における宿場の町家の姿を忠実にとどめていることから、国の重要文化財に指定されています

 

 

水場                水場の隣に津島神社・秋葉神社があります。

 

また左側に水場がありその隣に麻衣廼神社(あさぎぬの)の社標があります。

「麻衣」と言う言葉は木曽の枕詩である。

およそ1000年前の天慶年間に創立され、建御名方の命(タケミナカタノミコト)を祀る木曽地域の神社では最古と言われています。

現在の社殿は1747年に建てられたもので真っ赤な柿葺の三間社流造の本殿は市の有形文化財に、社叢は市天然記念物に指定されています。

ここから400m程奥にあるようです。今回はパス。

 

贄川関所跡

説明板によれば

「源義仲7代の孫讃岐守家村建武2年(1334)頃贄川に関所を設け、4男家光に守らしむ。
 贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役目を果たす。
 慶長19年(1614)大坂冬の陣の際は、山村良安の家臣原彦左衛門荻原九太夫この関の警備に当たる。
 元和元年(1615)5月大坂夏の陣の際は、荻原九太夫千村大炊左衛門小川源兵衛この関を守り酒井左衛門尉の家臣8人の逃亡者を捕らえる。
 江戸時代は木曽代官山村氏が臣下をして贄川関を守らしめ特に婦女の通用並びに白木の搬出を厳検せり」

贄川の集落は、昭和5年に起きた大火で大半が焼失。この贄川関所は、昭和51年に様々な文献を元に関所があった場所のそば(実際の場所は現在のJR敷地内)に間取りや敷地面積も忠実に復元されたもので、現在、関所関連の資料を展示するほか、階下の木曽考古館では縄文時代の土器・石器なども展示している。

 

メロディー橋

橋の欄干に鉄パイプが下がっており、叩いていくと木曽節を奏でる仕組みとなっている。

パイプの下は大名行列の透かし彫りになっている。

説明板によれば

「中央西線開通のときから80年、この橋は交通の要所として親しまれ役割を果たしてきました。
 このたび新しい橋に役目を譲るにあたり贄川の関所あとへの入口にふさわしい文化拠点として一新いたしました。
 昭和の終盤に着工して平成元年に完成した時代の架橋であり、末永くこの地から未来へこだまを響かせ、希望を照らすことを期するものであります。
 なお、この橋の建設費の一部は郵便局の簡易保険・郵便年金の積立金から融資されています。 (楢川村・贄川郵便局)」

 

橋を渡り贄川駅に向かいます。

 JR贄川駅に着きました。   時刻  13:45   

駅まで来て気付きました。古い記録では贄川宿には本陣1,脇本陣1,旅籠25軒となっていますが全くその痕跡に気付きませんでした。疲れてただ先を急いだせいかもしれません。(二度目に歩いた時も本陣、脇本陣を見落としてしまいました)

 

※画像の中には2023.3.3に歩いた際の画像がが含まれています。

 

次回は「中山道歩き 贄川宿から塩尻宿まで①」です。