令和4年(2022年)5月18日

歩いた時間 5時間45分     歩数  30,671歩

 

中津川駅を6:43に出て藪原駅に7:59に着きました。

すぐにスタートしました。

  

駅を背にして左に200m程進んだ所にログキャビン風の地下道入口があります。

地下道を通り中山道に出ます。

 

藪原宿高札場跡

左に下る坂道(旧中山道)一帯を出口といって京方面からの宿場入り口でした。

ここが鍵の手(枡形)のような道になっているため、人々が集まり目につき易い所でした。

掲示の高札は宿場町らしく、定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主だったと思われます。

 

山六篠原商店

江戸時代から中山道土産として全国にその名を知られた、お六櫛(おろくぐし)。硬く粘り気のある「みねばり」の木を使ったくしは、やさしい使い心地の逸品です。薮原周辺では、約300年前から職人たちが匠の技を磨いてきました。「お六櫛工房 篠原」の篠原武さんは国の「現代の名工」に指定されています。    

「お六櫛」の話

妻籠の娘お六は頭痛に悩み、御嶽権現に祈願し、お告げ通りにミネバリの木で櫛を作り、これで髪をすいたところ頭痛が完治した。以来「お六櫛」と呼ばれ評判になり、妻籠の名産になったが、妻籠ではミネバリの木が枯渇。これに反し藪原はミネバリが豊富な上、製作技術を習得し、お六櫛は藪原の名産品となりました。

 

木祖村HPによれば

かつてミネバリの木は鳥居峠付近に多くあったことから、藪原がお六櫛の主要生産地となったと言われてきました。その材は堅く、斧が折れるという意味から「斧折樺(学名:オノオレカンバ)」と呼ばれます。一方、みねばりの呼称名は地方名で、山の岩地から「峰に張り出す」ように生育することに由来するともいわれます。

水に沈むほど比重があり、過酷な環境に生きるため年に0.2ミリほどしか太くならず、その生長はきわめて遅い。それゆえ、ほかの木には見られないほど密度が高く緻密な組織になります。
みねばりは硬いだけでなく粘りがあり、狂いも出ないことから、お六櫛のような細かい歯の櫛の材としては最適といえます。

 

防火高塀跡

元禄八年七月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火がありました。

その後、防火対策として宿再建の際各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ツ辻の広小路を作りました。文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きそのうえに高い土塀をつくって防火壁としました。当時、これを「高塀」と呼んでいた。
宮田敏の「岨俗一隅」にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、石垣の一部が残されています。

消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を

つけるとか火除け広場を確保するなどしています。この薮原宿のような防火高土塀によるのは少ない例です。

 

 

ここを右折して藪原神社、極楽寺に向かいます。

 

 

JR中央線のガードを通り右の坂を上ります     藪原神社があります。

 

 

石段の中ほどに一の鳥居両部鳥居         手水舎

 

 

石段を上ると石造の二の鳥居(明神鳥居)さらに石段を上がった所に拝殿があります

 

拝殿奥の本殿には千木と鰹木が飾られています。

藪原神社は江戸時代には熊野権現とも呼ばれていましたが、明治四年に今の名になったそうです。

本殿は文政10年(1827)建立と言われ、木祖村の有形文化財に指定され藪原の鎮守様として親しまれています。祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)・速玉男命(はやたまのおのかみ・事解男命(ことさかおの みこと)

 

二の鳥居をくぐり20m程先にありました。

芭蕉の句碑

杜かけにワれらもきくや郭公(ほととぎす)

 

 

稲荷社                  奥谷壽雄翁頌徳碑

 

隣の極楽寺に向かいます。

 

極楽寺山門                 極楽寺山門横の寺標

臨済宗妙心寺派のお寺です。本尊は釈迦如来です。

極楽寺(藪原宿・木祖村)概要

「極楽寺の創建は室町時代末期(戦国時代)に当時の領主古畑十右ェ門正貫が茂林和尚を招いて開かれたのが始まりとされます。当初は大龍山禅林寺と号し倉籠の地(木曽川西岸)にありましたが、境内地は木曽川に近い事から水害が多く、度々当寺も被害を受けた為、上町裏に境内を遷し「水を去って土と成す」との理由から寺号を法城山極楽寺に改めています。

寛文2年(1662)、藪原宿の大火に類焼し堂宇、記録、寺宝が焼失、これを機に寛文4年(1664)に中町裏に移り、さらに貞享3年(1689)に寺島勘右ェ門(古畑氏の後裔で藪原宿本陣家)から現在地である境内地の寄進を受け、元禄4年(1691)に堂宇の再建が成されました。明治6年(1873)に境内に藪原学校が置かれ、その後、アララギ派の歌人達が修養の為に極楽寺に集まるようになり、観音堂が改築された際には格天井の絵画を藤田嗣治(つぐはる)が担当しています。本堂に隣接する霊廟には藪原宿の伝統工芸品として名を馳せた「お六櫛」の祖とされる「お六」の位牌が安置されています。昭和61年に木祖村有形文化財に指定された」

 

山門左にあった石碑「禁葷酒」(きんくんしゅ)

と刻まれています。

葷(くん)は辛味や臭気など刺激の強い野菜を指します。

「酒やネギ、ニンニク類の持ち込みを禁止する」という意味になります。

精が付く食べ物は修行の妨げとなるとして禁じられました。

 

本堂     扁額は「法城山」

 

  

片膝を立て乳児を抱く子安地蔵大菩薩          観音堂 

 

  

    地蔵堂                      鐘楼

 

 

境内にあった坂村真民の詩碑

「念ずれは花ひらく」と刻まれています。

大桑村の天長院にも同じ詩を刻んだ石碑がありました。確かあのお寺も臨済宗妙心寺派の寺院でした。

 

 

 

 

この詩は「念ずれは花ひらく」の冒頭部分です。 

 

念ずれば 花ひらく

苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを

わたしもいつのころからか となえるようになった

そしてそのたび わたしの花がふしぎと

ひとつひとつ ひらいていった

 

JR線のトンネルを通り中山道に戻ります。

藪原宿本陣跡

安政年間の記録によれば、間口十四間半(約26メートル)奥行二十一間半(約39メートル)の敷地(約310坪)で、その中に六間半に門を構え、番所・厩・玄関付の屋敷で、部屋数は上段の間を含め二十余でした。

南寄り間口八間が本陣古畑氏(六代より寺島と改姓)に居宅となっていたが、宿泊者が多いと共用しました。
薮原宿の本陣は中山道難所の一つだった鳥居峠の麓に位置し、宿泊するものが多い故か規模は木曽の宿駅の中では比較的大きい方です。文久元年(1861)には皇女和宮もこの本陣に宿泊しまた。

 

 

 

渡線橋でJR中央線を越え鳥居峠に向かいます。

 

気付かずに過ぎてしまったが渡線橋の50m程手前に葛沢川がありました。かつてはその辺りから山手に中山道が続いて「葛沢(くっさわ)の大橋」を渡ったようです

 

渡線橋を渡りここに出ました。

飛騨街道追分(分岐点)

この場所には十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる飛騨街道(奈川道)の追分だった。左手の細い道が旧奈川道で、小木曽地域をぬけると、美濃と信濃との国境で境峠といわれるようになった峠があります。当時この峠は険しい道で、木曽側は湿地であり板橋を掛けてわたった。いっぽう、奈川側も岩石だらけの悪路で馬を使うことが困難でした。かわりに、もっぱら尾州陸船(おかふね)と呼ばれた奈川の牛が飛騨ぶりの魚介物や塩等の荷物の運搬につかわれていました。
明治44年に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製紙工場で働く飛騨の女工達がひんぱんに往来するようになりました。

 

鳥居峠に向かうにはここから坂道を上るのですが、坂を下った所に「葛沢(くっさわ)の大橋」という木祖村の名勝があると聞きましたので、そちらに向かいます。

かつてはこちらが中山道でした。今はJR中央西線で分断されています。

 

気付かず通り過ぎてまた戻り分かりました。

説明板によれば 「葛沢(くっさわ)の大橋は、寛政の時代から現在に残る資料を辿ると、時代と共に土、木、コンクリートと形を変えながら中山道を歩く人々を繋いできた橋であることが分かる。近年では、昭和34年の伊勢湾台風、昭和58年の台風10号などで、葛沢が氾濫するなどして今のコンクリートの橋へと形を変えた。この橋は今もここに住む薮原の住民、中山道を歩く旅人に欠かせない橋である」

 

中山道を上ります。

 

尾州御鷹匠役所跡

はじめ尾州御鷹匠役所は妻籠宿にあったが、伊奈川にあった鷹の飼育場も統合して享保十五年(1730年)、藪原宿に移されました。この役所は明治四年に廃止されるまで存続したが、土地の人々が「おたかじょ」と呼んでいるこの場所がその跡地です。毎年春になると、尾張藩から鷹匠と役人が出張して来ました。
鷹の巣を見つけて鷹の飼育や調教・鷹の公儀献上・巣山の管理および巡視等を、木曽代官山村家の家臣や土地の人々の手助けも得て、行っていました。木曽谷中に六十余あった「巣山」といわれていた御巣鷹山は木曽川の上流では、味噌川にある池ノ沢・尾頭沢と笹川の押出の三ヶ所ありました。

厳しい自然環境のなかに棲みつき育った当地の鷹は優秀であり、生まれた幼鷹とともに鷹狩を好む尾張藩主をはじめ、将軍家に人気があったといわれています。

 

上り坂の途中にツツジと芝桜。とても綺麗でした。

 

 

木祖村文化財「天降社のオオモミジ」

県内ではカエデの巨木はあまり見られないが、このオオモミジは胸高直径約80cm(周囲2.5m)の巨木で、秋の紅葉がたいへん美しく、道行く人たちの目を楽しませている。天降社境内の森は、古来「大神宮の森」といってカエデの老木が多く見られ、中山道の街道沿いのため広く知られていたと伝えられている。 このオオモミジが飛ばした種から、鳥居峠一円には多くのオオモミジが自生しており、近年、地元の人たちによるモミジの植樹も行われて、付近一帯が「モミジの里」になりつつある。昭和52年に木祖村天然記念物に指定。モミジとカエデは同じ意味に使われているが、モミジは、秋に草木が紅葉することを意味する動詞「もみず」からモミジとなり、カエデは葉の形がカエルの手に似ているため「かえるで」と呼ばれ、のちにカエデとなりました。(説明板より)

※紅葉(もみじ)と楓(かえで)の見分け方:モミジとカエデは植物の分類上は同じだそうです。

葉の切れ込みが深いカエデを紅葉(もみじ)、浅いカエデを楓(かえで)と呼ぶそうです。

 

  

原町清水  説明板によれば                                道標「右 国道」「左 中山道」

「この水は峠を越える旅人がのどをうるおし

たもので今も飲み水として使用されています」

 

鳥居峠入口です。

 

 

石畳                   熊除けの鐘

 

歩いてきた中山道藪原宿が見えます。

 

丸山公園入口

 

公園内には芭蕉の句碑などがある。

鳥居峠の句碑と古戦場説明

松尾芭蕉の句碑
〇 木曽の栃うき世の人の土産かな (木曽の栃浮世の人のみやげかな)
 句碑の書は、木曽の第10代代官山村良喬(たかてる・俳号風兆)。碑の裏面に「雲雀の句はこの峠で詠まれたものでないので、この栃の句に建て替えた」ということが刻まれている。天保13年(1842)に薮原の俳人桃暁(とうぎょう)らによって建立された。
〇 雲雀よ里うえにやすらふ嶺かな (雲雀より上にやすろう峠かな)
 いつ誰が建立したものかは不明。句の上部に「はせを翁」(芭蕉翁)とある。句は大和の臍峠(ほぞとうげ)で詠んだものである。

法眼護物(ほうげんごかつ)の句碑
〇 嶺は今朝ことしの雪や木曽の秋 (峰は今朝ことしの雪や木曽の秋)
 護物は伊勢の人。僧侶(法眼)で俳諧の研究者。建立年は不明であるが、建立者は、藪原の俳人岡田不登根(ふとね)たちである。

月雪華(げつせっか)の句碑 (碑の頭部は欠けているが、建立時の記念句集から次の3句であることは明白である。)
〇 雪ならば動きもせふに山桜 (雪ならば動きもしように山桜 道元居)
〇 染上し山を見よとか二度の月 (染め上げし山を見よとか二度の月 以雪庵)
〇 雪白し夜はほのほのとあけの山 (雪しろし夜はほのぼのと明けの山 雪香園)
華表嶺眺望
 いずれも美濃の人で木曽の俳人仲間の師。句碑の書と建立は木曽代官山村良喬(俳号風兆)。「月雪花」は、四季折々のよい眺めという意味であり、「華表嶺」は鳥居峠のことである。いずれも鳥居峠の眺めのよさを詠んだものである。

鳥居峠古戦場の碑
 明治32年(1899)8月木祖村の有志によって建立されたもの。戦国時代の終わりころ、天文18年(1548)と天正10年(1582)に、木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍を、この峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代をしのぶ地名が記されている。

 

芭蕉句碑  木曽の栃うき世の人の土産かな

 

左から 法眼護物句碑、 鳥居峠標柱、 芭蕉句碑

法眼護物 嶺は今朝ことしの雪や木曽の秋 

芭蕉 雲雀より上にやすろう峠かな 

 

 月雪花句碑          鳥居峠古戦場碑

道元居   雪ならば動きもしように山桜 

以雪庵   染め上げし山を見よとか二度の月 

雪香園   雪白し夜はほのぼのと明けの山 

 

木祖村史跡鳥居峠碑

 

御岳神社

戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から、御嶽を遙拝し、戦勝を祈願した。

その功あって勝利を得ることができたので、峠に鳥居を建てた

以来、この峠は『鳥居峠』と呼ばれるようになりました。

 

木曽義元は文明7年(1475年)、木曾家豊の子として誕生。初めに左京大夫義清と名乗り、のちに義元と名乗る。木曾氏当主として勢力拡大に努め、飛騨の姉小路氏・三木氏と抗争した。

永正元年(1504年)、飛騨国司・姉小路済継の命を受けた三木重頼配下の大熊玄蕃・白谷左馬介らが白巣峠を越えて木曾領王滝に攻め入った。義元は王滝城にて飛騨勢を迎え撃つが敗れ、居城の木曽福島城への退却中に追撃を受け負傷し、死去しました。享年30でした。

 

 

神社の裏に「御嶽山眺望所」があります。

白く雪をかぶった御嶽山(3067m)が見えました。

鳥居峠は標高1197mです。

 

 

熊除けの鐘がまたありました。

 

木祖村天然記念物 鳥居峠のトチノキ群石柱

 

  

子産の栃

説明板によれば

「昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。」 

 

 

 

トチの大木が群生しています。熊が出てもおかしくないです。

 

鳥居峠の一里塚 説明板によれば

鳥居峠は標高1197m、木曽川と奈良井川の分水嶺である。江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と薮原宿の境をなし、旅人には難所として知られていた。
 戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から御嶽を遥拝し、戦勝を祈願した。その功あって勝利を得ることができたので、峠に鳥居を建てた。以来、この峠は 「鳥居峠」 と呼ばれるようになったという。
 一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、鳥居峠一里塚はその面影を留めていない。場所も、古老の話や古地図、文献などによって 「ほぼこの辺り」 としたものである。 (NPO法人木曽ユネスコ協会)

 

良くメンテナンスされていて安心して渡れました。

 

本沢自然探勝園(葬沢)

看板説明によると、天正10(1582)年2月、木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場です。

この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれています。

 

道標 「上る 鳥居峠」「下る 奈良井宿」

 

鳥居峠奈良井側入口

 

「中山道歩き 藪原宿から贄川宿まで②」に続きます。