「中山道歩き 改定版 上松宿から藪原宿まで②」の続きです。

 

巨大な冠木門を出て宮ノ越宿に向かいます。

 

「関町」信号交差点で国道19号線に合流し左に橋が見えたら左に入り二又道を左に進みます。

 

ここは右に進み国道下を通ります。 

 

国道19号線に出ました。ここにも「くるまや」さん

交差点から右前方に塚が見えます。

 

大日如来坐像と経塚

経塚説明板によれば

「この経塚は、初代木曽代官山村良候(たかとき)が、慶長年中に家臣の川崎又右衛門(祖要坊)を伴って、全国の霊場を廻って大乗経を納め、記念として塚を築いて松を植えた。年を経て知る人もなくなったので、第5代の山村良忠(たかただ)が曽祖父良候(号道祐)の百年忌にあたって、碑文を刻み建立したもので、「丸一」は山村家の家紋である。 
 文は長男の山村良林(りょうりん)で後の第6代代官山村良景の書である。
 建立は元禄14年(1701)11月20日、さらに左の大日如来坐像は元禄15年に造立したものである。 (木曽町)」

経塚の隣に芭蕉の句碑があります。 「思い出す 木曽や四月の 桜狩り」

 

「矢崎橋」信号交差点右の細い坂道を上ります。

 

  

                    すぐに下り坂となり左に折り返し国道に出ます。 

   

  デイリーヤマザキの前に来たら左の中山道に入り、国道に沿って進みます。

 

 

幅30cm程の坂道を上ります。         

坂の途中に石仏群

 

坂の途中に木曽路の大きな蕗

背丈が1以上、茎が3cm以上、葉が1m以上になるそうです。とう蕗と呼ばれています。傘に出来そうです。

 

坂を上ると国道19号線です。一里塚があります。

出尻一里塚跡 江戸まで69里目の一里塚です。  説明板によれば

「一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の距離の目安としたものである。新開上田にある出尻一里塚は国道19号の敷設により取り崩されたのか、一里塚の面影をとどめていない。出尻という地名の由来として、木曽氏の有力武将であった古幡孫兵衛尉正武が在所を黒川島尻から上田郷に移した時に出尻と名付けたという言い伝えがある。     

出尻一里塚から南に向かうと、江戸防衛の拠点として、女改めと鉄砲改めの特別吟味をした福島関所があった。関所を通り福島宿に入ると、本陣、脇本陣と町屋が軒を連ねた宿場町だけでなく、尾張藩の木曽支配と関守の任にあたった山村代官の屋敷が木曽川の対岸にあり、他の木曽路の宿場と趣が異なっていた。  

福島宿は1927年の大火により多くの家屋が焼失したが、火災から免れた上の段に江戸時代の町屋の面影が残っている。関所跡は昭和50年に発掘され、昭和54年に国の史跡に指定された。

平成28年3月NPO法人木曽ユネスコ協会 説明文 福島中学校3年生 氏名 宮田知佳」

 
国道を横断してJR線下のトンネルへ        JRトンネルを通ります。
  

トンネルを抜け左の坂道を上ります。「上田」信号交差点に出てここを直進します。

 

 
Y字路を右に進みます。                   

300m程先に

手習天神

古くは山下天神と呼ばれ、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲に学問を習わせるために学問の神「北野天満宮」を勧進したものと伝えられています。

境内の一位(いちい)の古木は名木として知られ、中山道を往来する旅人は必ずここを参詣したといわれています。

扁額は「天満宮」

拝殿

迫力のある龍の彫刻

 

 

   

天神社の後ろは「一位の木

 

左から西国三十三所供養塔、 南無阿弥陀仏名号碑、西国巡禮三十三所補陀道場、南無阿弥陀仏名号碑、南無阿弥陀仏名号碑、西国三十三所観世音菩薩、巡禮秩父三十四所供養塔。

 地蔵菩薩     

二十三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑​​​​​​薬師堂

 

薬師堂内部

 

薬師堂から150m程進んだ四つ角に「中原兼遠屋敷跡400m」の案内標識があります。ここを左折し中原兼遠屋敷跡に向かいます。

 

少し進むとJR線の上に橋が架かっています。渡り左折します。

左折し少し先に案内標識があります。

左が「中原兼遠塚」右が「中原兼遠屋敷跡」

左に進みます。

畑の向こうに塚が見えます。

中原兼遠塚

先ほどの案内標識の所に戻り中原兼遠屋敷跡に向かいます。

こちらも畑の向こうに立派な松(義仲元服の松?)が見えます。

 

屋敷跡に説明板があります。

木曽川と正沢川、天神川に囲まれた南北150m、東西600mに及ぶ河岸段丘上の自然の城塞をなすこの要害の地は木曽義仲の養父中原兼遠の館があったとされています。貝原益軒の「岐蘇路記」(きそじのき)には「宮の腰より1里下に上田と云所あり、兼平が父木曽の中三兼遠が屋敷の跡あり、木曽義仲の父帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)、悪源太義平に殺されし時、義仲2歳なりしお、母抱て信濃に下り木曽の中三兼遠を頼しかば、兼遠養育してひととなりぬ・・・」とあり、義仲(駒王丸)はこの家で13歳の元服をむかえるまでの幼少年をかくまわれて過ごしたと云われています。正面の古松は義仲元服の松と呼ばれ、水田の中の竹林には兼遠塚の碑があります。 木曽福島町

 

中山道にに戻ります。

 

 すぐ先で左に坂を下ります。(カーブミラーが目印です)                      

 

 この橋大丈夫? 恐る恐る渡ります。正沢川です。

 

ここも中山道?です。 藪の中に入ります。

 

 こんな細い藪道を抜けて来ました。舗装道路に出ました。

 

第九代山村代官 山村蘇門公の勘定方であった石作駒石(いしづくりくせき)の墓です。 自分の名前に駒の文字を使うほど、駒ケ岳が大好きだった方でこの世を去った時は、駒ケ岳のの見える場所に眠りたいと言い残した。駒石の墓は旧中山道沿いの木曾駒高原の信号からはいった所にあるそうです

この説明板は日本語と英語で書かれています。

 

   

道祖神と小社  矢印方向に進みます。

 

5分程(約300m)進んだ先に

中山道中間点碑   説明板によれば

「ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里ニ十人町(約266キロ)に
位置しています。
中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ二大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。
木曽路というと深山幽谷の難所と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された慶長六年(1601)ころからは整備も行き届き、和官などの姫宮の通行や、日光例幣使・茶壺道中などの通行に利用されていました。
英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。
また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。    木曽町」

日光例幣使とは江戸時代朝廷より日光東照宮の4月17日の大祭に派遣された奉幣勅使(ほうへいちょくし)のことです。 勅使派遣は元和3年(1617)の日光東照宮の落成の時に始まり、正保3年(1646)からは幕府の強い要請もあって毎年奉幣使が送られるようになり、例幣使と称されるようになった。

※茶壷道中とは、三代将軍家光が、御茶師仲ヶ間の筆頭であった上林家に命じて、朝廷に献上するお茶と将軍家用の高級茶を、宇治の茶師に作らせ、茶壺に詰めて江戸に献上させました。これが御茶壺道中のはじまりで、1632年より正式に制度化され、慶応3年(1867)江戸幕府の終焉まで続きました。

 

 隣にある水神様

 

さらに5分程進むと右側の草地広場に石仏群が並んでいます。

原野の石仏群です。  庚申塔などいろんな石塔、石仏、石像?です。

 

 

            無佐澤橋を渡ると庚申塔群

 

 

左にJR原野駅              原野駅で小休止します。

 

 

原野の集落                第5仲仙道踏切を渡ります。

 

踏切りから800m程進むと

宮ノ越一里塚跡   江戸まで68里目の一里塚です。

説明板によれば  「 宮越 一里塚   慶長六年(1601)、江戸幕府は江戸と各地を結ぶ五街道を整備し、宿を設置した。街道には日本橋を起点にし、一里(約四km)ことに塚(直径約九m、高さ約二m)を作らせた。一里塚 の土には榎・松・杉などが植えられた。街道の松並木と区別するため余の木を植えよと言ったのを聞き違えて榎を植えたという逸話がある。一里塚に植えられた木が旅人の距離の目安となり、木陰が休み場となった。

  宮越宿 と藪原宿 の間には木祖村吉田に、宮越宿と福島宿 の間には宮ノ越下島と福島上田の出尻の二箇所に一里塚があった。下島一里塚は道路工事で削平され形が残っていない。

平成27年3月NPO法人木曽ユネスコ協会 説明文日義中学校3年生 山本世津子」

 

徳川家光が、「一里塚がマツばかりでは旅人が退屈だから、余の木(よのき=他の木)を植えるように」と言ったのを、耳の遠い家来が「エノキ」と聞き間違えたそうです。

 

700m程先に

 

下町公民館の道祖神  

 

同じ所にある左から水神、廿三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑、大乗妙典供養塔

 

 

明治天皇御膳水 説明板によれば「 井戸の由来   この井戸は、江戸末期   (1866年頃)町内の飲用水を得るために掘られ昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活をささえてきました。その後水道の普及により廃止されました。井戸の石積は当時のままの姿を残して降ります(道径1.1m、深さ8.0m)。明治13年6月(1880)明治天皇中山道ご巡幸のみぎり、旧本陣にお小休みされた際この井戸水をもってお茶を献上されました。以来明治天皇御膳水と呼ばれるようになりました。現在の建物は町内の旧跡保存の熱意と村の援助により復元されたものです。 平成七年四月  宮ノ越 下町組 」

 

元旅籠屋の田中家  説明板によれば

 「中山道宮ノ越宿の田中家は、宿絵図に旅籠屋田中忠右衛門と記された旅籠であったが、明治16年(1883)の上町から下町まで90戸を焼失する大火で焼失した。  現在の建物は、大火時に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建されたものと伝えられており、背の高い差鴨居を多用しているので、移築した建物の建築年代は幕末期と考えられる。また、入口周りの痕跡からみると、間口4間ほどの建物の土間部分を狭くし、間口を縮めて移築したものと考えられる。現在の間口は3間4尺あるので、宿絵図に記された3間より広く、大火により町割りの再編がされたことが伺える。建物は大きな改築をすることなく住宅として使用されてきたが、平成9年に旧日義村へ寄贈された。

  田中家主屋は、間口3間4尺、奥行8間の二階建てで、二階を3尺張り出した出梁造り(だしばりづくり)の建物であり、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい伝統的な宿場の建築様式を伝えている。

  間取りは、大戸の入口を入ると通り土間があり、片側に一列に10畳、勝手(6坪余)、10畳がある。二階には勝手にある箱階段から上り、勝手の囲炉裏部分は吹き抜けとして、他は表から裏まで間仕切りの無い一室になっていた。

  入口の持ち送りは、波しぶきの彫もしっかりとしていて、宮ノ越大工の腕の確かさを証明している。

  平成26年の修復復元工事にあたり、古い部材の再使用など建築当時の姿を保つよう配慮しながら、奥の縁側に階段を新設したほか、入口の10畳は土間へ改装し、構造補強の壁を追加するなど、交流の場としての活用を目的とした改装を行った」

 

宮ノ越宿脇本陣問屋跡

都築家が勤め、問屋と名主を兼ねていました。昭和初期まで蚕種製造業を営んでいました。

 

宮ノ越宿本陣跡  説明板によれば

「宮ノ越宿は、慶長6年(1601)徳川幕府の中山道整備の時、薮原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から36番目の宿として新設され、明治3年(1870)の宿駅制度廃止まで続いた。
 天保14年(1843)の本陣絵図によると、街道に接する間口12間、奥行26間の敷地内に、道に面して本陣問屋を兼ねる主屋、3間離れ位置をずらして大名が休泊する客殿が別棟である。客殿に入るには薬医門を入って主屋に隣接する庭を12間入って式台玄関がある。18畳の大広間の奥に上段の間や控の間、大広間の隣は廊下を挟んで料理の間があり、整った本陣の造りである。
 宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、絵図の本陣は元治2年(1865)の大火で焼失したがすぐに再建された。
 明治13年(1880)の明治天皇中山道巡幸の折この本陣に小休止され、明治 16年(1883)の大火では主屋が焼失するが客殿部は残った。その後生活の場として一部改造されるが、木曽11宿中で唯一現存し、明治天皇も休まれた部屋がそのまま残る貴重な建物である。 (木曽町)」

天保14年(1843)の記録によれば本陣1,脇本陣1,旅籠屋21軒でした。

 

明治天皇御小休之跡碑

宮ノ越宿本陣跡のバス停横にあります。明治13年6月に明治天皇が行幸した折ここに御小休したことを記念して建てられました。大正2年の建立です。

 

「寺橋」を渡り徳音寺に向かいます。

 

参道入口                  参道の石仏

 

徳音寺山門  説明板によれば

「この鐘楼門は、木曽義仲24代の孫木曽玄蕃尉義陳の発願により、尾張藩の犬山城主成瀬隼人正藤原正幸の母堂が施主となって、享保8年(1723)に巾番匠棟梁藤原朝臣大和流狩戸弥兵衛久正の手によって建立されたものです。
 この門は、桁行3間梁行2間の重層楼門で、軸部の構成、組物は唐様(禅宗様式)であり、全体に調和がとれ安定した楼門です。しかも、装飾的な無駄がなく簡素の美を構成している点が賞せられます。
 弘化2年(1845)と、平成8年(1996)に修理はされているが、木曽における江戸時代中期の楼門建築を代表するものとして、よくその姿をとどめています。 (日義村教育委員会)」

 

徳音寺本堂 

 

本殿前の 巴御前乗馬像

 

木曽義仲公霊廟 

 

 

 木曽一族の墓所 

           

樋口次郎兼光の墓            巴御前の墓 

 

木曽義仲を中心にして一族のお墓があります。

 

木曽義仲の墓               

 

山吹御前の墓        今井四郎兼平の墓

 

 

 蓮池にあった小さな「お泣き地蔵尊」      隣の義仲館

 

義仲館

木曽義仲の生涯に関する歴史資料館。建物は全体が武士の館を模して造られている。

 

義仲橋を渡り中山道に戻り藪原宿に向かいます。

 

 

白い藤の花                 葵橋を渡り右折します。

 

 

すぐ先の自販機の横を左折します。   民家の間の狭い道を抜けここに出て右折。

 

 

バス停「徳音寺南」。 左折します。 

 

左に有栖川宮織仁親王、宮妃薫子両殿下御休所之跡碑があります。

皇女和宮の元婚約者の有栖川熾仁親王夫妻が中山道旅行の折、ここ手塚家で休息しました。                   

 

巴橋の手前に南宮神社手洗水があります。今は手洗水は枯れているようです。

木曽義仲が産土南宮神社を拝するときの手洗水と言われています。

 

巴橋

 

巴淵

伝説の残る巴が淵の説明板

「 歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき、巴が淵と名付けられた。  伝説には、この淵に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切々と燃えた愛の証でもあった。巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。  絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。  岩をかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵、木曽川の悠久の流れと共に、この巴が淵の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。                       

  蒼蒼と 巴が淵は 岩をかみ 黒髪愛し ほととぎす啼く (木曽町)」

 

巴淵碑と謡曲 「巴」と巴淵の説明板

謡曲 「巴」 は修羅場の中でも女性を主人公とした唯一の作品です。木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと 「木曽義仲が討ち死にした場所で、弔って欲しい」 という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現われ、「自分は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった」 と語る。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。
 巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。
 

 

千村春潮の慕情之碑

「粟津野に 討たれし公の霊抱きて 巴乃慕情淵に渦巻く」

 

時泉

「遥かなる花の薫りや鴬の声」

 

近くの国道19号線沿いに義仲が旗挙げした旗挙げ八幡神社南宮神社があります。

この先の「巴渕」信号を右折し少し進むと左側に赤い鳥居が見えて来ます。

南宮神社一の鳥居 

 

 

 南宮神社二の鳥居 奥に拝殿      

南宮神社本殿

南宮神社由緒によれば

古くから村の鎮守として此所東に1kmの古宮平(ふるみてら)と呼ばれる地に祀られていた。

平安時代末、幼少時代を木曽にて過ごした木曽義仲は、京都の石清水八幡宮より勧請された旗挙八幡宮で仁安元年(1166)元服したと伝えられている。その後、宮ノ原の地(宮ノ原の地(今の旗挙八幡宮付近)に己の屋敷を築いた折現在の地に当社を遷し篤く崇敬した。

旧宮ノ腰村の産土神として、明治五年十一月村社に列せられ、村の鎮守様として今でも篤い崇敬を集めている。ご祭神には、「金山彦命」(かなやまひこのみこと)をお祀りし美濃国一宮「南宮大社」と同一である。次代により「南宮大明神」「南宮社」とも称されていたが、昭和二十八年「南宮神社」に改められた。令和三年、「令和の改修」にて大鳥居を始め境内各所の環境が整えられた。

旭の瀧(信州の農業資産認定)

落差20mの瀧より流れ落ちる水は、同じく野上川より取水され、境内を流れる町川用水と合流する。(2023.3.3撮影)

 

境内を流れる町川用水

ヤマメ、イワナが泳ぐその水は、野上川より取水され宮ノ越の宿場町を流れて木曽川に至る。

 

南宮神社を出て国道19号左折し旗挙八幡宮に向かいます。

 

 国道を横断し左の坂を下ります。

 

旗挙八幡宮の御神木 樹齢800年以上の大欅の古木(左)と実生(みしょう)で生育した樹齢150年余りの2代目欅。           

 

木曽義仲公館址

木曽義仲公が元服した折、上田(木曽福島)にある養父の中原兼遠の屋敷から当地に移り、館を構えたといわれています。

 

 

南宮神社と同じ両部鳥居」         八幡宮拝殿

 

 

横から見た拝殿               拝殿奥の本殿

旗挙八幡宮由緒によれば

「ご祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、木曽義仲公

当神社は、平安時代末、幼少時代を木曽にて過ごした木曽義仲公が、養父中原兼遠と共に京に上った時、源氏一門の崇敬の篤い石清水八幡宮を歓請し当地に祀ったと伝えられている。

仁安元年(1166)木曽義仲公十三歳の時、この地で元服。以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて治承四年(1180)千余騎を従えて当社で平家打倒の旗挙をした。爾来、旗挙八幡宮と呼ばれ、木曽義仲公の遺徳を偲び現在に伝えている」

 

中山道に戻ります。「巴渕」信号を過ぎその先の「神谷入口」信号に出ます。

「神谷入口」信号  

 

トンネル左横の山道が中山道ですが通行止めです。昔は、ここから山吹山を回り込むように山を越えていました。

 

トンネル(山吹トンネル)内の歩道を通ります。

ガードレールのある歩道で危険は感じませんでした。トンネルの中を歩きながら気が付きました。義仲に付き添っていた山吹御前はこの山吹山の山麓付近に縁があるのかも?

トンネルを出て100m程先の左側に

「吉田の一里塚」と馬頭観音(天保13年1842年)があります。「七笑」のお酒の大きな看板が目印です。  江戸まで67里目の一里塚です

中学生の手書きの説明板によれば

 吉田の一里塚は、京都と江戸を結ぶ中山道(およそ139里)のほぼ真ん中の位置にあった。
 「中山道分間延絵図」 によれば、「下吉田」 にあり、道の両側に塚が築かれていた。
 一里塚は京都から江戸まで、およそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、吉田の一里塚はその面影をとどめていない。場所も古老の話や古地図、文献などによって 「ほぼこの辺り」 としたものである。
 吉田の地名 「よい田が拓けている」 ということからつけられた地名であるといわれているが、中山道はここから木曽川沿いの難所を避けて、東側の山を登って薮原宿に向っていた。
 (NPO法人木曽ユネスコ協会・説明文木祖中学校3年細川ありさ)

 

10分程進むと「焼肉権兵衛」が右側に見えて来ます。その隣に

西国巡礼供養塔、馬頭観音、庚申塔などの石塔群があります。

 

さらに5分程で吉田洞門

洞門外側(左)の歩道を通ります。

 

もう直ぐ藪原宿です。

 

「藪原」信号交差点に着きます。左折して坂を下りJR 線の下を通ります。

 

ここに出て               

すぐに右折します。民家の間を抜けると、その先に木祖村民センターがあります。

戦没英霊の碑

 

「D51」がありあります。

 

藪原の一里塚跡  江戸まで66里目の一里塚です。 説明板によれば

「一里塚は江戸時代、主要街道に江戸日本橋を起点として一里(約4Km)ごとに設けた里旅の塚である。築造は慶長9年(西暦1604)とされ道路の西側五間四方に高さ一丈(約3m)ほどの土を丸く盛り上げその上に榎や松を植えた。村内の一里塚は、この薮原と吉田(江戸から67里と69里)の2箇所にあった。現在は時代の推移によりその原型はみられない。この位置を一里塚と呼びその名をとどめている」

説明板に「この薮原と吉田(江戸から67里と69里)の2箇所にあった」とははてなマーク

JR藪原駅に向かいます。 
次回は 改訂版 中山道歩き 藪原宿から贄川宿まで①」です。