「中山道歩き 上松宿から藪原宿まで①」の続きです。

 

木曽福島宿は中山道を歩くだけでは見落としてしまう名所、旧跡がたくさんあります。宿内が複雑で何度も間違えてウロウロしてしまいました。

 

 

道標 ここを左に坂を下ります。   この先の芳香堂さんでそば饅頭を買いました

 

海老屋さんの角を曲がり くるまや本店で早めの昼食にします。

11時前に店に着いたのですが既に5人程並んでいました。

11時開店でしたが予約の人が10人ほどいてすぐには入店できません。

5分程待つだけで席に着きました。

かけそばを注文しました。開店して15分ほどで満席になっていました。

かけそば  これで700円・・・。昭和は遠くなりにけり。美味しく頂きました。

中山道に戻ります。

この先を左折します。 

 中八沢橋を渡り、坂を上ります。

 

坂を上ると突き当り(枡形)に古井戸があります。

ここを左に曲がりまた枡形を右に曲がります。

 

水場があります。  なまこ壁の路地の奥に大通寺があります。 

 

大通寺 鐘楼門

説明板によれば

「 当寺は、関ヶ原の合戦(1600)のあと、柱山(ちゅうざん)和尚を開山とし、木曽代官の山村良勝(たかかつ)によって建立されました。
 この鐘楼門は、安永7年(1778)9月、施主向井休治、大工棟梁は原源右衛門によって建てられたもので、当町に現存する木造建築物としては最も古いものの一つです。
 梵鐘は、寛文4年(1664)北傳和尚の時、山村新左衛門忠清、森田佐右衛門眞道(さだみち)によって寄進されたものでしたが、第二次世界大戦中に供出されたため、昭和53年(1978)に再鋳されたものです。
 山門に掲げられている扁額は、江戸中期の日本を代表する書家で、特に篆書(てんしょ)、篆刻(てんこく)を得意とする三井親和の作です。 (木曽町)」

 

大通寺本堂

 

 

 

廿三夜塔、南無阿弥陀仏名号碑、地蔵菩薩     真理姫供養塔

 

真理姫供養塔説明板によれば

「天文24年(1555)木曽へ攻入った信玄が領主木曽義康と和睦した折に、その嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いできたのが武田信玄の三女である真理姫(当時6歳ほど)です。

  天正10年(1582)織田信長方についた義昌と、真理姫の兄勝頼が戦を交え、敗れた勝頼は自刃し、武田家は滅びてしまいました。

  そして天正18年(1590)には徳川家康によって木曽義昌は網戸(あじと・千葉県)へ国替えされ5年後に病死。後を継いだ義利の乱行によって木曽家は取り潰されました。真理姫は、末子の義通と共に木曽へ戻り三岳村で隠れて暮らしましたが、正保4年(1647)98歳の長寿を全うし、波乱の生涯を閉じました。

  墓は三岳村の野口という地籍と、千葉県旭市網戸の東漸寺(とうぜんじ・義昌公菩提所)の双方にあり、東漸寺の位牌の戒名は 「真龍院殿仁栄真大姉」 です。

  大通寺は慶長4年(1601)木曽家の屋敷跡に尾張藩木曽代官山村良勝(第2代)が創設した寺ですが、その良勝が父良候と共に義昌の重臣であったことと良勝の祖母が義昌の叔母であったという説もあり、これらの縁によってこの供養塔が建てられたものと考えられます。

 

 

 境内社の稲荷大明神             鐘楼門脇の六地蔵尊

 

中山道に戻ります。

美しい街並み

 

おどり資料館

木曽福島の夏祭り「みこしまくり」や木曽踊りの資料、上の段地区で保存されてきた古い道具類など木曽の伝統文化を伝える品々の展示がされています。

 

水場のある休憩所

 

木曽福島宿高札場跡  説明板によれば 

「江戸時代、御条目やお触れは制札として一定の場所に掲げられていました。これが高札で、高札場の事を 「御判形(おはんぎょう)」 ともいいました。高札場は柵を結って近寄ることが出来ないようにして、中には栗石(くりいし)が敷き詰められていました。

 高札場は、宿村間の里程(距離)を測る基準として用いられましたので、容易に移設できない場所でした。また高札の文字の不明になった場合でも勝手に墨入れすることが禁じられ、領主の権限によって行われました。 

 この高札場は、天保9年(1838)に8枚の札が掲げられている様子を再現したもので、上より 「福島より上松への駄賃銭」 「親子兄弟人の道」 「駄賃荷物の定め」 「きりしたん禁制」 「徒党強訴の禁止」 「毒薬売買にせ金禁止」 「火付け盗賊五か条の定め」 です。
 この高札は、実際の3分の2の大きさに縮小してあります。 (木曽町)」

 

高札場手前のレストランの案内板に誘われて細い坂道を下りました。

創作フレンチ『Chez Koiwai』シェ コイワイさん 

美濃屋蔵                 千村家蔵 

 

 喜又橋を通り七笑酒造の倉庫前に出ました。

 喜又橋の説明板によれば

 「この橋は、清水の湧いた場所より小川が流れ出て、その小川に木製の橋が架かっていたものを復元したものである。

  「喜又」 とは、この地を治めた11代目当主であり、島崎藤村の実兄と共に、この町の山林確保に私財を投売りながらも、町の人々のために尽くした天晴な人柄を想い命名いたしました。」

 

 

ここを右折します。          七笑酒造 店の前に行列が出来ています。

                   「七笑」が有名です。

 

七笑酒造を過ぎ「文化交流センター」信号交差点を右折します。

木曽福島宿本陣跡    木曽町木曽福島支所となっています。

説明板によれば

「福島宿は木曽谷の中心地として栄え、宿泊客で賑わっておりました。福島宿本陣は、徳川幕府による中山道69次の宿駅制度確立とともに整備され、明治3年(1870)の宿駅制度廃止まで続きました。
 大名等高貴な御方の宿泊のために設けられた宿を本陣といい、現在の役場及び役場前広場がその敷地で、150坪の大きな旅館でした。敷地の入口に門があり番所もあって警護され、玄関から左奥に4つの部屋がつながってあり、その奥に殿様が泊まる上段の間がありました。上段の間には、専用の広い便所や6畳ほどの御湯殿もありました。中央に勝手と廊下があり両側にそれぞれ二通りの部屋が並んでいる堂々たる宿でした。

  諸大名が泊まるときには、門前に 「誰様御本陣」 と立札を掲げ、玄関に幕を張りました。また夜になると高張提灯を立てたといいます。
 本陣は明治半ばに壊され、明治39年に役場庁舎が建てられましたが、昭和2年の福島大火で焼失し、その後現在の庁舎が建てられております」

 

次に「山村代官屋敷」に向かいます。

大手橋

 説明板によれば 「中山道から代官屋敷へ渡る橋で「御屋敷前橋」と言われていたが明治になって大手橋と名づけられた。 

 明治以降二度の洪水により流出し、昭和十一年(一九三六)工学博士中島武氏の設計により世界最初の鉄筋コンクリートローゼ桁橋として架けられ、平成十四年、土木学会選奨土木遺産として認定されている。

 

山村代官屋敷

木曽義元の食客となったことにはじまり、木曽氏の重臣として活躍した。後に、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣として活躍し、勝利を得たことから、木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、明治に入るまでのやく270年間、関所を守った。

 

 

 山村代官下屋敷説明板

説明板によれば

「山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江匡衡(ただひら)一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことはじまり、木曽氏の重臣として活躍しました。後に、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配を任される木曽代官となり、以後、明治2年に至る274年間木曽谷を支配し、関所を守っていました。  

木曽の山林と4大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は強大で、その屋敷は豪壮を極めたものでした。文政11年(1828)の絵図によると福島小学校を含む敷地に庭園が20あり、そのうち築山泉水の庭が5つ、その一つが現存する下屋敷と庭です。(木曽町)

 

 

 山村代官屋敷入口              山村代官屋敷の稲荷の祠 

稲荷の祠

説明板によれば「この祠は、8代代官山村良啓(たかひら)公のときに建立されたもので、それ以降山村家の守り神として、代々丁重に奉られてきました。
 ご神体について9代良由(たかよし)公は、「その昔、日本国に降り給い帝都まで駆け巡り宮々を輝くばかり安泰に案じ給うた。神の化身である白狐様が、神の代わりに人々の訴訟を聞き判断を仰げば、たちまち英断が下され人々はその判断に従った。」 と記しています。
 今でも火難、病難除け、商売繁盛の霊験あらたかな神として庶民に崇敬されており、また酒を好む神としても言伝えられています。
 館内には、安永5年(1776)ここに稲荷を奉納するという勧請書が現存します。

 

山村代官下屋敷前の道路を代官屋敷東門に向かいます。

 

  山村代官屋敷東門跡の石垣       説明板によれば

 「延享2年(1745)4月に尾張藩主徳川宗勝が江戸を発って尾張へ帰る途中、山村邸に一泊しました。その時、藩主に従って来た重臣であり、学者であった横井也有(やゆう)の紀行文 「岐岨路紀行」 の一節が石垣の石に刻まれています。
 俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥   也有 延享二年卯月一二日

 「けふは福島にて山村氏が亭に入らせたまふ家居つきづきしくのしめ裃にてもてさわぎて何くれともてなしたてまつる。鯛鰤などの膳にひろごりたるけふは山家めきたる心地せず」

石垣は延享4年(1747)に改修されました。その時石に刻まれ、後世たびたび改修されましたが、この石は当時のままに残されています。
 (木曽町)」

 

 

近づいて見ても何が刻まれているのか分かりませんが・・・・・・・・

上が横井也有の岐岨路紀行の一節

「けふは福島にて山村氏が亭に入らせたまふ家居つきづきしくのしめ裃にてもてさわぎて何くれともてなしたてまつる。鯛鰤などの膳にひろごりたるけふは山家めきたる心地せず」

下も横井也有の句

「俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥  也有 延享二年卯月一二日」

 

石垣を後にしてさらに進みます。四つ角を左折し長福寺に向かいます。

長福寺   参道両側にヤマボウシ。まだ咲いていません。

臨済宗妙心寺派の寺院。町内の興禅寺、大桑村の定勝寺とともに木曽三大寺のひとつ。本尊は釈迦如来。

 

御堂の中に青面金剛、三猿、法羅陀山地蔵大菩薩

説明板によれば

当寺には古来より木曽路における庚申講の中心としての本尊があり、多くの信仰を集めていましたが、昭和2年の大火で失い、一体の猿像が残っておりました。  昭和55年庚申の年に当たり三猿を復元、また篤志家の寄進により本尊青面金剛の神像が安置できました。
 この神像を信仰し祈願を積めば災難消除並びに諸病平癒に霊験あらたかとされています。

 

山門                   雲龍殿   

 

説明板によれば

臨済宗妙心寺派龍源山長福寺略縁起   

当寺の草創は遠く大宝2年(702)岐岨山道が開けた頃、当郷薬師平付近に創立された古寺と伝えられ、後小丸山城下に移り富田山長福寺と称していた。

  木曽家治政の中、永享2年(1430)13代源太郎豊方公先祖追善のため、この地に再興。竹陰禅師を開山となし、多くの寺領山林を寄進して木曽三刹の一つとされる。次いで、16代義元公も龍源寺を再興されたが、後長福寺に合併。爾来、龍源山長福寺と改称す。

  永正の頃(1504-21)義元公の伯父信叔紹允禅師、京都妙心寺獨秀乾方禅師の法を嗣ぎ、当寺に住して妙心寺派を興す。

  これより木曽路、諏訪、松本方面に妙心寺派の禅風大いに振るう。故に信叔系の法源なり。

  戦国の世の天文元年(1573)甲斐の武田信玄公病没す。時に19代義昌公は義父追善の為、当寺に墓を建て廟所となす。また木曽代官山村公も先祖以来の菩提所なり。

  文禄3年(1594)、嘉永3年(1851)、昭和2年(1925)と火災に遭い、特に昭和2年には木曽義仲公出陣の太鼓、後西院帝宸輪鉄眼版一切経等々幾多の重宝を悉く焼失す。昭和49年に復興工事を完成」

 

※ヤマボウシは、6月から7月に白色の花を咲かせる落葉樹です。

 

長福寺から興禅寺に向かいます。

 

途中の道端にあった「権現水」        説明板によれば 

「戦国時代に、福島城があった城山の権現滝付近から水を引いてきた水場で、上水道布設後も近隣の人に親しまれ、情報交換や懇親の場に利用されてきました」

 

興禅寺参道入口 

参道奥に 興禅寺勅使門                              

興禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院。

永享6年(1434年)木曾氏12代・木曾信道が鎌倉建長寺5世の円覚大華を迎えて創建したと伝わる。天正18年(1590)の細川幽斎の『東国陣道記』にも描かれている。江戸時代は木曾代官山村氏の庇護を受けた。寛永、明治、昭和に3度の大火に遭い、往時の面影はほとんど残っていない。

源義仲(木曾義仲)、木曾義康・義昌父子、山村氏歴代の墓地があります。   

 

 

 興禅寺 勅使門              石段の先に本堂が見えます。

 

「木曽踊発祥之地」碑

木曽信道公が祖先義仲公供養のために始められた。甲冑に身を固めた行列が、倶利伽羅谷の戦勝にちなんでたいまつに火を灯し、鉦や太鼓を打ち鳴らして向かいの山から本寺に至り、義仲公の墓前に詣で、風流踊り(木曽踊り)を踊って霊を慰めた故事によって木曽踊りの発祥の地という。

 

門柱に続く板塀部分に書かれていました。

「禅は釈尊の正覚に直参する体験の宗教である。

座禅(静座)によって、常に身体と呼吸と心を整えて精神を統一し、心の本源に立ち戻り本来清浄な自分の心を自覚して永遠なる光明と心の安らぎを見出してゆく宗教である」

 

 

興禅寺本堂

 

本堂前の義仲公御手植二代目時雨桜

右に山頭火の句碑  「たまたま詣でて 木曽は 花まつり」

 

 東久邇宮(ひがしくにのみや)殿下御手植の菩提樹 

 

  

興禅寺鐘楼               興禅寺大悲殿(観世音菩薩がいる場所) 

 

 興禅寺蛻庵(ぜいあん)稲荷堂

明板によれば

 「約400年前飛騨の国王秀綱は、豊臣勢に攻められ秀綱は討死、その折秀綱が愛育していた白狐は難を逃れて、諏訪藩の学者千野兵庫のもとに少年に変化して入門した。
 一方、木曽の興禅寺住持第6世桂岳和尚は名僧のほまれ高く、しかも秀綱の義弟である事を耳にした白狐は、天正15年春、和尚を訪ねて弟子となり、名を蛻庵と号した。その後、姉である秀綱の妻が、飛騨の安国寺に隠れて密かに余生を送っている事を聞いた。和尚は姉を木曽に迎えんと、蛻庵を使者に遣わした。木曽より高山に抜ける山道の途中、現岐阜県大野郡高根村日和田にて猟師の家に、一夜の草鞋を脱いだ。猟師銃口を掃除し銃眼をのぞくに、前の僧は、墨染衣を纏った白狐なり。想うに、この国友の名銃は妖怪変化も本性を現すときく。寝込みを待ってこれを撃ち殺せり。爾来村中に悪疫ひろまり、ために蛻庵稲荷堂を建立して、これを祀る。」

 

 左から木曽義康公墓木曽義仲公墓 、木曽信道公墓

木曽義仲公の墓

義仲は久寿元年(1154年)武蔵国(埼玉県)大蔵館で生まれました。

幼名駒王丸。2歳の時、父義賢は、兄の子義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいでこの近くの上田にあった中原兼達の屋敷にかくまわれて成育した。元服の後、宮の越(日義村)に館を建てて移りました。

治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け、関東、北信濃の兵を集めて北陸より京都に攻め入り平家を追討。

征夷大将軍となり、朝日将軍と称せられました。

寿永3年(1184年)頼朝の軍に攻められ、近江(滋賀県)栗津原で討ち死にしました。

年31才。遺髪を納め、分霊はここに眠る。

 

興禅寺の隣に御料館があります。

 

御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)          入口

森林資源の宝庫、木曽の山林は明治二十二年(1889)年に大部分が御料林(皇室の財産)となり、同三十六年に宮内省によって「御料局木曽支庁」が現在地に初めて設置されました。その後、昭和二(1927)年に大火で庁舎が焼失しましたが、わずか半年で宮内省内匠寮により再建された庁舎が「帝室林野局木曽支局」です。  庁舎は、組織改編を経て、昭和二十二(1947)年に御料林が国有林になってからも長く林政の拠点として使用されてきました。そして同二十六(2014)年に一般公開を開始し、御料林の歴史を後世に伝え森林文化を発信し、地域に生涯教育活動や子育て支援、観光交流等に利活用する「愛称:御料館」として、多くの来訪者を迎えております。

平成24(2012)年木曽町有形文化財指定

平成29(2018)年林業遺産認定

令和2(2020)年日本遺産(構成文化財)認定  (御料館パンフレットより)

 

 

支局長室                 大会議室

愛知県犬山の明治村の雰囲気です。「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」

 

 

「権現水」から木曽川に架かる「関所橋」を渡り中山道に戻ります。

目の前の石垣の上に木曽福島関所があります。

木曽福島関所への登り口

 

          入口の木曽福島関所跡碑

 

国史跡福島関所跡の説明板によれば

「福島関所の創建された年代は明らかではないが、中山道の開かれた慶長7年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時天下の4大関所と称していたものである。
 当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治2年(1869)6月までその機能を果たしてきた。  この関所は、各藩境等に見られる番所の類と機能を異にし、特に 「女改め」 と 「鉄砲改め」 とに重点が置かれていた。

  中山道が東海道とともに当時江戸と京都とを結ぶ幹線の道路とされていたことや、「女改め」 の手形の本紙はこの関所に留め、下り(江戸へ向かうもの)のについては、ここから碓氷関所へ 「書替手形」 を発行する、とされていたことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重要視されていたかが伺われる。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんど留めていなかったが、昭和50年夏に行なわれた発掘調査の結果、寛文年間(1661-70)頃のものと推定される。
 関所古地図にみられる
 一、御関所敷地 25間3尺   一、敷地是より大道北の柵迄16間        一、下番所間口3間、奥行6間
 一、東門外に駒寄 15間1尺5寸   一、捨門(西門)外に柵7間5尺その先端駒寄4間4尺
 一、南側根の井迄東門のつづき柵を39間4尺
の規模にわたる関所遺構の全容を確認することができた。

  これを史跡公園として整備保存する計画がたてられ、史跡公園に隣接して、昭和52年4月27日、当時の御番所建物を再現、関所資料館が完成し、昭和54年3月13日文部省より国史跡として指定された。
 平成2年史跡内の民地の公有化に伴い、第二次発掘調査を実施し、史跡保存、環境整備の一環として平成4年度に東西両門と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたものである。   (木曽福島教育委員会)」

 

  

西門                   西門から福島関所資料館へ

 

福島関所資料館入口  復元された御番所が見えます。

 

 

 隣の高瀬家資料館へ           高瀬家資料館

説明板によれば

 「ここ高瀬家は、文豪島崎藤村の姉 「園」 の嫁ぎ先で、作品 「家」 のモデルとして知られています。「園」 は作品 「家」 に登場する 「お種」であり、また、「夜明け前」 の 「お粂」 です。
 高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄を祖としその後高瀬と改め、則澄より4代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大坂冬の陣のころ木曽福島に入り、その子八右衛門武声が山村代官に仕えて、以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。
 大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したものの旧家の風情を今も伺うことができます。
 島崎藤村に関わる史料と関所番や生活に関わる道具類が所蔵、展示されています。
 (木曽町)」

 

木曽福島関所跡を出て中山道に戻ります。

 

「中山道歩き 上松宿から藪原宿まで③」に続きます。