「中山道歩き 馬籠宿から妻籠宿まで①」の続きです。

 国道256号を横断して妻籠宿内に向かいます。 

 道端のお地蔵様。            諸人御宿 八起

 

 

「藁馬実演販売」の店           妻籠発電所1934年に運転を開始                            

 

「おしゃごじさま」

説明板によれば

尾又(おまた)  木曽路(中山道)から、伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹藪の中に、今もその道跡をたどることができる。宝暦年間1760頃)に、飯田道が付け替えられ、ここから約600m南の橋場に追分が移動した。
 おしゃごじさま  御左口(ミサグチ)神を祀る。古代からの土俗信仰の神様で 「土地精霊神」 「土地丈量神様」 「酒神」 等の諸説がある謎の神様といわれている。  尾又区」

 

ここを左折します。

 

尾又橋から妻籠発電所方面の蘭川

下流にある蘭発電所の蘭川取水堰堤があります。

妻籠宿に戻ります。

籠宿の街並み

 

妻籠宿の街並み

 

上嵯峨屋  南木曾町有形文化財

この建物は18世紀中期の建築と推定され、妻籠宿でも最も古い建物の一つです。当時の木賃宿の形式を良くとどめており、昭和44年の解体復元では古材を極力残すよう努め、当時の姿を再現いたしました。

 

妻籠宿の街並み

道が2つに分かれます。右の道を進み光徳寺に向かいます。

 

延命地蔵堂   説明板によれば

享保10年(1725)の書上げには 「地蔵堂」 と記されている。 堂内には直径が2mほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化10年(1813)5月10日頃、河中(蘭(あららぎ)川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運びあげたというものである。
 この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常に濡れているように見えることによる。
 毎年4月23日か24日にお祭りが行われている。

 

石仏「寒山拾得」像

この石仏は、昭和59年の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な像が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年(1854)の大地震の後に積み直されたもので、それが再び地震で崩れ、石仏が出現したわけで、まことに不思議なことである。
 この石仏が日本石仏協会の目にとまり、寒山拾得を題材にした 「箒と巻物を持った人物による双体像」 は、国内唯一の珍しい絵柄と分析された。彫ったのは、文政年間(1818-29)にこの像の隣にある 「水舟」 を手掛けた光徳寺の 「中外和尚」 と推察される。
 「寒山」 は、唐代の禅僧豊干に師事し、天台山の近くに 「拾得」 とともに住んだ奇行の僧で、伝説の部分も多いが 「寒山詩」 や 「禅宗の画材」 として有名である。
 石仏の 「寒山」 が手にする 「巻物」 は、知恵を意味し文殊菩薩の化身であり、隣の 「拾得」 が手にする箒は、行動を意味し普賢菩薩の化身と言われている。

(寺下区)

寒山拾得像の隣に瑠璃山光徳寺があります。 

右に見えるのは石の水舟です。

 

石段の途中に三界萬霊塔があります。

 

 

                     光徳寺山門

説明板によれば  瑠璃山光徳寺 伝承によれば光徳寺は、明応9年1500)に悟渓和尚によって開山されたということであるが、史料的には 「本尊薬師瑠璃光如来奉刻彫勧進帳」 によって、慶長4年(1599)にはその設立が確実に認められる。   

光徳寺の庫裡には、幕末から明治にかけての住職遂応和尚によって考案設計された、人力車の祖型ともいうべき 「車付駕籠」(町有形文化財) が保存され、また境内には樹齢250年余の 「枝垂桜」(町天然記念物) がある

 

道が2つに分かれた所に戻り左の道を進みます。

 

下嵯峨屋 (南木曾町有形文化財)

当初、三軒長屋であったものの一戸を昭和43年に解体復原しました。妻籠宿に現存する民家では比較的古い形式をとどめています。大きな特徴として、柱に桧が使われていることが挙げられ、木曽谷の民家としては大変珍しい建物です。

 

松代屋 200年以上続く宿。

松代屋さんの隣の路地を進むと南木曾壁方面行きのバス停があります。

寺下丁子屋   民芸品を含むお土産物屋さん

 

枡形

江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられました。
宿場の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものです。
この妻籠宿の枡形は、明治32年からの太平街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えています。

 

妻籠郵便局隣が観光案内所 

 

向かい側に

妻籠宿本陣

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子に来た広介でした。
本陣は明治になって取り壊され、その後、御料局妻籠出張所が建設されましたが、のちに町に払下げられたのを機に、平成7年、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに復元されました。

歴史資料館

 

少し先の左側に

脇本陣奥谷

代々脇本陣・問屋を勤めた家で、現在の建物は明治10年にそれまで禁制であった木曽桧をふんだんに使い、当時の粋を集めて建てたものです。
また、島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先でもある。

 

妻籠宿高札場跡

江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札場を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多かった。

 

地蔵沢橋を渡ります。

橋を渡ると右側に

口留番所跡   

説明板によれば 「江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。
従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された正保3年(1646年)と推定された史料に、「妻子(籠)御関所」と記されていることから、少なくとも17世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認されました。
なお妻籠には、下り谷その後一石栃に、木材を取り締まることを目的とした白木改番所が、近世を通じて設置されていました」

 

鯉ヶ岩

鯉ヶ岩は名の如く、大きな鯉の形をした大岩であったが、明治24年美濃の大震災で移動したため形が変わった。
附近の烏帽子岩(吾妻橋地区)兜岩(神戸地区)と共に「三大岩」として有名です。

 

鯉ヶ岩の向い側に

熊谷家住宅

19世紀初頭に建てられた長屋の一部。
左右の建物が取り壊され立て替えられたことから長屋の右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されてきたものです。

建築学上珍しく貴重な建物なため、昭和48年に町で買い上げ解体復元されされました

南木曾町有形文化財です。

熊谷家住宅内部

 

御宿大吉  街並みはこの辺りまでです。

 

橋を渡り右側の坂道を進みます。

ひさしぶりの上り坂

 坂を上ってここに出ました。

妻籠城址  説明板によれば

「妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推測される。妻籠城は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また、慶長5年(1600年)の関が原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和2年(1616年)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・帯回輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。主郭へは徒歩10分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望でます」

ここをさらに左に上ると妻籠城址です。

妻籠城址への道  通過しました。 後で調べてみると意外と近かったショボーン

妻籠城は木曽谷の南を固めた城で、主郭・二の郭・空堀・帯曲輪をそなえた規模の大きい山城だったそうです。

 

しろやま茶屋  朽ち果てるのを待っている様な状態です。

関ケ原の戦い後、徳川家の覇権が確立し妻籠城は破却されました。その後中山道が

 

中山道蛇石説明板によれば

「名石 蛇石(へんびいし) 中世の中山道はここから沢沿い上っていた。元禄16年(1703)に道の付け替え工事が行われて、妻籠城総堀を通る現在の道になった。」

 

 

中山道蛇石の碑              蛇石の碑の先で左に入ります。

「右 つまご宿 左 志ん道 下り道旧道」と刻まれています。

「くぼほら茶屋跡」の道標「中山道」

 

 

 「くぼほら茶屋跡」の良寛碑  説明板によれば

木曽路にて この暮れのもの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて小牡鹿鳴くも」この歌は手まり上人と言われた良寛が木曽路を通った折に詠まれた二首の内の一首です」

 

良寛碑を見て坂道を上ると両側に一里塚があります。 

上久保の一里塚  説明板によれば「一里塚は、慶長9年(1604)から17年(1612)にかけて、一里(約4km)ごとに築造されたものである。一里塚の基準は、5間四方(約9m)、高さ一丈(約3m)で、塚上に榎や松を植えた。街道の両側に対に築造され、旅人に安息と利便を与えた。

 町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の4ヶ所に一里塚があったが、現在原形を留めているのはここだけである。江戸から数えて78里目の塚である」

 

道標 「せん澤 右 妻籠へ 左 南木曾駅へ 下り 国道へ」

 

 戦沢橋を渡ります。

 

大明神  この先小さな橋を渡り4差路に出ます。

 

直進しても右に進んでもかぶと観音に行けます。

直進してかぶと観音の境内を通るのが中山道の様です。

 

4差路の道標「西下り国道 南前旧道 東上りかんのん堂 北後かんのん堂」 

 

直進しました。

撮影ベストポジションとなっています。

かぶと観音

平安時代末期に木曽義仲が妻籠砦(後の妻籠城)を築いた際、北東の方角に位置する当地に鬼門鎮護として一宇を設け、義仲の兜の中に納められた観音像を安置したのが始まりと伝えられています。

 

観音堂

 

そでふり松の説明板

木曽義仲が弓を引こうとした時、邪魔になった松を巴御前が袖を振ってその松を横倒しにしました。

松はその後芽が出て何代目かの松と伝えられていました。平成21年に松くい虫により立ち枯れしました。

巴御前が晩年過ごした南砺市から「巴の松」として親しまれている樹齢750年の黒松の実生苗木を譲り受け植樹しました。

 

すぐ隣が神明神社

 

巴御前の袖振りの松説明

平安末期の武将木曾義仲と巴御前の伝承の残る松だったが、平成21年に松食い虫により立ち枯れしたため、残念ながら伐採となった。
 「袖振りの松」 は、義仲が弓を引こうとした際に邪魔になった松を巴御前が袖を振って横倒しにしたが、また芽が出て何代目かの松と伝えられていた。
 この度、巴御前が晩年を過ごした富山県南砺市福光の 「義仲巴ら勇士讃える会」 と縁があり、「巴塚の松」 として親しまれている樹齢750年程の黒松の実生苗木を譲り受けて植樹することとなった。
 木曾義仲の歴史ロマンに想いを馳せるとともに、義仲が結んだ縁を大切にしながら、両地域の発展を願う次第である。 (南木曽町教育委員会)

 

少し先に「ベストポジション」の案内板があります。民家の庭です。

素晴らしいベストポジションです。

 

左下に進みます。

南木曾町が見えて来ました。                   

 

坂道の途中に馬頭観音と供養塔があります。

 

 

坂を下ります。

 

SL公園  昭和40~50年代に木曽谷を走ったD51が保存されています。

 

 SL公園の向かい側に一刻院があります。

 

 お堂の中に沢山の仏像があります。

 

南木曾駅に向かいます。 

 

ここを左折します。

 

南木曾駅に着きました。     時刻  13:30

中津川行きの電車の時間まで1時間以上あるので、近くの桃介橋を見に行くことにしました。

 

桃介橋

1922年(大正11年)に完成した木橋です。

1978年(昭和53年)には破損・老朽化のため使用取りやめとなり、廃橋の町議会決議を受けました。

しかし撤去のための費用がなかったために実際に廃橋とはならず、1993年(平成5年)に南木曽町のふるさと創生事業「大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園整備事業」の一環として復元され、再び渡河の用に供されるようになりました。

 

福澤 桃介(ふくざわ ももすけ、慶應4年6月25日〈新暦:1868年8月13日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて日本の電力業界を中心に活動した実業家である。福澤諭吉の婿養子にあたる人物。

埼玉県出身。旧姓は岩崎(いわさき)で、慶應義塾卒業後に諭吉の婿養子となり福澤家に入る。相場師として日露戦争後の好況期に株式投資で財を成し、実業界に転じた後は主として電気事業に関係、名古屋電灯社長や大同電力社長を務めて木曽川の水力開発を主導するなど多数の電力会社を経営した。電力業界での活動により「電気王」「電力王」と呼ばれるに至る。

 

14:10南木曾駅に戻り14:42発の電車で中津川に帰りました。

 

次は「中山道歩き 妻籠宿から野尻宿まで」です。