令和4年4月24日
歩いた距離 約12km
中津川駅を5:39に出発し大津駅に8:02に着きました。
前回と同じ道を通り中山道に戻ります。 時刻8:10
「逢坂1丁目北」信号交差点 蝉丸神社下社
関蝉丸神社下社の旧称は「関清水大明神蝉丸宮」で豊玉姫命を祀っています。
豊玉姫命とは、海神「綿津見大神」の娘です。
元は水の神様ですが蝉丸法師と結びつき、現在は「芸能の神」として信仰されています。
関蝉丸神社は、上社と下社の二社あり、こちらは下社です。
平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、その名があり古くから歌舞音曲の神として知られています。
関蝉丸神社社標(左)と音曲蓺道祖神碑(中央)
踏切を渡り境内へ
蝉丸歌碑
「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」
※逢坂の関は、大化2年(646年)に設置された山城国(現在の京都府)と近江国(滋賀県)の境にあった関所。 伊勢国の鈴鹿や美濃の不破と並ぶ三関のひとつです。
紀貫之歌碑
「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくらん 望月の駒」
※紀貫之(きのつらゆき) 866年頃~945年頃「古今和歌集」の中心的な撰者。「土佐日記」の作者。平安時代を代表する優れた歌人で、藤原公任が優れた歌人として挙げた三十六歌仙のひとり。
関蝉丸神社下社拝殿 黄色の丸枠内は時雨燈籠。 工事中でした。
時雨燈籠 説明板によれば 「時雨燈籠」の名称で知られる六角形の石燈籠です。六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、その上に建つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。六角形の火袋は簡素なもので、火口を一か所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子を彫っています。六角形の笠も薄く、蕨手はよく古式をとどめています。最上部の宝珠 と請花は後補。 いずれにしても作成年代を示す銘文はないが、様式上、鎌倉時代の特色を持った良い石燈籠で、貴重なものとして昭和37年6月に国の重要文化財に指定されました。 大津市教育委員会
※「後補」=「後世の補修」
関蝉丸神社下社神門
関蝉丸神社下社本殿
関清水神社 関蝉丸神社下社の境内にあります。右に紀貫之の歌碑があります。
40年程前から枯れ始め今は全く水がありません。
境内にある貴船神社 万物の命の源である水の神を祀る神社
東海道に戻ります。
踏切(京阪京津線)を渡ります。
右側に逢坂山安養寺があります。
蓮如上人旧跡碑、逢坂説明碑、安養寺説明板
安養寺説明板によれば
「本堂には、重要文化財阿弥陀如来坐像が安置されている。また、同寺は、蓮如上人の旧跡で、上人「身代わり名号石」が残っている。なお、境内の「立聞観音」は古く東海道名所図会等に記載されて有名である」
安養寺は貞観4年(862)智証大師による開基。
逢坂説明柱によれば
「日本書紀」 によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。
東海道に戻り坂を上ります。
「逢坂一丁目」信号手前で右に入ります。
「鉄道記念物旧逢坂山ずい道東口」標柱
旧逢坂山ずい道東口
坑門上部にある「楽成頼功」の扁額 平成20年2月近代産業遺産に登録
説明板によれば
この隧道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道です。
明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年(1880)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921)8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものです。
全長664.8mに及ぶこの隧道は、当時の工部省(「明治3年(1870)に鉄道・鉱山・工作・灯台・電信・造船など、殖産興業のための官営事業をつかさどるために創設された中央官庁。85年廃止。」)の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。 こうして完成した逢坂山隧道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも大きな意義を持つものです。
坑門上部にある「楽成頼功」の扁額は、竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字を充てました。
日本の近代トンネル技術は、その後、世界的なレベルへと大きく発展することとなりました。
東海道に戻ります。
右側には歩道が無いので左側に横断し国道1号線に合流します。
横断した所に並走する京阪京津線の踏切があり階段を上ると念仏寺があります。
名神高速道路の高架下を過ぎると右手に
関蝉丸神社上社があります。
蝉丸神社上社と下社は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809~823)のときに猿田彦命(上社)・豊玉姫命(下社)をまつり、 円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。社殿は国道1号線に面した斜面にあります。
弘法太師堂 大師は逢坂関を越え東国との往き来をしました。
車が多く、横断歩道もなく右側に渡れません。とても危険な為横断を諦めました。
弘法太師堂の隣にある逢坂常夜燈 台座に東海道に敷かれた車石が使われています。
両側を大きく掘割した緩やかな上り坂が続きます。
逢坂山関跡碑 この関は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破と並ぶ天下の三関のひとつです。隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立です。
この横断歩道を渡り右側の旧東海道を進みます。
逢坂の関記念公園があります。
公園内に歌碑があります。
清少納言歌碑
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」
三条右大臣歌碑
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」
蝉丸歌碑
「是れやこの 行くもかへるも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」
公園の斜め前に地藏堂があります。
その先に「うなぎ屋」さん明治5年(1872)創業の老舗 「かねよ」
「かねよ」さんの先右側に
蝉丸神社
天慶9年(946)蝉丸を主神として祠られ、その後、万治3年(1660)現在の社が建立され街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を合祀したそうです。
蝉丸神社の先、大谷駅入口角に
元祖走井餅本家の標柱
走り井餅の創始は、明和元年(1764)。走井の名水と近江の米でつきあげた餅は、旅人の空腹を補うとともに、旅の疲れを癒しました。この走り井餅の独特のかたちは、水量豊富な水の流れ、ほとばしる水滴を表したもので古来から東海道の大名物として全国に知られています。お店はここにはありません。
歩道橋を渡り1号線の歩道に出ます
5分程進むと
民家前に大津算盤の始路・片岡庄兵衛説明碑があります。
明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造し江戸幕府ご用達の算盤師となった。
すぐ先に
月心寺
歌川広重(うたがわひろしげ)が描いた東海道五十三次にある大津の錦絵には、溢れ出る走井(はしりい)の水のそばの茶店で旅人が休息している姿が見られますが、この茶店が現在の月心寺といわれている。日本の名水として広く知られたこの走井の水は、多くの詩歌や文学作品に登場し、古くから有名でした。茶店のあと住む人もなく荒廃していたのを、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったのです。(滋賀・びわ湖観光情報より)
広重の大津 走井茶屋の絵
塀越しに明治天皇駐蹕之処碑
明治元年(1868)に初行幸でお休みになられた。
石段の上に瑞米山月心寺山門
月心寺の石垣前に道標「右一里丁 左大谷町」
この辺りに走井の一里塚があったと云われています。
江戸より134里目の一里塚(東海道では江戸より123里目)
高速道路の下を通り交番前を左に入ります。
左に入るとY字路の右側に地藏堂があります。
そのままY字路を右に進みます。すぐ先の右側に
佛立寺(ぶつりゅうじ)
安政6年(1859)に開創された本門佛立宗最初の寺院で初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応四年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。佛立信者のぬくもりを大切に、人に優しいお寺。(佛立寺HPより)
大きな常夜灯があります。
慶応二年、開導聖人によって造立された「常夜灯」は高さ一丈五尺、約5メートル。笠、火袋が大きく、腰の辺りが大きくくびれて、そこに深い太い字で「常夜灯」と彫られています。
大きくてカメラに収まりません。
開導日扇上人像 佛立開祖 日扇霊碑
長松山佛立寺本堂 街道から見た長松山佛立寺
髭茶屋追分 蓮如上人御塚(左)追分道標(右)
事故で破損したのかな。ステンレスの板で補強しています。
このY 字路を右に進みます。左に進めば東海道57次の伏見宿です。
※東海道57次
1601年(慶長6)に徳川幕府により江戸から京都までの53の宿駅・伝馬制度(東海道53次)が整備されました。
1615年(慶長20)に大阪城が落城すると東海道を大阪まで延長し、伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場を作り、大津宿(髭茶屋追分)から大阪(高麗橋)の東海道57次が出来ました。
東海道57次は、参勤交代の西国大名が入洛し朝廷に接触するのを防ぐ目的があった
追分説明板によれば
「この地は、江戸時代より東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたり、馬子が馬を追い分けることから、その名前の由来となっています。
「大津絵の 筆のはじめは 何仏」と芭蕉も詠んでいる大津絵は追分で生まれ、大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広がりました」
また、「髭茶屋町」と言うのは、髭づらの老人が茶店を出していたからだそうです。
追分町自治会館前に追分町説明柱があります。
「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」
放光山閑栖寺(かんせいじ) 1554年、西向が創建し、念仏道場を開いた。
閑栖寺脇にある東海道碑と車石説明板によれば
「東海道大津・京都間三里(約12km)の道には、物資を運送する牛車の通行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって擦り削られて出来たものである。 文化2年(1805)には、画期的な車石施設工事が行われ、歩車道分離が整備された。この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道であった。人馬道は、旅人の安全の確保のために、一段高く設けられていた。
境内には、当時の状況を一部復元して保存している。
「山門」は、長屋門になっている。南面している。門上に太鼓楼がある。太鼓は、東海道を往来する人々に時刻を知らせていた.
閑栖寺本堂
境内に、江戸時代の「大津絵の源流 追分絵 追分の絵師もしらじなけさの春 元禄二年(1689)和風」の句碑が立てられている。
※大津絵は、江戸時代に東海道沿いの大津(滋賀県)で生まれた旅人向けのお土産や護符として発展した民画です。当初は仏画が中心でしたが、後に「鬼の念仏」や「藤娘」などユーモラスな風俗画・戯画も描かれるようになり、庶民信仰や教訓も取り入れられました。
大津絵の言葉を使って詠んだ最初の句として、「大津絵の 筆のはじめは 何佛」がある。松尾芭蕉(1644-1694)が、江戸時代、元禄四年(1691)に詠んだ。
江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった.
閑栖寺から150m程進むと右に地藏堂があります。その先に「旧藤尾小学校跡地」
さらに進むと歩道橋があります。
親切な案内板
「旧東海道をお歩きの皆様へごあんないします。
京都三条大橋へ向かう方は、この歩道橋を渡って下さい。五十メートル進んでY字路を右方向が東海道です」
歩道橋から大津逢坂峠方面の景色 歩道橋の案内板にあったY字路に着きました
Y 字路を右に入ると民家の壁に「車石」の説明板があります。
説明板によれば
「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の安永8年(1778)には、牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心理学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます」
もう一つの案内板
「江戸時代当地は近江の国藤尾村横木と言われ、若狭の国・近江の国からの物資運搬や豊臣秀吉が、京都方広寺の大仏殿造営に際し巨石運搬の為、通行に大変な苦労をしたので堅い丈夫な木を横に引き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前が着いたといわれています。度重なる老朽化のため以後花崗岩等の石に取り換えられ車石が出来ました。
50m程進むと右側に
「三井寺観音道」の道標
定飛脚問屋仲間三店が文政5年(1822年)に建立しました。
大きさは高さ219、幅33、奥行33cmです。
南に「三井寺観音道 」西に「小関越」 東に「願諸来者入重玄門」
北に「文政五年 京都 発起 定飛脚問屋 江戸(商標)三店 心相禅門 十一月建之 大阪」と彫られています。
真宗大谷派のお寺 逢西山善福寺 善福寺から100m程で京都市です!
お寺があまりにも多いので「寺標」のみとします。
塀の中にお地蔵様 四宮橋を渡ると左に四ノ宮南河原町地蔵堂
山科地蔵と徳林庵
山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口6箇所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(しのみやさねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。
境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。
山科地蔵堂
徳林庵山門 山門横の人康親王供養塔・蝉丸供養塔
境内の「わらべ六地蔵尊」 境内の石柱 左「人康親王御墓」
右「南無地蔵尊・伏見六ぢざう」
十禅寺寺標
徳林庵の横を奥に進み踏切を渡った先に十禅寺があります。
平安時代の859年、仁明天皇の第四の宮、人康親王を開山として創建されました。
度々の戦火にかかり荒廃したが、1655年、霊夢を見た明正天皇によって再興されました。
明正天皇は後水尾天皇と東福門院の第二皇女で、当時の本尊である正観世音菩薩に特に信仰が厚く、遺言により、自信及び父母の位牌が当寺に安置され、菩提寺勅願所として三十六石の禄と数々の宝物が下賜されました。
境内の東北隅の木の下に、開山・人康親王の廟があるほか、宮中に代々伝わり、人形の原型といわれている天児(あまかつ)、愛玩の人形這子、天皇直筆の文書である宸翰(しんかん)、庭石の短冊石などを蔵しています。
真宗大谷派の圓光寺
諸羽神社一の鳥居
清和天皇の治世の貞観4年(862年)に社殿が造営されたが、応仁の乱(1467~1477年)など度々焼失し、現在の社殿は19世紀中頃につくられました。
毘沙門堂の案内板があります。往復2km程の距離です。今回は通過します。
来迎寺は法然上人の開宗した浄土の教えをもとにその高弟である西山証空上人の流れを汲む浄土宗西山禅林寺派のお寺です。
「山科駅前」交差点を横断します。
その先のホテルの植込みの中に旧東海道碑と明治天皇御遺蹟碑が有ります。
説明板によれば
「この石碑は、明治元年(1868)9月、明治天皇東幸の際、同2年3月の御還幸及び同11年10月の御還幸の 3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった 「奴茶屋」に御注輦されたことを記念して建立された」
高野山真言宗の 吉祥山安祥寺
開創は今から約1170年前、京都に都が遷され平安時代となって約50年後の嘉祥元年(848) 。
開基は恵運僧都(弘法大師の孫弟子。中国唐に派遣された留学僧)、建立発願は藤原順子皇太后(仁明天皇の皇后、文徳天皇の生母)です。
愛宕常夜燈と地藏堂
浄土宗西山禅寺派の弘誓山當麻寺
當麻寺は鎌倉時代の天福2年(1234)石山上人による開基で天明3年(1783)に焼失し、同年に再建された。
本堂脇の七重塔と安らぎ観音
「安らぎ観音」は、「美人観音」とも呼ばれている。1995年1月 17日の、阪神淡路大震災犠牲者の冥福を祈って立てられた。
五条別れ道標
宝永4年(1707)11月建立。
昭和62年の5月に京都市登録史跡に指定された道標です。
五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面への道を示しています。
中山道歩き 改定版 大津宿から京都三条大橋②に続く























































































