踏切を渡ると右側に鳥居が見えます。

若宮八幡宮

若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳4年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営しました。 神社の社殿等が完成したのは白鳳8年(679年)で、九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となりました。 表門は膳所城の犬走り門です

若宮八幡神社表門

説明板によれば 「大津市指定文化財建造物 若宮八幡神社表門 一棟

 この表門は、膳所城の犬走り門で明治三年(一八七〇)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造(きりづまづくり)の両袖の屋根を突き出した高麗門(こうらいもん)で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟(おおむね)の両端に鯱(しゃち)と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城本多氏の立葵紋がみられます。
 後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。

  昭和五三年(一九七八)二月に市の指定文化財となりました」

 

拝殿                   手水舎

 

神門                    本殿

 

御神木                    大神宮

                    この他にも多くの境内社がありました。

東海道に戻ります。

若宮八幡宮のすぐ先に地藏堂があります。

この地藏堂の手前を右に曲がります。

 

日蓮宗の徳栄山妙幅寺 創建は慶長年間(1596-1615)です。

妙幅寺本堂

 

京阪電車瓦ヶ浜駅の踏切を渡ります。 

 

左側に臨済宗専光寺 寛正6年(1465)正善が開基、ご本尊は阿弥陀如来。

 

光源寺  真宗仏光寺派のお寺 康永2年1343)光心が開基。

 

ここを東海道からはずれ芭蕉の句碑のある戒琳庵の方へ向かいます。

光源寺のすぐ前の道を鋭角に右に曲がります。

戒琳庵

戒琳庵入口左の地蔵堂(青く囲った部分)

戒琳庵 芭蕉の句碑  「木のもとに 汁もなますも 桜かな」

 涅槃塔(ねはんとう)

 

東海道に戻ります。

左側に篠津神社があります。

由緒

当社は古くは牛頭天王と称し膳所中庄の土産神です。創建は詳ではないが康正二年の棟札が現存している処から見ても室町時代には己に鎮座になっていた。大津圓満院門跡常尊法親王や覚淳親王、有栖川宮家の御尊崇高く鳥居や額等種々寄進されている。膳所城主戸田、菅沼、石川諸氏並びに本多家の崇敬長く続き社領二十二石の外、社殿の修復も本多家で時々行われた。現在重要文化財に指定されている表門は膳所城北大手門で旧藩主の信仰をしのぶよすがとなっている。  明治四年篠津神社と改称、旧社格は県社であった。

 

説明板によれば

重要文化財建造物 篠津神社表門    一棟

この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので、明治三年(一八七〇)の膳所城取り壊しの際に篠津神社に移され、翌々年に建てなおされたものである。
 門は高麗門(こうらいもん)様式で屋根は本瓦葺きとなっており、旧膳所城主本多氏の立葵紋(たちあおいもん)がみられます。扉は内開きで、堅格子(たてごうし)、腰部横板張りとなっており、脇門を付けています

  

篠津神社拝殿              篠津神社神門

 

篠津神社本殿           欅(ケヤキ)樹齢400年、幹回3.6m

                       樹高26m

東海道に戻ります。

 

左に曲がります。            ここから30m程先を右に曲がります。

 

右に曲がった右側に地藏堂があります。  直線道路がしばらく続きます。

 

真宗佛光寺派の拱養山文応院大養寺 

 

 

門前からの本堂

 

説明板によれば「当時の門は、高禄又は由緒ある武家屋敷の門で、膳所の六門(長屋門)の一つです。」

 

信号交差点(左に金子工務店、右にローソンがあります)に出ました。

ここを左折すれば膳所神社、右折すれば膳所城跡公園です。

左折して膳所神社に向かいます。

膳所神社

社伝によると天智天皇が大津の宮に遷都の際、この地を 御厨所と定められた。
天武天皇6年(677)に大和の国から御食津神を奉遷して、大膳職の御厨神とされた。

慶長年間(1596-1614)に至り大政所、豊臣秀頼、徳川家康などが当社を厚く尊信されて種々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされました。また、慶長6年(1601)膳所城創始以来、歴代の藩主本多候は崇敬が厚く、社領の寄進や社殿の造営が度々行われました。  

現在の当社表門は、旧膳所城の城門で重要文化財に指定されています。

「重要文化財建造物 膳所神社表門     一棟
「この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治三年(一八七〇)の 膳所城取り壊しの際に移築されました。
門は、棟筋と扉筋が同一の垂直面にない薬医門(やくいもん)で城門として多く用いられています。
屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋(たちあおいもん)がみられ、桃山時代の建築として
貴重なものです。脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。   大正一三年(一九二四)四月に重要文化財に指定されました。」

 

拝殿                    神門

 

本殿                  旧膳所城から移築した北門 

 

先程の信号交差点に戻り今度は右折して膳所城跡にむかいます。

交差点角の金子工務店脇に「膳所城中大手門跡」標柱がありました。

 

膳所城跡公園入口復元された大手門

近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。  戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり楼閣(ろうかく)は取り壊されました。城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。  現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多く集めています。(滋賀・琵琶湖観光情報より)

 

公園内の膳所城址碑        公園内の平和の礎(左)と滋賀県戦没者英霊塔

 

公園内の浜弁財天、白王龍神、地主大神     公園内の二の丸御殿跡

 

東海道に戻ります。

200m程先の左側に梅香山縁心寺があります。

1601年に徳川家康が膳所城を築き、その初代城主となった戸田一西が1602年に開創したと伝えられています。

1617年三河西尾藩から移ってきた本多康俊が膳所藩主となり、縁心寺を本多家の菩提寺としました。

          

和田神社

斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳4年に、創祀されたと伝えられています。

壬申の乱から間もない頃、湖に暮らす人々の安寧を願ってここに「海津見の神」(わだつみのかみ))が祀られました。

明治維新のころに膳所藩主の令達により、現在の名前、 和田神社になりました。

 

拝殿                   本殿

説明板によれば 「重要文化財 建造物 和田神社本殿 一棟

旧東海道に面する表門を入った境内の奥に東面して建つ本殿は、一間社流造り(いけんしゃながれつくり)という規模の小さな社殿で、屋根は檜皮葺です。正面に軒唐破風が付けられており、これは県内でも珍しい建築様式となっています。 側面にある蟇股(かえるまた)などの様式から、建築は鎌倉時代後期と考えられていますが、後世の補修の跡も多く認められます。 

明治三十五年(1902)七月、国の重要文化財に指定されました。 

大津市教育委員会 令和三年六月

大イチョウの説明板によれば

「このイチョウは滋賀県下において他に例を見ないほどの巨木で、樹高約24m、目通り周囲約4.4mあります。
 樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。
 また、このイチョウは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ケ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると伝わっています。
 昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年2月に大津市の指定文化財となりました。

 

東海道に戻ります。

2,3分でこの地藏堂の前に来ます。

ここを左折します。 

左折するとこの案内、 突き当たって右へ

突き当りに響忍寺があります。

 

響忍寺は膳所城周辺にあったが、火災により焼失。宝暦元年(1751)藩家老・村松八郎右衛門屋敷跡に再建された寺。表門と中門には屋敷門が使われている。

(滋賀、びわ湖観光情報より)

 

響忍寺本堂  

          

100m程先を左に進みます。

             正面にスーパーが見えます。ここを斜め左に進みます。

坂を下り右に曲がると左に神社が見えます。

石坐(いわい)神社由緒

「石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したことに始まる。その創始は、天智天皇御代8年旧9月9日、神奈備山(御霊殿山)の磐座(いわくら)に湖中より燈籠が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。これを御霊殿神社と申し上げる。
 持統天皇御代・朱鳥元年旧5月1日、粟津の王林の地・石坐野に、八大龍王宮と正雪天王宮との両殿が創建された。
 八大龍王神とは、琵琶湖にゆかりの神様で龍神と伝えられ、わが国では、水徳の恵みの神で古来より両乞いの神・福寿の神としての信仰がある。
 主祭神豊玉比古命は、人皇第一代神武天皇の御祖父神にあたり、産坐王は、産坐命と申し上げ、人皇代九代開化天皇の第三皇子・近江国造治田連の祖霊神であり、近江開拓の祖神に坐しまして八大龍王宮の御祭神である。
 近江大津宮を開かせ給ひし天智天皇は、大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛(大友皇子御生母)と共に正雪天王宮の御祭神である。

 

拝殿                   神門

石坐神社本殿

三間社流造の本殿は、鎌倉時代文永三年(1266)の建造で、昭和32年県の有形文化財に指定されたもの。

樹齢220年 幹周3.9m樹高28m御神木「榎」

 

境内の弁財天社              石神社

 

石坐神社の少し先の右側に

臨済宗永源寺派の吉田山桃源寺があります。永禄13年(1570)の開基。

 

桃源寺本堂                    桃源寺内の琵琶湖子安地蔵尊 

 

桃源寺から250m程先で道が右に曲がり、そして左に曲がる手前の民家の前に

膳所城北総門跡があります。 膳所城下町の北の出入口です。

 

斜め向かい側に地藏堂があります

 

真宗大谷派常磐山福正寺、真宗佛光寺派光林寺などを過ぎ左側に義仲寺があります。

義仲寺(ぎちゅうじ)

源義仲(みなもとのよしなか)を葬った塚のあるお寺です。

室町時代末に、佐々木六角氏が建立したと伝えられてます。 

門を入ると左奥に、松尾芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並んでいます。

芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に51歳で亡くなり、「骸は木曾塚に送るべし」の遺言により当寺に埋葬されました。

境内には、芭蕉の辞世の句である

「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑があります。

寺にある句碑「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は芭蕉の死後亡骸を義仲寺に収めた弟子『又玄』が詠んだものです。昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となりました。

 

巴塚 

木曽義仲公の側室巴御前の塚。武勇に優れた美女で、部将として義仲公を助けた。

 義仲公墓(木曽塚)

芭蕉翁墓

芭蕉句碑  「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 芭蕉句碑   「古池や 蛙飛こむ 水の音」 

義仲公の側女山吹御前の塚(四角い枠線の中)

 

又玄(ゆうげん)句碑           曲翠墓

「木曽殿と背中合わせの寒さかな」

 

※ 膳所藩士菅沼曲翠は、芭蕉翁の最も信頼した門人の一人。享保二年(1717)七月二十日、曲翠は班の悪家老曽我権太夫を槍をとって刺殺し、自らも責任をとって切腹した。この事情から墓はつくられなかったが、昭和四十八年当寺に曲翠墓を建立した。

境内には他にも沢山の句碑があります。先を急ぎますのでまたの機会に訪れたいと思います。

 

義仲寺を出ると右側駐車場に地蔵堂があります。   すぐ先にも地藏堂

   

この地藏堂にも芭蕉(桃青)の「行春をあふミの人とおしみける」句があります。

※「奥の細道」で俳号を「桃青」から「芭蕉」に変更しました。

 

 

急ぎ足で街道を進み踏切に出ます。     Y字路を案内表示に従い左に進みます。

左が蹴鞠神社社標

その隣が精大明神常夜燈

右が郷社平野神社社標 珍しい書体です。

由緒略記によれば、御祭神は平野大明神=第十六代仁徳天皇(大鷦鷯天皇:おほさざきのすめらみこと)と、精大明神(猿田彦命:さるたひこのみこと)とされています。天智天皇が近江大津宮に遷都されたさいに、都の守護神としてまつられ、天智称制七年戊辰(668年)に鎮座したと伝えられています。

蹴鞠の守護神として精大明神(猿田彦命)をおまつりする平野神社は、蹴鞠の社としてよく知られています。現在でも、例年の8月申の日の申の刻に「けまり祭」が開催されています。古式ゆかしい装束に身を包み、蹴鞠を披露する姿は平安絵巻を彷彿とさせるものです。

急ぎますので通過します。

真直ぐな道が続きます。

浄土宗月見山往生院西方寺があります。

山門前の「せいし丸さま」の像があります。

せいし丸さま? 調べてみました。

法然上人は平安の末、長承2年(1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。
「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏(ひとえ)に先世の宿業(しゅくごう)なり。もし遺恨(いこん)をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ

この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります(知恩院HPより)

 

西方寺本堂               水子地蔵尊と石仏群

 

片側2車線の道路に出ました。横断歩道がありませrん。・・・・遠くにありました。

 

 右側に浄土宗の正信山成覚寺があります。 工事中でした。

 

ときわ橋を渡り左側の浄土真宗本願寺派青雲山清源寺を通過します。

NHK大津放送局の横を通ります。

 

右側に

近江度量衡(株)創業記念館創業は1900年(明治33年)

 

 

小川家住宅 登録有形文化財の家        

 

ここを過ぎ信号交差点を横断すると右に大津別院がある

大津別院

真宗大谷派東本願寺(ひがしほんがんじ)の別院です。石山本願寺で織田信長に徹底抗議したことで有名な教如(きょうにょ)が、江戸時代初めに創建しました。創建や再建のときには、大津町の有力な豪商たちが上地や金銀を寄進したといわれ、庶民の間にも信仰が篤かったことがよくわかります。
 本堂は、真宗の寺院の特徴である外陣が広くとってあり、書院とともに桃山建築の素晴らしさがよく表れています。本堂、書院は国の重要文化財に指定されています。明治天皇大津別院行在所の石柱があります.

     津別院本堂  門が閉じていたので板塀越しに撮った写真

  津別院の鐘楼

 

東海道に戻ります

左に真宗大谷派の竹越山唯泉寺があります。

 

唯泉寺の隣に地藏堂があります。 地蔵尊大日如来が祀られています。

 

この地藏堂から120m程先に

此附近露国皇太子遭難之地碑があります。

明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた「大津事件」の発端となった場所。 当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。 大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。

以前は壁に露国皇太子遭難之地の碑プレートがあったそうですが今はありません。

 

「中央二丁目南」交差点を過ぎると左に登録有形文化財の住宅があります。 

 

 

北川家住宅

大きなビルが立ち並ぶ中に昔の街道を偲ばせる建物、神社、寺院などがまだたくさん大切に保存されています。

 

寛延元年1748)創業の「提灯柴山商店」

 

「京町一丁目」信号交差点

この交差点を横断した左角が札ノ辻です。江戸時代に高札が建てられた四つ辻です。

旅人たちに馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にありました。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道でした。いまは大津市道路原標が建っています。

 

この交差点を左折します。

大津宿本陣跡

大津宿には2軒の本陣があり、この地はその内の大塚嘉右衛門宅です。

 当時の本陣は3階の楼上からの琵琶湖の眺めが絶景だったといわれています。 

建物は現存せず、明治天皇聖跡碑が建っています。

 

「御幸町」交差点を過ぎ、さらに進むと右側に「小町湯」の看板が見えます。

その手前の路地にはいり長安寺に向かいます。

踏切を渡り階段を上ります。

 階段手前の長安寺寺標と地蔵堂の前で小休止。

階段を上ると長安寺宝塔「牛塔」があります。

説明板によれば

この宝塔は、高さ3.3mで、角形の基礎石に巨大なつぼ型の塔身をおき、笠石をつけたもので、鎌倉時代初期につくられた日本を代表する石造宝塔です。
一般に関寺(昔この付近一体にあった寺)の牛塔とよばれ、霊牛の供養塔です。
万寿2年(1025)の「関寺縁起」によると、天延4年(976)の大地震で破損した関寺を復興する時に、資材を運搬した一頭の牛が、仏の化身であるという噂が立ち、多くの人々が関寺へ参拝したということです。

そして、万寿2年、霊牛は関寺の工事が終わると共に死にました。

その霊牛を供養し、祀ったのが、この牛塔であるといわれています。

昭和35年2月9日に国の指定文化財になりました。  大津教育委員会

長安寺本堂

 

一遍上人供養塔             超一房(一遍上人の妻)供養塔

時宗とは、浄土教の一宗派で、鎌倉時代に一遍を祖師としておった宗派です。

南無阿弥陀仏を唱えれば、現世において浄土往生が約束されるとしました。

地方を遊行して、賦算と呼ばれる札を配りました。踊念仏といって、踊りながら念仏を唱え歩いたのは特徴です。

小野小町供養塔と百体地蔵

謡曲「関寺小町」と牛塔の説明板によれば

謡曲 「関寺小町」 は、老衰した小町がなお優秀な歌人として風雅で上品な気質であることを素直に描いた老女物の秘曲である。
 或年の7月7日、近江国関寺の住職が稚児を連れて山かげに住む老女の許へ歌物語を聞きに行った。老女は僧に請われるままに歌物をはじめた。その言葉の端から彼女が小野小町であることが分かった。
 小町はわが詠歌を引いて昔の栄華を偲び、今の落魄を嘆いた。寺の七夕祭に案内された小町は稚児の舞に引かれて我を忘れて舞った。
 この牛塔は関寺建立の際、工事を助けるために現れた 「霊牛」 を供養するために建てられたといわれる日本で最古最大の宝塔で、芸術上からも立派な重要文化財である。その他残る物とて何一つないが、かえって老女小町の隠棲地にはふさわしくさえ思えてくる。 謡曲史跡保存会」

 

長安寺から大津駅方面

階段を下りて東海道に戻ります。

 

東海道に戻り進むと右側に日蓮宗の水上山妙光寺があります。

踏切を渡ります。

 妙光寺本堂

 

本日はここまでにします。

「御幸町」信号交差点まで戻り大津駅に向かいます

肥前屋久左衛門本陣跡が「御幸町」信号交差点かどにあったそうですが疲れて、疲れて気が付きませんでした。

 

草津宿から大津宿は神社、お寺、史跡、道端の地蔵堂など大変多くてすべてを見学することは出来ませんでした。説明板などは写真撮影だけにして帰ってから読むようにしました。ウォーキング&一部ジョギングで移動しました。あと2時間余裕があれば良かったと思います。

疲れました。

 

次回は「中山道歩き 大津宿から京都三条大橋まで」です。