萩の玉川から500m程進みました。
弁天池
浄財弁財天参道橋
弁財天鳥居
弁財天覆屋
弁財天が祀られ、水を司る神を祀っています。 池には、中央に孤島があり、小さな社が祀ってあります。 水不足の年には雨乞いや豊年祈願の祭りを行った池であろうと思われます。 琵琶湖の竹生島にも弁財天が祀られています。弁財天の起源は、水の神であるので恵の雨を降らせ、豊穣をもたらす神として信仰されてきました。また、技芸運の神としても崇められています。この池には、村百姓の娘「つゆ」と膳所(ぜぜ)藩や西国大名の飛脚御用を勤めていた江戸の日野屋重兵衛店の奉公人「喜助」との悲恋物語が語り継がれています。大事な書状を落とした喜助はおつゆをかばって、後に牢獄死。それを知ったおつゆは、この「弁天池」に身を投げたというお話。
狼川橋(おおかみがわばし)を渡り交差点を直進します。
※狼川の由来 昔は、このあたりに狼が多数いて、いたずらをしたので、亀が退治したと いう言い伝えから「狼川」という名がついたという説があります。
交差点の左角に木製の常夜灯があります。
5分程進むと左に日蓮正宗啓道寺があります。
地蔵堂があります。
東海道をさらに進みます。
旧東海道らしさの残る街並みです。
新福寺寺標
新福寺山門 浄土宗のお寺、ご本尊は阿弥陀如
新福寺本堂
「名勝月輪大池1km」の標柱
月輪自治会館の説明柱
説明柱によれば「月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれています。元来は原野でしたが、江戸時代に入って開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、明治七年(1874)月輪村と改称されました」
月輪自治会館隣の曹洞宗の普門山月輪寺山門
月輪寺の参道にあった地藏堂
月輪寺境内の徳川家茂公歌碑
「松の色に 梢のはるや ます鏡 月の輪寺の 名にのこるらむ」
月輪寺は安永2年(1771)長野助右衛門が行者堂を建立したのが始まりで、文久3年(1863)徳川家茂が休息時に寺号月輪寺を下賜したという。
この時、家茂は2回目の上洛で、東海道を進み3月3日に草津で休息、大津で宿泊、翌3月4日に二条城に入った。
そして、天皇に攘夷実行の約束をされた。
徳川四代将軍以後、誰も上洛しなかったが、幕末になり14代将軍家茂は三回も上洛しました。最後の三回目は長州征伐の際に大坂城でわずか21歳で亡くなりました。
左から月輪寺寺標、明治天皇御東遷御駐輩之所碑、新田開発発祥之地碑、道標「東海道 濱道」
東海道立場跡
月輪寺を過ぎた信号交差点の左側歩道にあります。
この交差点を直進します。
私の住む町では見た事のない柑橘がなっています。
交差点を直進します。この画像では斜め右です。
一里山橋を渡ります。
この交差点に出ます。
この交差点の左角に一里塚跡があります。東海道からは死角になっています。 うっかり見落とすところでした。
「一里山二丁目北」交差点左角に
一里山一里塚跡 説明板によれば 「一里塚は、徳川幕府が旅人の目印に江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。 (大津市教育委員会)
「一里山二丁目北」交差点を渡った左角にあります。
平成22年設置の一里山の道標
道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄5里余り」、下に 「江戸日本橋迄120里余り」 と刻まれている。
この先300m程で「大江四丁目」信号交差点を直進します。
「大江四丁目」信号交差点 150m程先左側に地藏堂があります。
大江の千里(ちさと)説明板
説明板によれば
「大江の地を荘園として持っていたと伝えられる大江の千里は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして有名な人である。 その奥方がこの地に住まいしていた。 村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだと言われている」
第二十三首「月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」
説明板の地図に従いこの先を左折します。
大江千里奥方の住居跡 お地蔵様、野上神社旧跡碑、御神燈がありました。
滑り台などがある公園になっています。
東海道に戻ります
地藏堂
赤の点滅信号のある交差点の電柱に貼り付けてある案内表示に従い左折します。
左折して100m程進んだ用水沿いに地藏堂がありました。
ここから400m程進みます。
ここも電柱に貼り付けてあります。案内表示に従い右折します。
右側に浄光寺があります。浄土宗のお寺です。
浄光寺は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は滋賀県の重要文化財となっています。
左側の祠は道祖神と大日如来が祀られています。
浄光寺本堂 浄光寺水子地蔵尊
東海道に戻ります。
大場の桜 樹齢200年の古木です。
大場の桜から2分程の所にある地藏堂
面に初田仏壇店があるT字路に出ます。そこを左折します。
信号手前の大きな狸の横に地蔵堂があります。
高橋川に架かる和田一号橋を渡ります。
左に檜山神社(ひのきやまじんじゃ) があります。
建部大社の境外末社です。
道標と猫のオブジェ
道標には「右 瀬田 唐橋 左 旧東海道」と刻まれています。
ここを左に入り県道16号線に合流し左折します
建部大社(たけべたいしゃ)
建部大社一の鳥居
創建は社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年とされています。 のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地へ遷座されました。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ),大己貴命(おおなみちのみこと) 頼朝は伊豆流布の途次、源氏の再興を祈願したと言われています。そして建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くしました。
参道 二之鳥居
手水舎 神門 境内地と神域の境いを示します。
水みくじ用の水盤があり、社務所で 水琴窟 瓶が地表に出ています。
「おみくじ」を買って水に浮かべると文字 石碑に「重蔵窯:信楽伝統工芸士・
が現れてくるそうです。 五代目重蔵」と刻まれています。
「頼朝公の出世水」
名前の由来は、『源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、建部大社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから付けられたそうです』
水質検査成績表が取り付けてあり安心して飲める「ありがたい水」
軟水で美味しい水です。
孝徳天皇の御代天平勝宝7年(755年)大己貴命を権殿へと奉祀された際、一夜にして成長したと伝わる御神木の三本杉。奥に見えるのは拝殿
日本武尊を祀る本殿 大己貴命(おおあなむちのみこと)を祀る権殿
真中が中門と拝所
水神社
境内の一角より湧き出るご神水は、「源頼朝公」が「建部大社」を信仰していたことから、「頼朝公の出世水」とも呼ばれています。 こちらのご神水の源は、ご本殿奥の山林から湧き出ているそうですが、現在はポンプで汲み上げ大切に整備されているそうです。
大野神社
建部大社がこの瀬田の地へと遷し祀られる以前、この地域の地主神として祀られていた神社です。祭神 草野姫命(かやのひめのみこと)がお祀りされています。
昔から「えんむすび」の御利益があるといわれています。
武富稲荷神社 八柱神社
大灯籠
説明板によれば
「古代百済から渡来した土木技術を持った大伴一族が「瀬田の唐橋」の安全を祈念し奉納したと伝えられ、旧瀬田城址臨江庵(旧膳所藩家老の別邸)の庭に建立されていた。この庭は大正四年ご大典記念・大正五年当社創立千八百年祭の為に整備され当社の大祭毎に別邸を斎館として使われた由縁をもってここに移築した。高さ5.4m」
重要文化財の石燈籠(鎌倉時代) 宝物殿
聖宮神社(景行天皇) 大政所神社(皇后)
行事神社(吉備臣武彦・大伴連武日) 蔵人頭神社(七掬脛命)
藤宮神社・若宮神社 若宮神社・弓取神社
本殿を囲むように左右に八つの社があり、上座4社には日本武尊の父母である景行天皇と皇后、御妃と御子が祀られ、下座4社には日本武尊の遠征に付き従った家臣の方々をお祀りしています。
東海道に戻ります。
建部大社で予定時間を大幅に過ぎてしまったので少し急ぎます.
「神領」交差点を過ぎると滋賀銀行の先左側に
愛宕神社の社標と地藏堂があります。
その向かい側の「うなぎ料亭重山」横に
十三重塔と地藏堂
「唐橋東詰」信号交差点を渡り唐橋の東詰め(左側)の常夜燈と山崎茶酔句碑。
句碑には「松風乃 帆にはとどかず 夕霞」
唐橋を渡らず左に進みます。
雲住寺の寺標、道標、地蔵堂
瀬田の唐橋碑 裏面に俵藤太百足退治伝承の地と刻まれています。
平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が、百足を退治したというところ。藤太は瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁の願いを聞き入れ、瀬田
橋から三上山に住む大ムカデを弓で退治したと伝わっています。
橋守地蔵尊
橋守地蔵縁起によれば 「御本尊は、昭和51年1月26日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。
高さ38糎(cm)、彫の深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期の作で、腕の良い石工が彫った珍しい石仏だそうであります。何時、誰が、何のために唐橋の下に安置したものか知る由もないが、400年以上も川底で、唐橋を守り続けて来られた石仏であります。
唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は霊験あらたかな薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け小堂を建て、祀ってあげるとよいというので、県当局にその旨を述べ、一般の人々に解りやすく親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。
よって有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の26日を縁日としてお祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願し、その縁起を記し掲げる次第であります」
龍王宮秀郷社
山門横の「橋守神社」の社標 秀郷社 と 龍王宮
瀬田橋龍王宮縁起によれば
「秀郷社 藤原秀郷公を祀る、創祀年代明らかならず、元是より東南数丁字舎人堂に在りたるを、寛永10年蒲生忠知、龍宮の傍らに移すとある」
「勢多之唐橋 龍宮
古来瀬田川には龍神が御座ると言われて、昔は橋を社とした。唐橋中央に特殊な橋杭が打ち込んであって、是を龍神の御霊代とし舟はこの神坐を通るのを恐れた」
雲住寺山門
雲住寺本堂
鐘楼横に地蔵堂と百足供養堂
唐橋に戻ります。
ここを横断します。
左の階段を下り川沿いを進みます。。
地蔵堂があります。
土手に芭蕉の句碑があるので探しに川沿いを進みます。
「ビワイチ出発の地」碑 一周196km
瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」の地です。
芭蕉の句碑 「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」
道路の向こう側に大きなお寺が見えます。
「夕照山西光寺」山門と大雨水位石柱
浄土真宗 本願寺派のお寺です。
重文の木造阿弥陀如来座像があります。明治29(1896)年9月12日に未曾有の大豪雨により発生した琵琶湖大水害時の標柱があります。この大水害で琵琶湖周辺の浸水面積は約14,800ha、浸水日数は237日にも及びました。
西光寺の寺標と鐘楼 西光寺本堂
東海道に戻ります。
橋を渡り瀬田中之島へ 左の階段を上ります
西沢十七星碑 「瀬田蜆(しじみ) 藤咲きしかば うまからむ」
水難供養塔 明治天皇御聖蹟
階段を下り道路を横断します。
瀬田の唐橋説明板によれば
「俵藤太秀郷むかで退治
豪傑の誉れ高い俵藤太秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる66mもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現われた。
何事かと話をきけば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食い尽くしてしまい、人々が大変困っているという話。
しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気ある豪傑を待っていたという。秀郷は、快く大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。
この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく二千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮しや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。
秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから 「俵藤太」 の名が付けられたとされている」
瀬田中之島から見た瀬田の唐橋
橋を渡り 「唐橋西詰」交差点を横断します。
「唐橋西詰」交差点のすぐ先右側に大田瓦店 瓦のイメージが変わります。
京阪石山坂本線踏切を渡ります。
縁切地蔵大菩薩
表側に「地主之守大神 逆縁之縁切地蔵大菩薩 蓮如上人御影休息所」
裏側に「逆縁をも救う願なれば 現世安穏後生善虡とたのみ参るべし 施主古川政雄」
こちらは伏見屋と云う屋号で旅籠を商いされていた。連如上人が布教行脚された際に、ここで休憩されたのが始まりで、その後もお立ち寄りになったのを記念して建立されたものです。
「鳥居川」信号交差点 ここを右折します。
国道1号線の下を通ります。
再び京阪石山坂本線踏切を渡り次の交差点を直進します。左折すればJR石山駅です。
JR線の下の歩道を通ります。
盛越川の脇に 「今井兼平の墓」案内板があります。
今井兼平(1152?-84)は木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)と乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で、木曽の四天王とも呼ばれていた人物です。ここ粟津(あわづ)で義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げました。義仲が討たれたことを知ると、自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという話は、謡曲(ようきょく)「兼平」の素材となって語られています。
今日は時間がありませんので墓までは行けません。
津市粟津中学校入口横の標柱
標柱には「かつて三輪明神が日吉社へ向かう途中、漁師田中常世が唐崎まで船で運び、船中で粟飯を献上したという伝説にちなみます。これにより、天王祭では膳所の神社が粟飯を献上するようになりました。この地は、朝廷に湖魚を献上する場所(粟津御厨)でもありました」
「晴嵐」信号交差点を直進します。交差点右側に地藏堂があります。
膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡
膳所城下町の南の出入口です。
膳所城は慶長5年(1600年)関ケ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌、慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせました。膳所城は江戸城、大阪城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第一号です。縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させました。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれました。家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われています。
本多氏六万石の膳所城下町の南入口に当たり、ここに番所を設けて旧東海道を通って京へ向かう旅人に監視の目を光らせていた。
左に地藏堂が見えます。
街道らしさを感じる連子格子(れんじこうし)の家があります。
京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡る。 踏切を渡るとすぐ左に地藏堂があります。
「中山道歩き 草津宿から大津宿まで③」に続く