令和4年(2022年)4月8日

歩いた時間8時間     歩数43,707歩

 

 中津川駅を5:33に出発しました。

草津駅には9:21に着きました。

前回終了した草津駅前の交差点から9:30スタートします。

 

草津駅を出て、「ファミリーマート大路1丁目店」の前を通り、パチンコ屋さんある交差点角を右に曲がるのですが、交差点の中央分離帯の辺りが「草津の一里塚跡」と言われています。129番目の一里塚です

「中山道最終の一里塚跡」この交差点を右折し中山道を進みます。

 

アーケードのある繁華街を通ります。「草津歴史街道」説明板

説明板によれば

「中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。
 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御嶽・駒ヶ岳間の木曽路を降り、美濃路を西進、関ヶ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。  なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、各所が街道沿いに存した。  (草津市教育委員会)」

 

商店街にあった街角彫刻作品「山田良定」作

 

草津川隧道口(江戸側)

草津川隧道手前にある道標

 

隧道は通らず右の坂道を上ります。

 

 

坂道の途中の右側に地藏堂があります。

左に進みます。

 

歩行者用の橋を渡ります。

 

「天井川」,草津川

隧道の上を草津川が流れていると思っていましたが、川はありません。川の下を国道1号線やJR東海道線が通っていては危険な為、新しく川を掘って流れを変えたそうです。

草津川の天井川化は,江戸時代頃から始まったそうです。背後の湖南アルプス(琵琶湖南部の瀬田川東の丘陵地帯に連なる山脈の総称。西の大神山、堂山と東の竜王山、金勝山、鶏冠山などからなり、標高は、竜王山の604mが最高峰で、あとは490~599mです)は,風化の進んだ花崗岩で成り立っており,雨などによって大量の土砂が,草津川等の麓の 河川に流れ込み,急激な川床の上昇をもたらしました。川床の上昇は,少量の降雨に際しても, 流域に洪水の被害をもたらすことになります。これに対する即効的な治水対策としては,堆積 した川床の土砂の掘り下げしかなく,掘った土砂は,川の両岸に盛られ,結果的に,堤が高くなっていくことになり「天井川」,草津川が誕生しました。

 

歩行者用の橋を渡り左折します。矢印方向に進みます。

 

100m程進み右の坂を下ります。

 

草津川隧道口(京側)の高札場跡の横に出ました。

左の祠は延命地蔵尊

 

向かい側に

追分道標常夜燈があります

広重の草津追分の絵

 

説明板によれば

「この道標は、東海道と中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2cmを測り、 江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
 道標竿部南面に 「右 東海道いせみち」、西面に 「左 中仙道美のぢ」 と東海道、中山道の行先が刻まれています。
  また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。
 なお、草津4丁目の立木神社境内には延宝8年(1680)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。    平成20年3月31日 草津市教育委員会」

 

もう一つの説明板

「ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。 トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。 しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、 高さは1丈4尺7寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、 宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。  
  昭和48年10月15日指定 草津市教育委員会 昭和51年贈 草津ライオンズクラブ」

 

追分道標の隣に「草津まちづくりセンター」があります。

 

 
草津まちづくりセンターの隣が草津宿脇本陣大黒屋跡です。

 

草津まちづくりセンター前に堯考(ぎょうこう)法師歌碑があります。

歌碑の説明板によれば 「近江路や 秋の草つはなのみにして 花咲くのべぞ 何処ともなき
 将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。 この歌は 「覧富士記」 に収められており、 尭考法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永21年(1414)には二条派の中心歌人であった。  正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、貞享4年(1432)の富士見にお供して 「覧富士記」 を残した。尭考法師が東常縁(とうのつねのり)に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された」

 

草津まちづくりセンター前の書状集箱  ポストは明治4年(1817)郵便創設当時使用していたものと同じ形で、現在も使用できます。

 

 

草津宿本陣跡

別名「木屋本陣(きやほんじん)」と呼ばれています。 寛永(かんえい)12年(1635)に創建されましたが後に焼失し、膳所(ぜぜ)藩主本多家(ほんだけ)の「瓦ヶ浜(かわらがはま)御殿」を拝領したものといわれ、4727平方メートルという広大な敷地に、建物面積1706平方メートル、部屋数39という本陣としては最大クラスの屋敷です。書院造で表門、御除門、敷台付き玄関に庭という、本陣としての型通りに建てられており、東海道筋では唯一ほぼ完全に残っている本陣です。建物のほかにも、多数の関札(せきふだ)、膨大な大福帳(だいふくちょう)(宿帳)など貴重な資料が残されています。大福帳には、忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)や浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)、皇女和宮(こうじょかずのみや)、シーボルト、新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三(ひじかたとしぞう)などの名前も見られます。

 

 

  

草津宿 脇本陣藤屋与左衛門家址

「吉川芳樹園店舗兼主屋  平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ出桁などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には又政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根形式となっており、草津宿の町屋にみられた特徴を持っています。草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒ありましたが、この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたります。」(草津市教育委員会)

                                                           

   

草津宿 脇本陣仙台屋茂八家

仙台屋の跡は「ベーカリー&カフェ脇本陣」となっており、建物の前には脇本陣跡を示す石碑が立っています。

 

 

 

本陣田中九蔵家跡
もう一つの本陣田中久蔵家の跡。古そうですが本陣だった建物ではなく、本陣廃業後に建物は解体されて、知新学校(現草津小学校の前身)が建てられ、その後、学校の移転で現在の建物が建った模様です。篤姫徳川家茂が利用したそうです

 

 

東海道草津宿三度飛脚取次所 荒物商 「荒物屋九右衛門」

江戸時代,毎月3度江戸と上方の間を往復した町飛脚を三度飛脚と言います。その仕立てを業とした問屋  東海道を6日で走ったので「定六 (じようろく) 」ともいう。

江戸時代の飛脚は馬と駆け足を交通手段としました。公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達、当時の日本国内における主要な通信手段の一翼を担ってきました。飛脚が運んだものは、信書や小荷物から金銀にまで運びました

草津夢本陣    草津宿の観光案内所。休憩所、トイレもあります。

 

草津宿街道交流館 

 

交流館の道標「右東海道」 「天明七年五月吉日」 

街道マップや幕末の草津宿の模型や旅の道具、道中記類などの資料を展示しているそうです。

休館日でした。

 

街道交流館の向かいに浄土宗の布薩山常善寺があります。

常善寺は天平7年(735)良弁僧正の創建と伝えられる草津最古の名刹であり、 かつては堂塔伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃しました。本尊の阿弥陀如来像と脇侍三尊が重要文化財に指定されている。参道途中には地蔵堂があり、幾つかの地蔵尊と祠の中に目鼻を色付けした地蔵尊が安置されています。

  

地蔵堂          観世音菩薩          本堂

 

  

江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将の太田道灌を祖先に持つ太田家は、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。

太田家が酒造りを始めたのは、廃藩後のことで、大吟醸道灌・本醸造千代八千代などがある。

 

説明板によれば 草津宿と政所  草津宿は東海道53次の宿場の中でも大宿で水陸交通の要所でもあることから関所的な役割を担ってきました。 草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では三ヶ所しか置かれていなかった荷物などの重要検査を行う貫目改所も設置されていましたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)と云われてきた所以です。

正定寺参道 寛永15年(1634)の開基

 

  

八百久  

昭和3年の建築であるが、正面で軒高を低く抑え、格子窓や木瓜型虫籠窓を配するなど、宿場の街並みとの調和を図った町屋建築。  

2007年国の登録有形文化財に指定されています。

 

宿役人(しゅくやくにん) 山内球五郎家 

宿役人とは

江戸時代、宿駅の問屋場(といやば)に詰める役人。本来は問屋、年寄をさすが、帳付、馬指、人足指などを加える場合が多く、また、名主、組頭、百姓代など村役人を含めることもまれではない。

 

「立木神社前」信号交差点を横断します。 立木神社があります。

立木神社 

立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の称徳天皇(しょうとくてんのう)(第48代)神護景雲元年(じんごけいうんがんねん)(767年)のこと、御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。「この木が生え付くならば吾永く大和国(やまとのくに)(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。

県道141号線側の鳥居

小野秀雄翁生誕之地碑  後ろは手水舎

我が国の新聞学研究の先駆者として小野秀雄(おのひでお)翁は、明治18年当社神官の家に生まれました。日本で最初の新聞発達史を出版。日本新聞学会創立に努力し、名誉会長の称号を贈られました。新聞学の基礎を確立した業績を称え、顕彰碑が建立されています。

新聞学とは、新聞及び新聞を中心としたマスコミニュケーションを研究する社会学科の一部門。新聞の他、広くマスメディアによる社会的伝達現象を対象とした学問です。

 

立木神社神門               立木神社拝殿

 

 立木神社本殿             石造道標  延宝8年1680)11月建立

                        の県内最古の石造道標

  

立木弁財天                                                  立木稲荷

  

春日大神、天照皇大神宮、八幡大神          滋賀県指定自然記念物ウラジロガシの説明                                           

                   はあったが確認出来ませんでした。

 

中山道に戻ります。200m程進むと

矢倉橋手前に「黒門の由来」説明板があります。

「草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。
 宿場町の入口には、一般に見付と呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。
 草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」、中山道の入口に 「札の辻見付」(追分見付)」 と呼ばれた見付がありました。
 一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見付の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるに至ったようです。 ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明と言わざるを得ませんが、見付と同様な、宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられます。

 また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。

 

矢倉橋を渡ります・

 草津宿の南口に天井川の草津川から川筋を代えて付け替えられた草津川に架かる橋です。

 

矢倉橋から100m程先の左側に

武甕槌(たけみかづち)神社 

 

 右側に古川酒造 酒銘 「天井川」 が有名です。

地藏堂があります。

矢倉立場跡  道標に「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれています。

 

矢倉立場説明板によれば

 東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。 立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の 「うばがもち」 を売る店があった。 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や 「東海道名所図会」 

「伊勢参宮名所図会」 などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る 「矢橋の渡し」 の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。 浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。

旅人は、俗謡に 「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」 と詠まれ、 旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した
  そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で 「急がば回れ」 の語源になったところでもある。 武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋 (「醒睡笑」) と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、 風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、 遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したものである。

 

矢倉立場から100m程先を右に入ると

愛宕神社があります。隣に地蔵尊が祀られています。

 

中山道に戻ります。

また地蔵尊があります。 

 

交差点手前に稲荷神社があります。この辺りは矢倉城跡と言われています。

沢山の鳥居

 左から伊吹大明神、稲荷神社覆屋、朝日大明神

 

中山道の戻ります。

「矢倉南」信号交差点を斜め左に方向に進みます。

 

案内板の前を通ります

前方に「一里塚」の案内板が見えます。

上北池公園 

 

野路の一里塚 説明板によれば

関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を発布するなど、いち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。一里塚は江戸日本橋を基点とした一里ごとに旅の里程の目安として設けられた塚で、その中央に榎などの樹木を植えたために、旅人の疲れを癒す格好の場ともなった。

東海道分間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北川の北方の街道の両側にも、長い松並木と共に一里塚が描かれているが、その立木は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである。草津市

 

一里塚を過ぎ、右折し、さらに「かがやき通り」を右折し「東海道」の標柱のある所で左折します。

ここを左折します。

 

教善寺  浄土宗のお寺です

江戸時代前期の承応2年(1653)、当地の念仏篤信者・遠藤権兵衛が剃髪し僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進し、開山上人に清誉浄雲和尚を迎えて建立した。以来、49代に渡って法灯が連綿と継承されています。

 

教善寺の隣に地藏堂がありました。

 

平清宗胴塚    ブロック塀の向こう側にあります。

平清宗胴塚説明板によれば

「平清宗(1170―1185) 平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。 

源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。 

「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉」 

総大将宗盛は野洲篠原で斬首され、長男の清宗はこの地において掘弥太郎景光の一刀で斬首された(享年17歳)。 

首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家一角に保存供養されています。

 

左側にお寺があります。浄泉寺です。

室町時代の長録4(1460)年、野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、僧「圓實」となった。圓實は真宗門徒衆と協力して野路城の一角に「十禅念仏道場」を建立した。約50年後、道場は改名され、「玉川山・浄泉寺」となり、これが浄土真宗大谷派・浄泉寺の開基です。

浄泉寺本堂

浄泉寺の扁額

 

浄泉寺を出るとすぐ右側に鳥居が見えます。

新宮神社一之鳥居

都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)(右)と新宮神社(左の二つの社標があります。

神額は新宮神社となっています。

都久夫須麻神社は竹生島神社(ちくぶしま じんじゃ)とも呼ばれています。ご神体は竹生島そのものです。

新宮神社の草創は天平2年730)と伝わり、祭神は事解男命(ことさかおのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)で別名を野路神社とも言います。境内には古宮神社・八幡神社・都久夫須麻神社・金毘羅神社・稲荷神社の境内社があります。

 

 

鳥居の先右側に沢山のお地蔵様       新宮神社二之鳥居 

 

新宮神社拝殿               神門

 

古宮神社                  八幡神社 、 都久夫須麻神社

 

金毘羅神社                 稲荷神社

 

入口の脇門には旧膳所城門が移設され、膳所藩本多家の家紋「右離れ立葵」の軒丸瓦が見られます。

国指定重要文化財新宮神社本殿 大永3(1523)年、室町時代建立の優美な桧皮葺

 

東海道に戻ります。

100m程進むと右側に願林時があります.

願林時の寺標「真宗大谷派白萩山願林寺」 

膳所城の長屋門を移築した山門

親鸞聖人像

屋根の狛犬が左右逆に付いていました。庭の掃除をされていたご住職の奥様にお尋ねすると、取り付ける時に職人さんが間違えて付けてしまったか?敢えて逆にしたか?分かりませんとの事でした。狛犬の左右は特に決まりはないそうです。

 

鐘楼の野面積みの石垣

奥様の話では、このお寺は権力者に造って頂いたお寺ではなく、お百姓たちが協力して作ったお寺だそうです。

鐘楼の石垣もお百姓たちが自分たちの田や畑にある石を運び積んだそうです。当時は石垣の石を見れば誰の家の石か分かったそうです。

色々なお話を聞かせて頂きました。ありがとうございます。

お寺を出る時山門に額が掛かっていました。

ご住職、奥様に改めて感謝いたしました。

 

東海道に戻ります。

200m程進むと左側にレンガ造りのお堂があります。

子守地蔵尊  こちらも着色されています。

草津宿に入ってから地藏堂をよく見かけます。

他では見た事がない着色(化粧?)したお地蔵様。

 

交差点を直進します。

 

野路 萩の玉川跡 

 

 「古き宿駅 野路駅の名残り」       説明板によれば

野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。 『千載和歌集』の源俊頼の歌に
   あすもこむ 野路の玉川萩こえて   色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。  付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する

平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます

  

萩の玉川にある祠                                   隣の家の角にある地蔵尊
 

「中山道歩き 草津宿から大津宿まで②」に続く