中山道歩き 高宮宿から武佐宿まで①の続き

 

愛知川宿北入口の石碑

ここからが愛知川宿です。 天保14年の記録では本陣1,脇本陣1,旅籠屋28軒でした。

 

泉町史跡公園

ここの郵便ポストは「明治初期」に使われていた「黒ポスト」です。

 

「親鸞聖人御旧跡」碑

この奥の「宝満寺」に泊まられたそうです。

親鸞聖人直筆の掛け軸が残されているそうです。

 

愛知川宿本陣跡 

建物は明治の初期に無くなっています。この建物から裏の空き地一帯が本陣跡です。

 

         

八幡神社  由緒によれば

太政大臣藤原不比等淡海公養老年中(717~723年)に創建された。
正殿に誉田別名別宮に素沙雄尊天児屋根命を奉斉し、元正天皇(第44代)近江国に行幸の際、神領を賜わる。

八幡神社隣の紅殻塗りの旧家  右に高札場跡があります。

 

紅殻塗りの旧家の隣が脇本陣跡    分かりやすく道にシールが貼ってあります。

 

 

日本料亭「竹平楼」

創業は宝暦8年。江戸時代は旅籠屋を営んでいた老舗です。

「竹平楼」の敷地に「明治天皇御聖蹟」碑があります。

明治11年北陸東山道御巡幸の際にここでご休息されたそうです。

 

不飲川橋(のまずかわはし)を渡ります。

欄干には愛知川の伝統工芸の「びん細工手まり」を模した置物が飾られています。

不飲川の由来は、上流で平将門の首を洗って水が濁ったからと伝わっています。

また、戦国時代に、この川に多くの死体が横たわっていたからとも伝わっています。

ゲートをくぐると不飲橋交差点で国道8号線に合流します。

 

不飲橋交差点で国道と合流したすぐ右側に愛知川西の一里塚があったそうですが

見落としましたショボーン

 

祇園神社

愛知川にかかる橋の守護神として、現在も国道8号の御幸橋、近江鉄道の愛知川鉄橋、東海道新幹線の愛知川橋梁を見守っています。

愛知川に架かる橋といえば、歌川広重の浮世絵(木曽海道六十九次之内「恵智川」)に描かれた無賃橋が有名です。この橋は、天保2年(1831)に完成しています。

その後、天保9年(1838)になって、祇園神社は無賃橋の守護神として勧請されました。

常夜灯

祇園神社境内西隅に国道8号向きを正面として建てられています。石造大型の燈で、弘化3年(1846)2月の銘があり、寄進者47名と石工の名も銘刻しています。

燈の高さは4m35cmあります。愛知川を挟んで両岸の「睨み燈籠」と対になっています。

広重の愛知川宿の絵

 

愛知川にかかる御幸橋

江戸時代には無賃橋と呼ばれていましたが明治11年天皇陛下御巡覧で架け替えられてから御幸橋と呼ぶようになりました。

 

ここまで来て12時半過ぎとなり、食事の出来る場所を探すと、すぐ近くにマクドナルドがあります。

じい様には苦手な所ですが、空腹には勝てず入店。

まず、注文の仕方が分からない。

やけくそでメニュウを差し「・・・こいつ!」

出てきたのがこいつですニヤリ

手をベトベトにして食べましたショボーン

店員さんが見かねて手拭き追加で出してくれました照れ

親切なお店でした笑

 

御幸橋を渡り「簗瀬北」信号交差点を左折します。

 

近江鉄道の愛知川南踏切わたります。

 

こちらにも常夜灯(睨み燈籠)が建っています。

ここを右折します。

 

ながさわ酒店  酒好きはすぐに寄って見たくなります。

 

長寶寺(ちょうほうじ)   浄土宗のお寺 

 

 小幡町御代参街道への道標

江戸時代に代参を務める人々が通った道です。

「右 京みち  左 いせ ひの 八日市みち」と刻まれています。

※京の公卿達が伊勢神宮、多賀大社へ代参の名代を派遣していました。

 

太神宮と彫られた常夜灯の前を斜め右へ進みます。

太神宮は天照大神または伊勢内外宮の神を祀った神社です。

 

用水を渡りT字路を左折します。

 「五個莊役場跡」の碑

 

 てんびんの里五個莊の案内板

 

旧五箇荘郵便局

大正14年(1925)竣工。デザインと構造の両面から1920年代の典型といえる建築です。1910年から25年頃までの大正時代を象徴する建築です。

 

新堂町の常夜墱

常夜灯の台座が道標になっています。

「左いせ ひの 八日市 右京道」と刻まれています。

 

交差点先のポケットパークに明治天皇北町屋御小休所があります。

 

京町屋風商家

説明板によれば 「この建物は明治初期の建築で江戸時代から呉服繊維商としてきょうと、大阪で活躍した市田庄兵衛家の本宅です。奥に細長い京町屋風の建築様式で、平成13年に北町屋町が購入、保存、活用しています。(市指定文化財)」 説明板左の表門は 「凱旋門」 と言われ、日露戦争の総司令官・大山巌元帥が凱旋時に投宿された大坂の由緒ある邸宅の門を移築したものです。

 

市田庄兵衛家の先に大郡(オオコウリ)神社 祭神は弘文天皇 十市皇女です。

参道の先で国道8号線を渡ったところに社殿があります。

境内社は金毘羅神社があります。

 

交差点を渡った右角に茅葺の家

ここは茶屋本陣跡、旧片山家住宅です。

右角に天保8年(1837)の「金比羅大権現」と刻まれた常夜燈があります。

 

片山半兵衛家

武佐宿と愛知川宿の中間にあり大名家・公家などの休憩所として利用されました。

 

観音正寺への道標

西国第三十二番札所の繖山(きぬがさやま)観音正寺(かんのんしょうじ)への道です。

道標には 「三十二番くわおん正寺 是より十町」 と刻まれ、上部に千手観音が乗っています。

観音正寺は、ここから直線で2km程北西にある繖山(きぬがさやま・標高433m)の山頂近くにある寺院で、聖徳太子が千手観音を彫み開かれたもので、観世音菩薩の聖地とされている。

 

石塚一里塚跡

説明板によれば

「石塚一里塚は、中山道を江戸日本橋から123里483km)の、この地にありました。徳川家康は、慶長六年(1601年)江戸城防衛を目的に、街道の整備を始め、東海道は寛永元年(1624年)に完成しました。

中山道は木曽路の街道化に時間が取られ、全体の完成は元禄七年1694年)でしたが、近江地区の中山道は、慶長13年(1608年)に完成していました。
石塚一里塚は、明治六年の『石塚村地券絵図』に、『一り塚(地番)二百三十五』と円形に記録され、一里塚の存在を証明しています。 

昭和40年発行の『近江神崎郡志稿 下巻』には、『本郡中山道なる一里塚は旭村大字石塚の郊外おぶく田(御仏供田)と呼ぶ處にあり、塚は担らげられ畑となってあるが、下廻の石垣は在してある。』と記され、つい最近まで、一里塚史跡の石塚が残っていたことが確認できます。
天保年中に出版された『東海木曾両街道道中懐寳圖鑑』に、『清水鼻北町屋間の一里塚には東方榎二本西方一本』とあり、石塚一里塚には、恵野木が植えられ、石塚が側は2本、山本側は1本で、これは『中山道分間延絵図』の一里塚の図に一致します 」

 

国道8号線に合流します。

てんびんの里

「てんびんの里」と書かれた石柱に銅像が置かれています。
近江商人の里を表しています。

 

国道8号線左側に大きな神崎中央病院が見えその手前の「清水鼻」信号交差点を右折しすぐに左折します。

清水鼻の名水

清水鼻の立場があったところです。

昔から湖東三名水の一つ、清水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。 古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、道行く人達にも潤いを与え、喜ばれています。  (五個荘地区まちづくり協議会)

 

中山道は再び8号線に合流しますが歩道が無くて危険な為8号線右側の農道を歩きます。

国道側にこの石碑が見えたら左折して国道下の地下道を通り反対側に出ます。

  

 

                     

地下道入口                出口

 

 

道祖神                 奥石(おいそ)神社

東老蘇集落を進んで行くと右手に奥石神社があります。

神社のある森は万葉の昔から歌に詠まれてきた名高い老蘇の森で、国の史跡に指定されている。参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿があります。奥石神社の御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営させたもので 国指定重要文化財となっている。

 

轟地蔵跡

祭神は天児屋命(あめのこやねのみこと)。日本神話登場する神です。中臣及び藤原氏の祖神(おやがみ)に当たります。現在の社殿は織田信長が寄進しました

轟橋の袂にありました。

 

轟川に架かる轟橋            緑苔園(りょくたいえん)

轟橋を渡ると左手に杉原氏庭園の 「緑苔園」がある。解説では勝元宗益(通称鈍穴)が江戸時代末期に作庭したといわれ、回遊式の枯山水庭園で広さは約500㎡有るという。庭園は滋賀県指定文化財になっている。

 

浄土宗の円通山東光寺

かつて清水鼻にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で、六角氏滅亡後、衰退していたものを現在の東光寺が寺号と本尊を譲り受けたと伝えられている。境内には豊臣秀吉の祐筆であった建部伝内の像が安置された伝内堂がある。

 

衣料品店の駐車場に西生来(にしょうらい)一里塚跡


牟佐神社

市神様が祀られ、境内には盛大な市が立ちました。ご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)

神社の門前に武佐宿東口の大門跡がありました。
武佐宿の東側にあった高札場跡もここにありました。

大門は他宿の木戸と同じで出入りする人を監視していました。

 

武佐宿脇本陣跡                          

武佐町会館が奥村脇本陣跡です。長享元年(1487)近江源氏の主流である佐々木一族が近江八幡市金剛寺に金剛寺城を築城後、それに伴い移住した佐々木一族の家人である谷家の分家が、この地に御殿屋敷と言われる 「谷殿館」 を造り繁栄しました。その後、江戸時代に入り奥村三郎左衛門が脇本陣として使用しました。

脇本陣内の馬頭観音

 

 旧八幡警察署武佐分署庁舎

明治19年建築の木造2階建て。側面と背面に平屋が連続している造りです。明治初期において、西洋建築を導入する必要があり、同舎も洋風な造りを導入しています。現在は有形登録文化財です。

 

伝馬所跡(郵便局)

 

本陣跡(下川家)  皇族、公家、大名、幕府役人が休憩、宿泊した場所。現在は門構えのみを残しています。 

 

「いせ みな口」 八日市道」文政四年(1821)建立

五街道が整備される前、近江国と伊勢国を結ぶ重要な道で「伊勢道」とも呼ばれました。永源寺から八風峠を越えて桑名方面へ入ることから、八風街道と呼ばれた。武佐宿は中山道と八風街道が交わる所です。

 

松平周防守陣屋

川越藩松平家のとび地で、出張所の業務を課したとされています。

後に松平家は移住しました。

 

地元の小学生の作った中村旅館の案内板

 

西の高札場跡 愛宕山と書かれた石碑と常夜燈 

 

西の見附跡

「見附」とは宿場の治安維持を目的としたもので、旅人や荷物の移動を監視し、通行税をとる関所のことです。武佐(むさ)宿の西の入口側は、近江鉄道武佐駅付近にあり、「大門(おおもん)」とも呼ばれました。

 

本日はここまでとします。 時刻 15:30

武佐駅から近江八幡駅、米原駅経由で帰宅します。

 

「中山道歩き 武佐宿から草津宿まで①」に続く