「中山道歩き 柏原宿から高宮宿①」の続きです。

 

峠を下ると国道8号線との交差点に出ます。「磨針峠望湖堂」と書かれた道標

ここを左折し国道8号線に合流し150m程先で左の中山道に入ります。

 

旅人の像

鳥居本宿に向かいます。

 

明治天皇鳥居本宿御小休所(ごこやすみどころ)石碑

1878年(明治11年)10月11日及び22日、明治天皇は石碑の建っている有川家右手の建物で休憩されました。

 

鳥居本宿は、天保14年の記録では本陣1,脇本陣2,旅籠屋32軒でした。

赤玉神教丸本舗

創業万治元年の神教丸本舗。
腹痛や下痢止め薬で有名で、現在も有川家の立派な建物が残っています。

 

写真の左、郵便ポストの前は枡形に曲がっています。そのあたりに鳥居本の地名由来の多賀大社の鳥居があったそうです。

 

 

郵便ポスト横の路地を抜け国道8号線を渡ると上品寺法界坊の鐘

歌舞伎で演じられる「法界坊和尚」の鐘が残る上品寺があります。遠い江戸から大八車に乗せて、この地まで運んだという鐘は、吉原の花魁(おいらん)たちの浄財を受け、悲運の遊女たちを供養するために作られました。 その鐘には、遊女たちを含めた寄進者たちの名前が刻まれています。歌舞伎での法界坊は、破戒坊として演じられていますが、じっさいは全く逆で、遊女を救った良いお坊さんでした。

 

中山道に戻ります。

湖東焼「自然斎」旧宅

赤絵焼付窯元の免許鑑札を彦根藩から得た治右衛門(自然斎)は藩窯で焼かれた湖東焼の素地に上絵付けをして街道筋で売っていました。

現在は集会所になっています。

 

合羽所「木綿屋」  説明板によれば

「享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804~30) には十五軒の合羽所がありました。天保三年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します」

 鳥居本合羽は楮(こうぞ)を使った「和紙」に防水性を高めるために「柿渋」を塗り他の地方の物より性能が良かったそうです。

 

本陣跡    

説明板によれば

「鳥居本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。本陣屋敷は合計201帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和10年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています」 

 

説明板によれば  

「鳥居本宿には脇本陣が2軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに50人の人足と50疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人足や馬を使って荷物を運んでいました」

 

合羽所「松屋

合羽は鳥居本宿の名産品でした。 

江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し今では看板だけが産地の歴史を伝えています。

昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています

2001年には、かつての家屋の構造をいかしながら改修されました。

 

専宗寺

文亀二年(1502)及び天文5年(1536)の裏書のある開基仏を有する浄土真宗の古寺です。元は石田三成の居城佐和山城下にありましたが関ヶ原の戦い後廃れた佐和山城下より鳥居本に移りそれを機に専宗寺へ名を改めています。現在の本堂は、18世紀後半のものと言われています。

聖徳太子が創建という伝承があるそうです。

中山道道標

「右 彦根道」「左 中山道京いせ」と刻まれています。

道標が設置されて4年後の天保2年(1831年)に描かれた「鳥居本宿絵図」にはこの道標の表記があり、中山道と分岐した道の先には「彦根道」と記されています。

彦根道は中山道と彦根城下をつなぐ道。江戸時代には切通道あるいは朝鮮人街道とも呼ばれましたが、江戸時代以前は佐和山の太鼓丸の堀切を経由して大手(鳥居本)側と彦根側をつなぐ城内の道であって一般の人々の往来はなく、また、山田町地先から中山道(当時の東山道)までの間に道もありませんでした。

両者間に新道が造られ、彦根道として整備されるのは、彦根藩2代井伊直孝の時代のことです。
この道標は、制作年代が明確でほぼ原位置を留めており、また設置して4年後に描かれた宿絵図にも描かれるなど、滋賀県を代表する道標の1例として貴重です。

(彦根観光ガイド)

 

鳥居本宿の道標  この辺りまでが鳥居本宿です。

 

小野こまち会館 小野町(旧小野村)には東山道の宿駅があり、小野小町の出生地と云われています。

 

八幡神社

新幹線高架手前の鳥居の先に社殿があります。

説明板によれば

「 八幡神社 彦根市小野町 祭神 應神天皇
祭礼  元旦祭1月 祈年祭2月 春例祭4月 納涼祭7月 秋例祭9月 大祓祭12月
由緒等 彦根市小野町は、明月記にみえる『小野庄』の遺称地とされ、中世の東海道(近世の中山道)の宿駅の一つ、小野宿も当地にありました。
当社の創立年代等は明らかではありませんが、神社に伝わる最も古い什物である鰐口には、『江州坂田郡小野當村八幡尊御前』、『奉 寄進寛文十二年六月吉日辻村喜兵衛敬白』とあります。
現在の社殿は天保8年1837)の改築で、檜皮葺一間社流造の構造で、屋根には千鳥破風、軒には唐破風が付き、組物の間には十二支の彫物が施されるなど、極めて装飾的なものです。 」

 

社殿には行かずに通過しました。

 

小野小町塚

「六歌仙」の一人で絶世の美女として有名な小野小町の塚。

全国に墓や生まれた場所は各所にあり、ここもその一つ。

彦根観光ガイドによれば、地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っています。『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半の造仏)があります。自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされています。正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、類例がなく貴重なものとの事です。

 

小野小町塚から1km程進んだ左側に

原八幡神社地蔵尊があります。新幹線の高架下をくぐった先にあります。

この辺りに原村の一里塚があったのではと云われています。

原八幡神社地蔵尊

中山道に戻ります。

中山道に戻り、80m程進んだ右側のお宅の辺りに原村の一里塚があったのではとも言われています。 江戸より119里目一里塚

位置は確定していません。

創業200年の醤油屋さん

関ケ原宿の「ヤマセ」さん、醒井宿の「ヤマキ」さんにつづき中山道で見た3軒目の醤油屋さんです。

原八幡神社  祭神は聖徳太子です。

鳥居の前に「芭蕉昼寝塚、祇川白髪塚」の標石があります。

八幡宮二の鳥居と常夜灯

昼寝塚には芭蕉の句

「ひるかおに ひるねせうもの とこの山 芭蕉」

白髪塚には芭蕉の門人祇川居士の句(右側の細長い石碑)

「耻(はじ)ながら 残す 白髪や 秋の川 祇川居士」と刻まれているそうです。

原八幡神社拝殿

拝殿奥に本殿

手水舎  右の手水石には「露滴」と刻まれています。

「男岩」「女岩」神社の周りの山林を開発した時に発掘した目出度い石だそうです。

 

中山道に戻ります。

道標「はらみち」と寺標「天寧寺五百らかん七丁余」(天保15年・1844年)

天寧寺は、江戸時代後期の大老・井伊直弼の父である彦根藩第11代藩主井伊直中が建立しました。直中は、自身の過失によって手打ちにした腰元とその子(初孫)の菩提を弔うため、京都の名工に命じて500体の木造羅漢像を彫らせ、安置しました。

 

高速道路の下を通ります。

 

かくみや醤油 おしゃれなカフェ?の様なお店です。

丸大豆、小麦、塩、沖縄産の良質黒砂糖、レンゲの蜂蜜などを主原料しているそうです。

すぐ先の右側に

春日神社

奈良市の春日大社を総本社とします。御祭神は、春日大社が祀る「武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・姫大神(ひめのおおかみ)」の四神です。

地蔵町の氏神で鎮守神です。

 

芦川を渡ります。

 

「大堀町」信号交差点   交差点を横断した右側は旭森公園

 

 

旭森公園のフェンスわきに石碑があります。
表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。

「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」

壬申の乱で吉野から攻め上った大海人皇子と近江朝の大友皇子の軍が皇位をかけてここで戦いました。

 

公園横のお堂  沢山のお地蔵様があります。

 

石清水神社

祭神は、第16代応神天皇とその母、神功皇后(息長帯姫命)である。
石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する石清水神社は、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。

 

鳥籠山唯稱寺(とこやまゆいしょうじ)

室町時代以前は、天台宗の寺院で唯稱庵と呼ばれていたが、永正年間(1504~1521年室町時代)に改宗、浄土真宗の末流となり唯稱寺と改まりました。

 

踏切の横に多賀大社の常夜灯がありました。

近江鉄道の踏切を渡ります。この辺りから高宮宿です。 

 

「高宮町大北」信号交差点を横断します。

 

交差点を渡った右角に木之本分身地蔵菩薩(通称大北地蔵)があります。

説明板によれば

「普通、地蔵様は石造りが一般的であるが、この地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。側には明治三十三年四月の記で「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、木之本浄信寺にある眼病のご利益で名高い、木之本地蔵の分身といわれている。しかしその由来等についての古文書は残念ながら不明である」

石柱は赤い消火栓の隣です。

 

本日はここまでにして高宮駅に向かいます。

近江鉄道高宮駅に着きました。

 時刻 15:00

 

「中山道歩き 高宮宿から武佐宿①」に続く