令和4年(2022年)3月30日

歩いた時間 6時間30分   歩数 36,691歩

前回終了した柏原駅前の中山道から出発します。

JR美乃坂本駅を5:39に出ました。

2027年にリニア岐阜県駅がここに出来る予定です。

 

柏原駅に8:30に着きました。

高宮宿に向けて出発します。駅を出てT字路を右折します。

柏原宿は、天保14年の記録では本陣1,脇本陣1,旅籠屋22です。名産品は、伊吹山で獲れる蓬(よもぎ)で作る「伊吹もぐさ」でした。昔は多くのもぐさを商う店が街道沿いに軒を並べていましたが現在は1軒が残るだけです。

 

「問屋場跡」と「東の荷蔵跡」

問屋は運送問屋のことで、公用の旅人・荷物と幕府御用状の両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行いました。

東の荷蔵は当日中に隣宿まで継立できないときに保管した蔵です。藩年貢米の保管にも使いました。西にも荷蔵がありました。

 

脇本陣跡・問屋役・年寄「南部源右衛門」

説明板によれば「脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。
柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。 間口はこの家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は238坪、建坪は73坪あった。当家は問屋役を兼務していた」

 

旅籠屋 「京丸五兵衛」 説明板によれば

「天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。 同じ年の宿内職業記録には、もぐさ屋9軒(屋号の頭は、どこもみな亀屋)造り酒屋3 請負酒屋10 炭売茶屋12 豆腐屋9(煮売屋) 他商人28 大工10 鍛冶屋1 諸職人13 医師1 とある」

 

造り酒屋・年寄「西川瀬右衛門」

 

柏原宿復元図隣は問屋役・年寄「吉村逸平」(映画監督 吉村公三郎の実家)

柏原宿復元図説明板によれば
ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿 で東海道 と合流)の内61番目になり、約112里(1里は約3.9km)、京までは約21里のところにある。 江戸時代 は、随分栄えたもので、宿場 としての業務も、かなり苦労が多かった様である。「幕末広重 画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ 」の老舗伊吹堂 で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ 」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は一軒だけとなっている。柏原宿は、規模が大きく69宿中宿高で四番目、宿場の長さ13丁(1420m)は10番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。 「しかも旅籠屋 (旅人 たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず22軒もあった。

現在、一軒も残っていないのは残念である。本陣 、脇本陣 は、それぞれ一軒、問屋 (人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には6軒(開宿当時は20軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて3軒までなのに、関ヶ原から番場までの5宿は、それぞれ6,7軒あった)その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった。「この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである。柏原の総社は、野瀬の神明神社である。又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は
30ヶ寺を越え、現在も15寺と3堂がある。中世京極道誉の随臣、箕浦氏が400年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名利で、盛時には、60坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。また、宿場の東約13丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。
柏原宿復元図 享和 4年(1804) 2月  平成5年3月柏原宿整備調查委員会、米原市教育委員会

映画監督 吉村公三郎の主な作品は、『安城家の舞踏会』『源氏物語』『夜の河』『夜の蝶』など。

 

東の庄屋 「吉村武右衛門」

 

澁谷佐治郎酒店

 

本陣跡

本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が利用する公的休泊施設です。

江戸時代を通し南部家が本陣を務めました。

皇女和宮宿泊の時、新築され、その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築されました。

 

高札場跡と常夜灯  市場川に架かる市場橋の袂にありました。

 

柏原宿の街並み

道路中央の帯状の線は融雪装置です。

左の建物は「伊吹堂」です。創業360年を超える伊吹もぐさの老舗で、現在も当時の建物のまま、「伊吹堂亀谷左京商店」を営んでいます。

広重の柏原宿の絵  「かめや」が描かれています。

 

造り酒屋・年寄「山根東作」

 

日枝神社

日枝神社の御祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)です。

比叡山の地主神、諸産業振興の神として信仰され、殖産興業、山嶽守護、子孫繁栄、厄除け、開運のご利益があるそうです。

 

西の荷蔵跡と柏原銀行跡の説明板

西の荷蔵跡の説明板によれば

運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。荷蔵は宿東部にもあった。なお、当宿は、寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。

柏原銀行跡の説明板によれば

明治三十四年(1901)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は、同業・旅篭屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、その当時も多くの商店が立ち並び、国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と岐阜県隣り村今須村地域の中心地であった。柏原銀行の支店出張所は、米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県隣り村今須にも設置された。その後、米原・野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(1943)、滋賀銀行に合併する迄の四十二年間、この地方の産業活動を支援した功績は大きい。

 

「やくし道」道標

説明板によれば

「最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。 太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。 この道標は享保2年(1717)と古く、正面が漢文、横2面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。 出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。 」

 

火の見櫓  ふれあい会館の横にあります。

 

交差点角御茶屋御殿跡

ここは京都・江戸間を往復する徳川将軍家の休泊施設として築かれた御殿の跡です。説明板によれば「柏原御茶屋御殿は、天正16年(1588)に徳川家康が中山道を通った際、土豪西村勘介の屋敷に宿泊したことに起源をもつとされています。その後、家康、秀忠が中山道を通るときには西村屋敷を利用していましたが、元和9年(1613)の徳川家光将軍宣下の上洛の時、御茶屋御殿として整備されたことが西村家の記録に記されています。」  徳川家三代の間に通算14回利用された後、元禄2年(1689)に解体されました。将軍の上洛が無くなったためです。御殿跡の中山道端には「問屋役・年寄 西村勘右衛門」の表示板があります。御殿解体後は「問屋役・年寄」屋敷となったようです。現在は、建物の跡形もなく、当時の井戸を残すのみです。

 

柏原一里塚跡  説明板によれば

「 (復元)柏原一里塚

一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。
慶長九年(一六○四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。 そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。 工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、五間(九メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。 おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。 (現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。 」

 

このすぐ先に柏原宿西見附跡があったそうです。

 

掃除丁場と並び松」の説明板

掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期21ケ村が夫役として従事した。丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治五年の調査から逆算、幕末には約450本植えられていた。

 

 

白山神社            

 

きれいな湧水が豊富な地域です。

 

「天の川源流 菖蒲池跡」の碑

池は枯れています。天野川の源流だったそうです。

 

菖蒲池跡の隣に「小川(こかわ)の関」跡があります。

表示に従い右の旧中山道を進みましたが50m程で行き止まりになっていました。

 

道祖神  沢山の石仏が祀られています。

 

中山道道標

右側に「柏原宿」 左側に「梓」と刻まれています。

 

道祖神  ここにも沢山の石仏が祀られています。

 

慈圓寺  真宗大谷派のお寺です。

 

 

梓川

この辺りに東山道横川駅があったと推定されています。美濃国不破駅と近江国鳥籠(とこ)」駅の中間の駅です。

 

「梓」の道標

 

松並木  左側はラブホテル群です。

 

ラブホテルの脇を抜けて    国道21号に出ます。

 

このお店(山形屋)の手前で左(店の裏側)に入ります。

 

八幡神社

 

風情のある古い建物のある景色

 

一里塚の跡

この辺りは「一色」と呼ばれていました。

 

醒井宿入口  枡形になっています。 

 

加茂神社

祭神は 加茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)。

雷神であり、農業に関係する雨と治水を司る神とされます。

 

居醒(いさめ)の清水

東征からの帰りに日本武尊(ヤマトタケル)は、伊吹山の荒ぶる神(大蛇・白猪とも)を退治したが、大蛇の猛毒で発熱し気を失うほどでした。

やっとのことで山を降り、この泉まで来て清水で体を冷したところ熱も下がり、気力も回復したそうです。

清水の中には日本武尊の腰掛石、鞍掛石と蟹に似た蟹石があります。

日本の名水100選に選ばれています。

 

地蔵堂  

嵯峨天皇から雨乞いの命を受けた伝教大師は、夢の中で、「東に清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げがあり、伝教大師が泉を尋ねてこの地に来た際に、白髪の老翁が忽然と現れ、「私はこの水の守護神である。ここに地蔵尊の像を刻み安置すれば、雨が降り草木も生き返るであろう。」と言って水の中へ消えた。

早速石工を集めて坐像を刻んで祈念したところ、大雨が三日降り続き、緑はよみがえったそうです。

鎌倉時代後期の作で、一石一尊の地蔵としては県下最大です。延命地蔵として親しまれている。

 

梅花藻

中山道沿いを流れる地蔵川は今もなお清らかな水質を保ち続けています。

梅の花に似た白い小花を咲きます。

清流にしか棲まない「ハヨリ」と呼ばれる魚が住んでいるそうです。

 

醒井宿本陣跡  今は「本陣樋口山」という日本料理店になっています。

醒井宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒で小さな宿でした。

名水の里として名を馳せ、清水が豊富で旅人の休憩地でした。

 

醒井宿問屋場  今は米原市醒井宿資料館になっています。

 

ヤマキ醤油

醤油屋喜代治商店は創業100年を超える老舗醤油店です。

ヤマキしょうゆというブランドで販売しています。

ヤマキしょうゆは創業以来、醒井の清き湧き水「居醒の清水」を使用して醤油を作り伝統の味を守られています。

居醒の清水は平成の名水百選に選ばれています。

 

江龍家表門

庄屋を務めた屋敷は本陣並の規模で、明治天皇の休息所にもなりました。

 

了得寺

了徳寺の境内に、周囲の家並みを圧して、ひときわ高くそびえるオハツキイチョウは、幹囲約2.5m、高さ約20m、樹齢約200年。オハツキイチョウは、他のイチョウに比べて葉柄がやや細長く、葉の縁に種子を付けるのが特徴です。毎年8月から11月上旬頃に数多くの実を付けますが、その一部は、葉の面になります。発育は不完全な物が多く、小型で楕円形、普通のものと著しく異なっています。数は多いもので5個、おおむね1、2個で、葉脈が次第に太くなり、先端のところに形作られます。これは、化石から出土するイチョウとよく似ており、先祖返りと考えられます。昔から「花も咲かずに実のなる木」と、付近の人に不思議がられていますが、花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。イチョウは、全国の神社や仏閣に植えられ、一般に親しみ深いものですが、この種のものは珍しく、昭和4年(1929)に国の天然記念物になっています。(長浜・米原を観光情報サイトより)

 

十王水

十王水は地蔵川の中にあります。平安中期、天台宗の高層「浄蔵法師」が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結んだと伝えられている。「浄蔵水」と称すべきところを、近くに十王堂があったことから、「十王水」と呼ばれるようになりました。

 

地蔵川を渡ります。

地蔵川は、居醒の清水などから湧き出る清水によってできた川です。

平安時代に水源が開かれた名水です。

 

西行水

東国への旅の途中に西行法師が、ここにあった茶店に立ち寄ってお茶を飲み、(法師が茶店を立ち去った後)法師が飲み残したお茶の泡を飲んだ茶店の娘が不思議なことに懐妊し、男の子を出産。帰路にこの話を聞いた西行が「もしわが子なら元の泡に返れ」と念じると、子はたちまち消えて元の泡になった。これを見た西行法師はここに五輪塔を建て、「泡子墓 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡」と記したそうです。「泡子塚」(画像右端)の名で親しまれています。

 

道標 この辺りが醒井宿の外れです。番場宿へ一里と彫られています。

 

広重の醒井宿の絵

 

この先で県道17号を横断します。

横断した右側に昭和30年ころまでは茅葺屋根の茶店が6軒あったそうですが今はありません。

 

国道21号線に合流します。

一類狐魂等衆碑  説明板によれば 江戸時代後期のある日、東の見附けの石垣にもたれ、一人のたびの老人が、「母親の乳が飲みたい・・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房を含ませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと目に涙を浮かべ「有難うございました、本当の母親に会えたような気がします。懐に70両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生を遂げました。この母親は、お金をいただくことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。

 

丹生川橋を渡ります。

この辺りが 壬申の乱の古戦場(横河の古戦場跡)です。

壬申の乱は、天智天皇の死後、長子の大友皇子を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人皇子が、皇位の継承をめぐり、壬申の年(672年)に起こした、わが国の歴史上最大の内乱。大海人皇子の本隊と大友皇子軍の本隊が、初めて息長横河(おきながのよこかわ)で激突、激戦の末、大友皇子軍が敗れた古戦場跡

(説明板より)

 

国道21号から右の中山道に入ります。

 

前方の「樋口」信号交差点で国道21号を横断します。

和佐川を渡ります。

 

敬永寺

竹林山敬永寺は古く天台宗の寺院だったが、顕如上人の頃、浄土真宗に改宗した。
寛文13年(1673年)、東本願寺宣如上人より木仏御本尊を、後には一如上人より親鸞聖人御影をそれぞれ下付されています。

 

米原地域福祉センターの忠魂碑

 

この先のT字路を左折して高速道路の高架下を通ります。

高架下を抜けると前方に一里塚があります。

久禮の一里塚跡

久禮の一里塚には右側には「とねり木」、左側には「榎」が植えられていました。

一里塚をまわるように右側の道を進みます。

 

久礼集落を抜け左に高速道路の側壁を見ながら進みます。

昔はカエデ並木があったそうですが、枝垂れ桜の木が目立ちます。

ここから300m程先に番場宿東見附跡があるそうですが見つかりませんでした。

 

番場宿問屋場跡

天保期には問屋場が6軒もありました。

この先の米原道との交差点辺りが番場宿の中心地でした。
 

問屋場の隣は米原道との交差点です。その交差点右角にある中山道番場宿碑

 

広重の番場宿の絵  米原道との交差点が一番賑わっていたので、この辺りかな?

 

交差点を渡った右角に

 

「米原道道標」があります。

「米原 汽車 汽船 道」と刻まれています。

慶長8年(1603)彦根藩保護のもと北村源十郎が米原湊を開きました。

さらに番場宿と湊を結ぶ深坂道(切通道)が開通し、琵琶湖を利用した舟運の物資が番場宿を経由し中山道に運ばれる物流の拠点として重要視されるようになりました。

今のJR米原駅辺りが米原湊跡ですから当時は琵琶湖がそこまで広がっていたという事です。

 

右が脇本陣跡、左は問屋場跡

ここにも問屋場がありました。

東山道時代は西番場にあった宿場だが米原湊が開設され米原道が開通すると宿場機能が現在の東番場に移ってきました。

 

本陣跡     

 

問屋場跡と明治天皇番場御小休所の石碑

 

蓮華寺

聖徳太子の創建です。歴代天皇の尊崇も厚く菊の御紋を下賜されています。

鎌倉時代後期の元弘3年(1333)足利尊氏の寝返り(突然後醍醐天皇方に寝返った)にあって鎌倉へ落ち延びる途中、京極道誉に阻まれて進退極まった北条仲時以下432人が自刃。流れ出た鮮血で、辺りは川と化したといいます。仲時28歳ほか、6歳の子供から60歳の高齢者に至るまでの名を記した過去帳は、国の重要文化財に指定され、寺の裏には彼らの墓が寄りそうように並んでいます。

 

鎌刃城跡入口

江北と江南の国境線に位置する境目の城で、湖北最大級の山城でした。京極氏と六角氏の攻防、織田信長と浅井長政の攻防の舞台となりました。

信長が美濃と近江を平定後の1574年(天正2年)に城主の堀秀村は改易となり、まもなく廃城となりました。

 

北野神社

この辺りが鎌倉時代に宿駅だった「西番場」地区です

 

番場資料館

番場宿についてと、鎌刃城についての資料館、郷土の偉人である彫刻師・泉亮之(いずみすけゆき)の記念館です。

泉亮之は、天保9年1月11日(1838年2月5日)に近江坂田郡息郷村(現滋賀県米原市番場)の泉孫右衛門の長男に生まれ、幼名を豊次郎と称した。泉家は商業に従事する傍らで農業を営んでいた。元々手先が器用な子であったと伝えられ、25歳の時飛騨に商いに出た時、「亮水」と称する彫師の作品に接し深く感銘を受け自らの名を「亮之」と改め、家業を捨て彫刻に専念した。明治24年(1891年)5月10日訪日中のロシア皇太子により泉亮之作品が買い上げられ、この後明治26年(1893年)アメリカで開かれた博覧会に泉亮之の作品が出品され賞を授けられ、またシカゴで開催されたコロンブス上陸400年祭記念博覧会においても、泉亮之の作品は賞牌を得た

 

 

本授寺               西番場を過ぎ高速道路沿いの道が続きます。

 

 
道標 緩やかな上り坂が続きます。      振り返ると伊吹山が見えました。

     

小磨針峠(磨針峠の手前の峠)のお地蔵さんと泰平水

 

道標

ここから磨針峠を越えて鳥居本宿に向かいます。

 

磨針一里塚跡  一里塚があった痕跡は見られません。

 

称名寺  浄土真宗のお寺です。

 

望湖堂跡  遠くに琵琶湖が見えます。   時刻  12:30

峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の和宮降嫁の際も当所に立ち寄っており、茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどでした。

広重の鳥居本宿の絵 木曽街道六十九次の鳥居本はここ摺針峠から琵琶湖を望む風景を描いています。

 

峠を下ると国道8号線との交差点に出ます。「磨針峠望湖堂」と書かれた道標

ここを左折し国道8号線に合流し150m程先で左の中山道に入ります。

 

旅人の像

鳥居本宿に向かいます。

 

明治天皇鳥居本宿御小休所(ごこやすみどころ)石碑

1878年(明治11年)10月11日及び22日、明治天皇は石碑の建っている有川家右手の建物で休憩されました。

 

鳥居本宿は、天保14年の記録では本陣1,脇本陣2,旅籠屋32軒でした。

赤玉神教丸本舗

創業万治元年の神教丸本舗。
腹痛や下痢止め薬で有名で、現在も有川家の立派な建物が残っています。

 

写真の左、郵便ポストの前は枡形に曲がっています。そのあたりに鳥居本の地名由来の多賀大社の鳥居があったそうです。

 

 

郵便ポスト横の路地を抜け国道8号線を渡ると上品寺法界坊の鐘

歌舞伎で演じられる「法界坊和尚」の鐘が残る上品寺があります。遠い江戸から大八車に乗せて、この地まで運んだという鐘は、吉原の花魁(おいらん)たちの浄財を受け、悲運の遊女たちを供養するために作られました。 その鐘には、遊女たちを含めた寄進者たちの名前が刻まれています。歌舞伎での法界坊は、破戒坊として演じられていますが、じっさいは全く逆で、遊女を救った良いお坊さんでした。

 

中山道に戻ります。

湖東焼「自然斎」旧宅

赤絵焼付窯元の免許鑑札を彦根藩から得た治右衛門(自然斎)は藩窯で焼かれた湖東焼の素地に上絵付けをして街道筋で売っていました。

現在は集会所になっています。

 

合羽所「木綿屋」  説明板によれば

「享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804~30) には十五軒の合羽所がありました。天保三年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します」

 鳥居本合羽は楮(こうぞ)を使った「和紙」に防水性を高めるために「柿渋」を塗り他の地方の物より性能が良かったそうです。

 

本陣跡    

説明板によれば

「鳥居本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありましたが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長八年(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となりました。本陣屋敷は合計201帖もある広い屋敷でしたが、明治になって大名の宿舎に利用した部分は売り払われ、住居部分が、昭和10年頃ヴォーリズの設計による洋館に建て直されました。倉庫に転用された本陣の門が現存しています」 

 

説明板によれば  

「鳥居本宿には脇本陣が2軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家のようすは、上田道三氏の絵画に残されています。それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室がありました。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場です。人馬継立とは当時の輸送システムで、中山道では宿ごとに50人の人足と50疋の馬を常備するよう定められていて、次の宿まで常備した人足や馬を使って荷物を運んでいました」

 

合羽所「松屋

合羽は鳥居本宿の名産品でした。 

江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し今では看板だけが産地の歴史を伝えています。

昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています

2001年には、かつての家屋の構造をいかしながら改修されました。

 

専宗寺

文亀二年(1502)及び天文5年(1536)の裏書のある開基仏を有する浄土真宗の古寺で、現在の本堂は、18世紀後半のものと言われています。

 

中山道道標

「右 彦根道」「左 中山道京いせ」と刻まれています。

道標が設置されて4年後の天保2年(1831年)に描かれた「鳥居本宿絵図」にはこの道標の表記があり、中山道と分岐した道の先には「彦根道」と記されています。

彦根道は中山道と彦根城下をつなぐ道。江戸時代には切通道あるいは朝鮮人街道とも呼ばれましたが、江戸時代以前は佐和山の太鼓丸の堀切を経由して大手(鳥居本)側と彦根側をつなぐ城内の道であって一般の人々の往来はなく、また、山田町地先から中山道(当時の東山道)までの間に道もありませんでした。

両者間に新道が造られ、彦根道として整備されるのは、彦根藩2代井伊直孝の時代のことです。
この道標は、制作年代が明確でほぼ原位置を留めており、また設置して4年後に描かれた宿絵図にも描かれるなど、滋賀県を代表する道標の1例として貴重です。

(彦根観光ガイド)

 

鳥居本宿の道標  この辺りまでが鳥居本宿です。

 

小野こまち会館

 

八幡神社

新幹線高架手前の鳥居の先に社殿があります。

説明板によれば

「 八幡神社 彦根市小野町 祭神 應神天皇
祭礼  元旦祭1月 祈年祭2月 春例祭4月 納涼祭7月 秋例祭9月 大祓祭12月
由緒等 彦根市小野町は、明月記にみえる『小野庄』の遺称地とされ、中世の東海道(近世の中山道)の宿駅の一つ、小野宿も当地にありました。
当社の創立年代等は明らかではありませんが、神社に伝わる最も古い什物である鰐口には、『江州坂田郡小野當村八幡尊御前』、『奉 寄進寛文十二年六月吉日辻村喜兵衛敬白』とあります。
現在の社殿は天保8年1837)の改築で、檜皮葺一間社流造の構造で、屋根には千鳥破風、軒には唐破風が付き、組物の間には十二支の彫物が施されるなど、極めて装飾的なものです。 」

 

社殿には行かずに通過しました。

 

小野小町塚

「六歌仙」の一人で絶世の美女として有名な小野小町の塚。

全国に墓や生まれた場所は各所にあり、ここもその一つ。

彦根観光ガイドによれば、地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っています。『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半の造仏)があります。自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされています。正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、類例がなく貴重なものとの事です。

 

創業200年の醤油屋さん

 

床山八幡宮  祭神は聖徳太子です。

鳥居の前に「芭蕉昼寝塚、祇川白髪塚」の標石があります。

広い境内の奥にあるそうですが、とても探す元気がありません。

昼寝塚には芭蕉の句

「ひるかおに ひるねせうもの とこの山 芭蕉」

白髪塚には芭蕉の門人祇川居士の句

「耻(はじ)ながら 残す 白髪や 秋の川 祇川居士」と刻まれているそうです。

 

「中山道歩き 柏原宿から高宮宿まで②」に続く