行幸公園の行幸厳(みゆきいわ)石塔

昭和2年(1927)11月、昭和天皇がこの地を行幸されたおり、木曽川辺の大岩にお登りになられ、連なる奇岩・怪岩や岩に砕けて流れる清流、岸壁を彩る紅葉を御覧になられました。陛下がお登りになられた大岩を永久に記念するため、当時の岐阜県知事により「行幸巌」と命名され、国道沿いに記念碑が建てられました。

奇岩、怪石の木曽川を眺めながら延々と遊歩道(日本ラインロマンチック街道)が続きます。

 

JR高山本線坂祝駅の標識が見えます。                         

正面の山の上に小さく「猿啄城」(さるばみじょう)が見えます。

「猿啄城の築城年代には諸説があって 確かなことは記せませんが、関市の龍 泰寺文書にその開祖となった無極和尚が「応永14年(1407)猿喰城主を訪 れた」とあるのが諸説の中では最古で す。戦国時代、西村・田原・多治見と城 主の交代が激しかったのですが、永禄 8年(1565)8月織田信長の中濃攻略 により落城しました。城主は信長の家 臣河尻肥前守秀隆(鎮吉)となりまし たが、信長の統一が進むと廃城となり ました。わずかに残る石垣や堀跡、登 山道に沿って点在する陣地跡から、急 峻な地形を生かした当時の城の様子 をしのぶことができます。 現在山頂には展望台が設置され、 人々のウォーキングコースとして親 しまれています」

(坂祝町教育委員会HPより)

 

猿啄城」は町指定文化財に認定されています。

 

ここで遊歩道が終わります。国道に戻ります。

勝山湊跡

河港跡を残しています。近郷の年貢米の積み出しを行っていました。

川の流れの変化で湊跡は残っていません。

 

猿啄城展望台の入口を通ります。

 

勝山西交差点を直進し岩屋観音堂の標識に従い右に入ります。

 

木橋を渡り坂を上ります。

 

坂道の途中にお地蔵様が祀られています。

 

厳屋坂の碑 文化13年(1816)建立の碑 

 

岩屋観音堂  岩窟の中に石像の観音を安置しています。

岩屋観音は、近郷近在の村人からはもちろん、中山道の旅人たちにも厚く信仰されていました。建築年代は、19世紀始め(江戸時代)と推定されています。

 

岩屋観音堂から国道まで急な下りになっています。

木曽川は、ヨーロッパのライン川に景観が似ているとして、「日本ライン」と呼ばれ飛騨木曽川国定公園に指定されています。

 

国道に合流します。「五代目食堂」手前の横断歩道を渡って左側に移動します。

 

廃業した食堂(?)を過ぎ、この案内板の先を左に入ります。

 

ここの階段を下りて右に曲がります。 小川が流れています。

 

国道とJR高山線の下のトンネルを通ります。増水時は通行止めになります。

 

特急列車の轟音にビックリ。

 

山道を進むとうとう峠の標識

 

木橋を渡り坂道になります。

 

砂利道

小川を渡ります。

 

うとう坂の石畳 

 

小田原宿喜右衛門供養塔

うとう峠で盗賊に襲われ命を落とした旅人を弔うための供養塔

今も地元の人が手厚く供養しています。

うとう峠一里塚 日本橋から100番目の一里塚

説明板によれば  うとう坂の一里塚と中山道
江戸時代につくられた「鵜沼村絵図 」(寛政5年6月)「中山道分間延絵図 」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂 」「長坂 」とか「うとう坂 」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。
 うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕籠の乗り賃支払いのめやすとなり日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられました。ここでは片側だけが残り幅10m、 高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられました。

 江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録 」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほど
かけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています。これによると1日の距離は、9里(36Km)から10里(40Km)が多く関東平野に入ると14里(56Kin)という場合もあります。1日の距離数から、当時の交通事情が推できます。

 

 「森の交流館」と「もりの本やさん」

各務原市中央図書館HPによれば 

「三世代が同じ場所でゆったりとくつろげる図書館です
日本ラインうぬまの森の麓にあり、緑豊かなロケーションの中にあります
山登り、ウォーキング後の読書が楽しめます」

 

2車線の道に合流します。

 

 

石塔群               合戸池(かっこいけ)を過ぎて右折します。

 

下り坂になり住宅街を通ります。

遠くに犬山城が見えました。

渓斎 英泉(けいさい えいせん)の絵

 

どんどん下りY字路を右に入ると

東の見附跡と赤坂の地蔵堂があります。
説明板によれば

東の見附跡
 江戸時代、宿場の入口には宿内の防御と街道 との境界を示すため、見附(みつけ)
がありました。鵜沼宿 の東の見附はこの案内の少し西にありましたが、現在その遺構
をみることはできません。
 東からうとう峠 を下ってきた中山道 は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、
西へ七町半八間(約八百三十九米)の町並みを経て西の見附に至ります。

赤坂の地蔵堂
 地蔵尊には「宝暦十三年(1763)・女人十ニ請中」と刻まれているほか、左右には「左ハ江戸并せんこうしみち(善光寺道 )」、「右ハさいしょみち(在所道 )」とあ
り道しるべ を兼ねたようです。江戸時代から地元の皆さんにより大切にお守りされています。

 

道なりに進むと

赤坂神社参道

祭神は、素盞嗚命、稲田姫命。

道標

「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠左」と刻まれています。                  

この交差点は5差路です。直進します。

5差路交叉点の右角に常夜灯があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「鵜沼中山道」交差点右角にある鵜沼復元高札場

説明板によれば

高札場 由緒

高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に建てられていました。鵜沼宿では東の見附と天王社(現・赤坂神社)の間の南向きにありました。

この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のまま復元しました。また、復元の際に読みやすい楷書に書き直しました

 

「鵜沼中山道」交差点左角にある

尾州領傍示石

説明板によれば

由緒 中山道は鵜沼村(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。  

尾張藩は村境を明示するため 「是より東尾州領」 「是より西尾州領」 の2本の傍示石を建てました。 

この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられていましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり、市が中山道に戻しました。 

各務原市の大切な歴史遺産の一つとなっています。

 

「鵜沼中山道」交差点を渡ります。

左にまた尾州領榜示石と問屋場跡があります。

  「是より西尾州領」 と刻まれています。                      

 鵜沼宿問屋場跡説明板によれば

 鵜沼宿には、江戸時代を通じ東町と西町にそれぞれ一ヶ所問屋場がありました。東町では野口家が代々この地で問屋場を務めました。
 「中山道宿村大概帳」 天保14年(1843)に 「問屋場二ヶ所にて、一日代り継立て、問屋一人・年寄り一人・帳付け一人、人馬指し二人相務め、重き通行の節は一同罷り出で取り扱い来る。」 と記されており、西町の桜井家と一日交代で務めていたことを窺わせます。
 野口家は、江戸時代後期の安政年間(1854-59)に西町の坂井家に代わって脇本陣も務めることになりました

 

大安寺川を渡り鵜沼宿の中心地に入ります。

 

旧大垣城鉄門(くろがねもん)

説明板によれば 当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門(くろがねもん)で、明治9年

(1876)に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」 と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成21年(2009)に当地へ移築されました。
 規模は、間口約5.7m、高さ約4.5mあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右2本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられました。  当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。  当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大阪城大手門(二之門)の2例が現存しています。

 

中山道鵜沼宿町屋館

中山道鵜沼宿町屋館

中山道鵜沼宿の町並みのほぼ中央にあります。平成18年、各務原市が武藤家から建物の寄附を受け、修復工事を経て、平成20年5月より中山道鵜沼宿町屋館として公開しています。
屋敷は、中庭を囲むように主屋、東側の附属屋、西側の離れの三棟からなり、町屋の特色をよく伝えていることから、三棟とも指定文市化財・景観重要建造物に指定されています。また、内部では鵜沼宿に関わる歴史資料を展示しています。

 

菊川酒造

創業 明治4年

本陣の正面でもあるこの場所には、江戸時代には河内屋という旅籠がありました。河内屋は絹屋の本家に当たる家です。この河内屋の井戸水は水質がよかったのか、皇女和宮が通行する際にお食事用の水として指定され、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています。本蔵と豆蔵は登録有形文化財です。

菊川酒造
(本蔵・豆蔵・一号倉庫・二号倉庫)

中山道の南側に並び建つ二棟の蔵は、東側を本蔵 、西側を豆蔵 と呼びます。本蔵は大正時代後期の建物で、内部の壁内には断熱材に籾殻を使った冷蔵庫の跡が残っています。豆蔵は、創業した明治時代初期に、
他所より移築されてきたと伝わっています。小屋組 は登り梁形式 で、柱や梁に転用材が多く使われています。 敷地東側の細い路地に沿って建つ蔵は、一号倉庫・二号倉庫と呼びます。明治時代後期の建物で、外観は一棟ですが、内部には完全に仕切られた壁があります。小屋組は、北側は登り梁で、南側は洋小屋トラスと形式が異なります。(説明板より)

 

鵜沼宿本陣跡

説明板によれば

鵜沼宿 の本陣 は、江戸時代を通じ桜井家が務めていました。江戸時代初期、この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家は本陣・問屋・庄屋の三役を兼ねていたと伝えられています。
寛延二年1749)十代将軍家治に興入れした五十宮がここに宿泊したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入典の行列をともなって宿泊・休憩したりしました。文化六年(1809)伊能忠敬 ら測量方 も宿泊しています。
「中山道宿村大概帳 」天保十四年1843)に、「本陣凡そ建坪百七拾四坪余り、門構え・玄関付き」と記されています。御上段・ニ之間・三之間・広間・御膳間・御料理間・勝手上段・納戸・台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられていたといわれています。
明治維新 後、鵜沼第一小学校前身の新々義校は、ここに創設されました。

 

中山道鵜沼宿脇本陣

中山道鵜沼宿の脇本陣は、宿駅制度が廃止された明治時代以降もその姿をとどめていましたが、明治24年(1891年)の濃尾震災で倒壊したと伝えられます。 江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを描いた「鵜沼宿家並絵図」をもとに、現存する脇本陣の外観や内装、意匠などを参考としながら、鵜沼宿の脇本陣を務めた坂井家の建物の姿を現代に復元し、平成22年5月より公開しています。

中山道鵜沼宿と芭蕉

説明板によれば

貞享2年(1685)、「野ざらし紀行」 道中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享5年(1688)7月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
   汲溜の 水泡たつや 蝉の声
の句を詠み、さらに同年8月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折りには、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
   ふく志るも 喰へは喰せよ きく乃酒
 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
   おくられつ 送りつ果ハ 木曽の秋
と詠み、美濃の俳人達との別れを惜しんだといわれます。

 
はらなかや ものにもつかず 啼くひばり  ふく志るも 喰えは喰せよ きく乃酒

汲溜の 水泡たつや 蝉の声

おくられつ 送りつ果は 木曽の秋

 

鵜沼宿脇本陣の隣に二ノ宮神社があります。  一の鳥居

 

石段の先に二の鳥居

二の鳥居の先に横穴式古墳の石室があります。

説明板によれば

「この古墳は、二ノ宮神社ができる前からこの場所にあったものです。古墳の形は円墳で、大きさは直径29mです。およそ6~7世紀(西暦500~600年代)に造られた古墳と考えられます。 神社境内の石垣に揃って見える大きな穴は、古墳の横穴式石室です。本来の石室は、前半部の羨道(せんどう)と後半部の玄室(げんしつ)から成りますが、この古墳の場合は羨道が取り外され玄室のみが残された状態になっています。石室の残存部の大きさは、長さ6m、幅2.1~

2.6m、高さ(現状)2.3mです。元の大きさを推定すると、石室は市内最大クラスであると思われます

さらに石段の上に拝殿があります。 

 拝殿の内部

本殿 

 

境内社                  霊神碑

 

鵜沼宿に戻ります。

安田家住宅(若竹屋) 説明板によれば

元は旅籠屋を営んでおり「若竹屋」と号していた。現在の建物は昭和5年建築であるが、切妻屋根平入りで、立ち並ぶ連続性のある街道景観に寄与している。また、黒漆喰の壁の開口部には格子を付け、街道の趣きをかもし出しています。

 

梅田昭二家住宅  説明板によれば

明治元年建築で、中山道鵜沼宿の街道に面し、両隣の建物と軒を揃え、連続性のある街並みを形成している。建築当初の町屋の構えをよく残しており、正面開口部は1、2階とも格子窓とし、街道の景観に馴染んでいます。

その隣も梅田家住宅の離れです。

安田家との間に「秋葉山常夜燈」と秋葉神社のお社があります。

 

梅田吉道家住宅(茗荷屋みょうがや) 説明板によれば

梅田家住宅は中山道に面し、江戸時代は「茗荷屋」という屋号の旅籠で、現在の建物は江戸時代後期の十九世紀中ごろに建てられ、濃尾震災にも耐えたとされる。中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に遡る貴重な建物である。主屋は袖うだつを上げ、窓に縦格子を入れる。また、主屋の東側に離れ、南側に土蔵を配し、土蔵は大型の石を亀甲形に築いた基礎の上に建てられている。

 

坂井家住宅(九一屋)  説明板によれば

坂井家住宅は中山道鵜沼宿に面する住宅で、主屋は建築時の契約書が残っており、明治二十七年の建築である。中山道に向けて門を構え、前面に塀をめぐらしている。

主屋は門を入った正面に切妻造りの破風をつけ、式台玄関を設ける格式高い造りである。また、土蔵は敷地の南東にあり、二棟が合体して一棟の姿となっている。

 

 

道標のあるこの交差点を左に曲がり名鉄線「鵜沼宿駅」まで行き、本日は終了します。

 

次回は鵜沼宿から加納宿までです。

 

中山道歩き 鵜沼宿から加納宿までに続く