令和4年(2022年)3月16日
歩いた距離 約27km
今回は名鉄御嵩駅近くの駐車場まで車で移動し、駅前にある大きな観光案内板の前から出発し鵜沼宿経由名鉄鵜沼宿駅まで歩きます。
観光案内版
この看板の前を通り北(看板に向かって左)に坂を上ります。
2車線の左右に歩道のある道です。
坂道の途中左側に神明神社がありました。
ゆるやかな坂道を進み写真館のある交差点を左に曲がります。(県道341号)
中公民館 この先の交差点を右に曲がります。
この交差点を右に曲がるのですが、左角にめずらしい常夜燈があります。
火袋と笠が木造の文政4年(1821)の常夜燈です。
右に曲がった先には秋葉様の常夜灯があります。
国道21号線「中」信号交差点を左に曲がります。
200m程進んだ右側に
鬼の首塚があります。
説明板によれば 「伝説によれば、鎌倉時代の建久、正治の頃(1190-1200)頗る(すこぶる)凶暴で悪行三昧の男が次月の鬼岩の岩窟に住み着き、乱暴狼藉を極め、住民を大いに大いに悩ませました。
この者は西美濃不破の関の生まれであたため、住民はこれを 「関の太郎」 とか 「鬼の太郎」 と呼び怖れていました。そこで正治元年(1199)人々はこの地の地頭交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが、盛康は京の地にあり、おいそれと帰ることが出来ませんでした。そこで自分の家臣4名に太郎の退治を頼み御嵩の地に帰しました。ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げのとおりに4月1日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえ首を切ることができました。
4人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ、急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。すると首桶を縛っていた縄が切れ、中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。
これが 「鬼の首塚」 の由来といわれています。
首塚のあるあたりを 「桶縄手」 と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ句を残しています。
桶縄手 今もその名を朽ちさりき 塩漬けにせし 鬼の首かも (御嵩町・御嵩町観光協会)」
国道21号「大庭」交差点右角に御嶽神社のお堂があります。
「大庭」交差点を過ぎ100m程で国道21号から右の旧道に入ります。
しばらく進んで再び国道21号に戻ります。
500~600m程で右側に
比衣(ひえ)一里塚跡があります。江戸より96番目の一里塚。
比衣の一里塚から国道を離れ再び旧道を進みます。
カラー舗装の道路に出て左に進みます。
「右 御嶽宿 左 伏見宿」と書かれた道標があります。
この先で21号線に合流します。
「高倉口」信号交差点を過ぎ伏見警察官駐在所の方へ右折しすぐに左折します。
田んぼの中の道を進みます。
急な坂を上り21号線に出ます。
21号線左側に伏見宿本陣跡があります。
跡地は公民館になっています。右側の石柱は領界石で「是より東尾州領」と刻まれています。
伏見宿は元禄7年(1694)土田宿を廃止して作られた宿場です。
天保14年の記録では本陣1、脇本陣1,旅籠屋29軒でした。木曽川沿いに「新村湊」(船着き場)があり物資輸送の拠点として名古屋、伊勢方面に多くの物資が運ばれていました。
「本陣之碑」 と「是与里東尾州領」 の領界石(右)
本陣跡の隣の路地を入ると
「浄覚寺」があります。
浄覚寺は元々は伏見山田庵ヶ洞(寺洞)に天台宗の寺として建立されていたが、慶長年間に現在地に移築、真宗大谷派、東本願寺末寺となった。以来血脈相承として続き、現在で21世です。現在の浄覚寺本堂は昭和50年に再建されました。
浄覚寺標柱の左の石柱は徳川光友公夫妻菩提所碑です。
浄覚寺は尾張徳川家の二代藩主徳川光友公夫妻の菩提寺です。
浄覚寺山門 横から見た浄覚寺山門
嘉永4月年(1851) 芭蕉の句碑 「古池や 蛙飛込む 水の音」
浄覚寺本堂 鐘楼
中山道に戻ります。
「伏見」交差点の一本松公園と道標
道標(みちしるべ)には「右 御嶽宿」「左 伏見宿」と刻まれています。
広重 伏見の絵 この一本松公園辺りかな? 絵に描かれているのは杉の大木です。
交差点のすぐ先左側に
伏見宿で唯一、当時の面影を留めている「旧旅籠三吉屋」の建物です。
「生薬屋」と「旅籠屋」を営んでいました。左隣は伏見郵便局です。
東濃実業高校を過ぎた民家の庭先にお社と常夜灯があります。
播隆上人名号碑
播隆上人は江戸時代の念仏行者。既存の寺院を離れ山岳信仰を実践し、文政11年(1828)には、前人未到の槍ヶ岳を開山するなど、日本の山岳史に大きな足跡を残しました。一方、里では民衆とのつながりを深く持ち、各地にその足跡を残しています。槍ヶ岳を開山した浄土宗の幡隆上人が建立し「南無阿弥陀仏」と刻まれています。(伏見宿ガイドマップより)
播隆上人名号碑の斜め向かい側に、正岡子規句碑があります。
「すげ笠の 生国名のれ ほととぎす」
「大正4年 右 太田渡し 左 多治見」と刻まれています。
道標から500m程先に
上恵土神社があります。神明神社と白山神社を合祀した神社です。
一里塚の跡 江戸より97里目の一里塚
中恵土交差点から東30mの辺りに一里塚があったらしい。
「可児公設市場」信号交差点を右折します。
JR太多線の踏切を渡ります。
踏切から20分程で今渡神社
ご祭神は應神天皇(おうじんてんのう)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、浅草七福神の一神・福禄寿も祀られています。康平6年(1063年)京都の石清水八幡を勧請し今戸八幡を創建。昭和12年に白山神社を合祀しました。権現造りの社殿は昭和46年に造営されたもの。縁結びの神社として知られ、境内には願いを込めた招き猫の絵馬がたくさん架かっています。
冨士浅間神社
富士信仰の浅間神社の末社。
富士浅間神社の前で左に進みます。20分近く進んだ所にバス停「渡りクラブ」があります。その隣に一里塚跡があります。
土田の一里塚 江戸より98里目に一里塚
初期の中山道は御嶽宿、伏見宿から土田を通り犬山市内田へ至り、内田の渡し(鵜沼の渡し)から鵜沼南町、古市場町、小伊木町の鵜沼宿に通じていたが、天明年間に木曽川の流れが変わり人の流れが太田宿へと変わりました。 1里塚はその名残です。
隣に弘法堂があります。
真言宗の開祖・空海(弘法大師)を祀るお堂
弘法堂の左の道を進むと
桜井の泉があります。
説明板によれば「桜井の泉 東山道が都から奥羽への官道として帷子から土田・今渡を通っていた頃に、涸れることなくこんこんと湧き出ている清水があり、その周辺には桜が繁っていたので、いつの頃からか「桜井の泉」というようになった。旅に疲れた人は、美味しい清水を飲み、木陰で休んだりしたという。
散れば浮き 散らねば底に 影見えて なお面白し 桜井の池 可児市」
かに木曽川左岸公園 多目的広場があります。ここは承久の乱 大井戸古戦場跡。
承久3年(1221年)6月、幕府軍の挙兵に対抗し、朝廷軍は木曽川沿いに兵を配置しました。幕府側の東山道軍5万余騎が大井戸の渡(わたり)に攻め寄せ、戦乱の火ぶたが切られました。
この「大井戸の戦い」では、数に勝る幕府軍が朝廷軍を一気に押し込み、その後の戦いを優位に進めました。
この付近は、承久の乱の口火を切った「大井戸の戦い」の舞台となった場所です。
冨士浅間神社前まで戻り中山道を進みます。
今渡の渡し場跡の碑
中山道の三大難所の一つで「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と言われていました。昭和2年太田橋が出来るまで渡しは続きました。
太田橋 木曽川 上流に今渡ダムがあります。
当時の木曽川は急流で深いため徒歩渡しは出来なかったので、渡し船を利用していました。
橋を渡り交差点手前を、左に折り返すように曲がり木曽川沿いの道を進みます。
太田の渡し跡
石畳が残っています。
承久3年(1221)の承久の乱で、鎌倉幕府軍と後鳥羽上皇軍が戦った
「大井戸の渡」は、現在の太田の渡しあたりと推測されています。
化石林公園
平成6年(1994年)に、木曽川河床から大規模な直立樹幹化石群(化石林)が発見されました。その後、化石林は整備され、平成10年(1998年)には中山道の石畳や太田の渡し跡などとともに化石林公園が開園されました。
木曽川沿いの土手道を進みます。土手下の文化会館脇に
古井(こび)の一里塚跡があります。江戸より98里目の一里塚
度々河川改修が行われ、場所は特定されていないそうです。
一里塚を過ぎ柏木排水機場の手前を右折します。
「神明堂」信号交差点手前を米問屋小島屋の方に左折します。
小島屋さんの隣に中山道太田宿碑
神明水神公園 案内表示に従い左折します。
案内に従い木曽川沿いの道に出ます。
石塔群があります
左から山神、神明神社・天満大神、正一位秋葉神社、御嶽神社、水神です。
出雲大社加茂講社 稲荷神社
土手道から再び神明水神公園のある中山道に戻ります。
下古井(しもこび)中山道太田宿の道標とその向かい側にある法華経塚
法華経塚説明板によれば
「法華経塚と飛騨街道追分 法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向かう飛騨街道の追分があります。
枡形の角に祐泉寺があります。
祐泉寺 弘法堂
祐泉寺の説明板によれば
龍興山祐泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝によれば文明6年(1474)、土岐源氏・土岐頼政の次男、東陽英朝禅師(大道真源)が湧泉庵という庵を結んだことに始まると言われています。
永正年間(1504-21)には八百津の大仙寺の末寺となり、祐川庵といいました。寛文年間(1661-73)には、関の梅龍寺末寺の祐泉寺となり、明治になって妙心寺本山の直末となりました。
また、火難水難から守るとの言い伝えが残る瀧場観音があり、美濃西国27番目の札所になっています。
境内には坪内逍遥や北原白秋といった文人が詠んだ歌碑、槍ヶ岳を開山した播隆上人、「日本ライン」 の命名者、志賀重昂の墓碑などが残されています。
祐泉寺 本堂
祐泉寺 庫裏・鐘楼
左が北原白秋の歌碑
「紅葉堅 秋雨ふれり うちみるや 石灯篭の あお苔のいろ」
右が坪内逍遥の歌碑二首
「やま椿 さけると見れば いにしへを 幼きときを 神の代とおもう」
「この木の実 ふりにし事の しのばれて 山椿はないと なつかしも」
祐泉寺境内にある松尾芭蕉の句碑 「春なれや 名も無き山の 朝かすみ」
すぐ隣に旧旅籠小松屋があります。
説明板によれば
「太田宿には、旅人を宿泊させる旅籠屋や木賃宿がありました。天保14年(1843)の 「中山道宿村大概帳」 によると 「旅籠屋20、内大3軒、中11軒、小6軒」 と記されています。大・中・小に区分され、宿の規模や格付けがされています。脇本陣林家所蔵の 「旅籠万覚帳」 によれば、松野屋・岩井屋・坂本屋・三枡屋・油屋・今井屋・小松屋などが太田宿で宿屋を営んでいることがわかります。 この旧小松屋の辺りは、右の絵図に描かれている通り上町の枡形からすぐの所にあり、今も枡形はその面影を残しています」
旧旅籠小松屋の先右手に昭和20年創業の鮎の甘露煮の魚徳、明治10年頃創業の呉服店永楽屋、江戸時代は油商で明治時代から肥料商の辰巳屋の3軒が軒を連ねています。
肥料商の辰巳屋(左) 呉服店永楽屋(右)
御代桜醸造株式会社
明治26年(1893)創業の蔵元御代櫻醸造㈱。銘柄の 「御代櫻(みよざくら)」が有名です。
脇本陣林家住宅 国指定の重要文化財。
説明板によれば
「旧太田脇本陣林家住宅は、明和6年(1769)に建築された主屋と、天保2年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の2棟の土蔵から成っています。
江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各1軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。
この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目をひきますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。
また、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
今でも脇本陣の前に立つと 「したにーしたにー」 と声を張り上げながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。 (美濃加茂市)」
脇本陣林家住宅の斜め前に
「旧太田宿本陣跡」の標柱があります。
太田宿本陣跡の 薬医門があります。
説明板によれば
「旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場が置かれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時を偲ばせる貴重な遺構です。「旧太田宿本陣門」 は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女 「和宮」 が14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。この時は、旧中山道中の家並みなども新築・修築されたといわれています。 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以降、長い年月を経て傷みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました」 市の指定文化財となっています。
本陣跡の向かい側に太田宿中山道会館があります。
美濃加茂市指定保存樹木の榎と榎に付いているヤドリギ
ヒレンジャク
日本で越冬するスズメ目に属する渡り鳥で、体長は約20センチ。トサカのような立派な冠羽としっぽの先の緋色(ひいろ)が特徴。エノキに寄生するヤドリギの種子が大好物で、エノキの大木がある同会館の周辺に毎年のようにやって来るそうです。
十数人の愛好家たちがカメラを構えてヒレンジャクを待っていました。
岡本一平とその家族の居宅・糸遊庵
糸遊庵説明板によれば
「糸游庵は、近代漫画の祖として知られる岡本一平とその家族が、美濃加茂市に昭和21年(1946)に転居してから亡くなるまで過ごした居宅です。
岡本一平の漫画家としての活躍は、明治時代後期から始まります。新聞紙上で漫画に短い文書を添えた 「漫画漫文」 が連載されると、たちまち大好評となり、彼は 「総理大臣の名前は知らなくてもその名を知らないものはいない」 とまで言われるようになりました。
昭和20年(1945)、戦火を逃れて現在の賀茂郡白川町三川に疎開。この地で、人間の感情や生活をこだわりなく五・七・五の詩形で表現する 「漫俳」 を提唱し、昭和21年(1946)には現在の美濃加茂市古井町下古井に転居。終戦直後の暗い世の中に活気をと、漫俳や地方講演などの活動をはじめた矢先、彼は脳溢血のため帰らぬ人となりました。しかし今もなお、漫俳や彼の絵画作品などは、この地域の人々に大切にされ、伝えられています」
長男は芸術家岡本太郎。
岡本一平句碑
「木曽川と 枕を並べ 昼寝かな」
「秋晴れや 映画の景色 ゆく心地」
中山道会館の先の交差点を左折し堤防に突き当り右折した先のわずかなスペースに川並番所跡があります。
説明板によれば
江戸時代、木曽川を支配・管理するために尾張藩は川並番所を設置。
川並番所は錦織奉行所の支配下にあり、船積荷物改や筏川下げの管理や流木の取り締まりを行っていた。(美濃加茂市商工観光課)
中山道に戻ります。
道標 「右 関上有知 左 西京伊勢」道
ここを左に曲がります。
関上有知(せきこうずち)は現在の関市、美濃市。上有知には長良川水運の為に作られた上有知川湊がありました。
道標と路地を挟んで
高札場跡があります
高札場跡と郡上街道追分説明
「高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てられました。弘化2年(1845)の 「加茂郡太田村家並絵図」 には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。「濃州徇行記」 には 「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」 が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向かう 「郡上街道」 との追分でもあります。 左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています」
二共燃料店の角を左折しました。
庚申堂
秋葉神社の祠と幟があります。この先の枡形を右に曲がり、国道41号の下を通ります。
中山道は国道41号の下を通りすぐに左折ですが、直進して尾張藩太田代官所跡を探します。
すぐ先にありました。 尾張藩太田代官所跡
説明板によれば 「尾張藩は天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付(ところずけ)代官を配置しました。太田代官所は天明二年(1782)に設置され、初代代官は井田忠右衛門でした。慶応四年(1868)、太田代官所は北地総管所(ほくちそうかんしょ)と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。 このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父右衛門です。
(美濃加茂市商工観光課)」
現在は太田小学校になっています。
中山道に戻ります。
虚空蔵堂
ここには、京への道標があり、旅人たちの道案内となっていました。
ここから段丘を下り、木曽川沿いに京を目指して西へ進みました。
承久3年(1221年)に起った「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、木曽川を挟んで戦った。このあたりが戦場の北端です。
この戦いで官軍として戦った現在の美濃加茂市の豪族、蜂谷入道は負傷、その後自害し、子の蜂谷三郎は討たれました。
美濃加茂市の特産品に蜂谷柿があります。
堂上蜂屋柿の歴史は、1000年以上。平安時代には朝廷に干柿を献上した記録が残っています。その後も、甘くて立派な干柿は信長、秀吉、家康と徳川代々の将軍に献上され続けました。堂上とは朝廷への昇殿を許された格をもつという意味で、これにより蜂屋村の干柿の名前が堂上蜂谷柿と称されるようになりました。1904(明治37)年 セントルイス万博では金牌を獲得し、世界がその価値を認めました。それほどの干柿も、砂糖の普及などで途絶えかけてしまいました。昭和5年に村瀬俊雄さんが、再び堂上蜂屋柿作りをはじめ、昭和52年には蜂屋柿振興会が発足し、美濃加茂市の特産品として復活しました。2007年には食の世界遺産として知られる「味の箱船」(主催/全世界を対象とする本部イタリアのスローフードプロジェクト)に認定され、ますます注目を集めています。(美濃加茂市堂上蜂屋柿振興会)
坪内逍遙 ゆかりの椋木(ムクノキ)
説明板によれば
坪内逍遙(1859 ~1935)は安政六年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれました。
その後、明治二年父の引退にともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化 の感化をうけました。
十八才にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄 」や、小説「当世書生気質 」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築きました。
逍遙の明治四十二年からニ十年間にわたる「シェークスピヤ全集 」の完訳と刊行は代表的な偉業です。
大正八年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をしました。逍遙六一才でした。平成八年二月 美濃加茂市教育委員会
深田神社 創建年不明。1907年に7社を合祀し深田神社に改称。祭神は建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)、応神天皇、天照大御神、大山咋命(おおやまくいのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)。境内入口には「村社 深田神社」と彫られた社号標があります。
鳥居と拝殿 本殿
水神 鬼瓦
同じ敷地内に芳春寺があります。
芳春寺本堂 薬師堂
中山道に戻り土手道を30分程進みます。
「坂祝町役場前」の歩道橋が見えたら土手道を下り歩道橋を渡ります。
左側の歩道を歩きます。(右側には歩道がありません)
207号線を太田宿方面に戻ります。
小西砕石工業、エネオスガソリンスタンドを過ぎた所に
「取組一里塚跡」。江戸より99里目の一里塚跡
一里塚のある側には歩道が無いので危険です。
ロマンス街道は全長4kmあるそうです。
築堤記念碑
昭和58年の9.28災害では、木曽川中流域の美濃加茂市、坂祝町がいずれも弱小堤防であったため、この区間から溢水氾濫した洪水によって大災害に見舞われた。
このため、この災害を契機として、緊急的かつ抜本的な改修工事が必要となり、 激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)として採択され、築堤及び護岸工事が実施されました。
美濃加茂・坂祝における激特及び緊急改修事業はS58~H6に実施され、築堤、護岸、特殊堤などが完成しました。しかし、これらだけでは9.28災害の再発防止にはなっていません。 新丸山ダムによる洪水調節と合わせて初めて安全に流下させることができます。再発防止のために、新丸山ダムは重要な役割を果たすことになります。新丸山ダム建設事業は、既設丸山ダムを20.2m嵩上げすることにより、洪水調節能力などを高め、洪水氾濫の防止・軽減などを図る事業です。
(新丸山ダム工事事務所HPより)
中山道歩き 改定版 御嵩宿から鵜沼宿②に続く