中山道歩き 改訂版 大湫宿から御嵩宿①の続き

 

津橋の5差路から御殿場までの坂は厳しかったが、この店の美味しいコーヒーと、ケーキで元気を回復しました。

中山道に戻ります。道は下り坂です。

 

坂を下り右に進みます。         右側にお稲荷さんがありました。

 

下り坂の先に「唄清水」と呼ばれる場所に出ます。

かつては清らかな水が唄うように湧いていたのでしょう。

 

 

唄清水  岐阜県の名水五十選に選ばれているそうです。

「生水の飲用はしないで下さい」となっています。

唄清水の説明板によれば

「年中絶えることなく湧き出る清水は、昔時中山道を上り下りする旅人に疲れと渇きをいやしていたであろう。 この碑は嘉永7年(1854)千村源征重臣が建立。 「馬子唄の響きに浪たつ清水かな」 五歩

 

 唄清水の向い側に大正6年(1917)建立の禁裡御所神社佛閣巡拝記念碑

 

さらに進むと集落の中を進み広い道路に出ます。

「竹炭工房うとう坂」と看板に書かれています。この集落は「謡坂」と呼ばれるそうです。

すぐ先に

 

一呑みの清水があります。説明板によれば

「中山道を旅する人々にとって、一呑清水は喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩の場所でした。 江戸時代末期、将軍家降嫁のために江戸へ向かった皇女和宮は、道中この清水を賞味したところ大層気に入り、のちの上洛の際に、永保寺(現岐阜県多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられています。

岐阜県の名水50選にもなっています。

今では、こちらも生水の飲用は出来ないようです。

 

広い道に合流し進みます。

 

右側に十本木立場跡の標柱があります。 十本木立場跡から左の旧道に入ります。

昔、この辺りに10本の松並木があったそうです。   

説明板によれば 

宝暦5年(1756)刊の 「岐蘇路安見絵図」 にも記載があるこの十本木立場は、もともと人夫が杖を立て、駕籠や荷物をおろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、旅人の休憩所として発展したそうです。

一方で古老の話では、参勤交代の諸大名が通行する際には、ここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたそうです

 

少し進んだ右側に

 

謡坂の一里塚跡の説明板

慶長9年(1604)2月、徳川幕府は東海道・中山道・北陸道に江戸日本橋を基準として、道の両側に5間4方(約16mほど)の塚を築造させました。これが一里塚です。
一里塚は、一般的に一里ごとに榎10里毎に松を植えて旅人に里程を知らせる重要なものでした。
 現在の御嵩町内にその当時4ヶ所あった一里塚は、幕藩体制崩壊後必要とされなくなり、明治41年 (1908)にこの塚は2円50銭で払下げられ、その後取り壊されました。
 この一里塚は昭和48年(1973)、地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたものです。

 

十本木茶屋跡に「いろは茶屋」という軽食の店がありました。

 

 この辺りが広重の絵のモデル地だそうです。

 

歴史の道 中仙道 説明板によれば

歌川広重「木曽海道六拾九次之内御嶽」モデルの地

江戸時代、浮世絵の世界で名を馳せた人物に歌川広重(1797-1857)がいました。その作風は、情緒性を高め静の中に動を表現する独特の手法で風景画に新境地を開きました。代表作に「東海道五拾三次(全五十五枚)」のほか、この「木曽海道六拾九次(全七十一枚)」があり、御嶽宿では当時の庶民の旅で多く利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ旅人たちの和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして、作品のモデルとして選んだ場所がこの辺りだといわれています。 広重の作品の中に「木賃宿」が登場する例は非常に珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた、作品に描かれることはごく稀です。 (御嵩町)

 

十本木茶屋跡を過ぎると急な下り坂になります。すぐに道は石畳にかわります。

謡坂(うとうさか)の石畳

 

下り坂の途中に謡坂の馬頭観音窟があります。

 

謡坂石畳説明板によれば 

謡坂の地名の由来は、このあたりの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らしたことから、「うたうさか」 と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂(うとうざか)」 になったのだとも云われています。険しくつづく山道、道の上をおおうようなたくさんの木々、足元に生える草花など、謡坂の風景は今も当時の中山道の風情を色濃く残しています。 この謡坂石畳は、平成9年から12年にかけて 「歴史の道整備活用推進事業(整備)」 として修復整備したものです。 (御嵩町)

ここは聖母マリア像」への入口です。 

ここを右に進み「聖母マリア像」に向かいます。

聖母マリア像

 七御前とキリシタン信仰説明板

説明板によれば

七御前址、謡坂村にある、あるいは古き五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず」 と宝暦6年(1756)に尾張藩士松平君山が編纂した 「濃陽志略」 に記されたように、仏教の墓石である五輪塔が多数あり古い樹木が生い茂った場所で、この地の由来は分かっていませんでした。 ところが、昭和56年(1981)3月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが分かったのです。 (御嵩町・御嵩町観光協会)

隠れキリシタン達がマリア像を七御前として信仰していた。

 

平和の像建立趣旨碑によれば

「昭和56年3月、謡坂地内で道路工事中にたまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました。
 その後の調査で、小原・西洞・謡坂地内で、数多くの貴重な遺物が相次いで発見され、この地に多くのキリシタン信仰が居たことが判明し、歴史上大きな資料ともなりました。幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、ある期間信仰が続けられたのは、奇跡であると思います。
 こうした例は全国でも非常に珍しく、広く話題を呼び、遠くから多くの人が来訪され、また東海自然歩道(中山道)に沿う地でもあり、関心を寄せる人も数多くなりました。
 この度、御嵩町観光協会の発案とその趣旨に賛同された多くの方からの浄財により、当時の辛苦に耐えた先祖の慰霊の意味と現世及び今後の人々の幸福と平和を願って、ここに聖マリア像を建立いたしました。 (御嵩町観光協会)」

 

同じ敷地に

正岡子規句碑 「撫子(なでしこ)や 人には見えぬ 笠のうら」 

 

史跡七御前碑

 

中山道に戻り再び石畳の坂を下りました。

 

謡坂の出口(江戸からは入口)      橋を渡り左折し2車線道路に出ます。

 

2車線道路の右側に

耳神社があります。説明板によれば   

「全国的に見ても珍しい耳の病気に御利益があるといわれる神社です。平癒の願をかけ、お供えしてある錐(きり)を一本借りて耳にあてます。病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。奉納する錐は本物でも、竹でまねて作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えしました。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられ、人々に厚く信仰されていたことが伺えます。また、戦前には遠く名古屋方面からの参拝もありました。
 元治元年(1864)武田耕雲斎が尊王攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、耳神社の幟を敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。
 (御嵩町・御嵩町観光協会)」

 

耳神社を過ぎて2車線道路から右の旧道にはいります。

牛の鼻かけ坂入口

名前の由来は、御嵩方面からはあまりの急坂に牛の鼻がかけてしまいそうになるから

との事です。

 

坂を上り始めると左に「百八十八ヶ所順拝納経塚碑」が建っています。

百八十八ヶ所というのは、四国八十八ヶ所、西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、

秩父三十四ヵ所を合わせたものです。

 

坂道を上ります。

 

それほど厳しい坂ではありません。

 

明和2年(1765)の三面六臂の馬頭観音です。

ここからの下り坂がかなり急でした。

 

これから下りて行く道が下の方に見えます。 

 

牛の鼻欠け坂出口(江戸からは入口) 坂を下り振り返って撮影しました。      

説明板によれば

「牛坊(うしんぼ)牛坊(うしんぼ)どこで鼻かかいた 西洞(さいと)の坂で かかいた」 という言葉が残るように、ここ西洞(さいと)坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。
 中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこの辺りが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。 (御嵩町)」

牛の鼻欠け坂は距離が短いのでそれほど厳しい坂ではありませんでした。

 

 

             案内表示に従い進みます。

 

 

             2車線道路に出ます。

 

ここで横断し住宅街にはいります。

 

案内表示に従い進みます。国道21号線に合流します。

 

すぐ先の右側の国道沿いに

和泉式部廟所があります。 説明板によれば

和泉式部は、平安時代を代表する三代女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。 波乱に富んだ人生を歩んだ彼女は、心の赴くままに東山道をたどる途中、御嵩の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。

碑には 「ひとりさえ 渡ればしずむ うきはしに あとなる人は しばしとどまれ」 という歌が刻まれています。

他にも京都府木津川市、長野県諏訪市の温泉寺、兵庫県伊丹市等にも和泉式部のものと伝えられる墓があるそうです。

 

和泉式部廟所の近くに八幡神社の石柱と中街道の道標があります。

 

八幡神社の石柱             中街道の道標 

中街道は江戸時代初めまで、大井宿~御嵩間は土岐川沿いの平坦なルート(東山道)でした。それを江戸防衛のため慶長9年尾根の峠の多い難路ルートを新道として開きました。明治になり中街道として復活しました。

 

八幡神社は石柱だけかと思いましたが、200m程奥にありました。

200mなら寄ってみようと思いJAめぐみのみたけ支店の横を通り八幡神社へ向かいました。

八幡神社一の鳥居   JAめぐみのみたけ支店のすぐ近くにありました。

 

鳥居の奥に本殿があると思っていましたが大間違い。参道が延々と続きました。

坂道を上ります。

 

急な坂になりました。牛の鼻かけ坂の何倍もきつい坂道です。

神様はなんでこんなにきつい山の中においでなのですか。

 

二の鳥居があり石段が・・・続いています。えーん

 

段数を数えながら登りました。150段程ありました。

 

三の鳥居  また石段です。

 

やっとの思いでたどり着いた拝殿 ダメ押しの石段です。

2礼2拍手1礼。

 

拝殿奥に本殿があります。

 

 境内社

 

中山道に戻ります。

国道21号線「井尻」信号交差点を右に進みます。

「井尻」信号交差点を過ぎ10分ほど進み左折し県道341号線を進みます。

 ここを左折します。

県道341号線に入る左角に「栢森の一里塚跡」の白い小さな標柱と「左 細久手宿」の石柱があります。

 

栢森の一里塚跡 江戸より95里目の一里塚

御嵩町まちづくり課によれば、大正の初め頃まであったそうです。

 

「キタマチ橋」を渡ります。

 

御嵩公民館を左に見ながら道なりに進み御嵩宿に入ります。

商家「竹屋」

明治10年(1877)頃の建築と推定され、街道を人や物資が往来し、大きく賑わいをみせていた頃からの豪商として、宿場内での役割を果たしてきました。そのたたずまいは、商家にふさわしい質素で風格のある造りが成され、今日では徐々に姿を消しつつある江戸時代の建築様式を色濃く残す建物といえ、平成9年には、このうち「主屋」並びに「茶室」が御嵩町指定有形文化財になりました。

 

御嵩宿本陣

参勤交代の大名などの専用宿泊・休憩施設であった本陣。御嶽宿では野呂家が代々その職務を勤めてきました。現在の建物は明治・大正期に建替えられてはいるものの、本陣の風格ある佇まいです。御嵩宿は「大寺山願興寺」の門前町として発展しました。天保14年の記録では本陣1,脇本陣1、旅籠屋28軒でした。

 

 

中仙道みたけ館第二駐車場            中山道みたけ館

中山道御嶽宿説明板によれば

慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長7年 (1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に 「伝馬掟朱印状」 を下したことから、重要な拠点とみなしていたことが伺えます。
 御嶽宿は江戸から49番目の宿場にあたり、天保年間の 「中山道宿村大概帳」 には、宿内町並4町 56間(約540m)、家数66軒(内旅籠屋28軒)、このほか本陣・脇本陣が各1軒、問屋場、高札場などの存在が記載されています。
 宿場は西端の天台宗の古刹大寺山願興寺から鉤の手を抜けて東へと続き、大名や公家あるいは一般庶民の通行とともに、情報や文化の交流する場所として大いに賑わいました。
 (御嵩町・御嵩町観光協会)

無料の駐車場が完備されていて車で観光する人にはとても有難いと思います。

 

 

    大寺山願興寺                 願興寺山門

大寺山願興寺は伝教大師(最澄)によって弘仁6年(815)に建立された古刹。地域の人々からは「蟹薬師」あるいは「可児大寺」という名で多くの人々に親しまれています。薬師如来像他23体と本堂(現在全解体修理中・令和8年落成予定)が国の重要文化財に、境内の西の門として建てられた鐘楼門が県文化財にそれぞれ指定されています。4月には1000年以上の歴史を持つといわれ、五穀豊穣を祈るお祭り「御嵩薬師祭礼(県重要無形民族文化財」が行われます。(みたけ観光ナビ)

本堂は天正9年(1581)の再建。

現在は大規模な改修工事中でした。

 

願興寺山門奥に「可児才蔵生誕の地 願興寺」説明板があります。

「才蔵は天文23年1554)に生まれます。はじめ才蔵は斎藤龍興に仕えますが、斎藤家の滅亡と共に織田家の家臣柴田勝家や明智光秀などに仕えます。転々と主君を変えてきた才蔵が、笹を敵の首に入れだしたのは森長可に仕えていたころと言われています。天正10年1582)の甲州征伐で森長可が460余の首級を実検した際、才蔵は3つの首を持って長可の前に現れ、「16の首を捕り申した」と豪語した。長可が3つしかないではないかと訝ると「首が多すぎて捨てました。ただし捕った首には笹の葉を含ませて置いて参りました」と述べた。長可が調べさせると笹を含んだ13の首級が見つかり、才蔵はこの時から笹の才蔵の異名を取った。笹(ささ)を口に含ませるということは、酒(ささ)を討取った相手に飲ます最後の手向けという意味合いもあるといわれる。才蔵は武将というより大名家(福島正則)の一兵士的な身分だったが、関ヶ原の合戦で20個の首級を挙げ家康が大いに賞賛した。」

 

願興寺のすぐ近くに名鉄御嵩駅があります。今日はここまでとします。

この駅から可児、多治見経由で中津川に帰ります。

 

 

中山道歩き 改訂版 御嵩宿から鵜沼宿①に続く