令和4年(2022年)3月10日 歩いた距離約18km
本日はJR釜戸駅まで電車を使い、大湫宿の高札場近くまでタクシーで移動します。
釜戸駅からの大湫宿までの急坂4km程(標高差200m程)登ることを思えば料金1500円はお得です。
平日デマンド型交通の乗合タクシーを利用すればもっと安かった様です。
前回の終了地点、大湫宿のはずれです。ここを左に進み釜戸駅に向かいましたが、今日はここから右に進み御嵩宿(名鉄御嵩駅)まで歩きます。
道路左下に石碑と小屋があります。
山之神の井戸と石碑
生活用水、旅人、人馬の飲用、防火用水池になっていました。
小屋は井戸小屋の様です。中は確認出来ませんでした。
石碑には「中山道大湫宿 山之神の井戸」と刻まれています。
紅葉洞の石橋 道の両側に欄干だけが残っています。
文久元年1861)和ノ宮が、ここから紅葉洞(もみじぼら)の紅葉をご覧になったそうです。
小坂の馬頭様です。 明治二年の建立です。
休憩所にある道標
大湫宿(十三峠)←二つ岩→ 細久手宿(琵琶峠)と刻まれています。
大洞の馬頭様(右奥)と大湫宿大洞小坂碑
「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」 と刻まれている
安藤広重 大久手の絵
母衣岩(ほろいわ) 烏帽子岩
大湫の二つ岩 地元では夫婦岩とも呼ばれていました。
石碑には 「道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という高さ二丈ばかり巾は三丈に余れりまた母衣石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり いずれもその名の形に似て 石のひましまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり 太田南畝 壬戌紀行」
大湫病院を左に見ながらすすむと右側に上る石畳のの道があります。
琵琶峠東入口
ここから石畳が始まります。 琵琶峠東上り口碑の左右に馬頭観音があります。
石畳は730mあり日本一だそうです。
琵琶峠の説明板によれば
「中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる約1.3㎞の中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、よく原形をとどめています。
特に、この琵琶峠を中心とする約1㎞は、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども残されています。
歴史の道整備課活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。 (瑞浪市教育委員会)」
※落合の石畳は840mですが、当時のまま残っているのは70mで修復されて840mとなりました。
こちらの石畳は中津川市落合宿の石畳と比べて使われている石が大きい。
琵琶峠頂上の馬頭様と皇女和宮顕彰碑
和宮歌碑には「住みなれし 都路出でて けふいくひ いそぐともつらき 東へのたび」と彫られています。
悲しみの中に降嫁された和ノ宮が、深み行く秋の大湫宿で離れゆく京を偲び詠まれた御歌を、中山道の名所琵琶峠に、市長渡辺遥三謹書にて建立する。
昭和五十四年七月吉日 瑞浪市観光協会
文久元年(1861年)10月20日(西暦1861年11月22日)和宮一行は京都を出立しました。東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へと向かいました。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されました。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれました。島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれています。(ウィキペディアより)
石畳の先に大きな土盛が見えます。一里塚です。
右側に八瀬沢一里塚 北塚 江戸より91里目の一里塚
左側に八瀬沢一里塚 南塚
説明板によれば 「大湫(おおくて)宿と細久手(ほそくて)宿の間は一里半(約6km)。琵琶(びわ)峠は、美濃十六宿(今は馬籠宿を入れて17宿)で一番高い所にある峠(標高558m)で長さは約1km、古来より中山道の名所の一つです。ここには日本一長いとされる石畳(全長約730m)が敷かれ、峠開削時のノミ跡を残す岩や、峠頂上の馬頭様(ばとうさま)(宝暦13年・1763)、東上り口の道標(文化11年・1814)等の石造物があります。
なお、『八瀬沢(やせざわ)一里塚』はほぼ完全に残っており、江戸へ九十一里、京都へ四十三里を示す道標です。」
舗装道路を横切ってさらに石畳が続きます。
八瀬沢集落にあったかわいいお地蔵様
琵琶峠西登り口 ここから舗装道路になります。
歩きながらなぜ琵琶峠と呼ぶようになったかを考えていました。
ネットで調べてみましたが諸説あるようです。
そのうちの一つ「昔、京都へ琵琶の修業に出ていた法師が、修業がままならず、失意のうちに帰国する際、この峠に吹いていた松風の音で奥義を悟った事に由来するそうです」
犬の訓練所がありました。
天神辻の地蔵様
焼坂の馬頭様 三面八臂(さんめんはっぴ)の馬頭観音といわれ憤怒の相です。
天神坂を下ります。
右側に池が見えます。
弁財天の池 説明板によれば
山丘上にありながらいつも水をたたえているこの池は、古くから旅人に愛されきました。太田南畝の「千戌紀行」(じんじゅっきこう)にも「小さき池あり杜若(かきつばた)生ひしげり池の中に弁財天の宮あり」と記述され、小島には天保7年(1836)に再建された石祠があります。
※弁財天は貧困を救い財物を与える天女で,七福神の一人。 仏教では弁才天と書き,吉祥天の異名とされます。この2者はしばしば同一視され,ともに弁天と呼ばれています。ともに琵琶を持ち,音楽・弁才・財福・知恵の徳があるとされ,安芸(あき)の宮島,琵琶湖の竹生島,江の島が三弁天です。
弁財天の池を過ぎると道は上りとなりすぐに下りとなります。
ハナノキの自生地 (瑞浪市天然記念物) ハナノキの自生地の碑
男女松跡
松の切株でもあるのかと思い探して見ましたが跡らしきものはありません。
一説には松林の中に1本男性にシンボル、もう1本は女性のシンボルに似た松があり夫婦円満に御利益がいわれていたそうです。
舗装道路を上ってゆくとカーブの先に一里塚がありました。
すぐ近くまで行って気付きました。上り坂のカーブの頂上辺りです。
奥之田一里塚 北塚 江戸より92里目の一里塚
左側に南塚
説明板によれば 中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長9年(1604)から整備が進められ、岐阜県内には31箇所の一里塚が築かれました。一里塚には榎や松が植えられ、松並木も整備されました。一里塚は、現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した4箇所が当時のまま残っている例は全国的にも稀です。 市内には、東から西へ順に、権現山(樫ノ木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚があり、高さ約3m、径10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。 なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。 (瑞浪市)
三国見晴台と馬頭様
見晴し台なっているので画像上部の馬頭様の方まで上って見ましたが雑木が茂って
何も見えません。方向としては、木曽駒ケ岳、恵那山が見えたのかな?
日吉小学校跡 細久手宿に入りました。
安藤広重 細久手宿の絵
下の方に集落が描かれているのでこの辺りを描いたのかな?
坂を下ると右側に
細久手高札場跡
庚申堂は寛政の大火で焼失し享和2年(1802)細久手宿の鬼門除けとして再建されました。
公民館 説明板によれば
標高約四百二十メートルにあって、江戸から四十八番目 (距離約九十二里)、京から二十二番目(距離約四十二里)に位置する宿場です。中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嵩宿 までの道程が四里半(約十七・七キロメートル)もあったことから、尾張藩 によって設置されました。慶長十一年(1606)の開宿当初は、七軒屋 と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場の規模については、天保十四年( 1843)の記録に「町並み三町四十五間(約四一〇メートル)、家数六十五軒、旅籠屋二十四軒、総人数二百五十六人」の記載があります。
細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政十四年(1802)、文化十年( 1813)、安政五年( 1858)の三度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは安政の大火以降に形成されたものです。(瑞浪市)
尾州藩指定宿 大黒屋 卯建が見えます。
大黒屋
木造2階建ての往時を残す貴重な建物のひとつ。現在も旅館として営業を行っており、宿泊する事ができます。慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、細久手宿戸数65軒のうち24軒が旅籠を営んでいました。 その1軒が、『尾州家定本陣大黒屋』です。本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりです。 琵琶峠で出会った京都三条大橋から日本橋を目指している大学生も前日、大黒屋さんに泊まったと話していました。道中で出会う中山道歩きの人には、すごく親近感がわきます。
細久手宿本陣跡
本陣跡にあった手書きの説明板
本陣の斜め前に脇本陣があったそうです。空き地になっていました。
この先が宿場のはずれでした。
細久手坂の穴観音(九万九千日観音)
説明板によれば、
この観音様を縁日に線香を供えてお参りすると9万9千回の功徳があるそうです。
石積みを施した祠(ほこら)の中に一面六臂の馬頭観音様をお祀りしています。
穴観音を過ぎしばらく進み坂を下ると左に薪ストーブ用の薪を大量に積み上げた小屋があります。その先の平岩橋を渡り四つ辻に出ます。
右に進むか左に進むか直進して坂道を進むか・・・・・。
四つ辻の角にあるお店で奥さんに、中山道はどちらの道か尋ねました。
分かりやすく丁寧に教えて頂きました。
多分、ここで何人か道を尋ねていると思います。
四辻を直進します。その先は急な上り坂です。
上り坂の途中に標識があります。
この標識を左に入ります。ここから砂利道です。
「熊注意」の看板、クマよけの鈴をバックの中から出しました。
こんな鈴で熊が逃げるの?
少し坂を上った先に
秋葉三尊石窟
瑞浪市によると、秋葉坂の中山道北側にあり道中安全を祈願したものとのことです。
右の石室に祀られているのは、明和5年(1768)の三面六臂(さんめんろっぴ:顔が三つで腕が六本)の馬頭観音立像(高さ:53cm)。中央には、明和7年(1770)の一面六臂(いちめんろっぴ)の千手観音座像(高さ:68cm)が、左の石室には風化の進んだ石仏(聖観音か?銘は判読困難)(高さ:63cm)が安置され、石窟の右側に残る石燈籠の棹には、天保11年(1840)の銘があるそうです。
下り坂の先に
鴻之巣辻の道祖神碑(白い標柱の左)があります。
少し先の右側に一里塚があります。
鴻之巣一里塚 南塚 江戸より93里目の一里塚
すぐ先の左側に鴻之巣一里塚 北塚
説明板によれば江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方にずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が一望できます。(市県指定史跡)
南塚は高さ約3.6メートル、径約10メートル、北塚は高さ約3メートル、径約 10メートルです。
一里塚の先にある案内板
ここから先が御嵩町です。山道を下ります。ほぼ下り坂でした。
山内喜助屋敷跡 江戸時代に酒造業を営んだ山内家の屋敷跡。
今は急な下り坂の途中に立派な石垣のみが往時の姿を伝えています。
ここを直進します。その先は下り坂です。右からの道に合流します。
ツバシ橋 思っていたよりも小さな橋です。この辺りの集落を津橋といいます。
ツバシ橋を渡り50~60m程先で5差路の交差点に着きます。
ここを斜め右の坂道に進みます。
ここは5差路になっているので要注意です。案内標識を見落とさない様に!
左は竹林です。上り坂がきついです。絵文字だとこんな感じ
まだまだ上ります。
右上斜面に馬頭観音があります。 馬頭観音
峠に着いたようです。
馬の水飲み場跡
説明板によれば、「ここは物見峠といい、道路の両側に計5軒の茶屋があり、十三峠の前後のこの地であれば往来の馬もさぞ喉が渇いたであろう。存分飲みなさいと北側に3か所の水飲み場が設けてあった」
御殿場
坂を登ったところにありました。1km程の厳しい急坂でした。
小高い丘があり景色が良かったので皇女和宮の休憩所となりました。
皇女和宮の休憩所が休憩したという見晴台に階段を登って行ってみました。
木が茂って何も見えません。
御殿場説明板によれば
「文久元年(1861)、皇女和宮の行列が中山道を下向し14代将軍徳川家茂公のところへ輿入れしました。その際、一行が休息する御殿が造られたことから、ここを御殿場と呼ぶようになったといいます。 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行といわれ、4000~5000人にも及ぶ大行列でした。近隣では10月28日の早朝に前日宿泊した太田宿(現美濃加茂市)を出発し、昼には御嶽宿にて休息、そしてここ御殿場でも再び休息をとったのち、大湫宿(現瑞浪市)で宿泊しました。 中山道が別名 「姫街道」 と呼ばれるのは、こうした姫宮の行列が多く通行したためです。 (御嶽町)」
見晴台に上る階段の隣にとてもきれいな「トイレ」があります。
こんな山の中で温水便座付きでした。
この先は下り坂です。すぐ左に雰囲気の良いお店がありました。
こんな山の中でも駐車場には10台程の車があり、県外ナンバーの車もありました。
喫茶とケーキのお店だそうです。
こちらでコーヒーとケーキで休憩する事にしました。
お客さんは私以外はすべて女性でした。じい様には場違いだったかな?
中山道歩き 改訂版 大湫宿から御嵩宿②につづく