令和4年3月4日

歩いた時間:6時間30分   歩数:35821歩

 

本日は大井宿から大湫宿まで13km程を歩きます。

難所といわれる十三峠越えがあります。

無事に大湫宿についても山の中で、利用できる交通機関がありません。

大湫宿からJR釜戸駅までは4km程ありますが歩く事になります。

十三峠+4km・・・・どうなることやら。

前回はここ「中央通1」信号交差点を右折して恵那駅に向かいましたが、今日はここを直進します。

角にある和菓子屋さんは創業100年の「菊水堂」です。

恵那峡にある天然記念物奇岩「傘岩」をたとえた銘菓傘岩まんじゅうが有名です。

 

駅前通りから進むとシャッターの下りた店 が目立ちます。

 

中野村庄屋の家

皇女和宮が大井宿を通行後、この庄屋の家で起きた熊崎新三郎事件について。 

皇女和宮が東下される際に大井宿・中津川宿を通行され、街道周辺の助郷村は宿場や休息所、道路の 整備、伝令や荷運びの労役に駆り出されました。 御通行に際して岩村藩の代官吉田泰蔵は、大井宿の助郷村ではない野井村に対して大井宿へ人足 30 人を差し出すよう命じました。野井村は大湫宿の助郷が割り当てられていました。その人足は明らかに中 野村が出すべきものでした。野井村は断りましたが最終的に強要され道路整備や通行人の接待を行わ せられました。 一行が御通行後の夕方、こんな事が先例になってはいけないと野井村の百姓熊崎新三郎なる者が吉田 の泊まっていた本酒屋 (現中野村庄屋屋敷跡) に乗り込み、吉田を斬りつけて逃亡。そのまま新三郎は 行方知れずとなり、熊崎家は閉門、家族は親戚預かりとなりました。野井村もまたこのような事が今後も 続いてはいかんと岩村藩を相手に幕府へ訴状を提出。評定所の取り調べで野井村は勝訴し、今後野井 村に大井宿の労役を課さないこと、野井村に金 25 両を出すこと、代官を罷免することが決定した。野井 の里人は新三郎を義民として称えました。

 

浸水防止壁 中野村庄屋の家のすぐ先にありました。

溝を堀った石柱を道の両側に埋め、 その溝に板を差し渡し洪水の侵入を防ぎました。

 

中野観音堂 創建は不明です。 本尊は阿弥陀如来像、 石灯籠は寛政8年(1795)の建立です。

中野観音堂の石灯籠の横に中野村高札場跡の標柱がありました。

 

長島橋を渡ります。

 

広い道路に合流します。

 

歩道橋を渡り国道19号線にでます。

歩道橋から恵那市内の景色 左が旧中山道、右が国道19号線 恵那山が見えます。

 

   

左側に上町観音堂の標柱    路地の奥に上町観音堂があります。 

 

 

西行硯水公園  西行は、二度目に奥州を訪れた帰り、木曽路を経 てこの地を訪れ、三年ほど暮らしました。 西行はこの泉の水で墨をすったと言われています。 説明板によれば歌碑には 「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ」と彫られています。 ≪西行はどこを行脚してこの地に着いたのか?≫ 西行(さいぎょう、元永元年〈1118 年〉 - 文治 6 年 2 月 16 日〈1190 年 3 月 31 日〉)は、平安時代末期か ら鎌倉時代初期の平清盛らと同じ北面の武士であり、僧侶、歌人でした。 俗名は佐藤 義清(さとう のり きよ)。出家の原因は、高位の女官との恋に破れたためとか、親しい友人が亡くなったためとか(?)で す。僧の道を歩み始めてからも、時の権力者たちや女房連の歌の指導役をしていました。その後「東大寺 勧進」の為奥州平泉に行った帰りに、この地で竹林庵を作り暮らしました。 疑問 「彼がこの地で亡くならず都に帰るとすれば、東山道の坂本駅を通り御坂峠を越え、伊那の阿智駅 へ行くはず。しかし阿智から先には西行の歌が残っていない事から、この地で亡くなった」この説には納 得できない。奥州からの帰りに木曽路を通ってこの地に来たなら、わざわざ御坂峠を越えるはずはない。 木曽路を経てこの地に来たなら次は土岐駅、可児駅に向かうはずです。わざわざ難所の御坂峠に向かう 事はないはずです。 大井宿に伝わる話では亡くなったのは文治9年2月14日で、遺言により中野坂(今 は西行坂)頂上に埋葬されたとされています。葬儀は長国寺住職が行い位牌も長国寺にあるそうです。

 

  

左側に神明神社があります。

旧中山道は右に入り踏切を渡ります。

 

踏切を渡りすぐに左の道に入ります。

 

高速道路下を通り道は左に曲がります。

 

いよいよ十三峠です。 

十三の峠が次々と現れる中山道の難所です。実際には20程の峠があるようです。

 

山の中を石畳が続きます。

 

右側に西行塚展望台の案内があります。 

 

西行塚展望台へ上る途中に芭蕉の句碑 「西行の わらじもかかれ 松の露」

 

西行の歌碑「待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧」 

(入相のかね=日暮れ時に寺でつく鐘)

 

岐阜県のホームページによれば

「この塚は大井町長国寺縁起の記載等を根拠として西行の墓と信じられているが、五輪塔の年代から、西行の墓とは考えられない。室町末から江戸時代初期の頃に、西行を慕う人々によって建立されたと考えられる」従って「伝」の一文字を加えて指定された。

 

展望台からの景色 手前の木々が茂って右側に恵那山、左に木曽駒連山がわずかに見えるだけでした。

 

 西行坂 石畳が続きます。 気が付くと砂利道に変わっていました。

 

砂利道の先に大きな土盛が道の両側にあります。槙ヶ根一里塚です。

 

説明板によれば  「一里塚は、一里(約4㎞)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋の間に築かれていたといわれるが、一般的には、慶長9年(1604)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化させたものをいっている。しかし、180~190年後の天明年間(1780年代)の頃には、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。
県内の中山道には、全部で32ヶ所あったが、現在はそのほとんどが取り壊され、現存しているのは、当市内のこの槙ヶ根一里塚と紅坂一里塚のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など5ヶ所の合わせて7ヶ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめて少なく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。

この槙ヶ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5m、幅は9.9m、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9m、幅は10.11mある。塚の頂上に植えられていたといわれるは両塚とも残っていない。 近年の土地開発が進む中で、この付近の中山道は開発から免れており、この槙ヶ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。
 (恵那市教育委員会)

恵那市内の紅坂一里塚、瑞浪市内の権現山一里塚、八瀬沢一里塚、奥之田一里塚、鴨之巣一里塚は、両塚の原形を残しています。

 

 

西行の森             桜百選園の碑

西行は桜の花の歌を多く残していますが、当時の桜は、枝垂れ桜や山桜で現在の染井吉野ではありません。

 

  

 砂利道が続きます。       送電鉄塔の横を通ります。

 

  

      セントラル建設前の砂利道を進みます。

  

 中山道の標柱が所々にあります。   落ち葉を踏みしめ進みます。

 

 

  槙ヶ根立場跡 

槙ヶ根立場の茶屋説明板によれば 

「江戸時代の末頃ここには慎本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みしてまた旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。
これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が変わり、脇道ができ、特に明治三五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。
そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった」

 

槙ヶ根立場の伊勢神宮遥拝所説明板によれば

京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化二年(一八〇五)に「木曽名所図会」という本に書いた。
「そしてその挿絵に積が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。
ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。
伊勢神宮参拝の人はここで中山道と分かれて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。

 

追分にある道標  「右 西京大坂」「左 伊勢名古屋」道 と刻まれています。

下街道の説明板によれば

中山道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。
下街道は竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。
この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より4里半(約18㎞)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変賑わった。
しかし幕府は中山道の宿場保護のため下街道の商人荷の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。

 

  

追分を過ぎ進みます。右側の林の中に祝坂馬頭観音があります。

 

 

馬頭観音を過ぎ、右に上る小道を進むと姫御殿跡があります。

説明板によれば

 ここを祝峠といい、周囲の展望がよいので、中山道を通る旅人にとってはかっこうの休憩地だった。この近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といった。この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていた。そのため、お姫様の通行のときなど、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かった。 文化元年(1804)12代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さざのみや)のご通行のときは、6畳と8畳2間の仮御殿を建てた。文久元年(1861)14代将軍家茂のもとへ下向した和宮のご一行は、岩村藩の御用蔵から運んだ桧の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて御休みになった。 地元の人たちは、この御殿は漆塗りであったと言い伝え、ここを姫御殿と呼んでいる。」

 

下座切場跡 偉い役人に対し、地元の役人が袴を着用し土下座して迎えた場所。

 

すぐ先に首なし地蔵があります。

この地蔵様は宝暦六年(1756)地元)の人たちが、旅行者の道中安全を祈って立てたものです。

この地蔵様にはこんな話が残っています。
昔、二人の中間(ちゅうげん)がここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。『少し休もうか』と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。 しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれら しき犯人は見あたらなかった。怒った中間は『黙って見ているとはなにごとだ!』と腰の刀で地蔵様の首を切り落してしまった。
それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったそうです。

 

 

乱れ坂の石碑 

              乱れ橋

乱れ橋の説明板によれば

大井宿から大湫宿までの3里半(約14㎞)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために 「乱れ坂」 と呼ばれるようになったという。このほかに 「みたらし坂」 とか「祝い上げ坂」 ともいう。
坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は 「乱れ橋」 あるいは 「祝橋」 といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつ銭を徴収する有料橋のときもあったという。  (恵那市教育委員会)

 

  

舗装道路に出ます。

 

  うつ木原坂   うつ木はウノハナの事。

 

竹折高札場跡 恵那山が遠くなりました。

 

道が二手に分かれ、案内表示がありません。とりあえず右に進みます。正解でした。

再び林の中を進みます。

 

妻の神(賽の神)の標柱 悪霊の侵入を防ぐ神様

 

その先に 平六坂石碑

平六茶屋跡

 

送電鉄塔の横を通ってきました。

 

紅坂の一里塚  両塚とも残っている貴重な一里塚です。 これは北塚

 

南塚

説明板よれば

一里塚は、慶長9年(1604)徳川幕府の命によって東海、東山、北陸の3道に各一里(約4㎞)ごとに築かれた里程標で、土くずれを防ぐため頂上には榎の木が植えられました。ここは、紅坂一里塚といい、ここから江戸へ89里、京へ45里といわれます。

 

うばヶ出茶屋跡  この辺りからまた石畳になります。

紅坂のぼたん岩  

知らずに通過する所でした。見ても周りの石と変わらないと思っていましたが、よく見ると確かにぼたんの花に見えるかな。

説明板によれば

「皆さんの足元にある直径5m程の岩が上から見るとぼたんの花にみえることから

紅坂のぼたん岩として江戸時代から有名でした。日本一多数の人に踏まれた岩です。

学術的には、花こう岩のタマネギはく離(オニオンクラック)の標本として貴重な岩のひとつです」

 紅坂の石碑

 

林を抜け紅坂橋を渡ります。 久しぶりの民家です。

 

黒すくも坂を下ります。

坂を下ると左側に赤い鳥居があります。

 

佐倉宗五郎碑の標柱があります。

佐倉宗五郎大明神の碑

元禄年中(1700頃)岩村藩で農民騒動が起きそうになった時、竹折村庄屋(田中与一郎)は、将軍に直訴して村を救ったが、その罪で首をはねられました。

このことが佐倉宗五郎事件に似ているので、罪を犯した与一郎の碑を造ることも出来ず、同じような運命になった佐倉宗五郎の名で碑を作ったそうです。

佐倉 惣五郎は江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物です。下総国印旛郡公津村の名主で、本名は木内 惣五郎、通称は宗吾です。 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られています。

 

三社灯籠

「佐倉惣五郎碑」の向かい側に幕末に奉納された「三社灯籠」があります。

三社とは、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社または春日神社です。

 

三社灯籠から右に入ると神明神社があります。

 

 参道に14基の句碑がありました。この中に芭蕉に句碑があります。

 

貞享2年(1685年)、京都から大津に至る山路を越えて行く時に詠んだ句が刻まれています。「山路きて なにやらゆかし すみれ草」

藤村(恵那市武並町)の俳人たちが俳聖松尾芭蕉を偲んで建立したものです。

 

中山道の戻ります。

旧中山道はこの先を左折し深萱立場に向かいますが、右方向に何やら大規模な工事現場があります。気になったので覗いてみました。

 

リニア新幹線の工事現場です。

中山道のすぐ隣を、あるいは、その地下をリニア新幹線が走り抜ける。

品川と名古屋の間285.6kmを40分、大阪の間では67分です。

想像を絶する時の流れを感じました。

 

深萱立場に向かいます。

深萱立場が見えます。あそこで少し休憩します。

 

中山道歩き 大井宿から大湫宿まで②へ続く