もう半世紀以上前の話です。

学生時代、新宿から塩尻経由で実家のある中津川に帰りました。贄川駅を過ぎる辺りから、列車は線路周りの木々の枝すれすれに、時には枝を薙ぎ払うように走り抜けます。窓から顔を出すことなんか出来ません。まさに木曽路はすべて山の中でした。そんな山の中の景色は、落合川駅を過ぎ落合川鉄橋に差し掛かると一変します。突然空が大きく広がり、雄大な恵那山が姿を現します。思わず「ワァー」と声が出そうになります。まるで狭い檻の中から抜け出た様な解放感を味わいました。島崎藤村が「夜明け前」で書いていました。「あの山の向こうが中津川だよ。美濃はいい国だねえ」これは馬籠宿に生まれた島崎藤村の実感だと思います。学生時代、この中山道を歩いて中津川に帰ろうと考えていましたが、ついに実行出来ずにサラリーマンとなり半世紀が過ぎました。令和4年の正月、なぜか突然、その事を思い出しました。「今なら出来るかもしれない、今しかない」心配する女房を説得(?)して即実行。十分な準備もなく出発しました。 

   

先ずは地元の中津川宿から京都三条大橋を目指し、そして江戸日本橋まで歩く事にします。

令和4年(2022年)2月28日 歩いた時間:4時間  歩数:21,436歩

中津川駅前を出発しました。

JR中津川駅前の「栗きんとん発祥の地の石碑」
「右側の栗きんとんの説明板には無いお話を昔お年寄りから聞きました。

明治の頃の話です。中津川のあるお店の旦那さんは、夕飯を食べ終えると時々お妾さんの家で過ごしました。

お妾さんは、今日あたり旦那さんが来るだろうと、午前中に山に行き栗を拾って、蒸し、カラを割って中身をかき出し、すり鉢でつぶし、少しだけ貴重な砂糖を加えて、茶巾絞りにして、お茶請けにしました。

それを食べた旦那さんは、その素朴な自然な美味しさに感激し、大勢の人にその美味しさを知ってもらいたいと考え、自分のお店でお妾さんの作る栗きんとんを売り始めたそうです。それが中津川の栗きんとんの始まりだそうです。

 

話が脱線しましたが、駅前通りと中山道の新町交差点を左折(右折すると京都方面)して江戸方面に向かい、中津川宿の入口にある高札場に向かいます。

坂を少し登ったところにあります。この坂を茶屋坂といいます。昔この坂の上と下に茶屋があったのでそう 呼ばれるようになったそうです。昭和39年に国道が整備され茶屋坂は分断され今は歩道橋を渡るようになっています。

中津川宿高札場跡  隣に、常夜燈、二十三夜塔、庚申塔もあります。

高札場というのは人々が守らなければならない 事を板に墨で書き人目に付きやすい場所に掲 示した所の事です。

実際の高札場は茶屋坂を 20mほど上った飛騨街道との交差点にあった そうです。

 ここから今来た中山道を戻り京都方面に向かいます。

 

新町交差点を過ぎると左側に栗きんとんで有名な和菓子屋「すや」  創業は元禄年間。

江戸からくだってきたひとりの武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いたのがはじまりとの事です。

 

すやの向かい側、愛知銀行の駐車場 に「前田青邨生誕の地」碑があります。 青邨は12歳までここで暮らしました。 幼い時から絵が上手だったそうです。 17歳で第7回日本美術院展に武者絵 「金子忠家」が入賞しその後、明治、大 正、昭和にわたり、日本画の中心とな って活躍しました。歴史画、花鳥画、風 景画など有名な絵を数々残しています。 東京芸術大学教授、法隆寺壁画の復 元、高松塚壁画模写などを行いました。 また、昭和天皇の皇后様の絵の指導 もなさいました。昭和52年92歳で亡く なりました。 

もう一人、中津川市出身の有名な洋画家熊谷守一は、明治13年(1880)中津川市付知(当時は恵那郡 付知村)で生まれました。文化勲章受章を辞退し自由な創作活動を続け「馬」「白猫」など多くの作品をの こしました。中津川市付知町に「熊谷守一つけち記念館」があります。

 

桂小五郎隠れ家址「料亭やけやま跡」

中山道を進み書店の前の左に入る小径を川の流れに沿って歩いていくと、桂小五郎隠れ家址という木札が立っています。

その札には「このあたりに昔「料亭やけやま」があり、長州藩士桂小五郎(後の木戸孝允)が、京都に向う藩主毛利公の行列を待つ間、幕吏の目をのがれて中津川の平田門人市岡殷政間秀矩の好意で、秘に料亭やけやまに隠れ待機した。やがて中津川会議三日間の結果、桂らの主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史を物語る場所である。」と書かれています。三日間の会 議により朝廷が支持する「破約攘夷」へ方向を変え藩主毛利慶親(よしちか)は京都に向かいました。

 

中山道に戻ります。

中津川郵便局の隣に 間家大正の蔵があります。 大正 6(1917)年ごろに建てられた、外側がモルタ ル塗り、鉄筋コンクリート構造 3 階建です。 東美濃随一の豪商間杢衛門道矩(はざまもくえも んみちのり)の屋敷跡の一部です。尾張徳川家御 用商人でした。 平成 7 年(1995)年に「旧間家倉庫」として中津川 市の指定文化財になっています。郵便局の左隣 に大きなお屋敷があり、以前は、金物店が所有 し、京都の有名なお寺に負けない素晴らしい庭園 がありましたが、全て失われ今はホテルになっています。

 

  

四ツ目川橋を渡り本町通り(中津川宿の中心地)に入ります。   

 

橋を渡るとすぐ左に秋葉様があります。秋葉様は火防、火伏の神様です。

当時の家は紙と木材で作られていました。怖い物の順番は地震、雷、火事、親父でした。

 

中津川宿本陣跡

 本陣は大名だけでなく、勅使、公家、旗本 など身分の高い人達が利用しました。 現在は、碑と説明板が立つのみです。 皇女和宮降嫁の際ご宿泊されました 旧来の本陣が残っている宿場は、六十九 次中の小田井・芦田・長久保・和田・下諏 訪・落合・御嵩・草津の八宿です。 江戸時代を通して本陣の当主を務めた市 岡家は、中津川の中でも最も古い歴史の ある家です。その系譜には、和同 6 年(西 暦 713 年)に東山道の警備の勅命を賜っ た事が記されているそうです。 中津川宿は天保14年の記録では、宿場 規模は本陣1,脇本陣1、旅籠屋29軒でした。 中津川宿のある中津川村は、尾張藩の領地でしたが、旗本として尾張藩に属していた山村家(木曽福島 関所守)の支配地でした。しかし、中津川には山村家の代官所に勤める武士がほんの少数いるだけで、 町人(商人や職人)や農民がほとんどでした。宿場や村の日々の運営や争いごとの解決、水害等への対 処などは、本陣・脇本陣・庄屋等の村のリーダー達が相談して自治的に進めていました。

 

  

 

江戸時代、交通の要衝として栄えた中津川宿は、東濃地方はもちろんのこと木曽や飛騨、三河地方など各地の産物の集散地でした。毎月、3と8がつく日には「六斎市」と呼ばれる定期市が立ち、宿場は賑わったといいます。江戸時代の中津川宿の賑わいを呼び戻そうと、平成20年から毎月第一日曜日に「中山道 中津川宿 六斎市」が140年ぶりに復活しています。 脇本陣は中山道歴史資料館のあるNTT中津川営業所の一区画にありました。 森家が享和3年(西暦1803年)頃から、脇本陣、問屋を代々務めていました。

明治13年(西暦1880)明治天皇が旅行されたとき、休憩されましたので、「明治天皇行在所」(あんざいしょ)という碑が入口に立っています。

明治15年(西暦1882)3月3日自由民権運動を起こした板垣退助たちの演説会場にもなりました。

岐阜県警察史の記載の「探偵上申書」では「中津川村をもって最も盛んなり」と盛り上がりを伝える一方、各地の様子を「決して自由主義を尊び開会するになく」などと記述。主義に同調している者はごく一部で、実際は有力者の呼び掛けで集っているだけだと報告されている。劇場「旭座」での演説会は「聴衆充満してアリの這(は)い入る隙間もなき有様。早や殺気の渦巻くを見た」(板垣退助君傳記(でんき))。熱気があり過ぎたからか、前座演説の途中で警官に中止解散を命じられ、聴衆は乱闘寸前。「官権の抑圧に反抗する形勢は予想外に飛び上がった」(同)。有志らは旧脇本陣森孫右衛門宅で新たに懇親会を開き、板垣も演説したという。中津川市史によると、街は「喧噪(けんそう)を極め、警官が辻々を固め、戒厳令下の様相だった」 中津川宿は江戸期、多くの町人が平田国学の影響を受けた。その流れをくむ人たちが明治に自由民権運動の中心でした。幕末には、倒幕運動を進める長州藩と関わりを持ったり、討伐対象だった水戸天狗党を歓待しました。中津川宿先人達には町民、農民でありながら支配者に物を言うような気風が出来ていました。板垣来訪時それが街のエネルギーとして現れたと思います。板垣退助は3月6日岐阜市で暗殺されました。

森家の先祖は戦国武将森長可(小牧長久手の戦いで戦死)の一族といわれています。

 

中津川村庄屋屋敷(曽我家)

中津川村庄屋 肥田家は、享保 3(1718)年から明治 5(1873)年 まで、庄屋役を勤めていました。 屋号を田丸屋といい、参勤交代など大通行があ る場合に、比較的身分の高い人が泊まる旅籠でも ありました。明治中期から曽我家が入居し、医院と して使用されました。中津川村は、7 つの地域(町 分、中村、実戸、子野、上金、北野、川上)がありま した。庄屋は代官所の下で、年貢の収納、農民の 統率を行い村の人達の世話役でした。日本アルプスの紹介者ウエストンが恵那山に登る時、こちらに泊 まりました。 各地域から納められた年貢米は、本陣裏の郷蔵に一時保管され領主山村甚兵衛氏の木 曽福島代官所に運ばれました。「郷蔵」には不作の時の囲い米、囲い籾(いざという時の為に残しておく 米、種籾)を保管しておく食糧保管庫でした。この管理も庄屋さんが行っていました。 「郷蔵」も今は取り壊されて町名(蔵前町)だけが残っています。

 

少し先に「大泉寺址と御退道」の説明板があります。この路地に入ります。

 

 

御退道にある市内で一番古い石橋 

庄屋屋敷の少し先右側に大泉寺址と御退道の説明板がありま す。               

説明板によれば 「この坂を下った突き当りに、大泉寺があった。大泉寺はもともと恵下にあった瑞應寺が始まりである。 境内は東西19間、南北33間で、正面の基石が今も残っている。 大泉寺は本陣に休泊する大名などの 避難場所でもあった。地震や敵襲などの場合には本陣裏手にある小径を通って避難することになってい た。文久2年(1862)の落雷によって堂宇すべてが焼失し、明治6年(1873)になって北野大西に移され た。敷地には今も宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔が残り、市岡家、岩井家など中津川宿の有力役 人墓石がある。 本町中山道景観協議会 中津川市」

 

御退道の途中にある古い石橋を渡り少し坂を上り左折した先に杉原千畝旧宅跡(この家の辺りにありました)があります。

 

平成28年7月中津川市立南小学校 から杉原千畝の 1 年時の学籍簿が 見つかり、父親が勤務した税務署の 職員録とも合致し6歳明治38年10月からの 1 年半(1905.10~1907.3)中津川に住んでいたこと がわかりました。幼い千畝は中津町立中津尋常高等小学校(現在の南小学校)に入学し、1 年間学校生 活を送りました。(中津川市歴史資料館 HP より)

ナチス占領下ヨーロッパでは、ユダヤ人たちはガス室に送られて命を奪われる運命でした。彼らのなかに はナチスから逃れるために脱出しようとする人々が沢山いました。当時リトアニアの日本公使館総領事の 彼は、海外渡航のためのビザ発行の責任者でした。必死の思いで海外に脱出したいユダヤ人 6000 人に 対して、無条件でビザを発行し続けました。エルサレム市には広場に「チウネ・スギハラ広場」と命名し顕 彰しています。 

中山道に戻ります。 この先の枡形を左に曲がります。

 

  

桝形  真っすぐ 続いた本町がここで直角に曲がり横町に入ります。   

枡形は戦国時代、敵の侵入の勢いを緩め、見通しを遮るため意図的に作られました。

横町の突当りも枡形になっています。

 

 

有名な和菓子屋 川上屋                                        

江戸末期の1864年(元治元年)初代 原四六(はらしろく)が創業しました。

                                                              

         

十八屋山十間家

間杢右衛門の分家、間武右衛門が旅籠屋を営んでいました。元治元年(1864)11 月水戸天狗党が中津川を通過した時、

和田峠の戦いで負傷 した武士を平田門人である武右衛門は自分の家 の隠し部屋に隠し手当をしました。

     


旧中川家(杉本屋) 杉本屋は中津川村や子野村の庄屋をしていた 中川萬兵衛の屋敷の一部です。 1957年に公開された東宝映画 青い山脈の 撮影がこの店で行われました。 店番をしていた金谷六助(久保明)の所に寺沢 新子(雪村いずみ)が家で獲れた卵を売りに来 たところの撮影でした。この映画は中津川市、 恵那市で撮影されました。中川家は歌舞伎絵で 有名な中川とも画伯の生家です。

 

恵那山への道標 「式内恵奈山上道」と彫られています。 「式内」とは、10世紀初めの「延喜式神明帳」記 載されている国が認めた由緒ある神社であると いう事です。 この道を通り信仰の山だった恵那山に向かいま した。恵那山の麓には恵那神社里宮、頂上には 奥宮があります。

 

はざま酒造

間家はもともと京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住みました。江戸中期より酒造りを始め、以来200年以上にわたり醸造業を営んでいます。

恵那山の伏流水を仕込み水として使う「恵那山」が有名です。

 

津島様の祠、常夜灯、「下町かいわい」説明板 によれば「中津川宿の西口にあたるここ下町から、広重が画 いた 「中津川」 (旧川上川) までの中山道の道筋 は現在はなく、昔の姿をほとんど留めていません。 時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成し た 「分間延絵図」 には見られないが、かつてこの 辺りにも高札場があったと伝えられています。 中津川市教育委員会)」 

はざま酒造を過ぎるとすぐに右に入る小道があります。今は行き止まりになっていますが、昔はこちらを 通って中津川の河原に出たそうです。当時の中津川橋は今より100m 程下流にありました。

 

 

中津川橋

江戸時代、歌川広重の描いた浮世絵「晴れの中津川」には、中津川にかかる橋と柳の木が描かれています。

かつての中津川橋はここより100m程下流にかかっていました。

当時橋がかかっていたと考えられる場所の近くには今も柳の木がたっています。

 

  

対岸から見た柳の木(ブルーシートの右)

歌川広重の描いた浮世絵晴れの 中津川には、中津川にかかる橋と柳の木が 描かれています。かつての中津川橋は今より 下流にかかっていました。 当時橋がかかっていたと考えられる場所の近 くには今も柳の木があります。 この辺りまでが中津川宿でした。

 

中津川橋を渡ると駒場村(現在の中津川市駒場)に入ります。今は柳町です。

 

津島神社参道                        

中津川の子供たちの代表的な夏のお祭り「ギオンバ」は津島神社のお祭りです。  

 

                

馬頭観世音などの石仏                         

文化3年(1806)建立の馬頭観音や南無阿弥陀仏と彫られた石塔などがあります。

馬は農作業の労働力、交通手段として大切に されていました。

 

中山道の標識に従い坂道を登ります。この坂を石屋坂といいます。

旧国道19号を横断し少し先の枡形を右折します。

駒場村の高札場跡

復元された高札が3枚壁に掲 げてあります。 この先で新道路の建設中で 中山道は通れません。しかた なく右へ大きく迂回し、中山道 に再び戻ります。 (2022年11月1日工事終了 し「青木斧戸線」が開通し現 在は通れます)

 

小手ノ木坂 中山道はこの石段を登ります。 車道は右へS字に登ります。

この辺りは東山道坂本駅跡 ではないかと言われていま す。駅は16km ごとに置かれ る公の人馬継立施設で、東 山道は土岐駅から大井駅を 経て、坂本駅に入り御坂峠を 越えて信州阿智駅に向かい ました。

この坂道は両側に木が覆いかぶさるように生えていて、昼間でも薄暗いところです。

東山道と言えば、日本武尊東征のおり、吉備武彦が付知川渓谷を下り、木曽川を中津川市苗木の津戸 から渡り、千旦林か茄子川のどちらかの地で日本武尊と合流し、御坂峠を越えたと言われていますので、 はるか昔、日本武尊がこの道に立っていたのです。 (東山道坂本駅跡は、今来た「石屋坂」を上り枡形のあった辺りという説もあり特定されていません) 中山道は左の石段を登ります。 この坂道は市内中山道の中でも急峻な坂でした。明治13年(1880)明 治天皇巡行の際、駒場村の青年達が天皇の馬車を先引きして通したそうです。今は車道が出来て道は 右へ S 字に登ります。 この坂道は両側に木が覆いかぶさるように生えていて、昼間でも薄暗いところです。

 

 

双頭一身道祖神                                                                                                       

小手ノ木坂の頂きにあります。                                       

男女別々の頭部をもった珍しい道祖神です。

         

道祖神の後ろの道に苗木道の道標があります。「右中山道 左苗木道」と彫られています。

ここから苗木城に行く道がありました。 

                                     

                             

   上宿の一里塚   江戸から数えて85番目の一里塚。              

南塚がなく北塚は昭和9年に往時の約三分の一の大きさで復元されました。

近くには明治天皇が休まれたことを記念した碑があります。        

    

          

恵那山を眺めながら進みます。東山道神坂峠は恵那山の左裾辺りです。

若かりし頃、5月の連休に神坂峠を越えて阿智村に向かおうとしましたが大変な積雪で峠を越えられませんでした。

冬場に神坂峠を越えるのは大変です。

                  

        

小石塚の立場跡                        

数軒の茶屋があったそうで、この付近も立場で賑わっていたようです。 

                      

立場(たてば)は、江戸時代宿場と宿場の間の街道などで、人足・駕籠かきなどが休憩した所。

茶店(立場茶屋)などがある場合が多く一般の旅人も利用しました。 

 

嵐讃岐(あらしさぬき)の供養碑

木曽家の有力武将で千旦林に住んでいま した。千旦林八幡宮の再建に尽力しまし た。

寛永3年(1626年)供養のため建て られました。

       

この先で国道19号バイパス、中央自動車 道中津川インターチェンジなどで中山道は 分断されていますが、

案内表示の通りに 進みます。

 

  車に注意して渡ります。                 

 

線路わきの道を進みます。

 

    

六地蔵石幢                        

6体のお地蔵様が彫られている珍 しい六面の石幢です。近くを流れる六地蔵川が度々氾 濫し村人を苦しめたので   

明暦3年 (1657)に建立されました。

 仏教で死後に行く六つの世界(地 獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上) があり、それを救う六つの地蔵が 各面に

刻まれています。 

左の石碑は明治の廃仏毀釈で壊 され補修したものだそうです。

 

千旦林の高札場跡    この辺りは千旦林という地域です。

 

 

  

将監塚                           

関が原の戦いで東軍として参戦した岡田将監は、美濃代官となりました。

名古屋城築城の際の木材番所があり木曽材持出しの奉行としてこの辺りに駐在していました。

 

三ツ家の一里塚跡  江戸から86番目の一里塚です。

 

  

坂本立場(さかもとたてば)跡                

急な坂を下り坂本橋を渡ると坂本地域の中心地に入ります。

 

茄子川村の高札場跡  ここから茄子川村に入ります。

 

  

尾州白木改番所跡                     

木曾からの木材は、原木は木曽川を流し白木製 品などは牛馬により陸送しました。

白木番所は中 山道に数か所設けられ、抜け荷の監視などを行 いました。 

明治4年(1871)廃藩置県の際に廃止されまし た。

 

茶屋本陣(篠原家)

明治天皇茄子川御小休所御膳水」があります。 ここが茄子川村の中心地でした。 中津川宿と大井宿の間は10.5kmあり長かった ため茶屋本陣が置かれました。 画像右側の常夜灯は秋葉山道常夜灯(安永 5 年 1776)建立されました。右が遠州秋葉道です。ここ からどうやって遠州まで行ったのか・・・? ここから神坂峠を越えて伊那谷に出て高遠、大鹿 村を通り中央構造線の谷底を南下したのかな?そ れとも上矢作から三河方面にむかったのか? 篠 原家は、酒造業を営み、茄子川小休本陣として参 勤交代の大名の休憩所を勤めました。 皇族や公家の姫の降嫁による通行は八度ありそのうち三度がここを利用しました。明治天皇御巡幸の際 池の鯉に蚕(かいこ)のさなぎを与えられたそうです。

 

  

茄子川焼                         

茄子川焼の発祥は1600年頃と言われています。弘化 2年

(1845)頃、篠原利平治が五室の連房式登り窯を 築いて

評判となり中山道を通る御嶽参りの人々が帰りに 買っていっ

たそうです。 明治24年(1891)濃飛地震でほとんどの

釜が壊れ、大 正12年(1923)閉釜しました。

 

恵那市に入ります

 

三面八臂(さんめんはっぴ)の馬頭観音

広久手坂の途中に珍しい馬頭観音が ありました。顔が三つあります。

 

 

  

坂を下り2車線の道路に出る手前左側に石の祠があります。        

 

氏神(左)と金神(右)

 

説明板によれば 「社宮司(しゃくじ)の話

中山道を横断する古くからの用水路沿いで、中山道の南側約10mで地目原野29㎡が社宮司です。大きな桧が1本立っています。その根元には、氏神と金神の2つの石祠が祀られています。社宮司は、中部から関東に多く知られています。社宮司は信州の諏訪が根元で土地の神の信仰であり、木の神とされています。
 しかし、恵那市内の社宮司については、近世はじめの土地調査(検地という)に使用した尺杖や水縄を土地の神に謝し納めたところと伝えられています。
 中山道沿いの社宮司について、中山道分間延絵図(東京国立博物館)を見ますと、馬篭宿の新茶屋の立場から大鍬宿の烏帽子岩までの間では、岡瀬澤と中野村新田(現恵那市長島町中野新田)の2ヶ所のみです。
 この岡瀬澤の田の多くは江戸時代初期に開かれました。また、中野村新田も同様ですので、検地に関係があると考えられます。なお、檜の根元の氏神石祠は古くからその位置にありましたが、金神の石祠は昭和7年(1932)に祀られたものです。

 

2車線道路の信号交差点を渡ると右方向に鳥居が見えます。富士浅間神社です。

中仙道からは外れますが寄り道します。

 

説明板によれば 「本宮は富士山麓にある富士浅間神社である。岡瀬澤の富士浅間神社は当地に岡瀬澤の産土神として勧請されたが、その由来は不詳である。薬泉が湧出する池に囲まれた本殿は貞享2年(1685)の創建であり、祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。
 文化11年(1814)の大井村絵図では、「シホノゴゼン」 と名記されている。これは祈ると女性の病気に霊験があらたかで 「下の御前」 といわれていたのが、いつしか 「塩の御前」 に変わったのだともいう。これは池に湧き出る霊泉が女性の病気をはじめ万病に霊験があったためで、この霊泉を自宅へ運び、薬効泉として入浴していたことは戦後まで続いた。本殿例大祭は8月、脇社の大山祇神(おおやまずのかみ、山の神様)の神事として、御湯立は12月に行われている。
 元旦の零時、8月の例大祭には七福万歳が奉納されている。この万歳は昭和6年に三河万歳が伝えられたもので、一時中断したが、昭和58年に復活し、恵那市の民族文化財に指定されている。現在は児童による万歳のグループもある」

 

 

        富士浅間神社の舞殿                   

 

池に囲まれた拝殿と本殿

 

 

               境内社           

 

              恵那峡稲荷神社

 

中山道歩き 中津川宿から大井宿②に続く