令和4年5月14日

歩いた時間 8時間30分(食事30分を含む)   歩数 48,918歩

 

6:43中津川駅発、7:33上松駅着

上松駅前の「広小路」信号交差点を左折し中山道に戻り出発します。

 

Y字路を右に入ります。この坂を上った角に一里塚があります。

 

本町一里塚跡

説明板によれば  「江戸時代には、本町(枡形の街並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右に2基の一里塚がありました(碑より30m下方)。  一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。   この一里塚の位置は、京へ65里、江戸より72里です。残念ながら現存しません。

 

枡形を左に曲がります。

 

脇本陣を務めた原家。          本陣 現在は歯科医院なっています。

江戸時代は「問屋、庄屋」も兼ねていた。

 

上松宿の本陣は代々藤田九郎左衛門家が歴任し、明和3年(1766)には玉林院の山門造営に尽力、文化6年(1809)の第7次伊能忠敬測量で忠敬が宿泊、文久元年(1861)11月2日に皇女和宮が江戸降嫁の際に宿泊しています。

 

本陣前のごみステーションの横に

男女双体道祖神と水速女命(みずはのめのみこと)がありました。

※水速女命は伊耶那美から生まれた水の神

 

すぐ先の上松町本町区公民館の角を右に曲がると玉林院があります。

 

玉林院山門                 玉林院鐘楼門 

 説明板によれば

「明治26年12月に玉林院は火災に遭い、本堂、庫裡は焼失したが、土蔵とこの山門は幸いにも火災を免れました。 この山門鐘楼は、玉林8世涼潭・9世渇山両和尚の頃に再建されました。棟札によれば、明和3年(1766)11月に落成しています。建立に関わった人は多く、上松宿では庄屋、問屋の藤田治郎兵衛、原金右衛門他6名、東西在郷では田口庄右衛門他5名、建築大工は薮原の川村弥平治他3名、上松の留久六ほか3名、屋根葺は松本の高木弥兵他1名により宗派を超え、村中で協力完成しました。涼潭和尚の感慨の詩も書かれています。

 

 

玉林院本堂 木曽義元の次男、玉林が天正10年(1582)創建の寺です。

木曽義元は木曽氏の当初の菩提寺とされる定勝寺(長野県木曽郡大桑村須原宿)の保護や長福寺(長野県木曽郡 木曽町福島宿)の中興開基、鳥居峠の御嶽神社遥拝所の鳥居造営などを行い、版図拡大にも尽力したとされます。永正元年(1504)に飛騨国守護の姉小路済継の家臣である三木重頼が王滝口から領内に侵攻し、その援軍として自ら兵を率いて戦場に赴きましたが、敵の別働隊に挟撃され敗走、さらに追撃を受けて深い傷を負ったとされ、その傷が原因となり亡くなっています。

 

中山道に戻り少し先の案内板を右に入ります。

 

               若宮八幡宮があります。

 

八幡神社本殿    説明板によれば

口碑によれば、玉林和尚が甥の木曽義豊(上松蔵人)のために、源氏の守護神である八幡社を館の近くに勧請したのだと云われています。この本殿は江戸中期の代表的な社殿建築で、上松町で一番古い神社です。棟札には 「正徳四歳甲牛九月日、大社八幡宮建立」 と書かれています


八幡神社奉納獅子狂言
9月5日の前夜祭に、芸ざらいといわれる獅子狂言が奉納されています。この獅子狂言は上若連によって上演され、幕末の頃、三河の神田徳七という人によって伝えられたといいます。
 狂言の立女方は総て獅子が演じ、台本には18の演目があります。

口碑(こうひ)とは 石碑のようにながく後世にのこる意。古くからの言い伝え、伝説。

 

   

拝殿                   拝殿奥の本殿

 

  

境内社の山ノ神神社と稲荷神社          津嶋神社   奥に本殿

 

  

社務所                     境内の廿三夜塔

 

中山道に戻ります.

十王沢川に架かる十王橋

 


十王橋の地蔵尊と馬頭観音、道祖神

 

中山道上松宿北入口 説明板によれば

上松宿高札場跡
 高札場は、幕府や領主が決めた法度や御定書などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲示した施設で、主要な街道の交差点や村の入口など、人通りの多い場所に設置されていました。
 上松宿では宿場の入口(江戸側)である十王橋の橋詰山手にありました。

十王橋のいわれ
 宿場の北側を流れているこの川は、昔は小野川と呼ばれていましたが、宿場側の橋詰に十王堂が建てられてからは十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになって現代に伝わっているものです。

地蔵尊と馬頭観音
 この地にある地蔵尊は十王堂に祀られていたもので、慶応3年(1867)5月の大洪水で十王堂とともに流失しましたが、それから75年後の春のお彼岸に河川の石の間から発見されてからは、対岸の山腹にあった馬頭観音とともに祀られてきたと伝えられています。
 国道バイパス工事(平成10年完成)に伴う新道の敷設と橋の架け替えのため現在地に移転し、地域の人たちがお世話をしています」 
                            

この先の「十王橋」交差点を右折し中山道(旧国道19号)を進みます。

右側斜面に沢山のお墓が続きます。

「笹沢」信号交差点で左折し新国道19号線に合流し、JR中央西線の鉄橋下を通り右折します。

 

右折した所から1.2km歩で進むと右側斜面の防護。フェンスの切れ目に石塔群があります。

賽の河原地蔵の六地蔵

棧跡の下流約 100mの木曽川の川原を、賽の川原と呼んでいます。中山道の山手側に地蔵や馬頭観音の石造が建てられていています。危険な木曽の桟を前にして、昔の旅人は川原に下りて石を拾い地蔵に供えて旅の安全を祈願したといわれています。石像8体があります。

 

 

木曽の桟 0.1kmの標識。        対岸に渡ります。

 

 

芭蕉の句碑               馬頭観音 

「桟や 命をからむ 蔦かつら」

 

 

明治天皇聖跡碑             子規の句碑

                   「かけはしや あぶない処に 山つつじ」
                                                         「桟や 水にとどかず 五月雨」
                                       「むかしたれ 雲のゆききの あとつけて           

                    わたしそめけん 木曽のかけはし」

 

 

説明板によれば

(長野県史跡 木曽桟跡
昭和四十一年三月三十一日 指定      桟は、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたもので、木曽桟は歌枕にもなっているとともに、県歌「信濃の国」に歌いこまれており、寝覚の床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。 昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、正保四年 (1647)にこれが通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(1648)に長さ五十六間(102メートル)中央に八間(145メートル)の木橋をかけた石積みを完成した。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されている。寛保元年(1741)の大改修と、明治十三年(1880)の改修と、二度にわたる改修で、木橋下の空間はすべて石積となり、残されていた木橋も、明治四十四年(1911)には、国鉄 中央線工事のため取り除かれてしまった。現在、石垣積みの部分は、国道一九号線の下になっているが、ほぼその全ぼうが完全な姿で残されていることが判る。 この史跡は、慶安年間に築造された石垣を根幹とし、その後いく度か改修された遺構をほぼ完全な姿で留め、往時の木曽路の桟を偲ばせる貴重なものである。
長野県教育委員会)

 

木曽の桟展望所にある説明板によれば

「木曽の桟 Kiso-no-kakehashi  ・・・長野県史跡指定・・・   木曽の桟というのは、対岸に見える断崖絶壁に木曽川に沿って作られた木の桟道のことをあらわしています。(対岸にかけられた橋ではありません。) これが火災で焼失したので、尾張藩により慶安元年(1648年)に、当時八百七十五両という大金をかけ、中央部を木橋とした長さ五十六間(102メートル)に及ぶ石垣をつくりあげました。  寛保元年(1741年)には、木橋の部分も石垣にしました。(中央部分の石積みがことなっています。)昭和四十一年国道一九号の改修工事で、史跡として石垣の一部が保存されることとなりました。上部断崖には明治四十三年のトンネル工法、平成十一年に完成した落石崩壊防止の最新工法の擁壁が見られます。」

 

対岸から見た木曽の桟      

 

国道のり面にある説明板

「恐ろしや木曽のかけ路の丸木橋 ふみ見る度に落ちぬべきかな」 (千載集)空人
「棧やいのちをからむ蔦かづら」(更科紀行)芭蕉
「かけはしや水へとどかず五月雨」 (かけはしの記) 子規

 

磨崖銘文 

国道壁面に刻まれています。

慶安元年(1648)石積み桟の竣工記録を期した銘文

 

 

国道から右に入ります。一里塚があります。  沓掛一里塚跡 

説明板によれば  

「この一里塚は、上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治43年(1910)中央本線の鉄道敷設工事の折に、山側(西側)の1基は取り壊され、川側(東側))の1基が残っています。
上松で原型を留めているのは、この1基だけで貴重な存在です。
この一里塚の位置は、京へ66里、江戸より71里です」               

 

沓掛馬頭観音

説明板によれば

木曽義仲の名馬は、人の言葉を理解していたという。

木曽の桟の絶壁に通りかかった際に目算で「七十三間とべ」と号令をかけた。

馬は命ぜられるままに正確に七十三間とんだが、実際は七十四間であったため、人馬共に川の中へ転落してしまった。

義仲は九死に一生を得て助かったが、馬は亡くなったという。

その馬の菩提を弔うために建てられたのがこの観音堂といわれています。

ここが沓掛一里塚の山側の1基です。

 

 

トンネル手前で左の草道に入ります。    ここに出ました。

 

 

国道に合流します。           板野工芸さんの前で右折します。 

 

 

トンネルを抜け左折し坂を上ります。     国道の道の駅が見えます。

 

 

御嶽遥拝所説明板             御岳神社

説明板によれば 「木曽の路筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠のほかは此の地だけである。遥かに王滝川の渓谷を通して仰ぐ御嶽の雄姿はその信仰心をそそった事であろう。遥拝のため鳥居が建設されたこの鳥居は、寛永9年壬申毀損の記録があるから相当古くからあったものと思われる。  此の遥拝所は御嶽山四方遥拝所の一つで、北は長峰峠、西は三浦山、東は鳥居峠、この神戸のものが南方からの遥拝所である。 寛永2年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。  文政4年7月金剛院順明によって石の華表に建替えられた。石柱周囲5尺5寸、高さ3間である。壇内2畝26歩である。」

 

JR線ガード下を抜け「元橋」信号交差点手前に出ました。右折し国道を進みます。

 

 
「イオン」の大きな看板の先で右の中山道に入ります。通行止めです。

 

  国道をそのまま歩きここで左に入ります。

うこそ木曽福島への案内板

 

 

坂を下りバス停沼田野を右折します。 中平立場茶屋跡 木櫛を売っていたそうです

 

 

中平立場茶屋跡前を左に入ります。     舗装した下り坂

 

左下に寝覚発電所木曽川取水堰堤が見えます。

関西電力寝覚発電所で使う水を取水しています。

この先で県道に合流します。

 

 

         エーコープきそ店の手前で右折します。

 

説明板によれば

「ここを上がった所に廿三夜様・勢至大菩薩・新田記念・堤防記念・塩渕開発記念の石碑があります」

 草に覆われて、どこにあるのか分かりません。

 

 塩淵の一里塚跡  説明板によれば

「中山道(中仙道)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸日本橋を基点に浦和、高崎と北上し、軽井沢、岩村田から、下諏訪、塩尻を通って木曽谷に入り、中津川から太田、関ヶ原に抜けて京都に至る街道である。
 東海道に次ぐ江戸~京都間の重要な道であり、中世までは東山道といった。また木曽11ヶ宿を通過するために木曽路、木曽街道とも呼ばれた。
 木曽11宿とは、北から贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠の11の旧宿場町のことで、贄川の北に 「これより南、木曽路」、馬籠の南に 「これより北、木曽路」 の石碑が、今も旅人たちを迎えて建っている。この11宿のうち、妻籠、奈良井の二宿は現在も往時の宿場町の面影をよく伝えており、「文化財保護法」 による 「重要伝統的建造物群保存地区」 に指定されている。
 建ち並ぶ昔ながらの木造民家、格子窓、時代映画に見るような古い旅籠など、まるで江戸時代に迷い込んだような思いがする。
 また、木曽福島には尾張藩の代官山村氏が居住し、福島関所も置かれて、木曽路の行政や商業の中心地となっていた。その役割は近代以降にも引き継がれている。福島の関所は箱根、新居、碓氷と共に日本4大関所の一つとされた。その関所は復元されて隣の関所資料館と併せて公開され、また代官屋敷の一部と庭園も見学できる。
 この案内板の前が旧中山道である。
 34家の諸大名が、参勤交代の際大名行列をして通った往還である。すぐそばに一里塚があり 「江戸より70里、京へ67里」 の石碑が建っている」

 

 

 

 右の坂道を上ります

 

 

木曽町役場の前に出ました。       その先を左折します。

 

御神像奉安殿などの境内が見えます。

 

 

御嶽大神社標               御嶽神社拝殿

祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神としている。修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。Wikipediaより 

 

JR木曽福島駅前のお土産屋
 

JR木曽福島駅の前を通過します。

 

「中山道歩き 上松宿から藪原宿まで②」に続きます。