令和4年(2022年)5月12日

歩いた時間  5時間20分      歩数  30,701歩

 

前回終了したJR野尻駅から中山道に戻りスタートします。

前回説明した野尻宿脇本陣の前を通り妙覚寺に向かいます。

 

野尻宿本陣跡   本陣の前を通過して150m程進みます。

 

 

右側に常夜灯とお社があり、右折し坂を上ります。 坂の途中に庚申塔があります。

 

 

国道19号線下のトンネルを通ります。ここに出ました。坂を上ります。

 

「妙覚寺」寺標

 

臨済宗妙心寺派のお寺

 

 石仏、石塔群               

説明板によれば

「当寺は、天台宗行基の古跡正安中草創権大僧都阿闍怪安と伝えられ、後、臨済宗妙心寺派に改宗し初屋和尚により開山されました。 寛永元年(1624)再建され、京保5年(1720)須原常勝寺の弘道法嗣秀峰和尚を講じて中興開祖としました。現在の本堂は享保11年(1726)に建てられたものです。裏庭には天保3年(1832)の作とされる十字架を左手に高くかかげたマリア観音があり、これは野尻川向にあったものを、昭和46年に現在の場所に安置したものです」

 

 

妙覚寺山門                 高野槙の大木

裏庭への坂道の途中に十字架を左手に高く揚げたマリア観音がありました。

画像では分かりにくいが両手で十字架を掲げているようです。

マリア像を探しているうちに本堂へ行くのを忘れてしまいました。

 

坂を下って中山道に戻ります。

この辺りが野尻宿の東の「はずれ」です。

 

イボ石

日蓮宗の「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑の台石が、イボ石と呼ばれています。
これに触るとイボが治るといわれています。

右の石垣の上が高札場跡でした。

 

 

坂を右に下ります。   左を見ると創業明治31年の奥田工業(株)があります。

 

 

「鹿嶋神社」の案内板があります。お詣りして来ます。林の中を進みます。

 

 

御神座三百三十年記念碑           鹿嶋神社鳥居

 

 

階段の上に拝殿が見えます。        鹿嶋神社拝殿 奥に本殿

 

中山道に戻ります。

 

第12仲仙道踏切を渡ります。       荒屋沢橋を渡ります

 

木曽川対岸の大桑発電所

大桑発電所は導水路により落差を得て発電する水路式発電所です。

最大1万2,600キロワットを発電します。

1921年(大正10年)に運転を開始しました。

中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして経済産業省の「近代化産業遺産」に2007年度認定されています。

水槽から水車発電機へと水を落とす水圧鉄管は、長さ74メートルのものが3本あります。

水車発電機は3組あり、水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用、発電機は容量5,000キロボルトアンペア・周波数60ヘルツのものを備えています。

発電所建屋は煉瓦造です。

 

 
第11仲仙道踏切を渡ります。      この先で国道19号線に合流します。     

 

踏切を渡り国道19号線に出た所で珍しい桐の花を見つけました。

釣鐘型をした薄い紫色の上品な花を枝先に咲かせていました。

 

今度はタラの木が群生しています。

 

国道沿いの歩道をしばらく歩きます。

 

廃屋の様なモーテルの駐車場が関山関所跡らしい。

この辺りは「今井ナギ」と呼ばれる難所でした。     

ここは木曽義仲が北陸へ平家追討の際、この地へ関所を置いたところです。 

 

この先国道19号線は下り坂になります。

300m程先の右側に踏切があります。中山道はその踏切を渡るのですが、このまま19号線を200m程(大桑駅ホームの渡線橋の辺り)進み左の坂道を下ります。

 

 

坂を下り左のシシゴ沢を渡ります。

 

石塔群があります。

 

シシゴ沢に戻り右方向に入ると一里塚があります。 

民家の庭先を通り墓地の横です。 大桑の一里塚跡

塚には「中山道一里塚 当地は鎌倉時代より木曽の街道として栄えた。桃山時代に主要街道とされ、一里ごとに土を盛り塚とし道標とした」 と刻まれています。

 

先程通過した踏切まで戻ります。

国道を横断して踏切を渡ります。

 

 

奉燈と刻まれた石燈籠があります。    長野橋を渡ります。

 

左にJR大桑駅が見えます。     時刻8:46

 

大桑の街並み

 

 

長野宿橋を渡り右折し岨づたいの坂道を進みます。  道端の

 

右側に天長院が見えて来ます。

 

 

参道に沢山のお地蔵様。          参道から見た本堂

 

山門横に子育て地蔵

 

子供を抱いた紐が十文字に見えることから「マリア地蔵」と呼ばれています❓

よく分かりませんでした。

 

地久山天長院本堂  説明板によれば

「当寺の往古は、室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し、木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、天文年間(1532-54)武田軍或いは山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったと云われています。
 その後、文禄年間(1592-95)定勝寺7代天心和尚を開山として旧地に禅宗地久山天長院として開かれ、街道の変遷により、寛文年間(1661-72)地蔵堂のあった合の宿平沢の現在地へ移転し現在に至っています。」

 

 台座に坂村真民の詩が刻まれています。

この詩は真民自身が目を患い絶望の淵にあった時生まれたと語っています。

「念ずるというのは、前向きに生きようとすることであって、希望なのである。どん底に落ちても、念じながら這い上がってくる不屈の魂である」(坂村真民)

お寺にふさわしい「詩」です。

 

中山道に戻ります。

 

「水害‥‥」この碑のある三差路を    「念三夜塔」と刻まれています。

左折します。             「念」は仏教用語で数字の「二」の意味。

 

 

道標「右 中山道須原宿へ」ここを右折。  伊奈川橋を渡り右折し岩出観音へ。

 

英泉の伊奈川橋遠景

 

 

橋から伊奈川の景色           岩出観音の手前に神明神社があります。

 

 

道路から見た岩出観音の懸崖(けんがい)造り

 

 

岩出観音の参道              参道途中にある常夜灯

 

 

 参道途中にある岩出観音の大カエデ   三十三所観世音菩薩庚申塔

 

 

地蔵菩薩、馬頭観音、南無阿弥陀仏碑など。  馬頭観音、地蔵菩薩 

 

本堂

江戸中期に建立された長い歴史ある観音堂。京都清水寺に似た懸崖造りが特徴で、絵馬や筏流しなどの歴史ある絵が多く保存されている。
毎年、初観音(1月17日)と旧暦の2月の初午の日は縁日が盛大に執り行われる。
木曽街道六十九次「伊奈川橋遠景」(渓斎英泉)の図にも描かれています。

 

須原発電所

1922年(大正11年)に運転を開始しました。

中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして経済産業省の「近代化産業遺産」に2007年度認定されています。

導水路により落差を得て発電する水路式発電所です。

最大使用水量36.17立方メートル毎秒・有効落差34.90メートルにより最大1万800キロワットを発電します。

水槽から水車発電機へと水を落とす水圧鉄管は、長さ63.5メートルのものを2本あります。

水車発電機は2組あり、水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用、発電機は容量5,700キロボルトアンペア・周波数60ヘルツのものを備えています]

放水口は下流に位置する大桑発電所の取水口に直結しています。

 

第9仲仙道踏切を渡りました。

 

「左 中山道 野尻宿へ」 と刻まれた道標があります。             須原宿に入りました。

 

 

庭先に白いクレマチス          矢印方向に進みます。

 

 

               右の坂道を上ります。

 

ここに出ます。右前方に常勝寺が見えます。

 

常勝寺 説明板によれば

「常勝寺  昭和27年3月29日重要文化財指定   嘉慶年間に木曽家第11代源親豊公が木曽川辺りに開創し、その後木曽川の洪水による流出の後、当地に慶長3年(1598)移建したものが現在の諸堂宇で、山門、本堂、庫裏何れも桃山建造物として国の重要文化財に指定されています。

常勝だるま大座像、人間国宝「香取正彦」作の大梵鐘のほか木曽氏歴代による寄進物も数多く木曽の古い姿を知る重要な資料となっています。」

 

石段の左の石碑は明治天皇行在所碑

1880年(明治13年)6月27日、明治天皇は定勝寺で昼食休憩されました。

 

 

常勝寺参道と寺標            参道の十六羅漢

 十六羅漢は釈迦が亡くなった後、長寿を保ち、仏法を守り伝え人々を救済することを釈迦から託されたとされる16人の羅漢のことです。

 

 

水舟の碑(須原小学校校歌の一節)          常勝寺前の水舟

「水舟の水 のきをめぐりて いのち つねにあたらし」

 

 

常勝寺の山門                   常勝寺の本堂

 

 

常勝寺の中の門              人間国宝「香取正彦」作の大梵鐘

 

広重の須原宿の絵

 

中山道に戻ります。

 

旅籠「かしわや」

 

水舟

サワラ材の丸太を刳り貫いた宿場用水当時から、米、野菜、食器などを洗い人々の憩いの場でした。

 

 

常夜灯                 「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台とな          

                    った清水医院跡 現在、明治村の中心地

                    に移転、保存されている」

脇本陣跡

脇本陣の説明板によれば

「旧脇本陣西尾家の祖は、代々菅原の氏を名乗る続柄にして、大永・天文年間(1522-54)の頃、此の地信濃の国須原に住し、地域の開拓に力を尽くす。

 西尾家は、木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣として重きをなす。殊に西尾丹波守は、馬術また武芸に優れ、木曽義昌公の信任極めて厚く、鳥居峠また妻籠城の合戦等に参画転戦し、その武功著しきものありしと伝えられる。
 天正18年(1590)木曽義昌公は、豊臣秀吉の命により突然下総の国網戸に移封せらるるも、西尾家は依然此の地に留まり、その後は木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取締役等の重責を担う。
 慶長5年(1600)中山道宿場の出来るに伴い、須原宿の脇本陣・問屋・庄屋を兼ね、宿役人として重きを為し、地域の発展に貢献せり。

 その後寛延・慶応の二度に亘る火災に遭遇し、記録の一部を焼失するも、今なお当寺の隆昌を物語るに足る古文書・書画・什器等多数蔵することは文化財として貴重な存在である。

 酒造業は古く江戸時代の創業にして現在に至る。 (大桑村)」

銘酒「木曽のかけはし」で有名な西尾酒造です。

 

水舟と正岡子規の歌碑

「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月出づるほとの 空たにもなし」  正岡子規は明治24年(1891)に須原宿を訪れている。

歌碑の隣の「日本名勝写生紀行」説明板には

「須原に至りし頃は夜に入りて空こめたる山霧深く 朧々の月は水汲人の影を照らして寂寞たる古駅の趣いふ計りなく静かなるに 道の中央には石にて囲ひし古風の井戸有りて淡島神社の灯篭其の傍らに寂しく立てり」

 

 

本陣跡                  高札場跡

 

JR須原駅              駅前にある大和屋 須原名物桜の花漬                 

                  

           

 駅前の幸田露伴の碑

出世作「風流仏」の中で須原宿に滞在した時の事を書いています。

その中で須原宿の「桜の花漬」を紹介しています。

「桜の花漬」は八重桜の花を塩で漬けたものです。湯のみに入れ、熱湯を注ぐと桜の花が開きます。

目で楽しみ、香りと味わいも楽しめる風雅な桜湯です。

 

 

        国道に合流する手前左側に須原宿一里塚 

国道横の「歩道案内」に従い進みます(ここからの国道は歩道が無いので危険です)​​​​​​

 

「中山道歩き 野尻宿から上松宿まで②」に続く