令和4年6月24日  雨のち曇りそして晴

歩いた時間:8時間30分  歩数:43,165歩

 

広重の軽井沢宿の絵

 

軽井沢本通り  

「民宿みや」で会った二人の情報で、碓氷峠は#山ヒルが出ると聞いていたので、出発前に部屋で入念にズボン、靴下、ポロシャツ、ベスト、帽子、両腕、顔、首にディート10%入りの虫よけスプレーを吹き付けて出発しました。

「ペンション佐藤のぬくもり」を出発して六本辻には戻らづ軽井沢本通りを歩き中山道に合流することにしました。

昨夜は本降りの雨でしたが、午前6時頃に止みました。

 

 

中山道に合流しました。   

この時間にはお店はまだ営業していません。

江戸屋

天保14年の記録では、本陣1、脇本陣4、旅籠屋21軒となっています。

「江戸屋」は4軒あった脇本陣の1軒で子孫の方が「アートカフェ江戸屋」を経営しています。

 

ショッピングモール「チャーチストリート」、この辺りが佐藤本陣跡です。 軽井沢宿は碓氷峠を越えてきた旅人や、これから越えようとする旅人で大変賑わった。しかし宿駅制度が廃止され国道が開通すると急激に衰退。 その後、別荘地として再び賑わいを取り戻したが、その分、往時の面影はすっかり失われました。

 

チャーチストリートを過ぎ20m程先を左に曲がります。

明治天皇軽井沢行在所跡碑

説明板によれば

「明治時代(1868~1912)の前期、明治天皇は地方視察の為国内を巡行された(明治五年から明治十八年にかけ全国を巡行する)。    

この中でも特に大規模な地方巡幸の一つであった明治十一年(1878)北陸東海御巡幸は中山道を利用され長野県を巡幸される。

長野県の東の入口軽井沢には碓氷峠を越え九月六日、中山道・峠町(熊野権現)に入られる。峠町にて御小休をとられた御巡幸の行列は、峠より下り川越川に掛かる二手橋を渡り中山道・軽井沢宿に昼過ぎに到着される。

軽井沢本陣(佐藤織衛)敷地内に新設された【御昼行在所】にて昼食をとられる。(午後一時頃)御昼を【御昼行在所】にて過ごされた後は車にて軽井沢宿を発たれた。  軽井沢町教育委員会」

 

明治天皇軽井沢行在所跡碑の前を過ぎ100m程進むと「水車の道」と呼ばれる通りに出ます。江戸時代初期には中山道はこちらを通っていたそうです(天明3年(1783)の浅間山大噴火で宿場は壊滅しその為道が変わったのでは云われています)通りに出ると左に聖パウロカトリック教会があり、この辺りに軽井沢の一里塚がありました。江戸まで37里目の一里塚です。

 

中山道に戻ると右側に軽井沢観光会館があります。

 

ここには脇本陣江戸屋跡です。 建物は当時のものではなく、歴史的な遺構は残されていません。         

 

100m程先の左側に神宮寺の寺標があります

 

神宮寺の枝垂桜 樹齢350年と云われています。

神宮寺本堂  灯籠横の寺標に「表白山 釈迦院 神宮寺」と刻まれています。

 

 鐘楼、宝篋印塔、、一面六臂の青面金剛の庚申塔、石仏、不動明王など多数の石塔石仏があります。              

 観音堂

 

中山道に戻ります。 

つるや旅館  

この辺りが軽井沢宿の江戸側入口でした。

「つるや」さんは、江戸時代初期に、茶屋、旅籠鶴屋として開業しました。 明治に入り、宣教師や明治の文豪らの軽井沢への往来が始まると、旅館業に変わりました。

 

100m程先に

芭蕉句碑   説明板によれば

馬をさえ ながむる雪の あした哉

松尾芭蕉(1644-94) 「野ざらし紀行」 (甲子吟行)中の一句。前書に 「旅人をみる」 とある。雪の降りしきる朝方、多くの旅人が様々な風をして通って行く。人ばかりではない、駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよの意。
 碑は、天保14年(1843)当地の俳人、小林玉蓬によって、芭蕉翁150回忌に建てられたものである。
 (軽井沢町) 

軽井沢ショー記念礼拝堂   

カナダ生まれの宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショー氏は、1886年(明治19年)にキリスト教の布教のため、軽井沢に立ち寄りました。

彼は、軽井沢が避暑地として最適な土地であることを広く紹介し、軽井沢の発展に大いに貢献しました。その功績を称えて地元の方々が明治36年に碑を建立しました。

 

50m程先で矢ヶ崎川に架かる二手橋を渡ります。

この橋の名前の由来は、軽井沢に泊まった旅人が飯盛女にここまで送られて来て、この橋で名残を惜しみ二手に別れた事から来ているそうです。

 

画像右側の標識を右に入ると碓氷峠遊歩道です。

   

前日の雨で道が荒れている事が心配でしたので、後期高齢者は安全第一、舗装してある中山道を進みました。

日が差してきました。雨で洗われゴミひとつ無い道。草木の緑がとても綺麗です。

 

峠道(旧中山道)の標柱  

 

峠はこの先です。  

 

遊歩道はここに出ます。

旧中山道を歩いて正解でした。

令和5年4月再度軽井沢駅から碓氷峠の熊野神社まで往復し遊歩道を歩きました。

そのときの写真が次です。

 

令和5年4月遊歩道入口から碓氷峠頂上までの写真です。

遊歩道入口

 

砂利道を進みます。            

車も通れるしっかりした橋です。     

 

 右に進みます。

 

 

吊り橋を渡り山道に入ります。         

登坂が続きます

 

道標とクマ注意の看板            

林道の上を通る橋

 

舗装道路を横断し斜面を上ります。     ここまでが遊歩道でした。

天気さえ良ければ快適なハイキングコースです。

 

道に落ち葉が積もっていましたが、乾燥していたので山ヒルの心配は不要でした。雨で落ち葉が濡れていれば山ヒルが活発に動き始めるので注意が必要です。

 

力餅みすずや前の「見晴台」標柱

右に行けば見晴台、左は熊野神社です。熊野神社に向かいます。

 

熊野皇大神社が見えて来ました。

 

熊野神社の横にある山口誓子の句碑

「剛直の 冬の妙義を 引寄せる」

 

しげの屋     県境が店内を通っています。

創業300余年の力餅が名物のお店、残念ながらお休みでした。

安政2年(1855年)、安中藩主・板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城の門から碓氷峠の熊野皇大神社まで中山道を走らせた徒歩競走「安政遠足」(あんせいとおあし)のゴールでした。

藩士たちも茶屋「しげのや」で力餅を味わったそうです。

 

熊野皇大神社

当社は県境に位置し、日本武尊が碓氷峠で八咫烏の導きにより熊野大神を祀ったことに由来します。尊は弟橘比売命を偲び「吾嬬者耶」と嘆いたと伝えられ、これに基づき「日本太一」の烏午王札が厄除けの御札として古来より頒布されています。鎌倉時代には武士団の信仰を受け、群馬県最古の吊鐘が奉納され、江戸時代には中山道を行き交う人々により権現信仰が盛んとなりました。「碓氷峠の権現様は守り神」と唄われ、追分節の元唄を通じて熊野信仰が全国に広まりました。

 

 

常夜燈前の安政遠足決勝点の標識     参道の石畳みに長野県と群馬県の標識

 

 吽形の狛犬

阿形の狛犬  説明板によれば、

室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古いものである。向かって右側(雄)は口を開いた阿(あ)、左側(雌)は口を閉じた吽(うん)の像で、一対となっている。
 狛犬は、中国で陸前に魔物撃退のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としているが、ここの狛犬は極めて素朴で大変親しみを感じさせている。
 (軽井沢町教育委員会)

 

  

参道                   熊野皇大神の扁額が掛かる随神門

 

説明板によれば、「峠の石の風車 元禄元年(1688)建立

軽井沢問屋佐藤市右衛門及び代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のため、当社正面石だたみを明暦さん年(1657)築造した。 その記念に、佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。

秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車とした親しみ

「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」と追分節にうたわれて有名になった。 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会」

 

熊野神社拝殿    長野県と群馬県の県境にあるため、左信州分に那智宮、右上州分に神宮、中央に本宮を祀っており、賽銭箱は二つ並んでいる。

 

 

長野県側 神楽殿               群馬県側 神楽殿

 

 

新宮                   明治天皇峠御小休所碑

                  日本武尊 吾嬬者耶(あづまはや)詠嘆の処

  

熊野皇大神社ノシナノキ  説明板によれば 

「シナノキは、低山帯の山地に生息するシナノキ科の落葉高木で、樹皮は繊維が強く柔軟なため布や縄などの材料に用いられた。このため、大木で維持されている個体は極めて少ない。

長野県にはシナノキが多く分布し、「信濃(科野)」の由来になったともいわれている。

当該シナノキは、古くから熊野皇大神社の神木として保存されており、目通り幹周囲5.8m、根廻り周囲7.7m、樹高13.5m、県下では稀にみる大径木である。 長野県指定天然記念物

(指定年月日 平成3年8月15日) 長野県教育委員会 軽井沢町教育委員会 」

 

見晴台に向かいます。

見晴台入口(長野県)

詩聖タゴール像   

インドの詩人ラビンドラート・タゴールは、1916年夏に軽井沢を訪れ、日本女子大生に詩を朗読し祈りを語りました。ノーベル文学賞受賞者として国賓招待され、日本文化に感動する一方で軍国主義を警告しました。軽井沢は彼にとって詩の泉となり、後の講演では「人類は戦わず」を訴え、原爆を予見するような言葉も残しました。1941年、80歳で生涯を閉じました

 

 

万葉集歌碑

日の暮れに うすひの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ 

なくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも

 

霧の見晴台   

左が群馬県、右が長野県。晴れていればゆっくり景色を楽しめたのに残念。

霧の中、峠を下ります。

長野県側の中山道は舗装されていたのですが、ここからは雨に濡れた草と落ち葉に覆われた山道です。

靴は雨露ですっかり濡れています。

 

中山道に戻ります。

赤門屋敷跡    

 江戸幕府の参勤交代により中山道は碓氷峠熊野神社前を通り、赤門屋敷は諸大名の休憩所として利用されました。和宮内親王や明治天皇も立ち寄りましたが、峠道の廃道化とともに屋敷は朽ち、今は跡のみが残ります。熊野神社社家・曽根氏の屋敷であり、由緒ある赤門の滅失が惜しまれています。

 

赤門の由来
 現在、東京本郷東大の赤門が現存しており、此の門は文政10年(1827)今から約170年前、加賀藩前田斎泰(なりやす)に嫁いだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。
 平成7年5月15日 熊野神社」

 

赤門屋敷跡の片隅にみくにふみの碑があります

説明板によれば

「四四八四四 七二八億十百 三九二二三

 四九十 四万万四 二三 四万六一十 

(よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみ よまむひと)
 よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 の意である。
 これは峠の社家に伝えられていたものを滅失を恐れて昭和30年熊野神社に建てたものである

 

峠を下ります。

 

   

碓氷川水源地入口の説明板                            碓氷川水源地

明治天皇御巡幸の際に御膳水となった名水である」

 

思婦石   

群馬郡室田(現在は高崎市)の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で、安政4年(1857年)の建立の歌碑です。
別名「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われています。

全く何が刻まれているのか分かりませんでした。

「ありし代に かへりみしてふ 碓氷山」と刻まれているそうです。

 

仁王門跡   

明治維新で廃棄された神宮寺の仁王門跡碑や小さな祠などがあります。

仁王門碑

 

 

 

長坂道  

こんな道ばかりなら良かったのですが・・・・・。

 

 

V字に削られた道は足首に負担が掛かります。 

   

転倒注意

 

こんな道の連続です。木に「関東ふれあいの道」と書かれた札が取り付けてありました。

施行所跡

 

 

陣場が原   

太平記に新田方(新田義貞の子新田義宗)と足利尊氏方の碓氷峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方の碓氷峠合戦記があるそうです。
この辺りが古戦場といわれています。

 

中山道と安政遠足のコースの合流点

江戸時代末期の安政2年(1855年)、当時の安中藩主・板倉勝明(いたくらかつあきら)が、藩士たちの心身鍛錬を目的に、安中城内から碓氷峠頂上の熊野権現までの約29kmの道のりを走らせたさせたことが始まりです。

この歴史にちなんで毎年「安政遠足侍マラソン」大会が開催されています。

和宮一行が通った道筋の一部は、現在「和宮道」とも呼ばれており、現在の安政遠足のコースの一部にもなっています。 

 

この辺りに「一つ家跡」の説明板があったのですが、見落としました。

説明板には「ここには老婆が居て旅人を苦しめたと言われている」碓氷峠の鬼女・山姥伝説かな?

この「一つ家跡」が山中の一里塚跡でした。江戸まで36里目の一里塚です。

 

何故か突然、バスが現れました。 

 

砂利道が続きます。

霧はなかなか晴れません。

 

山中坂 説明板には「山中茶屋から子持山の山麓を人馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯食い坂」とも呼ばれ、坂本宿から上ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 

ロープが張られています。

山中学校跡  説明板には「明治11年 (1878) 明治天皇御巡幸の時、児童が二十五人いたので、二十五円の奨学金の下附があった。供奉官から十円の寄付があった」

※日本銀行などの資料にある企業物価指数を基に計算すると、明治時代の1円が現代の約1,900円、あるいはそれ以上の価値に相当するという試算があります。

 

山中茶屋跡  

寛文2年(1662年)には、13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2か所あったそうです。
明治の頃小学校もできましたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っているだけです。

 

入道くぼ  説明板には「山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これからまごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。」

馬頭観音は画像奥の木の後にありました。

栗が原   

この辺りに明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」ができました。

これが、交番のはじまりです。

 

 

この辺りで左靴の中に石が入ったので脱いで石ころを出し、靴紐を締め直し右靴もついでに・・・・・おや!!右足ズボンのすそが赤く血に染まっていますびっくり

・・・・#山ヒルだぁーゲッソリ

くそームキームキームキー

右足に2匹、山ヒルが付いて血を吸っているえーん

引っ張って取ろうとすると半分にちぎれた。

持っていた防虫スプレーをもう一匹にかけると丸くなってコロリと落ちた。

靴にも一匹付いていて上に登ろうとしている。気持ちわるィー。

こいつも防虫スプレーで退治びっくりマーク

かまれても痛くも痒くもない、だから気付かない。

傷口をペットボトルの水で洗い、ばんそうこうを貼りました。

 

出発前に部屋で防虫スプレーを体中吹き付けて来たのにはてなマークはてなマークはてなマーク

あっびっくりマーク・・・しまったショボーン 靴にかけてないガーン  靴はペンションの玄関に置いていて吹き付けてなかった。爆  笑

これじゃあ「耳なし芳一」じゃないか。

こんな所に長居は無用です。

急いで下山します。

※出血している足、靴を登ってくる山ヒルなどカメラに収めましたが、あまりに気持ち悪いのでアップしません。

 

「座頭コロガシ給水所」安政遠足の給水場所のようです。

座頭コロガシの説明板は破損していて内容は分かりませんでしたが「急なさ坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所ろである」と書かれていたそうです。

 

一里塚 説明板には「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登って行った。その途中に小山を切り開き一里塚が作られている」江戸まで35里目の一里塚です刎石の一里塚と呼ばれています。

北向馬頭観音  説明板には馬頭観音のある所は危険な場所である。一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観音が岩の上に立っている。観音菩薩 文化15年4月吉日  信州善光寺  施主 内山庄左衛門、上田庄助 坂本世話人 三沢屋清助」

南向馬頭観音 説明板には「この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
 昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所を過ぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観音が道端にある」

 

掘り切り    

ここに来るまでに、四軒茶屋跡、座頭転がし、北向き、南向きの馬頭観音などがありましたが足元から山ヒルが上がって来るようでゆっくりしてられない。いそげびっくりマークいそげびっくりマーク

靴が濡れていて防虫スプレーの効き目が薄まってしまい、意外と早いスピードで靴に取り付き登ってくる。爆  笑

気持ちわるーィ

 

碓氷峠の関所跡

登ったところに休憩所があります・・・とんでもないびっくりマークこんな気持ち悪い所で休憩なんか出来るかァーびっくりマーク

四軒茶屋跡  「刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも、石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。)」 

 

 

  

 

 

碓氷峠の関所跡  説明板には「昌泰2年(899)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる」

 

風穴   

刎石岩の裂け目から、水蒸気で湿った風が吹き出している穴です。

手を入れて確かめようと思いましたが、山ヒルがくっ付いてきそうで断念。くわばら、くわばら。

 

天保7年(1836)の大きな馬頭観音   

地震があったら倒れて来そうな感じでした。

 

覗(のぞき)    

天気が良ければ坂本宿を見下ろせる場所だそうです。

一茶の句「坂本や 袂の下の 夕ひばり

一茶は山ヒルに食われなかったのかはてなマーク聞いてみたい。

食われればこんな句になったかな。ニヤリ

坂本や 草鞋の下の 大山ヒル

 

刎石坂(はねいし坂)   

足をくじきそうな下り坂。

 

刎石坂の大日尊(2m程あります) 左の木の近くに馬頭観音があります。 

※大日尊(だいにちそん)」とは、一般的に**大日如来(だいにちにょらい)**を指す尊称です。 

刎石坂の南無阿弥陀仏名号碑

刎石坂の説明板には「刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。
南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観音がある。
ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある」

 

柱状節理   

火成岩が冷却・固結するとき、亀裂を生じ自然に四角形または、六角形の柱状に割れたものです。

 

ここで前のめりにコケました

両ひざは運よくやわらかい土の上に着いたのですが、背中のバッグが頭にのしかかり顔面を石の角にぶつけそうになりました。

下山を急いで足元がもつれたようです。これも山ヒルのせいだ。

くそームキー

 

堂峰番所跡   

今も石垣が残っています。

番所(ばんしょ)→、警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設です。

 

碓氷峠坂本宿側入口  

やっと恐怖の碓氷峠から脱出しました。   

バス停小屋で急いで服を脱ぎパンツ一丁姿で全身をチェックしました。

左の靴の上に1匹、こいつは元気がない、防虫スプレーが効いているのかな。

しかし、左足に1匹、美味しそうにまだ血を吸っているやつがいる。

防虫スプレーをかけると簡単に丸くなって落ちた。

さらに1匹、脱いだポロシャツに付いている。

こいつはまだ血を吸っていない。

情状酌量の余地ありとしてビニール袋に生け捕りにして持ち帰ることにします。

 

 

碓氷峠案内板                

バス停小屋

 

 

       国道18号線に合流しすぐ右の草道に入ります。

 

18号線に合流します。妙義山が見えます。
 
八幡神社  八幡宮由緒によれば

「創立年代不詳なれども、当地開発の当初より碓氷郷の鎮守産土神として古来篤く崇敬せらる。

 伝承によれば景行天皇40年10月日本武尊の勧請という。

 延喜年間現在の地より東北約1㎞の小高い丘に社殿を建立、氏子82戸の氏神として祭祀せり。
 江戸時代宿駅制度の確立。坂本宿の設定により宿駅の上なる小高い丘、現在の地に近郷に祭祀せる諏訪神社、白山神社、八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社等を合併合祀すという。大正3年村社に指定。昭和21年神社制度の改革により神社本庁所属。昭和28年1月24日宗教法人認承。宗教法人八幡宮となる」

 

芭蕉の句碑   説明板によれば

「 安中市指定重要文化財  芭蕉句碑

 江戸寛政年間(一七九〇年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連(ちくすいあんれん)が、春秋庵加舎白雄(しゅんじゅうきんかやしらお)先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ一、六七m・幅 基幅一、三七m・頂部幅〇、六m・厚さ約〇、二m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
 書体は『筑羅様』で、句は紀行文『笈の小文』にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

 ひとつ脱て うしろに負ひぬ 衣かへ     安中市教育委員会 」

 


 坂本宿上木戸跡  京都側入口です。

 

「中山道歩き 改定版 軽井沢宿から松井田宿まで②」に続きます。