令和4年6月17日  晴

歩いた時間:8時間  歩数:39,721歩

 

 

朝食を頂きながら、前日佐久平から来た2人の中山道歩きの方と情報交換しました。

2つ貴重な情報を頂きました。

①   笠取峠の中山道原道は雨で道がひどく荒れているから出来れば普通の中山道を歩いたほうが安全。

②   碓氷峠の群馬県側でヒルに吸血された夫婦がいた。

 

ヒルと聞いて何故か懐かしさを感じました。小学生の頃、ため池で泳いでいた時に吸血された事がありました。

 

前日、迎えに来て頂いた「落合橋」まで送って頂き7:00にスタートしました。

 
大門川の落合橋             依田川の橋  

どちらの橋が絵のモデルとなったのか?

 

広重の長久保宿の絵

 

 

 大門橋信号交差点をエネオスの方に曲がります。 左側に注連縄を付けた道祖神

 

 

セブンイレブンが見えたら左に入ります。

 

国道142号線に合流する手前に

中山道一里塚跡の説明板

「中山道の一里塚がここにあった。昭和35年(1960)道路改修以前は、榎の大木が植えられていた。町民は、「エノキの木のある所」 といって親しんでいた。江戸初期正保4年(1647)信濃国絵図(長野県宝)にも、この場所に一里塚があったことが明記されている。ここより北東へ一里(約4km)旧中山道笠取峠地籍や、南西へおよそ3里の和田村唐沢地籍には、一里塚が現存している。
 一里塚は、慶長9年(1604)徳川幕府の一里塚奉行によって、江戸日本橋より一里ごと、主要街道の両側に、およそ5間(約9m)四方の塚を築き、その上に榎か欅を植え、旅人の便を計ったり、旅情を慰めたものである。 (長和町教育委員会)」   

 説明板のみで、辺りに塚らしきものはありません。

 

再び国道142号線を歩きます。 

「長久保横町」信号交差点を左折します

 

 長久保宿に入ります。

 

 

このY字路を左に進み、100m程先で右の細道に入ります。ここに出て左折します。

 

旅館辰野屋(武重家)

出梁造り・総二階建ての母屋は、江戸時代末期の構築と推定され、ダイナミックな建築構成・厳選された材料や加工性が宿場の繁栄を偲ばせています。

 

交差点角の中山道長久保宿碑「左ぜんこうじ」と刻まれています。

 

木造3階建ての旅館濱田屋   ここを右に上ります。   

 

釜鳴屋竹内家住宅  

 竹内家は江戸時代初期の17世紀中頃より、酒造業と醤油の醸造を手掛け、長久保宿の役職も兼ねていました。
 明治45年(1912)の屋敷図には、1500坪余りの広大な敷地に、通りに面して母屋があり、その裏側に蔵や納屋が配置され、棟数合わせて14棟、総建坪491坪もあったことが記載されています。
 母屋は間口9間半、奥行き10間半の正方形に近い形となる切妻造りの平入で、屋根の端部には、妻壁を高く突出させ小屋根をつけた 「本うだつ」 がみられます。天井吹き抜けとなる土間や御勝手の規模は壮大で、太い柱や豪快な梁組が露出し、迫力ある大空間を作っています。
 構築年代は詳らかではありませんが、寛延2年(1749)の絵図面に記載されていることや、玄関先の最も古い享保16年(1731)の祈祷札に打ち換えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられ、長野県内では最も古い町屋建築であるといわれています。
 また、竹内家には江戸時代初期からの古文書や、笠取峠立場絵図や長久保宿場札の版木も保存されていて、これらも町文化財に指定されています。 

 (長和町教育委員会)

 

脇本陣跡

 

本陣跡(石合家住宅)

石合家は長久保宿創設当初から、江戸時代を通じて本陣と問屋を勤め、4代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。
 当時の建物としては、大名や公家等の賓客が利用した 「御殿」 と呼ばれる座敷棟と幕末頃の構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。
 御殿には、上段之間・二之間・三之間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下)・十二畳之間が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。
 構築年代は詳らかではありませんが、江戸時代中頃の寛延2年(1749)の絵図面に現状と同じ間取りが記載されていることや、細部意匠の様式から17世紀後半と推定され、中山道では現存する最古の本陣遺構であると云われています。
 また、石合家には江戸時代初期からの古文書や、高札等の史資料が数多く保存されていて、これらも町文化財に指定されています。 (長和町教育委員会)

門の左側が高札場です。

 

一福処濱屋

長久保宿歴史資料館一福処濱屋は、中山道長久保宿竪町の上位(江戸方)に位置しています。
 現在の建物は、明治時代の初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったために開業には至りませんでした。
 間口は9間と広く、総二階建て・延床面積400㎡程の宿内でも大きな建物です。また、一階より二階部分を突出させた 「出梁造り」 が特徴的で、山間部の旅籠建築に多く見られる手法です。
 平成12年に建物の所有者でもある福永家・黒澤家から御寄付を受けて、地域住民の語らいの場や長久保宿を訪れる旅人の休み処として、また、宿場関連の歴史・民俗資料の展示公開の場として活用を図るよう改修を行いました。 一福処濱屋を貴重な旅

籠建築の歴史的建造物として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。

(長和町教育委員会)

 

吾一庵

説明板によれば

「江戸時代末期から明治初期の建物です。兼農で馬を取り扱っていたと伝えられています。
広い土間を持つ田宇型四間取りの、農家に類した間取りで母屋の航法に馬屋があり、馬もこの土間を通って出入りしていたようです。その後、蚕や乳牛を飼っていた時期があり、馬屋の後方にあった馬屋は牛舎や蚕室に改築されました。 母屋に腰屋根が乗っていますが、二階を蚕室としたとき、換気を調整するために取り付けられたものです。建具など柱間装置は更新されていますが、構造軸組はよく当初の規模形式を保っていて、農家型の遺構として貴重です」

 

笠取峠に向かいます。

松尾神社手前の道標「松尾神社100m、笠取峠2km」まつり地蔵、日本第一酒造之祖神の石塔松尾神社説明板

松尾神社の創建は不詳ですが日本三大酒神で官幣大社である松尾大社(京都府京都市右京区松尾町)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。古くから酒造家から信仰の対象となり、江戸時代に入ると上田藩主真田家の崇敬社として庇護され社領4斗2升9合が寄進され、参勤交代で長久保宿を利用した大名家からも参拝が行なわれています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治6年(1873)に郷社に列しています。当初は長久保の町裏地籍にありましたが小学校の校庭の拡張工事の為昭和33年(1958)に現在地に遷座しています。

 

 

松尾神社境内から宿場方面。   境内を流れる五十鈴川に架かる松尾橋を渡ります

 

 

松尾神社拝殿    拝殿左に木は樹齢200年の椹(さわら)の木

 

 

松尾神社皇太神宮式年遷宮御柱            山神社

 

 

境内社                      靖国霊社

 

 

境内を通り中山道に出ます。       境内からここに出ます。中山道です。

 

カーブの多い舗装道路を10分程上ります。

国道142号線に合流し200m程進み再び左の中山道に入ります。

 

100m程進むと左に(やはり原道を歩く事にしました)

 

笠取峠原道入口があります。沢沿いの山道を上ります。中山道との合流地点

 

 

馬頭観音と石仏             枝垂桜   長和町保存樹木に指定

 

枝垂桜の向かい側に中山道原道入口があります

 

再び原道に入ります。          中山道 原道出口

 

 142号線に出ました。

 

 

すぐに142号線を横断し山道に入ります。  ここで142号線に合流します。

 

 

左側擁壁に笠取峠立場茶屋のレリーフと笠取峠立場図版木説明があります。

説明板によれば 「長門町堅町の釜鳴屋に保存されている版木には、峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。
 当時の峠は、現在の国道142号の峠より数メートル南に位置し、路面も今より数メートル高所にあった。 今では、ぐみの古木以外に面影はない」

 

これより長久保宿」の常夜燈笠取峠碑

 

笠取峠に着きました。  

峠の茶屋

長久保宿から登坂が続きましたが息が切れる事もなくわりと楽に登ってきました。

 

登ってしまえば後は得意な下り坂、どんどん歩いて距離をのばします。

 

峠の茶屋の向かい側に立場茶屋小松屋跡の立札があります。

 

長久保宿の旧家所蔵(長久保宿釜鳴屋)の文書に、寛政三年(1791)には二軒の茶屋があったことが記載されています。その内の一軒が「小松屋」です。

 

右側に笠取峠竣工記念碑が有ります。

記念碑には

「笠取峠は古来東山道、江戸時代は中山道として東西の交通の要所であった。

現在の国道142号線は生活道であると共に、関東地方と中部近畿地方を結ぶ重要な産業道路としての役割を果たしている。

交通の難所であった笠取峠の道路改良工事が、関係各位の御理解と御協力のもとに、めでたくここに竣工したものである。

一般国道142号笠取峠道路改良工事   延長 立科町1,760m、長門町3,010m
 事業費 32億7,500万円   着工 昭和59年4月、竣工 平成7年3月」と刻まれています。

 

スピードを上げすぎて見落とすところでした。

 

跡笠取峠一里塚説明板              跡笠取峠一里塚碑

説明板によれば 中山道は、中仙道とも書くが、享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから、中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道に次いで、江戸京都を結ぶ主要路線であった。
 一里塚は、この道一里間につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目印に松の木などが植えられた。
 この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を残している。 (立科町教育委員会)

 

 

笠取峠一里塚跡碑の隣に男女双体道祖神があります。   笠取峠の松並木入口

 

 

笠取峠のマツ並木碑                                    笠取峠松並木説明板

「この道は江戸時代の中山道である。
 はじめは 「中仙道」 であったが、享保元年   (1716)から 「中山道」 と改められた。
 慶長7年(1602)幕府は中仙道の整備に着手、この松並木はその一環として同年幕府から小諸藩に赤松数百本が下付されたものを植栽したものである。

 以後小諸藩により補植、保護がなされてきた。
 笠取峠の松並木は中山道の名所として知られ四季を通して旅人の目を楽しませ、松籟(ふえ)を聞かせてきた。

 大正13年(1924)長野県による調査と保護が加えられ、昭和49年(1974)長野県天然記念物に指定された。
 現在100本余の老松が往時を今に伝えている。 (立科町教育委員会)

 

ここで142号線を横断します。

 

横断した左側に諸藩領界石があります。

この石標は、小諸藩が文化3年(1806) に領分境の東西へ建立したうち西側のものです。藩領の西端中山道笠取峠(ここより西1.7km)にあったものの復刻です。これを境に西は幕府領です。

 

小 諸藩領界石の向かい側にある常夜灯と道祖神

 

吉村煙嶺の句碑
「古道の名残も捨て難けれども 繕う多 道や春めく 人通り 」

吉村煙嶺は立科町出身で初代小諸町長です。

 

松並木の休憩所

 

笠取峠の松並木説明板

説明板によれば  「 長野県天然記念物 笠取峠の松並木 この峠道は 近世五街道の一つ中山道 の笠取峠である。徳川政権は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)東海道に伝馬制を実施し、翌七年には中山道などにも着手した。

  慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。  笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿 と、およそ一里半(約6km)の距離を隔てた長窪宿 の間にある。

 笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約1.6km)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重 の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。

  長い歳月の間、風雪に傷み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると229本があった。昭和49年(19744)長野県天然記念物に指定された。

  現在は、百十本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。平成5年3月 立科町教育委員会」

 

宿場のレリーフ

 

若山牧水の歌碑                 

「岨道の きわまりぬれば 赤ら松 峰越の風に うつなびきつゝ」 

「老松の 風にまぎれず 啼く鷹の 声かなしけれ 風白き峰に」

 

ヤマボウシが咲いています。

 

保科五無斎の歌碑

「我死なば 佐久の山部へ送るべし 焼いてなりとも 生でなりとも

 但し運賃先払いにて 苦しからず候」

 

松並木出口の母娘・道祖神

松並木は両側に1km程続いています。

地元の方が大切に手入れされていることが分かります。道祖神や歌碑なども多く心が和む1kmです。

 

この先で142号線に合流し「芦田宿入口」信号交差点を右折します。50m程先を左折します。

石打場公園   説明板によれば

「石打場」 の地名は、奈良、新潟、群馬などにあり、「石打」 は当て字で、「石内」 が本字らしい。(吉田東伍大日本地名辞書)
 すなわち、「石内」 とは 「境界」 または石敢当(せきかんとう)の意味があり、「災害除け」 または防御示のための場所というのが本来の意味である。(地名源語辞典)

  ちなみに本町芦田の石打場は、旧芦田村と横島村の 「境」 であり、芦田八ヶ略誌によれば 「住吉、山部と芦田の子供戯れし所也」 とある。

ここは芦田宿の入口    

 

ここで一休み。  

 

金丸土屋旅館  説明板によれば

「文化元年(1804)頃より旅籠屋で、軒の西側に 「津ちや」 東側に 「土屋」 の看板を掲げる。
 今も旅館を営む金丸土屋旅館。
 二階の部分が表通りに少し出ている出梁造りで腕木に彫刻、煙出しを持つ大屋根など多くの特徴を持っている」

 

酢屋茂 

1892(明治25)年創業の歴史ある老舗醸造元。

信州みそや醤油を昔ながらの伝統的製法を守って作っています。

 

 

庄屋山浦家跡説明

「庄屋跡の山浦家は、慶長から明治年間に山浦権助によって建築されたと云われている。
問屋としても、その役割を担っていた。 現在は、建物の老朽化により取壊された」

 

 

 

 

※庄屋→領主側の指示・命令を村人に伝え、厳守させ、村の責任者として村にかかわる問題全般にわたって先頭に立ち村人をまとめる。現代の村長のような役職です。

 

 

芦田宿土屋家本陣跡

当時の本陣は問屋も兼ねていました。

説明板によれば「

芦田宿は、慶長2年(1597)に設立。江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久では一番早くできた。
 本陣土屋家は、問屋を兼ね、芦田宿の開祖でもあった。
 本陣御殿(客殿)は寛政12年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える 「宿札」 も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道唯一と言われている」

 

問屋→馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなどを行いました。

問屋役は本陣の当主が兼ねる事が多かったそうです。

 

 

芦田宿脇本陣 山浦家

脇本陣山浦家は、始祖が芦田宿開祖者の一人岩間忠助(1597)であり、本陣跡の向いに位置し、参勤交代等の際、中山道の宿泊施設及び問屋としてその役割を担っていた。昭和52年に隣家からの火災により主屋は焼失し、現在は土蔵一棟のみが残っている。

 

 

ふるさと交流館「芦田宿」

地域の方々や旅人、移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されています。

 

 

 

 

 

 

 

この向かい側に立科町役場があります。

 

役場入口の中山道ミニパーク

説明板によれば

「蓼科の水

古来より、蓼科の山の湧水は中山道を行き交う旅人ののどを潤してきました。

現在この蓼科山の湧水は上水道として整備され、立科町の水道水として利用されています」

 

  

街道左に道祖神                                     バス停「古町口」横に道祖神

※道祖神は路傍の神で、集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られている。

 

芦田宿江戸側入口

説明板によれば

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道の一つであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
 芦田宿は中山道26日番目の宿として、宿の町並みは、6町20間(約700m)文化元年(1804)には、本陣、茶屋6軒、商家2軒、医師3件、髪結2軒、按摩1軒などがあり、農家は45軒であった。 文久元年(1861)11月7日、徳川14代将軍家茂に、公武合体のため降嫁された、孝明天皇の妹 「和宮」 の行列が芦田宿を通過された。
 笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高887mの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が建っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
 中山道の松並木は慶長7年(1602)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、沿道に松や杉を植林した。この松並木は当時のもので、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って約100本の松並木が200m続いている。本陣は寛政12年(1800)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口5間、奥行き11間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿、雪隠など客室の原形がほぼ完全に遺されている。

 

茂田井間の宿入口   

間の宿    江戸時代、宿場以外での宿泊は禁止されていましたが、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場と宿場の間に休憩用の宿が置かれ「間の宿」(あいのしゅく)と呼ばれました。

 

茂田井の一里塚   

説明板によれば  「一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引き継いで、慶長9年(1604)に完成した。 中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え、旅人に木陰を与えたという例にならって榎が植えられたと云われている。
 また、三代将軍家光が 「一里塚には ”余の木” を植えよ」 と言ったことから、老臣が榎と聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を36町と決定され、5畿7道残るところなく一里塚が築かれたとされている。
 天保年間の茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根本が残っていたとある。   (立科町教育委員会)」

 

 

茂田井村上組高札場跡

 江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、高札が掲げられた。
 高札場は名主宅前に設けられることが多い。
 茂田井村は戸数が多く、上組、下組と2人の名主がいた時代があり、ここ上組名主宅前に上組高札場があった。

 

 石割坂  

勾配がきつく大きな石があり交 通に不便だったが、その石を割り中山道 を開通させた

ので石割坂と呼ばれている。

 

     大きな馬頭観音                                         三階建ての家      

 

  

三階建ての家の隣にトイレがあります。トイレと書かずに「雪隠」となっています。

最近は聞かなくなった日本語です。

 

 

 

 

茂田井村下組高札場跡

茂田井村は戸数が多く、上組、下組と2名の名主がいた時代があり2か所となったそうです。

 

 

蔦屋(大澤酒造株式会社)                  

創業は元禄2年(1689)                         

名主を代々務めていました。

しなの山林美術館、民俗資料館が併設されています。      

 

 

叶屋(武重本家酒造株式会社)

創業は明治元年(1868)

酒造施設30棟が国の登録有形文化財に指定されています。

 

 

 

 

 

 

若山牧水の歌碑 3首

「ひとのいふなる 御園竹 われもけふ飲みつ よしと思へり」

 「しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」   
「ひとの世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにの楽しみ」

 

田井宿の街並み

江戸時代の往時を偲ばせる土蔵や造り酒屋、

民家、道路わきの水路など、安らぎと風情を感じる街並みです。

 

神明社

説明板によれば 祭神は天照大神、雨乞いの霊験として崇拝されている。

宝永6年(1709)茂田井村初代名主となった大澤茂右衛門が願主となり建立された。
本殿は神明造りでこの地方では珍しい存在である」

 

  

                                                  神明社拝殿

 

坂道を上ったこの辺りまでが茂田井宿です

坂の上で広い道(県道148号線)に合流します。

 

 

下り坂の右側に石仏                                   道標 「右 御巡見道」

※御巡見道は江戸幕府が諸藩を査察する目的で派遣した巡見使が歩いた道のこと。

 

 

中山道は右です。            トンネルを抜けると草道になります。

 

 途中から舗装道路になります。ここはヘアピンカーブ

 

 

案内板があり不安なく歩けます。     下り坂の右側斜面に馬頭観音があります

 

 

ここを下って広い道に出て右折しました。 「御桐谷西」信号交差点を直進します。

 

 

「御桐谷」信号交差点のY字路を左に進みます。   ここが望月宿枡形跡? 

 

 

下り坂の途中に馬頭観音があります。  坂を下って県道166号線に合流します。

 

「中山道歩き 和田宿から岩村田宿まで②」に続きます。